眠りと嘘と



  それほど眠らなくとも身体がもつのは、多分自分に生きる意思が弱いからなのだろうと光一郎は思う。
「ばっか、そりゃ逆だろ」
  親友である中原正人が不快を全面に押し出したような顔をしてから、指に挟んでいた煙草を思い切り灰皿に押し付けた。
  周囲は大勢の人間でざわついている。二人の会話を聞いている者はいない。
  普段、 居酒屋などには滅多に足を向けない光一郎が、 唯一休日を割いて付き合うのが、この中原からの誘いだった。中原はいつも同じ駅前の安い店に光一郎を呼び、代わり映えのしないオーダーで何時間か他愛もない話をしてきた。光一郎もいつもそれに合わせて日常の様子や、時々弟である友之の話をしたりした。
  しかしこの時は自分自身でもどうした事か、何故か睡眠についての話から、先のような不遜な会話に発展してしまったのだった。
「フツーよ、いつ死んでもいい奴はお前みたいに何でもかんでも一生懸命やったりしねェぜ?」
  バカな事を口走った子供を叱るような、たしなめるような口調で中原は言った。
「どうでもいって奴はさ。『適当』って言葉が好きなんだ。適当に楽しんで、適当に金稼いで、適当に…まあ、生きてさ。それでいいんだよ。お前とは違う」
「俺は適当じゃないか?」
「お前が適当だったら、世の中の奴全部が適当だぜ」
  中原はいい加減にしろとばかりに吐き捨てるような物言いをしてから、空になっていたグラスにビールを注いだ。そしてそれをまた一気にあおると、どことなく据わった目をして再び光一郎を見やってきた。
「どうせまたあのバカの事で悩んでんだろ。結局、お前が貧乏クジかよ?」
「別に……」
「あいつがお前と一緒に住みたい、住まわせて下さいって言ってくるならまだ分かるけどよ、何でお前から助けてやらなきゃならねェんだ? あのバカ、いっつもそうやって誰かに甘えているだけでよ。そういうイラつくところが、同じ年の奴らに疎ましがられていじめられる原因になんだよ。学校行かなくなったのも、どうせそのせいだろ」
  中原はそう言ってから、「あいつ、内にこもってばっかだからいけねェんだ」と唾を飛ばしながら言い、思いついたように声を出した。
「――うちのチームに入れるか。野球でもさせれば変わるんじゃねえ?」
「……お前、いいの?」
「俺は優しくはねえよ? あいつの事情なんか聞いてやらねえし、お前がそれでいいなら鍛えてやるよ」
  光一郎がすぐには返事をしないでいると、中原はぶすくれた顔をしてから、しかし自分もしばし黙った。
  しばらくして、光一郎が先に口を開いた。
「……あいつ、修司にさえ言わないんだ」
「何が」
「だから。学校行かない理由だよ」
「どうでもいいだろ」
  中原は心底興味がないという風に言ってから、再びビール瓶を自分のグラスに向けて傾けた。それからまだ十分に注がれている光一郎のグラスにもそれを注ぐ。光一郎は黙って強引に増やされたビールの液体をじっと見つめた。





  光一郎の弟である友之が突然学校を休み出し、自室にこもるようになったのは、中学生活も後半にさしかかろうという頃のことだった。
  母親が春先に病気で他界し、妹の夕実は父親と喧嘩をして家を出ていた。光一郎も大学合格を機に二人よりも前に家からは離れていたから、友之の突然の不登校について詳しい状況を知る術はなかった。一人暮らしをしたいと希望した際、父親とはひどい言い争いをしてそれきりになっていたから最早普通の会話は成りたたなかったし、時々外で会う妹の夕実も、自分の事ばかりで友之の身に何が起こったのか、起こっているのか、まるで知ろうとはしなかった。あれほど仲が良かったのに、今は避けようとしている感すらあった。
  いつの頃からか、光一郎にはまともに話し合える家族は一人もいなくなっていた。当の友之は光一郎に対してひどく頑なで、それこそ口を開こうともしなかったし。
  あんな弟。
  放っておこうと何度も思ったが、どうしてかそれはためらわれた。そして突然の父親の再婚話を聞き、光一郎は部屋から出てこようとしない、心を閉ざした友之を、自分が引き取ろうと決意したのだった。





