夜のコーヒーと夜中のビール



  高校を卒業してからはめっきり話す機会も減った。それは修司が努めてこの家に寄り付かなくなったからだが。
「あと一時間早く帰ってくれば会えたのに」
  誰もいない店内。閉店後のしんとしたカウンター内で、宗司は息子である修司におっとりとした笑みを向けた。それはいつも店内で客たちに向けているものにとても近かったが、周囲がその穏やかな仏のような顔を「優しいマスター」と慕っていても、何ほどの事もない。軽い笑みであっさりかわすと、修司はカウンター席に腰をおろしながら煙草を取り出した。
「なら、早く帰ってこなくて良かった」
「あの人…木嶋(きじま)さん…だっけ。良い人そうだけど」
「ちょっと会っただけで人なんか分かんないって」
  親子である自分たちですら、お互いの事を未だ計りきれていないのに、そうやって他人にはすぐ良い顔をする。修司は昔、この宗司という父親が大嫌いだった。
  というよりは、憎んですらいた。
「親父殿は、どうにか俺を働かせようと必死だねえ?」
  ただそれも過去の話で、今は何とも思っていない。
  修司は煙草を口に咥え、いつものように持っていたマッチで火をつけると、すっと勢い良くそれを吸い込み、白い煙を吐き出した。
  それから馬鹿にしたように笑う。
「モデルなんてさ。似合わないでしょ」
「そんな事ない。結構合っていると思うぞ」
「俺ってカッコイイ?」
「おお、相当カッコイイ。さすが俺の息子なだけはあるな」
「ははっ」
  割と本気で言っているようだったので、修司は意図せず噴き出してしまった。身体を揺らした勢いで、指に挟んだ煙草から少しだけ白い灰が床に落ちる。
  実家のあるバッティングセンター「アラキ」を訪れた木嶋という人物は、都内で小さな芸能事務所を切り盛りしているという中年の女性だ。一度街中で声を掛けられてからというもの、それはもうしつこく連絡を取ってきては、「うちの事務所に入ってくれ」と言ってくる。それは当初どこか同情を誘うような懇願ですらあったが、そもそも連絡先など教えていないのに実家を割り出したり、こうして父の宗司を抱き込んだりと、やっている事はとても粘着質なので、「やはり“向こうの”住人だ」と、修司は素直に「怖い」と感じる。それに、これまでもモデルだ何だと街中で所謂スカウトされる事は多かったが、ここまで諦め悪く何度も足を運んでくるのは、木嶋の所だけだった。
  だから父の宗司もその気になっているわけだが。“どうせ定職にも就いていないのだから、一度くらいやってみたらいいじゃないか”と。
「コウ君の方がカッコイイじゃん」
  極力煙草を吸わせない為だろう、さり気なく父が出してきたコーヒーに手を掛けながら修司は言った。
「ああいう仕事って、外見だけじゃ駄目でしょう。俺も撮る方の端くれだから思うけどさ、どんなに誤魔化そうとしたって内面が滲み出るよ。多少顔がさ、見てくれイイって誉めてもらえても、性格悪いのはすぐバレる」
「ならそういう路線でやっていけばいいじゃないか」
「はぁ? 俺は性格悪いですってスタイルで? …ホントに本気なんだ、アンタ」
「木嶋さんって美人だしな」
「そこかよ」
  今度こそ鼻で嘲笑い、修司はガタリと席を立った。
  ここまでなら自分たちはまだ穏やかに、静かな親子の会話をしたまま別れる事が出来る。だからここらが潮時なのだ。
  たった今帰ってきたばかりなのに、修司は奥の階へ上がって行こうとはせず、外のドアへ向かって歩き出した。
「泊まっていかないのか」
  息子のそんな態度に宗司もしまったと思ったのだろう、どこか引きとめるような声でそう言った。以前は相当刺々しかった息子が最近はめっきり柔らかい態度になっていたから、油断もしていたに違いない。心底申し訳なさそうな声で「悪かったよ」と宗司は謝り、切羽詰まったように尚声を掛ける。
「別に、嫌なら無理にやる事はないんだ。木嶋さんには俺から断っておくし。ただ……何か始めるのもいいかと思っただけだよ」
「分かってるよ。別に怒っちゃいないから」
  ひらひらと片手を振って、修司はあくまでも平静な声で答えた。そう、別に怒ってはいない。モデルをやらないかと声が掛けられる程に身長が伸びてこの父の背丈を越えたあたり―…、そう、いつからかこの父親は修司にとって、とても小さな存在に成り果てた。自分も変わったのだろうが、父も変わった。そこから憎しみは消えたけれど、でも、ぎこちなさは消えない。
  多分、一生消えない。
「今日はさ、久々に帰ってきたから、コウ君とこに行ってくる。元々そのつもりだった」
「そうか…」
  ドアのノブに手を掛けると、チリンチリンと上方につけられている鈴が鳴った。その音を意識して聞きながら、修司はようやっと振り返って見せた。
「うん。その後、またちょっと遠出するわ。当分帰らない」





