―2―



  別れても良いだなんて、そこまで言うつもりはなかった。
(やってしまった……)
  陽一自身、何故あそこまで言ってしまったのか分からない。らしくない。自分というものを然程理解しているわけではないが、それにしたって、葉山のああした「ひどい」言動など、いつもだったら怒りつつも最終的には受け入れて許すのに。それで葉山の方も「言い過ぎた」と反省して謝ってきて。
  そうして「いつもの」喧嘩は終わったはずだ。いつもなら。
(結局、海外なんて普段と違う所へ来ちゃったのが悪いんだ。だから俺も変なテンションになって行き過ぎた…)
  確かに、やたらめったら浮気を疑われたのには腹が立ったし、置いてきぼりを喰ったと思っていたのに、その様子を黙って見られていたというのにも、大概趣味が悪いと呆れた。
  しかし相手は葉山なのだし、見ていたのだって、別段本人が言うように本気で「放置してやれと思った」わけではないだろう……多分。
  冷静な今なら、陽一としても色々な部分で相手のことを思いやりながらそういう風に考えられる、けれど。
(本当に、ついってやつだ。つい、言っちゃったんだ。下手な挑発に乗ったって言うか……でも、さすがに“付き合うのやめる?”はなかったよな。そんなこと、全然望んでもいないのに)
  陽一はうじうじした後悔にどっぷりと浸りながら、隣に座る葉山をちらりと見やった。
  ホテルへ向かうバスの中で、葉山は一見平静とした様子である。陽一が「別れてもいい」という言葉を口にした時は、見るからに血の気を引かせて、ともすればヒステリックに怒鳴るか叫ぶかしそうな、本当に今にも壊れそうな顔をしていて……だから陽一も、すぐさま「しまった」と思い、慌てて「今のは言い過ぎた」と訂正しようとしたのだ。
  それなのに。

  “分かった。浅見がいいなら、俺もそれでいい。”

