に惑う子ども



  蘭丸が周囲の物々しい雰囲気に気がついたのはごく最近の事だ。西方へ戦へ出た明智の別動隊から何の連絡も入ってこないという、それだけでここまで空気が変わるわけもない。確かに主である信長の機嫌はそれのせいで果てしなく悪かったが、蘭丸が城中の様子を不審に感じた一番の原因は信長の正妻・濃姫のどことなく浮かない表情にあった。
「ねえ濃姫様ぁ。どうしたんですか? 最近元気ないですよねえ?」
  戦場では魔王の子とまで呼ばれ一目置かれるようになった蘭丸も、殊、政事では未だ蚊屋の外だ。いつでも楽しく談笑してくれる濃姫とてその扱いは他と変わらず、こうして訊ねても期待する答えが返ってこないだろう事は分かっていた。
「蘭丸君…。いいえ、何でもないのよ」
「………」
  やっぱりだ。蘭丸はあからさま頬を膨らませて不満気な顔を見せた。
「何でもないわけないでしょッ。周りの奴らもどっか様子おかしいし。どうして蘭丸にだけ秘密なんですか? 俺だって織田軍の一員なのに!」
「それは勿論よ。何も貴方を仲間外れにする気なんかないわ」
  信長と濃姫の間にはまだ子どもがいない。
  そのせいだろうか、第六征天魔王と呼ばれる信長もそしてこの濃姫も、この蘭丸には大概甘い。勿論、信長の方はそんな態度を億尾にも出しはしないが、蘭丸がこうして自由奔放に言葉を発せられるのも露骨に不満な態度を表明出来るのも、全ては信長とこの濃姫が蘭丸を「放し飼い」にしているからだ。
  そしてここでも濃姫は困ったように苦笑しながらぶうぶうと口を尖らせる蘭丸の頭を優しく撫でた。
「蘭丸君に話すと上総之介様にも気づかれてしまうでしょ」
「はあ? 何ですかそれっ」
「蘭丸君が話さなくても顔に出てしまうもの。だから言えなかったの」
「そんなの! ずるい! 大体、ここまで聞いちゃったら俺、気になって濃姫様が言わなくても他の奴縛り上げて調べますよ!? 最近絶対おかしいんだ、この城の中。どいつもこいつも妙に辛気臭くてさあ!」
「そうね…」
「……?」
  濃姫のどこか上の空な返事と、自分を見ようとしない遠くへの視線に蘭丸はおやと思い、口を閉ざした。やはり何かあるのだ。最近は腹心であるはずの明智の動向が不穏で「まさか謀反を企てているのでは」という実しやかな噂が流れており、ただでさえ信長の周囲は慌しかった。また、先だって行われた武田軍との戦では、その結果こそ織田の一応の勝利で幕を閉じたものの、肝心の大将・武田信玄もその懐刀である真田幸村も討ち取る事は出来なかった。おまけにその際、武田の援軍…でもないのだろうが、奥州の伊達軍が戦の終わりに突如介入してきて、信長はそこの大将である伊達政宗と一騎打ちをして腕に大怪我を負ってしまった。勝負も引き分け、途中その戦いに合いの手を入れた蘭丸達などは後に信長から大いなる叱責も受けた。
  あれから信長に対する絶対的脅威が揺らいだのは間違いない。現在、織田軍は如何に呑気な蘭丸でさえも感じる、嘗てない危機に直面していた。
  そんな状況下でこの大好きな濃姫の浮かない顔。蘭丸は黙っていられなかった。
「濃姫様。蘭丸だって協力したいんです。何があったんですか、言って下さい!」
「…蘭丸君」
「信長様にご心配御掛けしたくないからって濃姫様ばっかり背負う事ないですよ。蘭丸にだってお手伝い出来ます!」
「……この問題は戦とは違うの」
「濃姫様…?」
「蘭丸君」
  けれど濃姫も蘭丸の決意を肌で感じ取ったのだろう、すっと身体を屈めると蘭丸と視線をあわせるようにして、彼女は彼の耳元に小さく威厳のある声で囁いた。
「いい? 今から言う事は決して誰にも他言してはいけません。この約束…守れるわね?」
「……はい」
  ごくりと唾を飲み込んだ蘭丸は、しかししっかと頷いた。
  すると濃姫は更に顔を近づけると蘭丸に先刻よりも低い声でこう言った。
「前田家に……謀反の疑いが掛けられているの」
「えっ…」
  思わず大声を上げそうになるところを蘭丸は慌てて口を押さえ、必死に堪えた。驚愕に満ちた目だけを向けると、濃姫は一瞬苦しそうな目を見せた後、再び姿勢を正した。
「まだ何の証拠もないわ。そういう話が一部の者たちの間にあるだけ」
「ど、どうして…。だって…」
  蘭丸も前田家の夫婦、利家とまつの事はよく知っている。それどころか、戦が始まる少し前までは暇さえあれば彼らの所へ遊びに行って、まつがこしらえた美味しい食事を好きなだけご馳走してもらっていたのだ。
  彼らは良い人だ。しかも信長に絶対の忠誠を誓っていて、濃姫の信頼も厚い。明智とは違い、後ろ暗いところなど何も感じられない真っ直ぐな者たちだ。そんなバカな事、あるわけがない。
「そんなの…織田軍の中を掻き回そうっていう、刺客か何かが放った嘘ですよ」
「そうだと良いわね…」
「そうに決まってますよ! 濃姫様、あいつらの事疑ってるんですか?」
「……私が信じているのは上総之介様だけ」
「!」
「彼らの事は他の者を遣って探らせているわ。蘭丸君はいつも通りにしていてくれればいい。いいわね」
「……でもっ。ど、どうしてそんな疑いが…!」
  蘭丸が去って行こうとする濃姫の背中に慌てて声を掛けると、彼女はちらと振り返って抑揚のある声で答えた。
「利家とまつが奥州の伊達政宗と何度か会っているという報告があったからよ」
「伊達政宗!」
  蘭丸はぎくりとしてその名前を口にしたが、濃姫はもう立ち止まらずに行ってしまった。
「………」
  その場に取り残された蘭丸は暫しボー然とした後、ぎりと唇を噛み締めて、あの、以前は遠目でしか見る事が叶わなかった片目の蒼い男の姿を頭に思い浮かべた。

