巣立ちの前
|
光一郎が正人と近所の空地で野球に興じていたのは、もう10年以上も前のことだ。 中学に入ってから明らかに「悪くなっていく」その親友が、やがて野球のやの字も口にしなくなり、高校も互いにどこの学校にするとも話さずバラバラになると、それは一層縁遠いスポーツとなった。正人と密に付き合っていた頃はサッカーやバスケより野球が1番楽しかったし好きだと思えたが、もともと光一郎は正人ほど団体競技に熱くなる性質ではない。そう、何のことはない、光一郎が野球をしていたのは、親友の正人が遊ぼうぜと常に声を掛けてくれたからだ。 そして、正人と一緒にやっていたから、野球は楽しかった。 基本的に光一郎という人間は自分から何かを始めて、それに熱中したという記憶を持たない。だから光一郎はそんな自分を冷めた人間だと思っている――…が、それでも最近はそういう自分に昔ほどは悲観しなくなっている。 それはきっと友之のお陰だろうと思う。 (下手すぎる……) 珍しくバイトが早くに終わり、光一郎は家へ帰るより先に河川敷グラウンドへ向かった。この時間なら珍しく午後練の正人たち草野球チームがまだいるはずだし、それなら当然、友之もそこにいる。終わった後は『アラキ』へ寄るだろうから、そのままそこで夕食をとってもいいという考えだった。 案の定、正人たちのチームはすぐ見つかった。河原添いにいくつも連なる野球場は、その設備こそお粗末ながら敷地面積は十二分に取られている。休日ということもあって、それらのグラウンドには他の草野球チームや少年団同士が白熱した試合を展開し、ギャラリーも多く集めていたが、その中でも正人たちのチームは「いろいろな意味」で結構目立つため、すぐに分かった。 今日は他所チームとの試合もない為、2グループになって紅白試合をしているようで、正人のムキになったがなり声がやたらと際立っていた。しかしそれも当然というかで、光一郎が真っ先に思った感想よろしく、投手はストライクが入らないし、内野手は平凡なゴロもさばけず、エラーを連発。外野は見当はずれな所を守って平気で万歳している。これでは電気店主・村井が言う「体育会系の強いチーム」など遥か彼方の願望に見えた。 もっとも、現在マウンドに立っている選手は意図的に悪球を投げている節もあったが。 正人が再度辺りに響く怒声を放った。 「てんめえ! 今ぜってえわざとだろ!? わざと当てようとしただろ、このバ数馬!」 散々ベンチで文句をつけていた正人がバッターボックスに入った途端、だ。本日の赤チームピッチャー数馬は、先輩である正人の腹に当たりそうな内角ぎりぎりや、顔面に当たろうかというほどの高めといった「クソボール」を連続して投げてきた。ただでさえ身長も力もある数馬が放る球は角度が鋭いし重い、スピードもあるのに、これでは殺人ボールと称しても差し支えない。正人がいきり立つのも無理はなかった。 しかしマウンド上の数馬は至って平然としている。 キャッチャーから返された球をぽんぽんとグローブの上で遊ばせながらしれっとした声を返すのみだ。 「変な因縁つけないで下さいよ。ピッチャーなんか慣れてないんだから仕方ないでしょ? 大体、ボクはヤだって言ったのに、先輩がボクにピッチャーやれって言ったんですからね」 「しょーがねーだろ、今日は隆が来てねーんだから! それになあ、お前がまさかここまでありえねえ奴とは思わなかったんだよ! 普通の球くれー投げられるだろうと思ってやった俺が馬鹿だった!」 「はあ〜? 普通の球なんか投げたら面白くないでしょ! それに真っ直ぐだけ投げてたって練習になんないじゃないですかぁ! ボクは親切で敢えてねえ〜」 「あ〜分かったから! お前らの言い合いは長いッ! いいから数馬、好きに投げろ!」 「好きになげたら死人が出るぞ!?」 村井の仲介に尚正人がそんな風に言い返すものだから、光一郎は思わずふき出してしまった。あれは半ば本気だろう。実際、正人側の白チームは数馬の剛速球にすっかり萎縮している。そもそもがただの草野球だ、「楽しくのんびり」好きな野球が楽しめればそれで良いという考えの者もいるに違いない。チームの中心である正人や村井がやる気満々だから、「若くてイキのいいの」を中心にチーム作りを進めているが、基本は余暇で集まった面子である。