  葉山は何とも読み難い無表情でそう言い切った。
(あれからは完全に“普通”だ…。いや、普通とは言えないかもしれないけど…見た感じは一応、いつもの葉山…)
  隣に居心地の悪いものを感じるのは、ただ自分が意識し過ぎているからだと、陽一にも自覚がある。
  別れを了承した後、葉山はどこか茶化すように、「日本に帰るまで気まずいのは嫌だから、今までのことは一旦なしで、お互い普通にしてようぜ」と、持ちかけた。
(何だよ、“普通”って。お互い普通にしてようって、つまりどういうことだよ? あんな言い合いの後で、そんなの“普通に無理”だろ?)
  陽一の「頭の中」の愚痴は止まらない。
  もっとも、葉山のその提案のお陰で陽一はバスに乗れたし、ホテルにも帰れるわけだ。帰国予定日までまだ3日もあるのに、その間はどうなるのだと思わないでもないけれど、少なくとも、海外旅行における当面の「危機」は免れた。
  違う意味での危険ならあるけれど。
  無事にホテルへ着いた時には、もう昼近くになっていた。
  見慣れた建物を見て安心したのか、陽一は途端空腹を感じた。思えば昨晩から今まで、まともな食事を一切取っていない。
「浅見、腹減ったんじゃない」
  すると見越したように葉山がそう言った。陽一は「え」と面喰らった。バスの中で一言も話しかけられなかったというのもあるが、やっぱりその声かけがいかにも「普通」だったから。俺たち、ついさっきまで喧嘩してたんだよな、しかも別れ話まで出してしまうくらいの。――そう、咄嗟に思うは思ったのだけれど、あまりに葉山が自然だから、陽一もつい「うん」と頷き、「ちょっと空いたかも」と正直に答えてしまった。
「今帰ってきたばっかで、これから遠出するのは疲れるだろ? 隣にカフェあったから、そこ行かない?」
「…うん」
「それとも、何か食べたい物ある?」
「い、いいよ、別に。何か食べられるなら、それで!」
  折角の海外旅行だ、この国の名物なり名のあるレストランなり、出発直前のテンションであったなら何らか希望を述べたかもしれない。最初こそ乗り気でなかった旅行だが、姉の光が何だかんだと土産の注文をつけてきたり、わざわざ観光ブックを買ってきて、この店のこれを食べて来いとか、この郷土料理が美味しそうだとか煩くて、否応もなく予備情報も貯まっていったから、自然興味も上がっていた。
  だから空港で葉山の不機嫌丸出しの姿を見なかったら、きっと陽一はそのテンションのまま、きっとあれこれ多弁にリクエストしたはずである。
  しかし当然、今はそんな気分にはなれない。
  葉山も特別無理に訊き出すでもなく、2人はそのまま隣のカフェへ向かった。
  ホテルの隣にある店なだけあって英語も通じるし、入りやすい雰囲気の店で解放感があった。陽一はそこで無難にサンドウィッチとコーヒーを頼み、自分と同じ物を注文した葉山を、改めてこっそりと見やった。
  互いに向き合ってはいるが、葉山は陽一を見ていない。外の通りをぼんやり眺めたまま、やがて運ばれてきた食事にも手をつけず、見るからに憔悴している。それで陽一が思い余って声を掛ければ、ハッと我には返るものの、突然まくしたてるように周辺の見所などを話し始めて、「午後、どこか行く?」などと言うものだから、陽一はすっかり参ってしまった。
「あのさ、それより」
  こんな居た堪れない雰囲気でどこか見るも何もない。
  陽一はいよいよ、「ここはしっかり話し合わなければ」と覚悟を決めて姿勢を正した。葉山が無理をしているのは明らかだったし、こんな状態をあと3日も続けられるわけがない。もう先に折れるとか折れないとかどうでもいい、さっさと仲直りしよう、そうしたいと陽一は逸った。
「出ようぜ」
「え」
  ところが葉山は陽一が話し出そうとするのを察知すると、あからさまそれを忌避するように席を立った。しかも陽一がそれを制止する前に会計も済ませ、1人でさっさとホテルへ戻ってしまったのだ。
「ちょっと、葉山」
  陽一はその後を追うので精一杯だ。葉山はそんな陽一を一瞬だけ振り返り見たが、部屋へ戻ったら戻ったで、「何か、悪いんだけどさ」と見えないシャッターをガシャンと下ろして唐突に言った。
「俺、ちょっと具合悪いみたいだから、寝るわ」
「え?」
「夕飯になったら起こしてよ。多分、寝不足なせいだな。浅見もそうだろ」
「そりゃ…」
  昨晩は葉山が寝かせてくれなかったから寝不足は寝不足だ。今朝だって無理やり起こされて朝市へなど行ったのだし、疲れているのは間違いない。
  しかし今はちっとも眠くないし、具合だって、違う意味でなら悪いに決まっているが、体調不良ということはない。葉山とてそんな陽一と同じに決まっているのだ。それこそ、今から2人で満足な話し合いが出来さえすれば、その体調不良とやらもすぐに治ってしまう類のものに違いないのに。
  それでも葉山は陽一と話をする気はないようだった。顔を洗って上着を脱ぎ捨てると、早々にベッドへ潜りこんでしまい、背中を向けたきり微動だにしなくなった。
  陽一はそんな葉山の背を見つめながら、暫し部屋の中央で固まった。

(何だこれ? 俺にどうしろって言うんだ? 俺はもう折れてもいいと思ったのに、この完全に壁を作っている感じ……いつものことと言えばそうだけど、ちょっと酷いよ…。それとも何? こうなっても尚、俺が抱き着くなり何なりすれば機嫌直る、とか?)

