佐助の



「ハア、もう。だーんなッ!」
 何度呼んでも返事をしない主にため息をつきつつ、佐助は吊り下がっていた大木から飛び降りた。
「………佐助か」
 目の前に現れた従者の姿に、ようやくその主―幸村は声を出し、顔を上げた。
「……もう」
 けれどその顔に覇気はない。応えはしたものの、佐助からもすぐに視線を逸らしてしまう。
「はぁーあ。参ったね、どうにも」
 佐助はそんな幸村に大袈裟にかぶりを振ってみせたが、やがて諦めたように本題を口にした。
「旦那、大将が呼んでる。それから、俺サマお仕事で暫く留守するから。俺がいなくてもちゃんとご飯食べて布団で寝てよねッ」
「……お館様が。佐助、お前はどこへ…?」
 普段と違う空気を感じ取ったのだろう、さすがにそう訊ねてくる幸村に佐助は心持ちほっとして笑みを落とした。
 このところこの主は口を開けば「政宗殿」だったから、殊によると従者である自分は勿論、信玄公の事すら頭から消し去ってしまったのではと心配していたのだ。
「また最近周辺が騒がしいからね。俺サマはいつもよりも範囲を広げた偵察。ダンナが呼ばれたのは………準備の事だと思うよ」
「準備…」
「戦のさ」
 佐助が窺い見るようにそう言うと、幸村は最初こそびくんと肩を動かしたものの、やがて厳しい顔でぐっと唇を噛み、拳を作った。

 そうだよね。ダンナだって分かってたよね。

 佐助は幸村の覚悟と悲愴が入り混じったような顔を暫くは黙って眺めていたが、やがていつもの能天気な声を出して再び背後の大木へ飛び移った。
「まぁ、さ。前回の魔王戦での傷も癒えてきてるし。肝心の魔王は魔王で、今は内輪揉めを抑えるのに躍起になってるみたいだから。何とかなるって」
「内輪揉め? 織田は前田と何かあったのか?」
「あー、違う違う。浅井の方。あと、徳川の方も一旦は織田に組する姿勢を見せていたのに、今は動きが怪しいらしいし? ま、あのやり方じゃ周囲に敵を作るのも頷けるってね」
 だから今回の佐助の任務はその不穏な動きを見せる織田の周辺を探る事。
 それによって今後の戦況を見定めるのは勿論、織田を叩く好機が見つけられればというのが信玄公の想うところであろう。
 東には宿敵上杉軍や、最近軍備を強化しつつある伊達軍も控えている。織田だけに気を向けているわけにもいかないが、それでも当面構えを強くし警戒しておくべきは魔王軍と言えた。
「あと、これは噂だけど。最近《打倒・魔王》を掲げて立ち上がった新勢力が出て来たらしくってさ。まだほんの小さな集まりだからってどこもそれほど重要視はしてないみたいだけど」
「新勢力」
「豊臣って言ったかなぁ?」
 佐助は信玄との話を思い浮かべながら何となくその聞いた名を挙げ、それからすぐにそれを打ち消すと改めてぼうと立ち尽くしている幸村に声を掛けた。
「とにかく、ダンナは余計な事考えなくていいよ。考えるのは大将の仕事、情報を集めるのは俺サマの仕事。ダンナは―」
「分かっている」
「………」
「俺の仕事は―…お館様の敵と、戦う事だ」
「……そだね」
 佐助は幸村の凛としたその声を酷く複雑な想いで聞きながらも…頷いた。

 その相手が独眼竜でも、ダンナはそう割り切って戦えるの?