  修司が幼馴染の裕子と付き合い始めた当初、周りは正人を中心としてそれはそれは大騒ぎだったが、北川兄弟に関してだけは通常と変わった様子は見受けられなかった。
  それどころではなかったのかもしれない。何せあの兄弟はいつでも家庭内が「大変」そうだったし、兄の光一郎はともかく、弟の方は常に自分と「夕実」という存在の事でいっぱいいっぱいだった。とても周りに気持ちを砕くどころではなかったのだ。
  そしてそんな弟の心配があるから、結局光一郎の方も余裕はないわけだし。
  しかし裕子が光一郎の事を好きなのは明白だったから少しは何か言ってくるかと思ったのに、親友のあまりの無反応には修司もがっかりというか、正直呆れた。無論、何か言われてもきっとそれはそれで腹立たしかったに違いないのだけれど。
「コウくーん。遊びに来たよ。開けて」
  チャイムを鳴らさずボロアパートのドアをドンドンと拳で叩くと、中から「煩い」という声が聞こえた。思わず頬が緩む。事前に連絡を入れておいたからいるのは知っていたけれど、久しぶりに聞く親友の声が変わらないものだと、やはり嬉しいと思えた。
「どうも」
「お前、今まで何処へ行ってたんだよ」
  マスターが心配していたぞと決まり文句のような台詞を言って、ドアを開けた光一郎は心底「仕方ないな」というように眉をひそめた。
  それでも中には入れてくれるらしい。ドアを開けてから踵を返して再び中へ戻って行く親友の背を追いつつ、修司は「家ならさっき寄ってきたよ」と答えて自分も靴を脱いだ。
「一回顔見せしとけば大丈夫なの、あのオッサンは。また当分帰らないって言っといたけど、何も言わなかったし」
「言っても無駄だと思ってんだろ。……けど、心配してるのは間違いない」
「そうみたいだな。いつもどっかズレてんだけど」
「ん…?」
  テーブルの前に座った修司の含んだような言い方が気になったのか、台所でコーヒーを淹れていた光一郎が不審な声を上げた。
「なあ、トモは?」
  しかし修司はそれには答えず、狭い室内をきょろりと見回してからそう訊いた。
  いつもの定位置にちょこりと座っているはずの臆病な弟の姿がない。今日は休日で、だからこそ家にいるに違いないと思った友之の所在については確認しなかった。しかもこの時間だ、トモが夜遊びするなどありえない。2人に会えねば意味がない。修司は2人分のコーヒーを運んできた光一郎に再度「トモは?」と繰り返した。
「寝てる」
「え? ああ、そっちで? もう? 珍しいな、こんな早寝するなんてさ。何か疲れちゃったとか? ああ、あの正人君がやってる野球チームの練習か何かで―」
「熱があるんだよ」
「はぁ…?」
  何でもない事のように言う光一郎に修司は思わず顔をしかめた。まじまじと見やるが、光一郎はもうそれ以上答えない。これは何かあったのかと訝しんで、そういえば昼間の電話の時、光一郎は「今日バイト休んだから」家にいると言っていた事を思い出す。
  それは友之の熱のせいだったのか。
「何だ…。それが分かってれば何かトモの好きなもん買ってきてやったのに。今からでも行ってこようか?」
「別にいい。必要な物は足りてるから」
「何で熱出してんの。まあトモって虚弱体質だからしょっちゅう弱ってるイメージはあるけど。最近じゃあ、正人君のお陰で体力もついてきたって言ってなかったっけ?」
「………バカだからだろ」
「ん…」
「あいつは、バカなんだよ」
  あいつの考えてる事はよく分からない。光一郎は折に触れ修司にそんな愚痴を吐いていた。それは決して多くはなかったけれど、完璧だ何だと言われていても、光一郎も所詮1人の人間だと言う事だろう。鬱屈が溜まると光一郎は修司を前にぼそりと「友之が分からない」と言い、それから「面倒臭い」と酷い毒も吐いた。それは彼らの母親が健在の時からそうだったが、彼女が他界し、友之が自宅に引きこもるようになってからは余計顕著になった。
  修司はそんな人間臭い光一郎を見るのが好きだった。そんな兄を「そんな」だと思わず、必死に後を追おうともがいている友之を見るのも大好きだった。
  時々、ほんの時々だけれど、苛めてやりたい衝動にも駆られながら。
「トモ、見てきていい?」
「起こさないならな」
「だいじょーぶ。気付かれないようにちゅーしてくっから」
「お前…」
「冗談だよ、冗談」
  あははと軽く笑って修司は光一郎をかわし、隣の寝室へ足を運んだ。
  部屋の中は当然の事ながらしんとして、真っ暗で。友之が眠っているだろうベッドだけが、そこの住人の吐息によって軽い動きがあった。ゆっくりと上下している掛け布団に「生きている」事だけは確認出来たが、どうにも友之は昔から頼りない。その存在の希薄さに、時々本当にこのままこの子は死んでしまうんじゃないかと思う事もある。
  そんな時は、「苛めてやりたい」の気持ちが少し和らぐからありがたくもあったのだが。
「熱出たんだって? トモ」
  限りなく囁くような小さな声で言い、修司は友之の顔を覗きこむようにしてベッドの傍らに立った。布団を深く被っていたが、覗きこめばその顔を見る事は叶った。友之はやや荒い息の中、確かにほんのりと熱を帯びた頬をしていた。暗闇でもそれは容易に分かった。
「苦しそう」
  可哀相に思って額に手を当てる。黒々とした前髪を避けてやると、熱冷まし用のシートが額に引っ付いているのが見えた……が、何だかもう生温そうで。これは本当にぶっ倒れているんだなと実感し、ようやく修司ははっと嘆きの息を吐いた。

