痛みの後に残るもの
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中原正人が仕事に出る時、大抵外はまだ暗い。 「……寒ィ」 季節はまだ二月の下旬。寒さはまだまだ厳しい。中原はもう一度「寒い」という言葉を繰り返してから、それと共に吐き出された自らの白い息を追うように、未だ闇に覆われた空を見上げた。そうして、今日は降ってくれるなよと願いながら、薄汚れた野球帽を被り、羽織っていたジャンパーのチャックをきゅっと上まで引き上げた。 最近就職したばかりの配送会社まで、中原は自転車を使っている。数年前、夢中になってアルバイトをして手に入れたバイクは、もう手元にはなくなっていた。 やたらと自分を慕い追従していた後輩にタダ同然であげてしまったからだったが、それを後悔してはいない。ただ、時々無性に走りに行きたくはなった。 はあと大きく息を吐いてから、中原は手にしていた自転車の鍵を手に、自分のアパート脇に止めていたそれに歩み寄った。こんなボロでもないよりはマシだと思う。歩いて何処かへ行こうと思った事はない。早く自分の車が欲しい。ふとした事をきっかけにして知り合った年下の生意気な後輩・香坂数馬は、「自分は車が嫌いだ」などと言っているのだが、自分はそれとは全く逆だ。 「歩いてなんかいられるかよ。だりィ」 誰が聞いているでもないのに、中原はそう毒づいてから体重を乗せられたことでギイと悲鳴を上げたその唯一の交通手段をばしりと叩いた。 「友之のこと、迎えに行こうと思ってる」 ある日突然親友である光一郎がそう言ってきた時、中原は正直心底腹が立った。 中原正人の家庭は、元々は四人家族だった。 両親と中原の他に母方の祖母がいた。祖母は夜間徘徊が激しく、時々子供返りをするようなところもあったから、母はその祖母の世話にかかりきりになる事が多かった。父親は小さな建設会社に勤めていたが、何が面白くなかったのか、勤務を休んだり途中で早退したりという事の多い、勤労意欲に乏しい人だった。その為、間もなく退職を余儀なくされたのだが、その後は何もせずにふらふらとし、日がな1日ぼんやりとしている事も多かった。そして、中原を殴り、母を殴り、祖母を殴ることもあった。 死ねよ。 何度も父親のことをそう思い、また同時にそんな父に追従している母のことも、いつも泣き喚いてばかりいる祖母のことも、皆死んでしまえばいいと思った。そして、そう思えば思うほど、父親から殴られる回数は増えていくような気がした。 「あいつ…あの家に置いておいたら、きっと駄目になるから」 親友の光一郎がそう言って遠くを見つめた時、ならお前は駄目になってもいいのか、と中原は心の中だけで思った。 コイツはいつもそうだ。 いつも相手優先。自分はどうでもいい。そんなところが目についた。 父親に殴られ、それがどうしようもなく腹立たしかった中学生から高校生の時期は、だからなのだろうか、どうしようもなくそんな光一郎が疎ましかった。父親にではなく光一郎に怒りをぶつけることもあった。いつもいつも優等生ぶって、何もかも分かったような顔をして。平気な顔をして。誰かに助けを求められれば助け、必要とされれば躊躇いもなくその手を貸す。そんな光一郎が疎ましかった。鬱陶しかった。小さい頃から共に遊んでいたからこそ、光一郎のそんな所作が全て嘘くさく見えて、けれど「ホンモノ」に見えて、中原は時々無性に居た堪れない気持ちになった。 「ムカつくンだよ、てめえは」 一度、中原は光一郎にそう言った事があった。喧嘩らしい喧嘩はしたことがなかった。中原がどんなに怒っても、悪態をついても、光一郎が全て流してしまうからだった。それでも何をきっかけにしてか、その日はしつこく光一郎に絡んだ。どうしても我慢できなくて、世の中の全てのものに対して抱く黒い感情を抑えきれなくて、中原はぎらついた目を向けて親友にそう叫んだ。 「頭にくる…お前の全部にムカつくんだよ…!」 「……………」 光一郎はそんな中原の言葉に対し、すぐには何も言わなかった。