ホタルブクロ



  初夏に出会った。
  あの頃は、まだ自分の生き方や在り方に何ら疑問を感じた事などなかった。ただ日々家族や友人たちと楽しく過ごせて、与えられた、やるべき事をやって。それで十分満ち足りていた。ただ、現状にある以上のものを求めようとしなかった分、そうする事を「知らなかった」分、自分は今よりも不幸だったのかもしれない。



「あ、拡じゃないか!」
  下校途中。いつも通り自宅から正反対の道を歩いていると、不意に懐かしい声が背後から投げかけられた。呼ばれた沢海は振り返ってその人物を確認すると、破顔して頭を下げた。
「先輩」
 それは今年の春に卒業した、同じ部活動の上級生だった。

「久しぶり! あれ、お前の家ってこっちだったっけ?」
「あ、いえ。ちょっと友達の家に。先輩こそ、家、檜通りの方じゃないですか」
「ははは。ちょっと彼女ン家がこっちの方にあってさ」
  照れくさそうにそう言って笑ったこの上級生とは随分仲良くしていたのだが、最近ではすっかり顔をあわせなくなっていた。それでも純粋で温かい人柄は変わっていないのだろう、自分で出した「彼女」という言葉に対し、いつまでも恥ずかしそうにしている先輩を前に、沢海は何だか嬉しくなって笑みを返した。
「彼女、できたんですか」
「わはは。俺みたいな三枚目にも彼女ができるんだもんなあ」
「そんな……」
「そうなの! もうホント選び放題だぞ。お前も来年は絶対来いよな、うちの学校!」

「ああ…あれでしたっけ? ええっと…」
「都内の女子高生が選ぶイケメン高校ベスト3に入る名門校とは、うちの事さ!」
  わざとおどけた風にそう言って胸をはった上級生は、その後「無理して背伸びして受けて良かった〜」と大袈裟に泣き真似までしてみせた。そうしてそんな自分の姿を可笑しそうに見る沢海には、すぐにキリリとした顔になって真面目ぶった態度を見せた。
「お前ならあそこ余裕で入れるって。まあ…ちょっと金持ちでプライド高い変わり者も多いけどさ。ホント、面白いとこだから! そろそろ受ける所とか考えてんだろ?」
「はあ、まあ……」
「絶対来いよな〜。待っているからな!」
  沢海の背中を痛いくらいにバンバンと叩いて、上級生は笑顔のまま去って行った。沢海はそんな先輩の後ろ姿を笑顔のまま見送っていたが、やがてふっとため息をついた。
  進学先。
  けれどそんな物憂げな表情もすぐにしまうと、沢海は再び目指す家に向かって歩を進め始めた。




  3年に上がって同じクラスになれた時は目を疑った。もう同じクラスになるのは無理かと思っていた。1学年6クラスもある中で、自分の思うような事態になるなど早々見込めるはずもない。卒業までにどうしても話がしたいという希望だけは持ち続けていたが、それがこんな良い形で現実になるなど、思ってもみなかった。
 だから図書室で1人の姿を見た時は、もう迷わずに声をかけていた。

『北川』

  初めてそう呼んだ時の相手の顔は忘れられない。驚いて顔を上げた後は、もうみるみる怯えたような表情になっていった。どうして声をかけられたのか、不安で怖くてどうしようもないという、そんな心細い顔だった。

『せっかく同じクラスになれたのにさ…。あまり話した事ないよな』

『北川って本好きなんだ』

『俺も結構読むけどさ。どういうのが好き?』

  何を必死になっているのだろうというほどにまくしたてた。向こうがあからさまに戸惑っているというのに、強張って固まってしまっているのに、ただ言葉を出していた。我ながら実に滑稽だった。けれど、どうしても。

『俺さ……どうしても北川と喋ってみたくて』

  嬉しかったから。同じ教室に、同じ空間でその顔を見られる事。何をしているのか、すぐ近くで見られる事。一度願いが叶うと、もっともっとと欲しくなった。今度は話して、友達になって。もっと知りたいと思った。
  北川友之という人間のことを。