「で? いつ行くんだよ?」
「え…?」
  突然中原の声が耳に響いてきて光一郎は顔を上げた。そこには何かを見透かそうと目を細めている親友の顔があり、光一郎はやや慌てて言葉を切った。
「悪い。何か言ったか?」
「だから。あのバカ友の迎えにはいつ行くんだっての。荷物とか、お前ンところに運びこまなきゃだろ」
「……ああ。でも俺、まだ聞いてないんだよな」
「何を」
「あいつが家出て俺の所に来るのかどうかってこと」
「別にあいつの返事なんか待つ必要ないだろうが。大体、あいつが嫌がるわけがないだろ」
「………」
「大好きなよ、光一郎兄ちゃんに面倒見てもらえるんだぜ。喜んでんだろ。顔には出さなくても」
「……何が大好きだよ。逆だろ」
  嘲笑するような中原の言い方に光一郎がむっとすると、意外にももっと不愉快になったような顔がすぐ間近に迫ってきた。
「でもお前、本当にいいのか? あいつらと縁切りたくて家出たのによ。また面倒なモン背負いこむ事になるんだぞ」
「………仕方ない」
「……けっ、だからお前は適当じゃないってんだよ」
  中原は言ってからついと横を向き、それからすぐに光一郎の方へと視線を戻してげんなりしたように口を開いた。
「……おい、コウ。俺との飲みの時にあいつは呼ぶなって言っただろ」
「え? ……ああ」
  光一郎が苦虫をかみつぶしたような顔の中原を見やってから、すぐにその背後に目をやると、そこにはもう一人の、それこそ中原が言う「適当」を実践している親友の姿があった。大きめの白いセーターにジーパンを穿いたラフな格好、ボサボサの伸ばしっぱなしの髪の毛は、もう夜も遅い時間だというのに、今さっき起きたばかりですというような風体を示していた。
「おっす、お二人さん」
  あっさりとした挨拶をしてから、光一郎たち共通の友人である荒城修司はにっこりと害のない笑みを向け近づいてきた。しかし入口近くのカウンターに座っていた中原の隣が空いているというのに、修司はわざとそこを素通りし、光一郎の隣へと行く。その位置なら中原の顔を見なくても済むというわけだ。それを重々承知している中原本人は、自分とて修司の隣など嫌だろうに、フンと面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「おばちゃん、ビールね」
  修司は気さくに店の女主人に声をかけてから、渡されたおしぼりを手にしながら隣の光一郎に明るい声を出した。
「コウ君、何で電話してくれないわけ? 俺、ずっと待ってたのに」
「正人が嫌がるからな」
「コウ、お前がコイツ呼んだんじゃねェのか?」
「誰が。三人で会うなんて、何で俺がそんな面倒臭いこと」
「………だよな」
  修司が混ざると途端に口の悪くなる光一郎に声を返すのが一拍遅れた中原だったが、仕方なく矛先を修司の方へ向けて口を尖らせた。
「お前、どうして俺らがここにいるのが分かったんだよ?」
「ん? トモに聞いた」
「あん…? 何であいつが知っているんだ、そんな事」
「……俺が言った」
  そういえばそうだった、というような顔をして光一郎がつぶやいた。修司をちらりと見てからむすっとして声を出す。
「お前も会いに行ったの?」
「だってトモ可愛いんだもん。毎日見に行っても飽きないね」
「動物かよ」
  中原のつぶやきを軽く無視して、修司は光一郎に笑いかけた。
「トモな、光一郎お兄ちゃんは自分なんかが行って迷惑じゃないのかなあって悩んでいたぜ? 目に涙を浮かべてさ。あ〜くそ、マジで可愛い。食べちゃいたい」
「……コウ、こいつ殴っていいか」
「ああ、俺がいない所で」
  光一郎はあからさまにイライラした波長を表に出したが、そんなものがこの親友に効かないことくらいは解っていた。修司は自分とは正反対で、いつも奔放でそして。
  本当は、実に生真面目な奴だと思う。
「どうでもいい脚色はやめろよな。気色悪い」
「うわっ、コウ君。トモの涙を気色悪いと言いますか。嫌な兄貴だね」
「うるせえな」
「……まあ、それは嘘だけどさ。でも、あいつが悩んでんのは本当だぜ? お前があの家族から離れたくて家出たの、あいつだって解っているし。…それに、自分も嫌われているって思ってるしな」
  修司は軽い口調で言ってからさっと腕を伸ばし、中原がカウンターに置いていた煙草を素早く奪うとさっさとそのうちの一本を口にくわえた。中原のがなりたてる声を遠くの方で聞きながら、光一郎ははっとため息をついた。
  そうだ。あんな弟、邪魔なだけだ。
  いつもいつも。言いたい事も言わずに黙りこくって、そのくせ何事か訴える目で見つめてきて。ずっとそうだった。
  あんな奴――。
「そういえばさあ、トモって知ってんの?」
  その時、突拍子もなく修司が握っていた箸を空に浮かして何気なく言葉を放った。
「自分がお前と血ィ繋がってないこととかって」
「………」
  光一郎が眉をひそめて無言を決め込むと、中原が代わりにがなり声をあげた。
「知らないだろ。大体、知っていたからどうだって言うんだよ!」
「うーん、繊細なトモなら傷つくかなと。尚更コウ君の所に行くのはためらわれるだろうしさ。たとえ傍に行きたくても」
「嫌ならあの家で閉じこもっていろってんだ」
「思うんだけど、正人君は何でそういつもトモにつっかかるわけ? あれなの? 好きな子にはつい意地悪なこと言っちゃうみたいな」
「修司、テメエ!!」
「うるさい」
  光一郎はぴしゃりと二人を止めてから、おもむろにグラスを傾け、今度は大きくため息をついた。そして普段だったらとても口にしないだろうと言うようなことまで口にしてしまった。結局、自分はこの二人に依存しているのだなと光一郎は思う。