ただじっと目の前に立ち尽くし、それからしばらくしてぽつりとつぶやいた。 「俺も」 「……………あ?」 一瞬、何を言われたのか分からなくて中原はぽかんとしたまま相手の顔を見上げた。向こうは、けれどそれきり口をつぐんで、もう何も言おうとはしなかった。 そうしてしばらく、光一郎は中原に対して一切口をつぐんだままだった。中原が折れて謝るまで、光一郎は中原を無視し続けた。 今思えば、あれはどちらの事をさしていたのだろうかと中原は思う。 「お前なんかと話したくない」と言った自分に対して、「俺こそお前なんかと話したくない」と言った台詞だったのか…当初はそう思っていたのだが、けれど中原は最近、あの言葉の意味はそうではなかったのではないかと思うようになっていた。 ゛俺もお前と同じように、北川光一郎などという人間とは話したくない″と。 光一郎はそう言いたかったのではないか。 時々ひどく物憂げになる親友、けれど決して弱音を吐かない親友を、中原はただ奇異の目で見つめる事が多かった。 高校を何とか卒業した後もしばらくぶらぶらしていたが、やがて町内でいつも自分のことをよく気にかけ、話しかけてくれた「ライさん」こと村井という電気店の店主の口ききで、中原は今の配送会社に勤めることになった。親よりも親のようにしてくれるこの人を中原は好きだと思ったし、こういう人が近くにいるのならば、働くのも悪くはないと思った。 中原は家を出て、真面目に働いた。そのせいなのか、それとも元々そんなに馴染みがなかったのか、共に悪さをしたり親の悪口を言ったりしていた仲間とは徐々に切れていった。中には今でも互いに馬鹿をしたりする友人という名の奴もいたが、それでも光一郎ほどに古い付き合いの人間は1人もいなかったし、どんな人間と親しくなっても、中原は光一郎とだけは切れることがなかった。 「素直に認めろよな。正人君は、コウ君のことが大好きでしょ」 ある日もう1人の幼馴染、といってもこちらとはあまり親しくはない荒城修司にそう言われた時、中原は不意に立ち上った熱い感情に翻弄して声を出す事ができなかった。いつもは2人で話をする事などなかったのだが、その日はたまたま光一郎が急用で電話の席に立ち、いつもの飲み屋で中原は修司と2人だけで酒を囲むハメに陥ってしまったのだった。 「……ああ、好きだよ。それが悪いか」 何とか言葉を出してそう言った時、人の感情を読み取る事が実にうまいこの疎ましい存在は、すぐにそれを認めた相手を意外という風に見つめてからにっこりと笑った。 「悪いに決まっているでしょうが。コウ君は俺のだもん」 「あ……?」 涼しい顔をして後はただ笑う、おかしなこの幼馴染が一体何を考えているのか、中原には分からなかった。 「でもなあ…コウ君はトモのものなんだよなあ」 「……お前、何言ってんだ?」 時々不意に不可解になるこの荒城修司という存在を、中原は思い切り不審の目で見据えた。しかしそんな中原に何も感じ入るところがないのか、修司はけろりとして言った。 「何って。その言葉の通り。コウ君の頭の中にはいつもいつも儚い友之君の姿しかないわけだよ。実際守ってあげたくなるような感じの子だしな、トモって」 「どこが」 修司が異常なほど光一郎の弟・友之に入れ込んでいることはウンザリするほど知っていたから、慣れてはいるつもりだったが、それでもイライラした。 中原は、友之の事が嫌いだった。 「あの馬鹿のせいで光一郎は自由になれない」 そういう思いがあった。 光一郎も自分と同じで、本当はあんな家族などからは離れて自由になりたいはずだった。 あいつは1人でもやっていける。 というよりも、あんなうざったい家族と一緒ではやりたいこともできないに違いない。 あいつの可能性を台無しにしているのは、あの家族であり、夕実であり。 そして友之であると、中原は思っていた。 「気色悪ィだけじゃねえかよ。男のくせしていつもうじうじしやがってよ」 「正人君。誰もが君みたく生きられるわけじゃないんだから」 修司は侮蔑したような目をしてそう言った後、「いつか正人君にも分かるよ」と言って酒を煽った。 