  嫌だな。トモが苦しそうなのは、やっぱり嫌なもんだ。

「トモ……」
  努めて優しく髪の毛を梳いてやると、苦しげに息を吐いていたその唇がふっと開いた。ハッとして目を見張ると、次に閉じられていた瞳も開かれて、友之はしっかりと修司を認めたように視線を向けてきた。
「あ…ごめん。起こしちゃったな」
  修司がそれに素直に謝ると、友之は微かに首を振るような所作を見せてから、唇だけを動かした。恐らくは「修兄」と呼んだのだろう。修司はそんな友之が愛しくて、思わずふっと笑みを漏らした。
「ただいま。それから、久しぶり」
  そう言ってまた頭を撫でると、友之はここでようやく自らも表情を緩め、嬉しそうな顔をした。このアパートに来て兄の光一郎と共に暮らすようになってからは徐々に口数も増えてきたようだが、それでも一般的には無口の類に入るのは間違いない。今は熱もあるだろうから尚更だろう。
  けれど別に友之の言葉は要らない。そう思いながら修司は傍に屈むと互いの距離を近くしてから、もう一度「トモ」と呼んで優しく語りかけた。
「どうした。熱出たって聞いて心配した。コウ君は要らないって言ってたけど、修兄ちゃん、何か買ってきてやろうか? 食べたいもんあるか?」
「いい……」
  初めて声らしい声を出して友之は再び首を緩く振った。
  それからふいと視線を部屋の向こう側へ向けるようにして、さっと表情を翳らせる。
「コウ……まだ、怒ってた?」
「ん?」
  友之の質問の意味が分からず、修司は首をかしげた。それから自分も何となく友之が向けた視線の先へ目をやり、慰めるように再度友之の髪の毛を撫でる。
「コウ兄ちゃんが? 怒ってたのか? 別に今はそんなでもないみたいだけど?」
「本当…?」
「トモの事を怒ったのか?」
  友之はどこか泣きそうな顔になりながらも、今度はこくんと頷いた。2人で暮らすようになってから未だ間もない。互いが想い合っているのは間違いないのだが、不器用な奴らだから色々と擦れ違う事も多いのだろう。
  修司は苦笑しつつ、友之のほっぺたを痛くない程度につねってみせた。
「俺もそうだけど、コウ君がトモを怒るわけないよ。トモはいつだって素直な良い子じゃん。怒る理由がない」
「僕……ちゃんと、寝なかった、から」
「ん?」
「コウのこと……いつも、待たないで眠っちゃうから……だから、働いて帰ってきてるのに、悪いから……だから、偶には、待ってようと思って……」
「この寒いのに? そんな事してっから風邪引くんだよ。……あー、だからか。だからコウ君が怒ったって、それか」
  自分のせいで友之が体調を崩したとなれば、それはあの光一郎ならきつく叱ってきそうなものだ。けれど結局はそれも互いの優しさが招いた些細な「喧嘩」ではないか。馬鹿馬鹿しい。
  修司は呆れたように肩を竦めてから、友之の額についていた熱冷まし用のシートを乱暴にびりりと剥がした。
「わっ…」
  友之がそれに意表をつかれたような声を出す。修司はそれに途端ニヤリと笑ってから、そこをピンと指で弾いた。
「痛っ」
「痛い? なら良かった。これはね、俺からのお説教。無理して夜更かししてた事を怒ったんじゃないよ。くだらない事でいつまでもいじいじしてるトモに『め!』ってしたの。それだけ」
「……修兄」
「ん?」
  もそもそと布団から片手を出してきた友之の手を、修司は何となく握った。別段甘えてきた所作ではなかっただろう。それでも修司は友之の手を離す気はなかった。
  すると友之の方もそんな修司に何を言うでもなく、今はもう全く違う雰囲気になって、開いたばかりの目をぱちぱちと何度か瞬きさせた。
  そして言った。
「今回は何処へ行ってきたの」
「ん…」
「写真、いっぱい撮った?」
「……うん。撮ったよ」
  見たい?と訊くと、友之は今にも起き上がってきそうな雰囲気を漂わせて激しく首を縦に振った。修司はそんな友之の顔を見ているだけで幸せな気持ちになってしまい、思わずおもむろに手に取った友之の指先に唇を当てた。
  そうして他の人間には決して見せない、極上の笑みを浮かべて言う。
「うん、見せてあげる。トモがちゃんと元気になったらな」
「うん…」
「約束な?」
  そう言って再び指先に軽いキスを降らすと、友之は今さら途惑ったような顔を閃かせたものの、やはり何も言わなかった。

