子どもの日



  それはぽかぽかと晴れ渡った祝日。
  珍しくバイトの入っていない光一郎は、しかしこんな日でも規則正しい生活を崩さない。特別寝坊する事もなく、むしろ朝も早くから掃除、洗濯、台所のレンジや流しまでピカピカに磨く。友之が起きるとその布団も外に干して、午前中にはすっかり「主夫」の仕事を完了させてしまうのだ。
「どこか行くか?」
  そうして光一郎は空いた日中、相変わらず部屋でごろごろしている友之に決まってそう言う。少しずつ気持ちが外へ向くようになった友之だが、まだまだ行動派とは呼び難い。野球の練習や数馬などから遊びの誘いがあればそれは喜んで出掛けて行くが、それ以外の「イレギュラー」な出来事に関してはまだ反射的に身構えてしまうようだ。潜在的な部分で「余計な事をしてはいけない」という気持ちが働くのか、自分から何かをしたい何処かへ行きたいという希望は出さない。それは最早友之の中では当たり前の事だった。
  だからたとえこれが光一郎からの言葉であっても、友之はすぐに「うん」とは応えない。
「どこ行くの?」
「どこでも。お前が行きたい所」
「………」
「行きたくないか?」
「ううん」
  光一郎と2人でどこかへ行くなど、何と素晴らしい事だろう。未だ寝巻き姿の友之だが、頭の中ではもう「こんな事ならもっと早くに目が覚めれば良かった」と思っている。ただ、それをすぐに言葉に出来ない。途惑いや照れや、色々なものが邪魔をして。
  それに、いつもは大体光一郎同様早い時間に起きるのだが、今朝は「やっぱり」辛かったから。
  何故なら昨夜は―…。
「身体辛いか…ならやめるか」
  その事を察したのだろう、光一郎がさっと眉をひそめてそう訊いた。それに友之は途端ハッとし慌てて首を振ったのだが、あまりに焦り過ぎてすぐに「違う、行きたい」と言えなかった。それで余計に舌がもつれた。
「別に、別に痛くない…っ」
「え?」
「……っ」
  これでは「痛い」、「辛い」と言っているようなものだ。
  かっと赤面して俯いた友之は、それを誤魔化すように光一郎から視線を逸らした。あの行為は未だに慣れないが決して乱暴にされているわけではない。光一郎はいつでも友之の事を気遣いながらその身体を抱く。むしろ友之はいつも自分だけ気持ち良くしてもらっているのではと不安に思う事すらある。
  だからこんな風に心配されると苦しくなるし、気まずい。
「だい…大丈夫。僕は…大丈夫」
「……でも今日は家にいるか」
「な、何で…。あの、平気…!」
「トモ、ちょっとこっち来い」
「え…」
「ほら」
  何を思ったのか、光一郎は依然としておたおたしている友之を窓際へ誘った。そうして訳が分からないまま傍へ来た友之に、光一郎はすっと指先を前方に見える家並の一つへやった。
「あれ。珍しいだろ?」
「え?」
  はじめは何を言われているのか分からなかった。必死に光一郎の指とそれが指す方向を見合わせて目を凝らす。清々しい春の陽気、そこから見えるのは洗濯物を干す家々だけだが…。
「あ」
  けれど、それらの更に上方、共にはらはらと風に流されそよぐ「それ」に、友之はようやく気がついた。
「鯉のぼり?」
「うん」
  頷いた光一郎は「当たり」というように、どこか嬉しそうに目を細めた。こんな姿は非常に稀だ。他愛もないクイズに正解した友之を大袈裟に誉め、別段変わった特徴もない黒、赤、青の鯉に5色の吹流しが風にそよぐのを優雅に眺めている。
「……コウ、鯉のぼり好きなの」
「そうだな」
「………」
「何だよ」
  悪いか?と笑いながら問い返してくる光一郎に友之は慌てて首を振った。別に悪くない。ただ意外に思っただけだ。そもそも光一郎が何かを好きだと言う事なんて滅多にないし、しかもそれが鯉のぼりだなんて。5月になるとぽつぽつと掲げられるそれは、友之にとってはまさしくただ「春になったら見られるもの」、それだけだったのに。
「最近あまり見ないよな。わざわざ買う家も減ったんだろうな」
「うん…」