「何が分かるっていうんだよ!」 何となく馬鹿にされたようなその幼馴染の物言いに腹が立ち、荒げた声で言葉を投げかけると、修司はふっと鼻で笑った。 「北川兄弟のこと」 そしてそれきり、2人は光一郎が戻るまで一言も口をきかなかった。 「よ、正人」 「ああ……おはよ」 朝の出勤時、必ず顔を会わせる電気店の村井に声をかけられ、中原は漕いでいたボロ自転車を止めて薄っすらと笑んだ。 「今日も寒いな」 「ああ。まだ暗いしさ。けど、ライさんは相変わらず早いね」 「まあな。俺も年かね、どうにも目覚めが良くなっちまった」 村井はそう言って笑ってから、思い出したように言った。 「そういや、今日はコウも朝早く家を出てったよ。前はよくあったけどなあ、あいつがバイトで早く家を出るのも。けど、ここ最近はホントなかったからな。初めてじゃないか? トモが来てから、コウが早出するの」 「知らね」 村井の言葉を軽く流して、中原は興味ないという風に言ってから帽子を目深に被り直した。 「んじゃ俺、行くわ」 「あ、そうか。気をつけてな」 「ああ」 中原は頷いてから、再び自転車のサドルを漕ぎ始めた。 友之を迎えに行く。 光一郎がそう言った時、「何故」としか思えなかった。ずっと疑問だった。何故、光一郎はあんなにあの弟を気にするのか。血だって繋がっていない。後妻の連れ子だし、実際あいつのせいで光一郎は本当の妹とも仲が悪くなったように見えたし、そのひねくれた夕実や、異様に自閉的な友之の分まで、1人父親の期待を背負って窮屈な生活を強いられているように見えた。自分のところもよっぽどおかしいと思ったが、「あれ」はあれで、光一郎の家庭もかなり異常なもののように、中原には見えた。 「何でお前がそこまで抱えなきゃいけないんだよ」 そう言った時、光一郎はただ押し黙って、何も言わなかった。 何かしてやりたくて、学校に行っていないという友之を自分のチームに入れるかと持ちかけた。光一郎は最初戸惑っていたようだったが、満更でもないようだった。ただ、本人がどう言うかと、それを気にしているようだった。 「俺が訊いてやるよ、直接」 中原はそう言って、新しく光一郎のアパートで暮らし始めた友之に、実に何年ぶりかで会いに行く事になった。 「………………」 多少背が伸びた、というだけで、あの小さい「弟」は、何も変わりがなく中原の前に現れた。 「よお、久しぶりだな」 「……………」 光一郎に押しやられるようにして寝室からやってきた友之は、居間でくつろいで煙草を吸う中原を怯えたような目で見つめた。無理もない。幼い頃はよくいじめていたからなと中原は心の中だけで思った。 「おいおい、中坊のくせに挨拶もロクにできないのかよ」 きつめに言って煙草の煙を吐き出すと、友之は余計に怯えたようになって、背後に立つ光一郎の顔をちらりと見上げた。明らかに助けを求めているようなその視線に、中原はむっとした。 「座れ、トモ」 そうして光一郎に促され、ようやく友之はおずおずと中原の隣に座りこんだ。中原はそんな友之の所作を黙って見つめた後、手にしていた煙草を灰皿に置き、わざといつもより低い声で言った。 「お前、野球やるか?」 「…………」 「チーム作ったばっかりだけどよ。町内で暇な奴集めて週一くらいのペースでやってんだよ。お前、学校行ってないんだろ?」 「…………」 「高校とか行かねえの?」 「…………」 「高校は行かせる」 見かねたように光一郎が代わりに口を開いた。友之の隣、中原にとっては真向かいに座った光一郎は、未だおずおずとした感じの友之をちらと見てから「公立は無理だけどな」と付け足した。 「勉強、できないわけじゃないから。内申あまり見ない私立なら何処か入れるだろう」 「こいつに学校行かせて何の意味があるのやら」 中原が思い切り厭味をこめてそう言った言葉も、友之からは何の反応も返ってこなかった。何かを投げても何も反射しない。つまらない奴だと中原は心の中だけで舌打ちした。 「まあ、ともかくよ。