ブラックチョコレート



  どちらから付き合おうと言ったのか、一体いつから付き合う事になったのか、まるで覚えていない。
「ねえ修司…ねえ…」
  裕子は2人きりになると、何度かそう呼びかけては沈黙する事が多かった。他の連中には決して見せない弱気な部分。物憂げで、儚げで。長く艶やかな黒髪を一つにまとめ、きりりとした目線でいつでもどこでも自信あり気に相手と接する男勝りな面は微塵もない。多分、修司はこんな時の裕子を可愛いと思っている。
  だからと言って自分から裕子という女と付き合いたいと思ったのかどうか。
  修司にはよく分からない。
「そういえばさ」
  2人で暗くなるなど真っ平だ。修司は裕子の言いかけた声など聞こえていなかったような素振りで話題を変えてしまった。互いに誤魔化しあってここまできたのだ。何度こういう事をやっても、恐らく裕子は許してくれる。
「お前、この間トモのところ行っただろ」
「え…っ」
  はっと顔を上げて裕子は我に返ったような顔をした。珍しく修司の部屋に上がりこんでいた裕子は、今日は昼間から寝ぼけたような目をしていたのに、この時ばかりは突然意識がしゃっきりしたようになって真っ直ぐ修司を見やってきた。
「トモ君…何か言っていた?」
「言っていたらどうなわけ」
「意地悪しないで教えてよ。迷惑だって思われているなら、もう行かない…」
「本当かよ?」
「………」
  悔しそうに裕子が唇を噛んで黙りこくるのを修司は半ば冷めた目で見つめた。
  幼い頃から弟のように可愛がってきた年下の少年・北川友之。彼が中学三年生になって突然学校に行かなくなった時、その事を誰よりも心配し大騒ぎしたのはこの裕子だった。ほぼ毎日友之の家へ押しかけてはしきりに話しかけたり食事を作ったり。実の母親でもこれほど構うものだろうかと修司はほとほと呆れていたのだが、それでも裕子にそれをやめろと言う気にはなれなかった。
「修司の事は部屋に入れるでしょ。トモ君」
  裕子が恨めしそうに言った。
「お前だって入れるだろ」
「私は無理やり入るんだよ。トモ君、すごく嫌そうだもの」
「嫌だったら嫌って言うだろ。あいつだって口がないわけじゃないんだから」
「言わないよ。嫌だって言えないよ、トモ君は…」
「何でだよ」
「……何でもだよ。あんたなんかより私の方が知っている。トモ君を」
  一瞬口をつぐんだのに、段々とムキになって裕子は唾を飛ばしてそう言った。それで修司は、ああ何だ結局今日の不機嫌な理由は友之の方だったのかと思う。そして、果たしてコイツは純粋に俺という人間に会うためだけにこの家に来たことがあっただろうか。そんな事を考えながら、しかし修司は何だか何もかもが面倒臭くて、壁に寄りかかったままただ目前の恋人の怒った様子を眺めやるのみだった。
「どうしてだろ…」
  裕子の愚痴は続いた。
「何でさ…どうしてトモ君はあんたみたいなのに懐くんだろ」
「はあ」
「私の方がずっとトモ君と一緒にいたんだよ。それこそトモ君がこーんな小さい時からさ」
  裕子は両手で小さく小さく輪を描くようにしながら、「小さいトモ君」を表現した。
「いつも正人やコウちゃんがトモ君を仲間外れにしたりしてさ。その度私と夕実でトモ君を助けたんだよ。その時、あんたは何していた? 別に何もしてなかったじゃない」
「俺、正人君嫌いだからさあ。まあ、あそこらへんのグループには入らなかったな」
「なのにトモ君には懐かれて。光一郎とも仲良くて。何なの? 一体?」
「おいおい、話は光一郎にまで及ぶのかよ」
「及ばないよ、今日はトモ君の話だけでいいよ」
「あ、そ」
  裕子は何かの糸が切れたかのように、その後も延々と修司に対して文句を言い続けた。あんたはいい加減で、自分勝手で、いつも自分の好きな事しかしない。それなのに友之に懐かれ、光一郎には信頼され、さらには私みたいなイイ女とも付き合っている。どうして世の中ってこう不平等なのかしらね?
  裕子はそんな訳の分からない話まで延々と、本当に延々としていた。
  修司はただ黙ってそんな裕子の話を聞いていた。我ながら何と優しい男なのだと思いながら。



  修司は、自分の悪いところを知っている。
  嬉しくもないのに喜ぶフリができる事。怒ってもいないのに怒ったフリができる事。悲しくもないのに涙を流せる事。可笑しくもないのにイイ顔で笑える事。
  「それ」を時々自分の特技だと錯覚する事。