 そんな事を頭に思い浮かべながら。





「こ…の、馬鹿者があぁ―ッ!!!」
「ぐあッ…!」
 城へ上がった幸村は信玄と合い間見えた早々、突然の「愛の鉄拳」を喰らって吹っ飛び、大広間の屏風を突き破った。
「女々しいぞ、幸村!」
(あちゃ…やっぱり見に来なけりゃ、良かったね)
 その様子を忍宜しく天井裏から覗き見ていた佐助は、自分自身がその痛みを喰らったような顔をして片目を瞑った。十勇士を先発隊に赴かせ、自分だけこんな風にしているのは気が引けたが、やはりどうしても幸村の事が気になった。
 そんな心配性の佐助を他所に、甲斐を治める大虎・武田信玄は、広間の真正面に仁王立ちして実に厳かな声を放った。
「幸村よ……。貴様の腑抜けぶり、佐助からもよう聞いておるぞ」
「お…お館様…」
 殴られた口許を片手で抑えながら幸村が慌てて体勢を整えると、信玄はふうと大きく息を吐き出し、おもむろにさっと片手を挙げた。
 それによって傍に控えていた他の重鎮たちがその場からさっと引いていく。人払いだ。
「幸村…」
 そうして信玄は二人きりになった広間でようやくどっかと腰をおろすと、先刻の荒い気配を消し、すうと目を細めた。
「否。佐助から聞かずとも、誰の眼にも明らかよ…。今の真田幸村に魂なし。その己が抜けた心を再びその身に戻す気がないのなら、今すぐこの甲斐より去れ」
「お、お館様っ…!」
「黙れ」
 ハッとして何かを継ごうとする幸村をぴしゃりと制し、信玄はゆっくりと腕を組み、大きな口を真一文字に引き結んだ。
 そしてややあってから再びその口を開く。
「竜の小童との事、これまで黙認していた儂にも責はある。だがな幸村。儂は嬉しかったのじゃ。お前が甲斐や儂という枠から抜け、ただ純粋に己の力を振るう様を見るのがな…。あれと接する事によって明らかにお前の世界は広がった。違うか」
「……はい」
 幸村は項垂れたまま顔を上げない。しかしそれをらしくないと佐助が渋面を作るのを見計らったかのように、幸村は不意に姿勢を正すとその場にきちんと正座をし、真っ直ぐに信玄へと視線をやった。
「お館様。この幸村自身、分からないのでございます。何故、このように苦しいのか」
「苦しいとな」
「はい。……政宗殿は一国の主。奥州を束ね、やがては天下を獲ろうと考えておられる、我が甲斐にとって敵となる御方にございます。ですが…本当に、楽しかったのでございます。政宗殿と、我が槍を持って対峙すること」
 信玄の沈黙が痛くないわけはないだろうに、それでも幸村は後を続けた。
「楽しかったのでございます! 政宗殿と、共にいること…!」
「……あれもそう思うたからこそ、お前を己が領地に招いていたのであろうよ」
「ですが、もう…会っては頂けません」
 悔しそうに唇を噛む幸村に、信玄はまるで我が子を見つめるような眼差しを向けた。それに気づいていたのは佐助だけだったが。
「幸村よ。それもまた、いずれは訪れることであると…分かっていた事ではないのか」
「分かっているつもりでした……。ですが、分かっていなかったのです」
 幸村は吐き出すようにそう言うと、膝の上の拳を更に強く握り締めた。
「政宗殿の突然の変わり様に納得がいかなかった…ッ。つい先だってまではいつも笑って迎えていて下さったのです! それが今は…! 今は、こちらを見ようとも―…!」
「それが苦しいのか」
「何故なのでございますか、お館様ッ!」
「………」
「何故幸村はこのように苦しいのでしょうかッ。戦が近づいているのが分かるっ。甲斐の為、お館様の為、天下泰平の世の為に、この幸村はこのような心持ちでいる場合ではないッ。分かっているのです! なのに、何故…!」
 悲痛な幸村の叫びに佐助は「聞いてらんない」とまず思った。
 そしてため息をつかずにはおれなかった。

 分かっているくせに。もう分かってるから、だから辛いんじゃないの、ダンナ?

「佐助」
「……!」
 その時、名前を呼ばれたと思うや否や耳をつんざくような音―天井板を貫く槍の震動―で、佐助は思い切り意表をつかれ、硬い天板に頭をしこたまぶつけた。
 そしてその勢いのまま、転げるように二人のいる広間へと下り立った。
「いっちちち…。酷いな、大将。気づいていたのならもうちょっと優しく呼んでくれませんか?」
「儂がおぬしに命じた事は盗み聞きだったか」
「……すみません。真田のダンナが心配だったもんで」
「佐助」
 天井から降りて…否、落ちてきた従者の声に幸村は目を見張ったようになったが、すぐにがくりと項垂れ、信玄に頭を垂れた。
「も、申し訳ございません、お館様…。佐助のした事、全てはこの幸村の責にございます」
「分かっておる。情けない主を持つと苦労するな、佐助よ」
「分かってくれますか、さすが大将」
「佐助、奥州へ行け」
「へ…?」
「お、お館様…!?」
 突然の信玄の言葉に佐助は勿論、これには幸村もぎくりとして青褪めた。
 しかしそんな二人に構う事なく信玄は唐突に続けた。
「思えば先の団子大会の折、あやつの用意した団子を食し過ぎたせいで儂は半日ほど胃もたれで苦しんでのう。あの時の借りはいつ返してくれるのだと言うてこい」
「は、はいぃ…?」
「そしてこれも、持っていけい」
 あまりに突然な展開についていけない佐助をよそに、信玄は実は一方でこんな事もあろうかと予測していたのかもしれない、懐から一通の書状を突き出してきた。
 そしてそれを寄越したまま何も言わない信玄に、佐助は自分などが目を通して良いものかと思いながらもさっとその綴られた文を追った。
 直後、呟いた。
「……これを?」
 幸村は何が何やら分からずオロオロとしていたが、佐助は信玄の顔を見上げ、「いいんですか」と呆れたように聞き返した。
「これなら。こういう類のものなら、俺じゃなく、きちんとした使者を立てた方が」
「今、こちらの動きを他国に知られたくはない。竜の小倅の出方も分からん」
「はあ…。しかし、嫌ですねえ。俺、忍び込んで殺されたりはしないですよね? 最近、あの人ホント殺気立ってるから」
「さあのう。危くなったら逃げて参れ」
「そ、そんな〜」
 そ知らぬ風でそんな事を言う信玄に、佐助は心底がくりと項垂れ愚痴を零した。
 この書状をもし政宗が読み、そして承諾したのなら。
 確かにそれは幸村にとっては良い事であろうと思う。
 けれど、もし「それ」に失敗したら?
「はあ…結局」

 やっぱり貧乏くじを引くのは自分なのだ。
 それが忍びの役目とはいえ、ああでもやっぱり酷い。

「でもま、仕方ないですね」
 ちらと幸村の顔を見て、佐助は苦笑した。
 先に与えられた周辺偵察の任務よりは確かにやり甲斐があるというものだ。何せ余計な戦は避けられるかもしれない上、落ち込み絶頂の主・幸村の役に立つかもしれないのだから。
「それじゃ、ちょっくら行ってきます!」
 佐助はいつものその声を出すと、すぐさま飛び立ち、甲斐を後にした。

 目指すは竜のいる国、奥州である。



<後編へ続く…>



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