そもそも初めから癇に障っていたのだ。あの男の口の端に全く予期せぬ者の存在が上ったこと。

「あれには手を出すな。我の獲物よ」

  周りの愚かな家臣たちはそう発した「主」の表情だけで凍りつき、慄き、頭を垂れていた。いつもとは明らかに違う波動。それは退屈で退屈で仕方がなかった破壊の王が珍しく見せた、殺気を込めた中にも悦びの入り混じった異様な姿だった。
「妙な色気を出されても困りますねえ…」
  明智は表情にこそ出さなかったが、不愉快だった。
  主の織田信長は以前から明智が「最後のメインディッシュ」として取っておいた至上のご馳走である。あの男の事はとことんまで美味になったと感じるまでは好きに泳がせ、彼の者が天下という名の頂に上りきる寸前で捕食する…そういう計画だった。絶望と怒りに塗れた魔王の姿はさぞかし絶品であろう。
  その姿を眺められる時がもうすぐそこに来ていたはずなのに。

「フン…。片目の竜か…面白い……」

  ぽつりと呟いた信長の背中を明智はカッと見開いた瞳の中にしっかりと捉えた。
  おかしい。この男はこんな声を出したりはしない。こんな楽しそうな空気を纏ったりはしない。たとえ最後にはその男を殺すつもりだとしても、こんな風に誰かと対等に渡り合おう、戦いたいだなどと欲する様は自分が望むべき魔王のそれではない。

  片目の竜? 何と目障りで不快な存在か!

「光秀。何処へ行くつもり」
「……帰蝶。貴女こそどうしたのです、このような時刻に一人で」
  ぴんと張り詰めたよく通るその美声に明智がゆるりと振り返ると、そこには魔王の正妻である濃姫がいた。
  この女は明智にとってとても不思議な存在で、明智が信長に対し不穏な考えを抱いている時には必ず何処からともなく現れて、そして隙のない牽制をしてくる。
  月の見えない今日この夜も、濃姫はそうして明智が魔王の居城を一人抜け出した所へ声を掛けてきたのだった。
「お前が外へ行くのが見えたのでね。何処へ行くのかと訊いている」
「さて…。ここにいては美しい月華が拝めないので、少しばかりその夢が叶う場所へ足を運ぼうと思いましてね…」
「外へ行く事は許さないわよ」
  明智のふざけたような言い方にも眉一つ動かさずに濃は言った。
「お前は先だって西の独断遠征で失態を犯し、上様からお叱りを受けたばかり。これ以上の勝手な行動はこの私が許さない」
「おやおや…。今回の件は私自ら既に信長様にはお話をし、御赦しも頂いたはずですが」
  濃のきついその糾弾を、明智は何程の事もないという風に退けた。

  信長が甲斐の武田を攻めて以降、まるで動きがない事が気に食わなかった。

  常に血と裂かれた肉を求める明智には、今の状況は物足りない。
  だから急かす意味も込めて西の偵察を命じられたのを良い事に、先日明智は勝手に軍を動かし、中国の毛利に奇襲を仕掛けたのだった。仕込んでいた喇叭の話では毛利の大将・元就は何処ぞへ姿を消しており、加えて数週間前の四国・長曾我部軍との戦いで疲弊している今は中国を叩く絶好の好機との知らせも受けていた。それなりに勝算の伴った戦だった。正直、中国には何の興味もなかったし、多少旨味のありそうな元就も不在ではそれ程魅力のある戦いでもなかったが、暇潰しには丁度良いと思われた。
  しかし形勢は思わぬ不利を強いられた。

「毛利軍に挟み打ちを受けました! こ、後方から…2万の援軍ッ!」

  部隊が先頭の明智にそれを知らせに来た時には既に戦は始まっていた。
  行方の知れないとされていた元就も健在で、おまけに四国からは中国とは宿敵だったはずの長曾我部元親、そして九州からはザビー軍が参戦し、毛利軍の援護射撃をしてきたのだ。さしもの明智軍もひとたまりもなかった。
  敗軍の将として帰還した明智が信長から死を言い渡される事は明白であろうと思われた。
  しかし。

「光秀。貴様にはまだ働いてもらわねばならん。……暫し生きる事を赦す」 

  信長はそう言い、明智の罪を不問に付した。
  それが次に来る大きな戦い…武田や徳川、上杉などの東の軍勢は元より、以前に信長が口にしていた独眼竜伊達政宗との戦を示している事は間違いなかった。
「帰蝶…」
  明智はこれまでの事をひとしきり回想し終えるとふと唇に笑みを湛え、言った。
「私がこのように生かされているのは、信長様があの独眼竜との再戦を果たす為の手駒として未だ必要だからでしょう」
「……分かっているのなら大人しくしていなさい」
「面白くありません」
「何…」
  濃姫がすっと目を細めるのを明智はくるりと踵を返し、視界から消した。
「そのような扱われ方には納得いきませんねえ…。信長様の願いを叶えて差し上げる事は私の至上の悦びですが…。少々この胸がね…むかつくんですよ」
「光秀…お前何を考えている」
「これが嫉妬というやつなんでしょうか」
「………」
  明智がくっくと低く笑ってそう言うのに濃は今度は答えなかった。
  ただ、その代わり明智の行く先が完全に分かると、今度はそれを止めようともしなかった。濃としては明智がどのような動機で信長に逆らおうとも、邪魔な独眼竜を殺しに行くとなればそれを引き止める必要はないと考えたのかもしれない。たとえそれが信長の意思に背く事でも、彼女にとっては信長が生きて天下を取る事、それがまず重要なのだから。
「くくくく…。独眼竜……まずは私と遊んでもらいましょうか…? 貴方が本当に信長公の眼に留まるに値する人物か……」
  明智はぺろりと赤い舌で己の唇を舐め、手にした鎌をひゅっと軽く一振りした。


  私が貴方を診て差し上げます。美味しく喰らってあげますよ。



中編へ続く…



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