「お前みたいな嘘つきにはな、俺ァ、心底ムカムカするンだよ!」
  いつだったか飲みの席で幼馴染の正人がそう言った。嘘つきは正人君も同じでしょ、と素っ気無く返してやったら、直球ストレートな野球バカは怒り心頭で椅子を蹴り、ビールジョッキを床に叩きつけ、それから1ヶ月近く口をきいてこなかった。自分はそれでも一向構わないと思ったが、それでも光一郎の事を思うと折れないわけにもいかなかった。
  修司が「合わない」正人と数年来の付き合いをしてきたのは、光一郎がいたからこそだ。不器用で、実直で。それでいて誰よりも冷たい眼をする光一郎は、他人に感心を抱けない修司にとって唯一心を許せる友人だった。心の底に秘めるものが自分と同じだと感じられたからかもしれない。
  光一郎以外誰もいらない。
  いつからか修司はそんな風にも思っていたが、だからこそ彼と繋がりを持ち続ける為には、彼に関わる人間たちとの付き合いもしなければならなかった。
  それは正人の方とてきっと同じだったのであろうが。

  そして、もう1人。

「修兄は…すごい…」
  常に光一郎の傍で見え隠れしていた、不可解な生き物。
「何がすごいんだよ?」
「僕も…修兄みたいに、なれたら…いいの、に……」
  いつだったかその生き物はそう言って怯えたように小さな身体を更に小さく丸めた。にもかかわらず、同時に顔を上げてふわりと笑いもした。それは不器用な笑顔ではあったが、精一杯の笑顔だった。近づいてもいいのだろうか、話してもいいのだろうか。その弱い生き物はそんな戸惑いや困惑を痛いほど修司に向けてきたのだった。
  それが一体いつの頃からだったのか、修司は覚えていないのだけれど。
  子供の頃から誰かと行動を共にするのが嫌いで、修司は正人たちの野球チームにも気が向いた時にしか参加しなかった。正人は勝手な修司にそれでいちいち腹を立てていたが、守備がうまいのと足が速いのとで仲間たちは修司の助っ人をいつも歓迎していた。修司は何にも執着しないくせに、いつも何でもそれなりにこなせてしまった。仲間との付き合いもそれなり、スポーツもそれなり、勉強もそれなり。大学には行かなかったが、クラスの担任は惜しいことをするとその事をひどく残念がった。
  修司にとっては何もかもがくだらなかった。
  けれど一方で「それ」は、何も持ち得ない人間の証明でもあるような気がした。

「修兄みたいに、なれたら……」

  それなのにその生き物…光一郎の弟である友之は修司に会う度にそう言い、尊敬の眼差しを向けてきた。正直、当初修司にとって友之は自分のただ一人の友人「光一郎の弟」であり、「光一郎と自分を繋ぐもの」に過ぎなかった。ただそれだけの存在だった。だから修司には友之の自分への賛辞が心地よく感じる事もあったが、一方でひどく鬱陶しいと感じる事もあった。
  それなのに。
「修兄…。今日…ね。今日は、外に出たんだ…。森に行った…。よく、みんながいた所…」
  聞きもしないのに、笑ってやるだけで、優しくしてやるだけで友之はどんどん自分に近づいてきた。裕子は何故修司だけが友之に懐かれるのだと文句を言ったけれど、自分こそ何故だと訊きたかった。何もしていない。何もしてやっていない。
  それなのに、友之はどんどん修司を求めてきた。
「修兄はすごいなあ…。強い…なあ…」
「お前の兄ちゃんの方が強いのに」
  呆れてそう言うと、友之は首を振った。
「コウ兄は……修兄は時間をいっぱい持っているって言っていた…」
「………」
「そういうの…僕もすごいって…思う、から…」
  そう言った時の友之は、やはりどことなく怯えていたようだったけれど。
  そうして、いつからか。
  いつからか、修司はそんな友之から目が離せなくなった。時々は顔も見たくないと思う時もあったけれど、ひどく壊してやりたい感情に襲われる事もあったけれど、それでもしばらくすると必ず会いに行きたくなった。そのうち友之に何かしてやりたくて写真を撮るようになった。大して面白くもなかったが、それだけは定期的に続けるようになった。唯一、それだけは続けられた。
  そして修司は裕子ほどではないにしろ、外界から隔絶された生活を送る友之の顔を見る度に、会いに行く度に、自分が不思議な感情に捕らわれるのを自覚した。