正人も熱くなり過ぎず適当に楽しめばいいのにと、本人に聞かれたら激怒されそうなことをちらりと思って、光一郎は苦笑した。 けれど実際は、このアンバランスさが友之には良かったに違いない。 「あー! ほら、トモ君とこ上がったよ! 今度は捕ってよね!」 数馬が叫んだ。 光一郎がハッとしてグラウンドに視線を戻すと、今まさに正人が数馬の球をポップフライにし、ファーストを守っていた友之の頭上にその球がふわーっと上がっているのが目に入った。 よろよろとした足取りで友之はボールを追っている。若干風で押し戻され、ボールは1塁側のベンチがあるファールグラウンドへと流れて行く。 (まぁでも、あれくらいは捕れるだろう…) そう思いながらも、光一郎はハラハラしながら友之のおぼつかない足取りを見守った。横で数馬が「捕れなかったらお仕置きだよ!」などと脅しをくれて正人に怒られている。お前ら静かにしろと恫喝したい気持ちになったが、如何せん光一郎が見ている位置はまだグラウンドを見下ろせる坂の中腹で、そんな遠方から声を出せば余計友之の邪魔になるだけだから黙って見守る他ない。 いやに長い飛球時間だった。 けれど、光一郎が息を呑んだ直後。 ぽすん、と。 ともすればそんな可愛い音が聞こえてくるような納め方で、友之は自らの頭上にかざしたグローブの中に見事その球を吸いこませた。 「よっしゃー!」 「トモ偉い!」 「うまーい、トモ可愛いー!」 周囲の大人たちも一斉に歓声をあげた。……その中に若干おかしな黄色い声が混じっている気もしないではなかったが、この際光一郎もそれには目を瞑ることにした。友之がこのチームに加入してすでに1年以上が経つが、この気の良い大人たちに目をかけてもらったからこそ、あの弟が「ここまで」良い方に変われたのだとは重々承知しているから。 それに友之のあんな嬉しそうな顔を見てしまっては文句も言えまい。 (あいつは本当に野球が好きなんだ…。いや…と、いうより…) 大勢で何かをする、ということ自体に幸せを感じているのかもしれない。 数馬にちゃかされながらベンチに引き上げる友之を見て、光一郎はふと過去の映像に想いを馳せた。 自分たちが共に小学生だった頃、本当にごくたまに、光一郎は友之を野球の仲間に入れてやることがあった。正人は毎度「チビでド下手! おまけにあのむかつく夕実の手下!」と、友之を仲間にすることを渋ったが、元が根っからの兄貴体質なので、いざ中に入れてしまえば、光一郎などよりよほど面倒見は良かった。そしてその遊びの野球には時に修司も気まぐれで参加することがあったから、そうなると友之はますます必死になって光一郎らの後を追いかけた。いつも夕実や裕子とばかりいたから、そういう男同士の遊びにはいっそ憧れに近い感情を抱いていたのかもしれない。途惑いを見せつつも、友之は光一郎らの輪に入るといつも頬を赤らめ高揚して、そんな「たまの幸運」にそわそわと喜びを隠しきれないでいた。 光一郎がこんな風にその時の友之を思い出すようになったのはつい最近のことだ。 しかもそれとセットで呼び醒まされる記憶は、いつでもどれもロクでもないものばかりだった。 結局はすぐ夕実に見つかって強引に連れ戻される友之の姿とか。 夕実に理不尽なキレ方をされて、「だからトモなんか入れたくなかったんだ!」とぶうたれる正人の怒り顔とか。 そういうのが面倒で、段々とみんなに「こいつも入れてやってくれ」と頼む気を失くしていった自分とか。 (あー…最悪) 折角得た休日なのに、折角すぐ傍に嬉しそうな友之の姿があるのに。以前ほど悲観的ではなくなったと言っても、やはりまだ駄目だなと、光一郎は心の中だけで頭を抱えた。 もっとも、その下降モードはそう長く続かなかった。 「おう」 「あ」 いつの間にか正人がすぐ近くにまでやって来ていて、声を掛けてきた。 「来てたのかよ」 草の伸びた坂をざくざくと上がり、光一郎の立つ場所にまで来たユニフォーム姿の親友は、キャップの鍔を指先で上げながら「珍しいな」としゃがれた声を出した。 「今日、バイトねーの」 「さっき終わった」 「ふーん。下で見ろよ、こんな所からじゃなくて」 「ここからの方が全体をよく見渡せるし、ここでいいよ」 「別に下行ったからって出ろとか言わねーよ?」 