  一瞬そんな大胆な考えが浮かんだが、陽一はすぐさまかぶりを振った。出来ない、それは無理だ。その後の葉山のリアクションを考えただけで恐ろしいし、逆に葉山がそれによっていよいよ「キレる」可能性だってある。それを考えると怖い。
「はあ……」
  思わず露骨なため息が漏れて、陽一は慌てて口を噤んだ。ハラハラして葉山を見たが、相手は先ほどの状態から動いていない。
(あーあ)
  陽一はもう一度、今度はそっとため息をつくと、「ちょっと散歩してくる」と小声で告げて部屋を出た。とてもではないが、この空間に沈黙を保ったまま2人でいることには耐えられそうになかった。





  特別どこへ行くという当てもなかったが、行けそうな場所なら思い当たっていた。ホテルへ来る前に通りがかった、比較的大きな市民公園だ。何か目新しいものがありそうというのでもなかったが、園内は緑の芝生が延々と続き、その広く長い遊歩道の両脇には青々とした木々が整然と植えられていた。
  その合間をぬうように置かれているベンチには、そこで食事を取ったり読書をしたり、何をするでもなくのんびりと寛いで周囲を見つめている人もいた。
  陽一はそれらの風景に溶け込むように、1つの空いているベンチを見つけてそこに落ち着くと、息を吐いた。
  外国だ何だと気負う必要などないのかもしれない、こうして過ごす人々は日本のそれと変わりない。むしろ、こちらの人々の方が気持ちに余裕のある雰囲気を有していて安心を覚えるくらいだ。
「はあ…」
  しかし、そうした人々と同様、陽一がゆったりした気分になることなど出来ない。
  これからどうしよう…否、どうしようも何もない。今は思わず「逃げ出して」来てしまったけれど、陽一がやるべきことはすぐさまホテルへ戻り、葉山を叩き起こしてでも話をして、仲直りすることだ。それが1番良いに決まっている。
「でもなぁ…」
  周りに誰もいないのを良いことに、陽一は思わず声に出しながら、その考えをすぐさま実行に移せない自分を庇ってやりたい気持ちになった。
「葉山もひどいよな、やっぱり」
  というか、葉山が全面的にひどい気がした。絶対喧嘩にはならないと自信たっぷりに言っておいて、理由は知らないが最初から不機嫌だったし、無理やり迫ってくるし、朝は朝で勝手を言って、しまいには置いてきぼりだ。
  それでいて、陽一が困る様子をずっと見ていて、浮気したとの言いがかり。
「うん、ひどいよ、やっぱり」
  うんうんと頷いて、陽一はさらにその気持ちを強めるように声を出した。
  と、その時、ちょうどチュロを売る小さな屋台がやってきたので、陽一はふと思い立ってから、その屋台を引く店員に日本語で話し掛け、たどたどしい手ぶりながら、それを一つ欲しいとジェスチャーした。屋台を引いていた女性は、そのいかにも観光客と分かる陽一に笑顔で応えると、中国語で「謝謝」と言ってチュロを渡してくれた。
  陽一はそれを持って再び元いたベンチへ戻り、ほっと息をついた。何だ、買い物くらい簡単じゃないか。例え言葉の通じぬ異国だろうと、葉山がいなければ何も出来ないなどと萎縮する必要もない。やはりすぐさまホテルへ戻るのはやめよう、そう思った。
「そうだ。どうせなら、姉さんがリクエストしていたお土産でも買いに行こう。うん、そうだ。俺も、葉山も、お互い頭を冷やした方がいい」
  何に、誰に言い訳しているのか。
  陽一は早口でそう言うと、紙に包まれたチュロを齧ってから決意を新たにした。
  見知らぬ土地で独り土産物を買うのと、ホテルへ戻ってふてくされた恋人の機嫌取りをするのと。それらを天秤にかけて、多分「楽」な方を陽一は選んだのだが――この時は、「そう」は取らなかった。
  陽一は葉山に働きかけることを無意識では恐れていたが、自分でそうとは気づいていなかったのだ。