  それから程なくして修司が光一郎のいる居間に戻ると、出されたばかりだったはずのコーヒーはもう片付けられていて、不機嫌な顔をした親友が1人でビールを飲んでいた。

「俺まだ全然飲んでなかったんだけど?」
  父親のものとまではいかずとも、光一郎の淹れるコーヒーも格段に美味い。だから楽しみにしていたのにと甘えたように唇を尖らせたが、親友はそんな修司にぴくりとも心を揺らされる事なく、開いたノートパソコンに目を落としたまま素っ気無く言った。
「お前、あんまり調子に乗るなよ」
  その声があまりにドスの利いた低いものだったので、修司は思わず身体を仰け反らせた。
「何だよ、怖いな」
「トモのこと、あんまり引っ掻き回すな」
「大丈夫だよ、俺はコウ兄ちゃんほどの影響力は持ってねえもん」
「修司―」
「トモがさ、俺の写真が見たいって」
  光一郎が手を止めて何か言ってこようとするのを制し、修司は先んじて言った。
「やっぱ撮られる方より撮る方が面白いよ。少なくとも、今の俺にはさ」
「……あぁ。まだ声掛けてくんのか。木嶋さん、だっけ」
「何でコウ君まで知ってんの」
  少しだけ驚いて聞き返すと、光一郎は軽く肩を竦めて、傍のサイドボードから1枚の名刺を引っ張り出してきた。
「俺の所にも来たから」
「マジで? ならコウ君に乗り換えてくれたのかな、あの人」
「は? 何言ってんだ、違う。お前を説得してくれって言いにきたんだ。お前がここによく来る事も調べてたみたいだぞ」
  光一郎の迷惑そうな顔に、修司はきょとんとして黙り込む。
  それから思わず胡散臭そうな顔になり、妙なものを見るように光一郎の顔を仰ぎ見た。
「何であの人、コウ君には声掛けなかったの? こんな色男を前にして」
「お前がいいってさ」
「何で」
  修司が心底分からないという風にまくしたてると、光一郎はようやく不機嫌だった空気をさらりと変えて、少しだけ笑むように目を細めた。
「お前のその、性格の悪そうなところがいいんだとさ」
「はあ?」
「よく分かってんのな」
「……あぁむかついた。ぜってぇ引き受けねー」
「ははっ」
  光一郎が楽しそうに笑った。修司はそれに暫しむくれたような顔をしてみせたけれど、それでもやっぱり自分も「ふっ」と笑ってしまった。

  それから、コーヒーはもう出してもらえなかったけれどビールを一缶貰ったので、修司は光一郎とそれを飲んで夜を明かした。これを飲んだらまた明日から遠出だ。友之の喜ぶ写真をまた撮って、そして気が向いたらここへ帰ってくる。それはとても素晴らしい事のように思えた。
  修司は唇に残った苦いコーヒーとビールと、そして友之の指先の感触を思い出しながら、ゆるりとした想いで窓の外へと目をやった。






戻る