「そういうことじゃないって」 正人の無用な勘繰りに光一郎は苦笑した。このチームが出来たての頃は人数が足りないからとよく助っ人を頼まれた。もう子どもの頃とは違う、そんなには付き合っていられないと思うこともあったが、光一郎にしてみればそれもそれなりに楽しかったから参加していたのだ。とは言え、もう助っ人と言えるほどの戦力にはなれないだろう。 「最近全く振ってないし、もう相当鈍っているだろうな」 「まぁそうかもしんねぇが」 しかし正人は苦い顔をしてから肩を竦めた。 「それでもお前の方がまだあいつらより百倍くらい上手いのは間違いないぜ。見てただろ、うちのチームのひどさ」 「確かに……下手過ぎ」 光一郎が素直な感想を述べると、正人は思い切り唇を尖らせた。 「あいつら、まともに練習してねーんだ。週一じゃきちいから、マスターん所にも行って何日かは振れって言ってんのに」 「無茶だろ。みんな仕事とかあるんだから」 「ふん、俺は仕事があってもやってる」 正人は不満そうに鼻を鳴らしてから偉そうに片手を腰に当て、主将の自分がいない間も試合を進めているチームを見下ろし、ぽつりと言った。 「まぁだから、あれだな。俺の言うことを律儀に守っているのは、トモくらいのもんだ」 「トモ?」 驚いて目を見開くと、正人は視線をグラウンドにやったまま鷹揚に頷いた。 「あいつだけはちゃんと練習している。走り込みもマメにやっているみたいだしな」 「そうなのか」 「ホント、兄弟そろってクソ真面目だからなぁ。それに比べて数馬の奴は才能だけで何でもこなしちまうからむかつくぜ」 「あの速球は反則だよな」 「だろ! だからホントはあいつにピッチャーやらせたくねーんだけど。俺はトモにやってみっかって言ったんだけど」 「え?」 「お。トモだ」 光一郎が訊き返したものの、ちょうど友之の打順が回ってきて正人の意識が逸れた。光一郎も同じように友之の打席は見たいとは思ったが、それでもその話が気になって再度訊かずにはおれなかった。 「トモがピッチャーって、嘘だろ?」 「何が嘘だよ。って、こらあトモ! ど真ん中見逃すんじゃねえ!」 遠くからでも正人の怒号は腹にくる。友之は思い切りびくついて振り仰ぎ、正人にすみませんとでも言うようにお辞儀した。そしてそのついでのように光一郎にも視線を寄越す。もうとっくに気づいていたようだ、その瞳に驚いたような色はなく、ただ仄かに緊張していることだけは伝わった。 「トモガンバレー!」 「ピッチャーへぼいぞ、昨日飲んだくれて二日酔いだからな!」 「るっせえなあ!」 野次と声援と、投手自らの苦笑がグラウンドで混じり合う。友之はそれらの声を意気に感じたようになりながら、改めて打席に入り直し、ぐっとバットを短く握り直した。 少し見ない間に随分様になったなと光一郎は感心した。 それなのに未だ集中せず、隣の正人に話しかける。 「あいつがピッチャーやりたいって言ったのか?」 「あん? 言うわけねーだろ。つかお前、今はあっちに集中しろよ」 「だって気になるだろ、お前が変な話するから」 「何が変な話だよ…って、ほらみろ! 空振ったじゃねえか!」 あーあと身体を仰け反らして、正人はあっけなく三球三振してしまった友之に舌打ちした。そうして容赦なく「才能ねーよ、あいつ」と断じてしまう。 「そこまで言うことないだろ」 これには今度光一郎が苦い顔をする番だった。事実としてもやはり友之に肩入れしてしまう。 それでも正人は意に介さぬように「フン」と嘲笑った。 「俺は正直だからな。……まあ、あと1年後にはどうなってるか分かんねぇけど」 「は?」 「1年前は今よりもっとひどかったからな」 ニッと白い歯を見せた正人はどこか得意気にそう言い、続いて「だから言ってやったんだよ」と付け足した。 「ド下手の才能ない奴に、例え練習試合でも、ピッチャーやるかなんて言わねーよ、俺は」 練習が終わり、共にアラキに行くのかと思った友之は、しかし光一郎がどちらでもいいと言うと「じゃあ帰る」と即決した。今や友之を猫かわいがりしているチームの大人たちはそのことを軒並み残念がったが、数馬がまたそれに余計な「ひと言」を投げたせいで彼らの意識は一転光一郎らから逸れ、数馬へのブーイング大会と化し……それによって、2人は早々に河川敷を離れることが出来たのだった。 