「うちだってあんなのやった事なかっただろ。…あのな、外へ行くかと言ったのは、ただ単に俺がお前にあれを見せたかったからなんだ。だから別に、ここからでも事は済むんだ」
「…何で見せたかったの?」
「今日は子どもの日、だろ?」
「え…」
  どこかからかいの含んだような声に友之はぴたりと思考を止めて口を噤んだ。ちろりと光一郎を見やったが、相手はそ知らぬ顔で視線を外へ向けたままだ。
「……子どもじゃない」
  だから友之は多少むっとしてそう呟き、抗議するように光一郎の腕をぎゅっと掴んだ。
  子どもじゃない。そう、もう子どもではない。あんなものにいちいちはしゃいだり喜んだりする年じゃない。むしろ日本の慣例行事なんて大嫌いだ。
  だってそれらには何ひとつ良い思い出がない。
「コウは僕を…子どもだと思ってる…」
「子どもにあんな事するかよ」
  光一郎は嘲笑するような目でそう言い放った後、友之の髪をぐしゃりと撫で回した。そんな仕草がどうにも子ども扱いされているようで友之には不満だったが、当の光一郎はそれを謝る気も言い訳する気もないようだった。やはり今日はいつもと心持ちが違うのかもしれない。友之の気分を損ねてしまっているのに光一郎はひたすらに機嫌が良く、表情も穏やかだった。
「なぁ友之」
  そして光一郎は言った。手はもう友之から離していた。
「俺がああいうものに気づいた…気づけたから、だからお前にそれを教えたかったんだ。それだけだ」
「……?」
「分かんないか。……まぁそうだろうな」
  友之の不審そうな目を一瞬だけ確認して、光一郎は苦く笑った。
  そしてまたすぐに視線を逸らしてしまう。友之にはそれが不満だった。
「コウ…」
「今日は本当に何もない日だな。そういうのにはしゃいでいる俺こそガキだ」
「………」
  呼びかけても光一郎は友之を見ない。それにますます焦りを感じ、友之はぐいぐいと光一郎の腕を引っ張った。
「ん…」
「こっち…」
  向いて欲しい。
「トモ?」
  そんな友之の気持ちが分かったのか、光一郎は少しだけ首をかしげると笑って身体を屈めてきた。友之と目線を同じにするように、むしろそれよりも下になるようにと片膝をつく。
  それでも友之は光一郎の腕を放さなかった。
「どうした?」
「………」
「黙ってたら分からないだろう。ちゃんと言え。何だ? 俺がつまんない話したからむくれたのか?」
「違う…」
  ただ、光一郎の目が遠くを見ていたから。
  あの風にそよぐ鯉のぼりはいつも家族で気持ち良さそうに泳いでいる。でも自分たちにそんな機会はなかった。得られなかった。だからむしろそんな光景には胸が痛みこそすれ、今さら見たいとは思わない。
  でも、光一郎がそれにこんなに嬉しそうに笑うから。
「ちょっと…驚いただけ」
「そうか。ごめんな」
  光一郎はここでようやく謝り、友之にちゅっと軽いキスをした。唇に当たったそれに友之は「あ」となったが、意識する間もなくそれはあっという間に離れてしまった。
「……コウ兄」
  たまらなくなり、友之はぎゅっと光一郎に抱きついた。もっとして欲しかったし、もっと説明して欲しかった。でもそれをどう伝えて良いか分からないから、いつもと同じように光一郎の懐へ逃げ込んでしまった。
「コウ兄…コウ兄…」
「ああ、ごめんな。混乱させたな」
  光一郎はもう一度そう言って謝ると友之の頭を宥めるように2度、3度と撫でた。
  それをとても嬉しいと友之は思った。
「………」
  そんな事を思ってしまう自分は、こんな風に甘えてしまう自分は、やはりまだ子どもだ。そう自覚しつつも、友之はどうしても光一郎の胸に押し付けた顔を上げられなかった。
  外で元気よくたなびく鯉たちに笑われているような、そんな気がしているのに。












光一郎は別段家族というものに憧憬の念を抱いているわけではありません。
友之にはまだそこらへんの兄の気持ちは分からないらしい。
とにもかくにも、北川兄弟の(一応)平和な休日でした。