  あいつのせいでこの間だって信長様が怪我をした。
  あいつのせいでこの間は俺も濃姫様も信長様から怒られた。
  今度は、あいつのせいで利家たちが疑われている。

「あの野郎…!」
  蘭丸はがつりと背中に掛けていた弓矢を手にすると、不意に怒りの感情をその瞳に宿らせ、そのままの勢いでだっと城を飛び出した。

  コロシテシマエバイイ、アンナヤツ。

「蘭丸がやっつけてやる…!」
  以前、信長から命じられた「あの男には手を出すな」というその言葉も、この時の蘭丸の頭の中には綺麗さっぱり消えてなくなっていた。





  蘭丸が初めて信長と出会ったのはある戦場の荒廃した平原でだった。そこで颯爽と独り馬を駆る姿が誰よりも格好良くて誰よりも恐ろしくて…。
  一生ついていこうとその時固く心に決めた。
  自分の直感はいつでも正しい。信長はあの時感じた通り、誰にも屈しない力を持ち、この国の中で誰よりも天下統一の野望に近い男だった。認めてもらいたくて弓の腕を磨き、今では一軍を任せられる程にもなった。濃姫にも「大人っぽくなったわね」と誉めてもらったばかりである。これからも誰よりも信長の為に働き、力添えをしたい。その為にも、少しでも邪魔な存在はこの手で早々に断ち切ってやる必要がある。
  蘭丸はひたすら走った。奥州へ向け、伊達政宗の元へ。
  そうして何日の間そうして走り続けていたのか。思えば信長に下るまでは独りふらふらとどんな所にも行っていた蘭丸だが、夜になり朝を迎え、また再び夜を迎えて…という事を繰り返すうちに、今までに感じた事のない心細さを抱き始めた。織田軍に入って人の温もりを知ってしまったからだろうか、集団を離れたった1人で決断し事を成す重大性を思考が冷静になる毎実感していく。思えば誰にも何を言うでもなく勝手に城を飛び出てしまった。信長も濃姫も心配しているかもしれない。否、心配しているならば良いが、もしかすると酷く怒っているかもしれない。ただでさえ謀反の噂が明智、前田と出ているところへ自分の失踪だ。今度は「森蘭丸が謀反を起こすのでは」とよからぬ噂が流れる事も考えられる。
「やべえ…。どうしよう…」 
  かと言って今さら引き返すのも躊躇われた。まだ目的を達していないのだ。蘭丸は真っ暗な山中で途端蒼白になる自分を意識し、足を竦ませた。暗闇が怖いのではない、信長に呆れられ、見捨てられるのが恐ろしかった。
  けれどその時。
「うわあああ…ッ!」
「ぎゃああ…!」
  前方を少し行った辺りから突然男たちの悲鳴のようなものが聞こえてきた。ぎくりとして身構えるが、声は次々と四方八方から聞こえてくる。10人、20人…それ以上か。とにかく大勢の争う声だ。刀の擦れ合う音や銃の発砲音まで聞こえる。
「戦…!?」
  こんな夜中に?
  しかもこんな至近距離になるまで気づかなかったなんて、そんなバカな。
「ちっ…」