「正人たちと一緒に食べなくても良かったのか?」 「うん。数馬も今日はすぐ帰るって言ってたし」 「数馬がいないと帰るのか…」 「え?」 「何でもない」 小声で呟いたお陰で聞こえなかったらしい。咳き込んでごまかした後、光一郎は未だグローブをはめてそれを見つめたまま、珍しく自分の前を歩いている友之の背中をじっと見つめやった。少し背が伸びただろうか。走り込みもしているというから、筋力もついているかもしれない、少なくともあの引き取った当初とは確実に変化したその身体に、光一郎は半ば焦燥に近い念を抱いた。 (こういう時、修司の気持ちが分かるよな…) 「コウ」 その時、友之が振り返って光一郎を呼んだ。光一郎が声は出さずも呼応するように視線を向けると、友之は少し迷った風になりながらも早口で言った。 「いつも僕と数馬の守るところは正兄が決めるんだけど、今日は正兄、僕にピッチャーやるかって言ったんだ」 「…ああ、正人から聞いた。何で断ったんだ? 前に、いろんな所守ってみたいって言っていただろ」 もともと友之には決まったポジションがなく、以前は「とりあえずライトでも」という風に外野へ行かされることが多かった。――が、「肩がない」という致命的弱点により、最近ではファーストがもっぱらの定位置だった。所詮は適当な草野球チームなので、時には「今日は俺がファーストをやりたい」と言う者が出たり、「トモのショートとか見てみたい」と気楽に提案する者もいるので、いつまで経っても「猫の目ポジション」から脱せられないのだが…友之はそんな適当な己の立ち位置も楽しんでいるようで、光一郎にも自ら「いろいろなポジションをやってみたい」と語っていたのだ。 ただそんな中でも、ピッチャーとキャッチャーだけは一度もやらせてもらったことがなかった。 「今日ピッチャーやれたら、あとはキャッチャーだけで念願の全ポジション制覇だろ」 光一郎が半ば冗談めいて言うと、友之は頷きながら「そうだけど」と真面目な顔で返した。 「数馬が投げた方が勝てるから。みんなは、遊びなんだから気楽にやればいいってよく言うんだけど……、僕は遊びじゃなくて、村さんが言うみたいに、強いチームの方がいい」 「…へえ」 全く失礼ながら、光一郎は心の中で「こういう所は友之も男だな」などと思った。 いつも自信なさげでびくついている。実際、自信がないから数馬に席を譲ってもいる。けれど、それは裏を返せば己のことをよく分かった上で、勝負にこだわっているからこその、友之の強い意地とも言えた。 村井や正人が聞いたら喜ぶだろうなと思いながら、それでも光一郎はこの話を2人に教えてやる気はなかった。何だかしゃくに触ると思ったから。 「でも…本当はピッチャーもやってみたいから」 しかし友之の話はそこで終わりではなかった。光一郎が驚いて改めて見返すと、目の前の小さいはずだった弟は恥ずかしそうにしながらもぽすんとグローブを叩いた。 「練習したいんだ…。ピッチャーの」 「練習?」 「うん。コントロールの。僕は数馬みたいに速い球は投げられないし、水乃屋(みずのや)さんや隆さんみたいに、スゴイ変化球も投げられない。だから…、ちゃんと、コースをつけるピッチングが出来たらなって」 限りない小声だったが、友之は明らかに興奮していた。光一郎にはそれがよく分かった。練習が終わったばかりで、しかも今日は初めて正人に投手をやるかなどと認められたような声掛けもされたから、それが嬉しかったのだろう。そうだ、友之ははしゃいでいるのだ。光一郎はその場に立ち尽くした。野球のことで頭がいっぱいの友之。もっともっと上手くなりたい、そんな心の声が胸に直接響いてくる。やったことのない投手というポジションに多大な憧れを持って、それに挑戦したいと欲を出している。そしてその先の、「どんな投手にならなれるか」というビジョンまで語っている。 ああ、本当に友之は変わった。 だからか、また修司のあの言葉が聞こえてきた気がした。 そのうちさ。トモは俺らを置いて、どっかへ行っちゃうよ。 (煩ェよ……クソ修司) あのもう1人の親友はいつでも先見の明というやつがあった。