  陽一にしてはちょっとした冒険になった午後の1人観光だったが、目当ての物も買って辺りをぐるりと散策もして。
  ホテルへ戻ってきたのは、日も大分暮れかけた時刻だった。
「ただいま…」
  葉山は1人でどうしていただろう、もしかして数時間帰らない自分を少しは心配しただろうか―…そんな風にも思いながら、ドキドキした想いで帰宅した陽一だったが、部屋へ入ると、何の返事もしない恋人が依然としてベッドで丸くなっているのが見えた。
「葉山? まだ寝ているの?」
  いい加減不貞寝をするのも飽きただろうに。外の空気を吸って気持ちも新たになっていた陽一は、出てきた時と全く変わらぬ葉山に、正直呆れきった気持ちを抱いた。
(気まずいのは嫌だって言うなら、まずはその態度こそいい加減にして欲しいよ…。結局ずっと普通のフリなんて、葉山が一番出来ないくせに)
  陽一が心の中でそんな文句を唱えていると、ようやく微かな動きと共に葉山が寝返りを打ってきた。
「……?」
  瞬間、あれ、と思った。こちらを見上げてきた葉山の表情が、単に元気がないというのとは違う気がしたから。
「葉山?」
「……お帰り。今何時?」
「18時ちょっと前くらいだけど。それより……大丈夫?」
「何が…?」
「顔、赤いけど」
  言いながら恐る恐る近づいた陽一は、葉山が嫌がったらどうしようと警戒しつつも、それ以上に様子が気になって手を伸ばした。
「熱い!?」
  葉山の額に当てた手を慌てて離してから、陽一は思わず声を上げた。
「葉山、本当に具合悪かったの!?」
「え? ……別に、悪くないよ」
「いや、熱あるよ、これは! 顔色も…良くないし! 何で言わないんだよ!?」
  責める言葉を吐きつつも、陽一はすかさずそんな自分に心内でツッコミを入れた。
(いや、葉山は「具合が悪い」って言った。ただ、その言葉を俺が全く信じなかっただけだ…!)
  そう、陽一は葉山が“いじけて不貞寝をした”としか考えていなかったから。
「そんな大したことない」
  けれど葉山はむくりと上体を起こすと、乱れた髪の毛をまさぐりながら、ふいと窓の外を見やって、「もうこんな時間なんだ」と呟いた。
  それから改めて陽一を見つめ、「それ」と覇気のない声で訊いた。
「どこか行ってきたの? それ何?」
「あ、ああ…、光姉さんに頼まれたお土産。店も指定してくれていたから、迷う必要もなかったし、見つけるのも簡単だったよ…。そんなことより、葉山――」
「他にも何か見てきたりしたの?」
「え? ああ、大体この地図に載っている、観光名所っぽい所を。それよりさ…」
「やっぱり、浅見は俺がいなくても平気だな」
  心配する陽一を無視してずばりと言い切ると、葉山はハァと重い息を吐いた。
  陽一はそれで一気に沈みこんだ部屋の空気にたじろいだが、それよりも今は葉山の体調だと思い直し、「何か買ってくるよ」と抑えた声で話しかけた。
「水はあるけど。何か欲しい物ない? 着替えて、何か食べて、もう一回寝た方がいい。今晩休めば熱も下がるよ」
「いや、平気だよ。だってこれから夕飯行くだろ? 折角ここまで来たんだから、浅見だってうまいもん食いたいんじゃないの? さすがにレストラン1人で行くのは嫌だろうし」
「そんなのどうでもいいよ、夕飯なんか部屋で食べればいいし。俺、何か買ってくるから」
「……一緒に行きたくない?」
「え? …いや、行きたくないとか、そういう問題じゃなくて…」
  噛み合わない会話。陽一はじりじりした想いを抱きながら、とりあえず荷物をベッドの端へ置くと、そこから買っておいたミネラルウォーターを差し出した。
「水分摂った方がいいから。汗も掻いたんじゃない、着替えなよ。バッグ、開けていい? 俺、出すから」
「……いいよ。自分でやる」
  葉山はのそりとベッドを下り、自分で自分の荷物を開けて無造作に着替えを引っ張り出した。気だるいだろうに、敢えて自力で事を成そうとするその態度に陽一はむっとしたが、熱のある葉山を置いて1人で遊びに出てしまった罪悪感や、葉山の身体を心配する気持ちが先に立っていたので、その負の感情は案外とすぐに奥へと押しやれた。
  しかし葉山はやはり陽一に何を求めるでもなく、着替えを済ますと再びベッドへ戻ってしまった。「じゃあ悪いけど、やっぱり1人で食べてきて」などと言い置いて。
  それで「はい、そうですか」と出来る陽一でもない。結局その夜は近場のスーパーで買ってきたシリアルを食事にして、陽一は特に会話もない部屋でまんじりともしない時を過ごした。