「何で何もかも、こんな面倒臭いんだ…!」

  光一郎のこの台詞に、二人はしばし黙りこくった。中原は多少焦った顔を見せる。
「……それは、コウ君がいっつも猫被っているから疲れるんだよ」
  しかし一間隔後、修司があっさりと言った。中原もこれに関してだけは異論がないのか眉をひそめながらも黙っている。
「無理して優等生なんかやっているからガタがくるんだろ。トモの事だってさ、俺みたいに普通に接してやればいいのに」
「お前が普通かよ」
「俺だけだよ、普通なのは」
  修司はけらけらと笑ってから、実に爽快に煙草の煙を吐いた。 それは騒がしい店内の中、もうもうとした熱気と自然に融合し、溶けて消えた。





  父の後妻・涼子の連れ子である友之と自分は、戸籍の上では兄弟でも、血の繋がりは全くなかった。涼子が友之を宿していた時、彼女は光一郎の父とは既に結婚の約束をしていたから、表向きには自分たちは異母兄弟ということになっていたし、実際自分もずっと友之とは同じ血を分けた兄弟だと思っていた。
  ただ、それが違っていたからといって大したショックは光一郎にはなかったように思う。ひょんな事から事実を知らされた時は、「ああ、だからか」といった漠然とした「納得」だけが心に残った。そして、涼子の執拗な夕実への愛情を何となく白々しく感じていたことも、父親の友之に対する態度を自分とはどことなく違う厳しさだと感じたことも、間違いではなかったのだと思った。
  まともなのは自分だけだ。
  いつしかそう思い始めていた。だから、いつかこんな家族からは離れて一人で暮らしたい、そればかり考えるようになっていた。誰かのことを、家族のことを気にするなど、ばかばかしい。こんなおかしな奴らに関わっていたら、自分の方がどうにかなってしまう。だから、早く離れよう。そればかり思っていた。
  思っていたのに。