常に飄々として何も考えていないようでいて、誰よりも物事の深淵を覗き見て、そして諦観している。 そういうところが友人として誇らしくもあり、また妬ましくもあった。けれどその妬みはドロドロと淀んだ類のものでもなく、修司がどこか自分と通じるものを持っているということもよくよく分かっていたから、だから光一郎は修司には何でも話してきたし、「相談」もした。 それこそ、友之への想いや自分たちの関係とて。「こいつにだけは」決して言うまいと思っても、最後には結局「こいつにだけは」と暴露してしまう。己の本当を曝け出せる相手はいつだってあの掴みどころのない修司なのだ。正人より頼りになるとか仲が良いとか、そういうことではなくて、ただ同じ水平線上にいるのが修司だったから、そう「ならざるを得ない」感じだった。 その修司が、しかしいつだったか「トモは俺らを置いて行く」と言い放った時――…、光一郎は軽く受け流したフリをしながら、その親友の物憂げな笑顔に、らしくもなく自分も直球で気落ちした。 (馬鹿らしい…。素直に喜んでいればいいものを…) 「コウ?」 何も反応がないことを訝ったのだろう。友之が不思議そうに、そして少し心配そうな顔をして近づいてきた。光一郎は慌てて我に返り「何でもない」と首を振った。そんな返答、「何かがある」と言っているようなものだけれど。 「コウ、疲れてる? 僕を迎えに来たせいで帰り遅くなったし…」 友之の言葉に光一郎は尚焦ってかぶりを振った。らしくもなく余裕がなかった。 「悪い、そんなの関係ない。何でもない、ちょっと気が抜けてただけだ」 「でも…」 みるみる曇っていく友之の顔。ああ、折角好きな野球をやってきて、良いこともあって嬉しそうだったのに。そんな友之を見ることが出来て、自分だって幸せな気持ちでいられたのに。 それを自ら台無しにしたことに光一郎はいよいよ焦って、「何でもないから」と友之の帽子を取り、その黒髪をわしゃわしゃと撫でつけた。 「本当に悪い。お前がそんな顔する必要ないんだ。大体お前、何でも俺のこと心配し過ぎだよ。なぁ、それにしても、お前がピッチャーの練習か。前は想像も出来なかったな」 懸命に話題を野球へ戻す。友之は依然として不安そうな顔を消さなかったが、それでも光一郎が必死に髪を撫で続けると、ようやく「うん」と頷いた。 そして言った。 「でも僕は、想像はしてた」 「ん?」 「コウがよく投げてたでしょ。だから僕も……ああいう風になりたいなって思って、それで、自分が投げるところも、想像はしてた……恥ずかしいけど」 「……俺が投げていたって、いつの話だ?」 「正兄が僕を入れてくれたばかりの頃とか。あと……前、とか」 「前」 「しょ、しょ…小学生の頃、とか」 突然どもったが、それでも友之は言った。 「じょ、上級生とかいても、コウの球、誰も打てなかったし。正兄もすごかったけど、コ、コウの背中、思い出す。最近よく、お、思い出すんだ…」 「背中…?」 「うん。よ、よく、見てたから」 「………」 先刻まであれほど生き生きと喋っていた友之が途端たどたどしく、自信なさ気に、けれど頼るような視線でこちらを見ている。そして唐突にそんな話をする。 光一郎は思わず目を窄めた。 背中を見ていたって、それは結局、光一郎が友之に己の心を背けていた何よりの証ではないのか。友之を、夕実を、家族を見ないよう距離を取り、何もかもに知らぬフリをしていたあの頃の。本当にロクでもない時の姿。 そんな自分を見ていたと、友之は言うのだ。 「コウはカッコ良かった…。あ、い、今もカッコいいけどっ。でももう、野球やらないの? い、忙しいから…無理かな…無理だよね」 今度は光一郎の落ち込みに気づかないらしい。友之は自分の想いを吐露し過ぎたことで照れているのだろう、必死になって口数を増やして、それで余計に恥ずかしくなって赤面している。光一郎は眩暈を感じた。いやしかし自分は悪くない、そうも思った。こんな友之を前にして、平静に立っていられる方がどうかしているのだ。罪悪感で締め付けられそうになっているのに、一方で友之のことが可愛くていじらしくて、ただただ強引に抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。 頭がおかしくなりそうだ。 