兄貴のスネかじって部屋に閉じこもってばっかりなのも芸ないだろ。俺が鍛えてやっから、チーム入れよ」 「トモ、お前やりたいか?」 光一郎が訊いた。過保護な兄は、どうやらすっかり萎縮してしまっている弟を見て、中原に無理に鍛えてもらわなくとも良いのではと思い始めたらしい。中原はこれまた心内だけで苦笑してから、じっと友之の返答を待った。 声は返ってこない。 「おい、何とか言えって」 「…………」 「口あんだろーが。ただの飾りか?」 「トモ、どうなんだ?」 たまらず光一郎が合の手を入れたが、やはり返事は返ってこなかった。 「マジかよ……」 中原は思わず2人に聞こえるようにつぶやいてしまった。 こんなに無口だっただろうか。 確かに子どもの頃から人見知りが激しくて、自分に対しても誰に対しても、姉の夕実の背中にばかり隠れて、或いは強気な裕子に守られて、この友之という奴はおどおど怯えていただけだったと思うのだが。 それにしても、ここまで重症だったとは。 「おいトモ、お前な――」 しかし、中原が口をつごうとした瞬間、いきなり部屋の電話が鳴った。 「………っ!」 瞬間、友之が今までで1番驚いたようになって、びくりと肩を震わせた。咄嗟に光一郎の側に体を寄せたが、それでも完全に縋ろうとはしない。それすら遠慮しているように中原には見えた。 「こいつ、電話が嫌いなんだ」 光一郎は素っ気無く言ってから立ち上がって受話器の方へと歩いて行った。隣に兄の存在がなくなったことで友之はあからさまに不安そうな顔をしていたが、それは兄には伝わっていないだろうなと中原は思った。 不意に2人だけの空気が流れて、中原は改めて友之を見やった。 「おい、トモ」 呼ぶと、再びびくりとなって友之はおずおずと中原を見やった。 「テメエ、そんなんでもし光一郎がいなくなったらどうするつもりだよ」 「え………」 初めて友之が反応を示した。 「いつまでも光一郎にばっか甘えてて、どうするんだって言ってんだよ。お前はそれでいいかもしれねえけど、コウにはいい迷惑だろうが」 「…………」 「何かしようとは思わないのかよ? お前、そういう自分でいいわけか?」 「………だ」 「あ?」 「嫌だ………」 「……………」 やっと口をききやがったと中原は思う。再び煙草に手を伸ばした…が、そこで友之があからさまに嫌そうな顔をしたので、中原は手を止めた。 「何だ、煙草嫌いか?」 「…………別に」 「お前、今迷惑そうな顔しただろうがよ」 「………コウが嫌いだから」 「……………」 そうだっただろうか、などと思って、その後中原はまじまじと友之の顔を見つめた。けれど、それもほんの数秒の事だった。友之が初めて先に言葉を切ったから。 「野球……やりたい」 「あ……?」 「………前みたいに」 「前?」 言われて中原は眉をひそめた。確かに自分や光一郎は、小学校時代は毎日のように野球をしていたが、そこに友之を入れたことはなかった。光一郎が中に入れてやってくれと言っても、何だかんだで夕実が横やりを入れたり、本人が嫌だと言ったり、時には自分が「お前なんか入れられるか」と断ったりで、一緒に遊んだ記憶はなかったのだ。 「………お前、本当は――」 本当は、自分たちの仲間に入りたいと思っていたのだろうか。不意にはっとして友之を見ると、目の前の小さな存在は、震える身体を必死に抑えながら、けれど中原のことを真っ直ぐに見やっていた。 そうしてもう一度。 「チームに……入りたい」 そう言ったのだった。 そしてそんな友之を見つめた時、中原は自分の中のどこかが不意に痛むのを感じた。以前、無理に忘れ去ろうとして奥へ奥へと押し込めたはずの、自分の中に残っていた痛みだった。 その日を境に、中原は友之の前で煙草を吸うのをやめた。 錆付いた自転車を漕ぐこと数十分。いつもの河川敷のグラウンドが姿を現してきた。中原は白い息を吐きながらその光景をちらりと見て、今週の休みに思いを馳せた。 チームが集まれるように、その日だけでも晴れてくれれば、後は何でも良いと思った。 |
了 |