『俺、前からお前のこと知っていたし……』

  そう言った時、やはり相手はひどく怪訝な顔をしていた。やっぱり覚えていないのだなと沢海は思った。


*


  中学1年になったばかりの頃だった。ようやく新しい校舎や新しい人間にも慣れて、初めての期末試験に備えていたあたりの頃だ。

  その日はとても暑かったように思う。
  沢海の家は両親が共働きな為に、1番最初に家に帰り着いた者が家の中のことをあれこれやる事になっていた。基本的に食事の支度は母親がやっていたが、洗濯や風呂掃除といった、沢海や父親にも容易にできる事に関しては、沢海が率先してやっていたのだ。
「そういえば…洗剤切れていたっけ」
  帰り際にその事を思い出した沢海は、学校帰り、家とは少し離れた位置にあるスーパーへ向かった。そろそろ夕刻になろうというのに、まだじりじりとした熱がこもる日差しの中、それでも沢海はその店に向かう途中にある森の小道を通りたくて、少しだけ遠回りをした。「森」と一言で言っても、それほど鬱蒼としたものではなく、住宅街の中ほどにぽつねんと取り残されて残ってしまった林のようなものだったのだが。自然と人々の通り道になったそこは、そびえ立つ木々だけでなく、ボサボサに生い茂る植物や木の根などが混在していて、子供たちにはなかなかの遊び場であった。風もよく通るので、暑い最中でも居心地が良い。沢海はそこを1人で歩くのが好きだった。いつも誰かに囲まれて過ごしている分、たまに1人になると無意識に安堵していた。
  そんな自分がいる事に、沢海はこの時まだ気づいていなかったのだけれど。

「あ……?」
  その時不意に道から逸れた茂みの中、ぼうっと立っているような人影が見えて、沢海は顔をしかめた。子供たちが遊んでいる風な感じではない。影は一つだった。何かをじっと見つめているその姿は、沢海が何となく茂みに入って近づいていっても、動く事はなかった。
  その少年は何かをただ眺めているだけのようだった。
「………君」
  すぐ傍まで言ってやっと声をかけると、相手はひどく驚いたようになって沢海を避けるように後ずさりした。小学生だろうか。咄嗟に思ったが、とりあえず怯えさせた事を謝り、沢海はいつもの人好きのする笑みを向けた。
「それ見てたの? ホタルブクロだよな?」
  なるべく優しく言ってやり、相手が嫌がるだろうと視線も逸らすと、向こうの逃げの体勢はぴたりと止まり、やがて静かになった。
「昔は結構何処の森にも生えていたけど。へえ、こんな所にもまだあったんだ。懐かしい」
  相手に黙られているのが嫌で沢海は必死にそんな事を言ったが、向こうは何も発してはこなかった。
  ただ、じっとその白い鐘形の下垂れた花を見つめているだけで。
「あ………」
  けれどちらりとそんな相手の姿を盗み見た時、何故だか沢海の胸は何かに打たれたかのようにドクンと激しく鳴り響いた。突然自分の周りの時間が止まったような、そんな錯覚にも捕らわれて。沢海は少年から目を離す事ができなかった。
  虚ろだけれど、その少年の瞳が。
 
とても美しかったから。
「あの……」
  けれどそう思ったのも束の間、相手は沢海に何を言うでもなくさっと踵を返し、その場を離れて行ってしまった。1人で見ていたかったのだろう。悪かったかなと思いながら、けれど沢海はその去って行く背中が消えるまで、その場に立ち尽くしていた。

  その少年が自分と同じ中学に通う「喋らない生徒」で有名な北川友之だと知ったのは、そのすぐ後の事だった。


*


「ああ…拡君」
「こんにちは」
  玄関チャイムを鳴らしてすぐに出て来たのは、友之の兄の光一郎だった。彼は大学生になってからこの家を出たと聞いていたが、友之たちの母親が春先に亡くなって家の中がどたばたとし始めてからは、しょっちゅう実家であるここに帰ってきているようだった。
「いつも悪いね。ノート?」
「はい。もうすぐ期末テストだし」
「そういう拡君は大丈夫? いつもトモにノート貸しちゃって」
  向こうがひどく申し訳なさそうにそう聞いてくる。いつも優しく、柔らかい笑みを向けてくるこの人が、何故か弟である友之には厳しく冷たいのを沢海は知っていた。
  勿論それが弟への愛情故だという事にも気づいてはいたのだが。