「終わってる…」 「え?」 「最早病気の域だな…」 「え? え?」 友之がぎょっとしたように身体を揺らした。逆に光一郎は堪らずその横をさっと通り過ぎて歩き始めたのだが、今度は友之が戸惑ったままその場に留まっているので、仕方なく足を止めて振り返った。 「友之、早く来い」 「コウ…何か病気なの?」 蒼白な顔で佇む友之の掠れ声に、光一郎は大きく息を吐いた。 「……悪い。本当〜に悪い」 それで光一郎は片手で顔を隠しながら謝った。謝れば謝るほど友之を苦しめると分かってはいるのだけれど、言わずにはおれない。悪循環のループだ。 それでもともかく、友之を安心させなければ。 「俺は病気なんかじゃない、至って健康だ。少しは熱出して寝込んでいた方がいいくらいだ」 「そんなの!」 友之が小走りに近付いてきた。 そして思わずといった風に光一郎の手にそっと触れた。 「そんなの駄目だよ…!」 「……だよな。分かってる」 「コウ、どうかした? 僕が何か悪いこと言った?」 「は……いいや。良いことばっかり言われて、逆に居た堪れないだけだ」 苦い笑いが落ちた。そうだ、友之はいつだって美化し過ぎなのだ、北川光一郎という男のことを。普段から周囲が誉めそやすところの「模範的」な姿など、自分にしてみたら何の中身もない「フリ」に過ぎないのに。友之はそういう出来る部分をことのほか尊敬したり憧れたりしている節がある。 正人たちの野球チームでちょっと助っ人の役をやって皆に感謝されることがそんなに友之に受けるなら、それこそいつだってやってやっても良いくらいだ。確かに時間的に厳しいところはあるかもしれないが…それによって過去の間違った「カッコイイ姿」が薄れてくれれば尚の事ありがたい。 「コウが嫌なら気をつけるけど……でも、コウには良いところしかないから」 光一郎がそんな埒もないことを考えていたら、また友之がそんな追い打ちをかけてきた。 「だから誉めないでいるのは難しいよ…」 「スゴイ誉め殺しだな…」 「誉め殺し?」 「いや、いい。とりあえずこの話はここでやめよう。野球だ、野球の話に戻るぞ。ピッチャーがやりたいんだな? そうだろ、トモ」 「え? うん…?」 強引に、そして猛烈な早口でまくしたてて会話を変えてきた光一郎に、友之は俄然押され気味になりながら頷いた。 「よし」 光一郎はそんな友之からグローブを奪い取るようにして自分がそれをはめてみると、何度か馴らすように片手で叩いてみた後、「飯食ったら」と急くように続けた。 「キャッチボールやるか? 俺が受けてやるから」 「え! ほ……本当?」 「ああ。思えば、まともにやったことなかったよな。2人でキャッチボールって」 「うん…!」 驚きから歓喜で瞳を輝かせ始めた友之に、光一郎はここでようやくほっとして自らも笑顔になった。 良かった、まだ友之を懐に抱ける。 翻弄され、焦らされても、まだ友之を囲うことは可能だ。どんどん成長し、変化していくこの弟と比べて、己の愚かさに耐え切れず目を覆いたくなっても。その間に友之が巣立ちの時を迎えて飛び立とうとする、その時が来たとしても。 まだ自分はこうして友之を捕まえることが出来る。 「あの…コウが練習見に来てくれたの気づいてから、あ、あの、今日……一緒にやれたら、い、いいなって…思ってたんだ…!」 友之が頬を紅潮させながらそう言った。 光一郎はそんな友之にグローブを返して、再度小さな頭をくしゃりと撫でつけてやると、「じゃあ鍛えてやる」とわざと偉そうに言って笑った。 「うん…! あ、ありがと、コウ…!」 光一郎にとってはほんの些細な発言なのに、これ以上ないほど喜びの顔で頷く友之。 もっとも、この時の光一郎が眩暈を感じることはもうなかった。 「お前は、可愛過ぎるんだよ」 そんな暇はなかったのかもしれない。光一郎は半ば理不尽な八つ当たりのような言葉をふっと呟くと、そのまま友之を強く引き寄せ、頭に荒っぽいキスをした。 食事をした後、またすぐ外へ出ることなど出来るのだろうかなどと考えながら。 |
了 |
ホントはこれ、3部後に書いた話だからノリ的には3部後のお話なんですが、
ついアメリカ行っているはずの数馬を登場させてしまったので、
無理やり3部直前くらいの話にしておきます(いい加減)。