*


  裕子が修司を散々なじった翌日。
  修司が友之の家へ行くと、珍しく玄関口に出たのは友之自身だった。
「よお、トモ。お前、部屋から出られるんだなあ」
「うん……」
  友之は修司の厭味に気づかないのか、少し照れたように笑ってからドアを大きく開いて中に入るようにという仕草を取った。リビングへは行かず、すぐに階段を昇って自室へと向かう。修司は黙ってそれに従った。
  部屋は珍しくカーテンが開かれ、窓の引き戸も開かれていた。
「今日は明るくしているなあ」
「修兄が来るって…言っていたから」
「そっかそっか。俺に気をつかって出迎えもしてくれたのか。偉い偉い」
「………」
  修司がにっこり笑ってそう言うと、友之は部屋の端にすとんと座りながらこれまた嬉しそうに笑んでみせた。いつでもこんな顔をしていれば大モテだろうに、と修司が想っていると、 友之は少しだけ不思議そうに首をかしげた。
「修兄…それ、何?」
「ん…? あ、これな。これは、愛するトモにお土産」
「何?」
「開けていいよ」
  優しく言うと友之は殊のほか嬉しそうな顔をして、綺麗に包装されたその包みを丁寧に取り去り、実にゆったりとした動作で渡されたその小さな箱を開けた。修司はそんな友之の所作を黙って見つめた。
「これ…?」
  友之が箱を開けて意外そうな顔を見せた。修司は笑った。
「何だよ。そういうの、嫌い?」
「……お菓子?」
「そ」
「………チョコレート?」
「そ」
「………」
「あれえ?」
  黙りこむ友之に修司はわざと大袈裟に声を上げてから傍に寄ると、更に芝居がかった口調で哀しそうに言った。
「トモってチョコ嫌いだったか? やっぱり可愛い子供には美味しい甘いお菓子かなと思ってさ。ほら、もうすぐクリスマスだろ?」
「クリスマス?」
「ふ…暗い箱に閉じこもっているから、世間のイベントに疎くなるんだぞ?」
「………知っていたよ」
「ホント。24日とかはな、俺バイトだから来てやれないし。ケーキはすぐ古くなるしで、まあ、チョコがいいかなあと。コウ兄ちゃんと一緒に食べな」
  光一郎の名前を出した途端、友之の肩先がぴくんと揺れたのを修司は見た。目を細めてその様子を眺めていると、友之は俯いたまま沈んだ顔をした。
「……コウ兄、来ないよ」
「何で」
「アルバイトあるよ」
「それでも来るよ」
  修司は言ってから、友之が開いた箱いっぱいに詰まっている色取り取りの包みから銀紙に包まれた正方形の物を一つつまんでぽいと口に放り込んだ。子供の好むような甘さはまるでなかった。ほのかに苦いそのブラックチョコレートは、どちらかと言えば光一郎向けであった。
  それでも修司は更にもう一つをちょいと取り出して包みを取ると、そのままそれを友之の口許へ持っていった。
「はい、アーンして」
「………え」
「アーン」
「………」
  有無を言わせぬ修司のその態度に押されたのか、友之は戸惑いながらも小さな口を開いてそれを受け入れた。修司は満足そうに笑い、友之の反応を待った。
「………おいしい」
  友之の台詞に修司は目を丸くした。
「嘘ォ? 苦いだろ?」
「……わざと苦いの選んだの?」
  友之が訊くと、修司は悪びれもせずにすぐ「うん」と答えた。友之はそんな「兄」の思惑がつかめないようで不思議そうな顔をしていたが、今度は自ら箱の中の一つを取り出すとそれを自分の口に放り込んだ。
「やっぱり美味しいよ。……僕も、苦い方がいい」
「そ」
  友之の所作を黙って眺めていた修司はその答えを予測していたのか満足そうに笑い、それから「偉い偉い」と言って頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。それから友之から箱を奪うとそれを横に置き、すっとその手を取った。
「………?]
  やや首をかしげる友之に、修司はただ黙ってじっと視線をやった。白く冷たいその小さな手の平は、死人のように熱を感じさせないものだった。修司はそんな友之の手をもう片方の手でさらりと撫でた。
「修兄……?」
  困惑したような友之に修司はやはり何も答えずただ薄い笑みを浮かべた。けれどやがて顔を上げるといつもの明るい笑みを向けて言った。
「トモは可愛いから。コウ兄ちゃんはきっと来てくれるって」
「 え……?」
「だから心配しなくても大丈夫。な、良い子で待っていなさい」
「………修兄は」
「俺は、バイトだからって言ったでしょ」
「………うん」
「ははっ」
  修司は友之の心配そうな顔を見て、思わず声を出して笑った。こちらこそがこの小さな生き物の行く末を心配して来ているはずであるのに、こうして逆に不安そうな瞳を向けられるのは何故だろう。自分の勝手な我がままな願いを、もしかするとこの生き物は知っているのかもしれない。根拠もなく修司はこの時ふっと思った。
「でも両方欲しいなんて…我がままだからね」
  声にするつもりはなかったのに、何故か言葉がこぼれてしまった。友之の怪訝そうな顔が視界に飛び込んでくる。それでも修司はふっと笑んでその疑問を黙殺してしまうと、今度はわざとはっきりとした口調で言った。
「その両方が幸せになってくれれば、俺もきっと幸せ」
「修兄……?」
「ね……友之」

  お前が分からないって顔をしても、俺は答えてやらないよ。

  そうして修司は心の中でそうつぶやくと、未だ訳が分からないという顔をしている小さな弟の手の甲にそっと自らの唇を押し当てた。





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