「上がって」
「いいんですか?」
「あいつ、珍しくこんな時間に起きているし。会ってやって」
  光一郎は言いながら、沢海を家の中へ通した。しんとした雰囲気が伝わってくる。今は光一郎と友之以外はいないのだろう。そういえば、姉の夕実という人が家出をしたらしいという事も近所の噂で聞いていたが。
「拡君。まあ、あいつもそうだけど…もうすぐ受験だろ。どこを受けるの?」
「あ…いえ、まだ……」
  階段を先に上る光一郎に何気なく聞かれ、沢海は困惑したようにそれだけを言った。
  家族も、先輩も、友達も。それに担任や親戚筋まで、沢海が全国でも有数の私立名門校に進学するものと思い込んでいた。

  以前の自分だったら、きっと周囲のその思いと違う事なくそうしたのだろうけれど。
「友之も高校には行かせたいと思っているんだ」
「え……」
  はっとして顔を上げると、階段を上りきった光一郎が静かな目をしてこちらを見ていた。
「まあ、公立は無理だろうけどね」
「どこに…?」
「あいつの頭で入れる所かな」
「………」
「トモ。拡君が来たぞ」
  光一郎はそう言って部屋の前で声をかけてから、沢海を見て再び気さくに笑いかけ、「じゃあ後はよろしく」と言って元来た階段を下りて行ってしまった。
「………」
  沢海はそれをちらと見送った後、黙って暗い部屋に続くドアをがちゃりと開けた。
「友之……」
  静かに声をかける。返事がない事は分かっていたから、声を待たずに中へと入った。
  相変わらずカーテンを締め切り、窓を開けた形跡もない。それでも友之にしては珍しく、今日は身体を起こしてベッドの傍に座り込み、何かを熱心に見やっていた。こんな電気も点けていない状態で見えるのだろうかと不審に思ったが、目を細め慣れるのを待つと、なるほど視界が段々と開けてくるのが分かった。

「友之、今日はちょっと来るのが遅れちゃったよ」
「………」
「……何、見てるんだ……?」
  そろそろ自分という存在にも慣れてきた友之だ。少しくらい接近しても平気だろうと、沢海は拒絶される前に歩み寄って、互いの腕が触れるくらいの位置に座り込んだ。
  友之は幾枚かの写真を手にしていた。
  それは山の風景のようだった。

「あ…写真撮るの趣味なお兄さんに貰ったんだ?」
  友之は応えなかったが、微かに瞳を沢海の方へ動かした。肯定のリアクションだという事が分かったので、沢海はほっとし、それからゆっくりと手を差し出した。
「ちょっと…見てもいい?」
  言うと、案外にも早く友之はそれを沢海に渡してくれた。実際、友之も自慢の「兄」が撮った物を誰かに見せたかったのかもしれない。
  見えると言っても、未だはっきりとはしない暗い部屋の中で、それでも沢海は渡された写真をじっと見つめた。

「あ、これ……」
  手にした写真の中、ぽつんと白くて丸い光のようなものが目に入って、沢海は目を見張った。
  それはあの花だった。
「……友之、これ好きだもんな」
  何となくつぶやくように言うと、友之は初めてまともな反応を示し、沢海に向かって口を開いた。
「それ……」
「え?」
  ぎょっとして顔を向けると、友之はかっと赤くなって視線を逸らした。直視されるのは嫌なのだろう。慌てて再び写真に目を落とすと、友之はぽつりと言った。
「小さい頃…水源地で、よく見た。コウと……」
「あ……そう……なんだ」
  その時。
  沢海は友之の中の「何か」が分かったような気がした。

「……そうなんだ…」
「………」

  友之はそれきり、もう何も言おうとはしなかった。それは友之の中で絶対不可侵の思い出。これ以上は、昔の友之を知らない沢海には決して入れない、入れてはもらえないもののように思われた。少なくとも沢海にはそう感じられた。
「………」
  それでも。
「………友之」
  それでも今は、「昔」なんかじゃない。

「友之…あのさ」
  沢海は不意に明るい声を出して言った。友之の顔は見ないように、けれど決して離れぬように。そんな微妙な距離間を保ったまま、沢海は言葉を出していた。
「あのさ、もうすぐ受験だけど。友之が考えている高校ってどこ?」
  周囲はがっかりするだろうか。
  それでも構わない。今の自分がそうしたいからそうするだけだ。
  そう思った。
「まだ決めていないなら…決まったら、俺にも教えてな。……絶対」


  一緒の思い出がないのならこれから作ればいいのだ。
  2人だけの時間は、きっとまだ、たくさんあるから。





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