  蘭丸は瞬時ぐるりと自分の周りを見渡し、怪しげな姿が近づいていないかを確認して姿勢を低くした。耳は良い方だし鼻も利くのにどうして分からなかったのだろう。状況が見えない。戦にしてもおかしい。ドキドキと早まる心臓音を聞きながら、蘭丸は背中の弓を構えようとすっと音を立てないよう気を配りつつ片手を挙げた。
「動くな」
「……ッ」
  けれど戦闘態勢を取るのが一瞬遅かった。
「な…」
「振り返るな。声を出すな。少しでも動けば殺す」
「………」
  たらりと冷や汗が流れた。背後の男は当然だが蘭丸よりも断然背が高い。上から見下ろすように冷たい声を発したその人物が、自分の首元に己の刀を当てているのが分かった。すぐ近くに刃を感じる。恐らく男の言う事は本当で、少しでも妙な動きを取れば一瞬のうちに首を刎ねられるだろうと思った。
「……いい獲物だな」
  男の低い声が蘭丸に向かってそう言った。
  何の事かと訝しんだが、背中の弓―蒼雷神―の事だとはやがて理解した。それは前々回の戦の後、信長から褒美として貰ったもので、蘭丸の宝物だ。…前回の戦では褒美は貰えなかった。主の許可なく信長と政宗との一騎打ちを邪魔したからだ。

  だって心配だったんだ。信長様がもし殺されちゃったら…って。

  勿論それが絶対的に信頼している信長に対して抱いて良い感情でない事は蘭丸にも分かっていた。けれどあの時は咄嗟にそう思ったから弓を放ってしまった。この蒼雷神はどんなに遠くの敵でも激しい雷の矢を降り注ぐ。きっとあの伊達政宗にも一矢報いたに違いない。
「ガキが持つには荷が勝ちすぎだ。……捨てていけば見逃してやるが」
「……っ」
  ふざけるなと怒鳴りかけて、けれど蘭丸はいからせた肩先に再び刀の刃が当たるのを感じてぴたりと静止した。男は微か笑っているようではあったが、恐ろしい程の殺気を絶えず蘭丸に向け続けている。
  本当に殺す気なのだと思った。
  否、この男はたとえ自分がここで弓を捨てると言っても結局は斬るつもりだと感じた。
「どうした。何を考えている?」
「………」
  男は蘭丸のその察しに勘付いたようだ。ふっと背後で笑みを零すと、面白いものを見るように微か身じろぐ。
  そして言った。
「特別に口を動かす事を許してやる。今、何考えてた。言ってみろ」
「………」
「言わなきゃ今すぐ斬る」
「ど、どうせ…っ」

  どうしよう、怖い。

  自然がくがくと震えてきた蘭丸は、そんな自分が悔しくて情けなくてじわりと目じりに涙を浮かべた。こんな自分は嫌だ。こんなのはみっともない。いつ死んでも良いと思っていたし、信長の為ならば誰にどんな殺気を向けられたって絶対に平気だと思っていた。現に、今までは平気だった。どんな戦場でも笑っていた。どんな人間にも何の感情もなくどんどん殺せた。
  それなのにどうして。
  何故、どうして、このたった一人の男に刃を向けられているだけで足が震えるのか、恐ろしいのか……蘭丸には分からなかった。



後編へ続く…



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