  中原たちと会ってから数日後、光一郎は父親が不在の頃を見計らって実家に戻った。友之を自分の所に連れて行くことはとうに伝えてあるし、それをいつ実行しようがこちらの勝手だろうと思った。現に、父親はこの件に関して何も言わなかった。元々自分の世界を色濃くもっていた父親は、自分の思い通りにいかない不出来な子供たちのことなど、もう当に見切りをつけているような感じだった。
「トモ」
  迷わず階段を上がり、手前の部屋のドアに手をかけて中にいるであろう弟を呼んだ。返事はない。しかし中に人の気配はあったから、こちらの事はもう解っているだろう。光一郎は問答無用で扉を開けた。
  部屋の中は暗闇だった。
  昼間だというのにカーテンを閉め切って、電気もつけていない。それでも目の前に座り込んでいる弟…という立場にある友之は、着替えだけは済ませて、無気力な風に壁に身体を寄りかからせて、ただその場にいた。
「窓くらい開けろ」
  光一郎は辛気臭い友之にイラついたような声を出し、どかどかと部屋に入り込むと、勢いよくカーテンを開き、窓を開けた。冷たい外気が急に入り込んできたことで、友之は一瞬身体を堅くし、微かに震えた。
  それでもじっと、光一郎の方を見つめている。

  俺には何も言わないくせに。

  光一郎は心の中でそう毒づいてから、友之の前まで歩み寄ると、立ったまま怯えた風の弟を見下ろした。親友の修司には何でも話すくせに、自分には何も喋らない。いつもオドオドしていて、卑屈で。かと思えば頑固で、こちらが強く言っても、自分が言いたくないと思った時は頑として口を開かない。
  どうしていつも振り回される。
  そう思いながらも、光一郎は友之から視線を逸らすことができなかった。
「トモ、もう荷物の整理したか」
「…………え」
  何も解っていない、というような掠れた声がようやく聞こえた。光一郎はそれでまた怒ったような表情を思い切り出してしまい、友之を見据えた。向こうは慌てて俯いてしまう。
「特に持って行く物がないなら、服と教科書だけ鞄に入れろ。今日、出るぞ」
「………今日」
「嫌か」
  光一郎がどんどん追い詰めて行くと、友之はぐっと唇をかんで下を向いた後、ようやく首を横に振った。
「行くんだな」
「コウは………」
「ん……?」
「いいの……?」
  恐る恐るそれだけ訊いてきた。瞬時、修司が言っていた言葉が脳裏をよぎったが、すぐにそれをかき消す。
  バカバカしい。何が可愛いだ。
「……いいから、早く用意しろ」
  ぶっきらぼうに言うと、友之はようやくのろのろとした動作で立ち上がった。それから困ったようにあちこちに視線をやり、再び光一郎を見上げた。何から手をつけて良いのか、困惑しているようだった。
「……もういい。俺が準備する」
  結局、 一人てきぱきと荷物をまとめる光一郎の姿を、 友之はただ眺めているだけだった。
  まるで自分は人攫いのようだと光一郎は思った。
  父親がいい加減だからとか、夕実が家を出たからとか。そんなもっともな理由を掲げて こいつを引き取るなんて馬鹿気ている。
  俺がこいつを放っておけないのは。
「コウ……」
  友之が背後から声をかけてきた。それは小さい小さい、それでも縋るような声だった。
「……何だ」
  光一郎が振り返って返答すると、友之は必死の様子で、けれども声を出せなくて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。その顔を見た途端、光一郎は友之には言わせずに、先にもう自分が声を出してしまっていた。
「お前は何も心配しなくていい。俺は迷惑なんかじゃない」
「……うん」
  瞬間、相手からほっとした空気が伝わってきた。
  それとは逆に、自分の中にある黒い気持ちが湧き立つのを光一郎は感じていた。この目の前の人間が自分にどんな評価を下しているのか、何を期待しているのかなど、容易に想像できた。そしてその期待そのままにしてやらなければ、この「弟」が壊れるということも、容易に。
  そんな自分は一体いつまで…。
「……行くぞ」
「うん…」
  友之が返事をした。そっと距離を縮め、自分のすぐ後ろについた友之を光一郎は黙って見つめた。そして、心の中だけで嘆息した。

  一体いつまで、自分は友之が望むそんな「兄」でいることができるのだろう。





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