(眠いはずなのに、眠れない…)

  それからどのくらい経ったのだろうか。
  恐らくは日付も変わったであろう時間になっても、陽一はなかなか眠ることが出来ずにいた。隣にいる葉山を気遣って早い時間に電気を消したから、暇を潰す読書も出来ない。そうかと言って、さすがにこの時間帯に外へ出るなどありえない。
(無理やり目を瞑っていればいつかは眠れるはずだから…。何か数えようかな…羊じゃ眠れそうもないけど…)
  あまり身じろいで葉山が起きても悪いと、陽一は先ほどからずっと同じ体勢で眠れる方法を模索していた。そういった「無意味なこと」でも何か考えていないと、今日1日のロクでもない出来事や、葉山の怒った顔や別れを切り出した時の蒼白な顔、「具合が悪い」とベッドで丸くなっていた姿などを思い返してしまって、否応もなく胸が痛んでしまうのだ。
(明日は仲直りできるかな。普通に話せるといいけど…)
  とにかく葉山の頑なな態度が少しでも解けていればいい。自分たちはほんのちょっとのボタンの掛け間違いでこうなっただけ。じっくり話し合いが出来さえすれば、いつものように元の関係に戻れるはず…。
  それは普段ネガティブな陽一でも割と確信に近いレベルで思っていることだった。何にしろ、自分たちは想いあっているはずだから。お互いに、好き合っているはずだから、と。
(あれ……)
  そうしてようやく気持ちが落ち着いて今度こそ眠れるかな、と思っていた矢先。
  不意に、背後で自分のベッドが少し傾いた気がした。
  動いていないのに何だろうと思ったが、徐々に意識が落ち始めていた状態で、陽一はその理由を明確化することが出来なかった。
(ん…?)
  それでも確かに重みの加わったベッドのすぐ傍で、今度は確実に人の気配を感じた。誰かがいるのならそれは葉山しかいないわけだが、すでに靄のかかり始めた陽一の思考では、ああ、葉山がこちらへ来たのかと思い至るのが遅く、「それなら真夜中だろうが、きちんと話さなくては」と考えられたのも、自らの首筋に熱を持った手のひらがすっと触れてきたことに気づいてからだった。
(熱っぽい…)
  それはとても熱い手のひらだった。
  その温度に促されるようにして、陽一はゆっくりとだが気配のする方向へと身体を向けた。ちょうど寝返りを打つ形で身体を捻り、仰向けとなる。と、その手がするりと解けかけたので、陽一はいよいよ容易に、恐らくは葉山がいるであろう方向へ目を向けることが出来た。
「……浅見」
  薄闇でその姿をはっきりとは視認できなかったが、傍にいる気配と声とは、間違いなく葉山だった。陽一を呼ぶその声は囁くような小さなものではあったが、はっきりと聞こえた。ああやっぱり葉山が起きたのかと思い、陽一は「うん…?」とくぐもった声ながら返事をして、ようやく訪れかけた眠気を忌避するように目を凝らそうとした。
「――…ッ!?」
  けれどその瞬間、陽一は絶句した。
  葉山が声をかけてくれたことに安堵していたからか、陽一は完全に意表をつかれていた。否、そもそも意表も何もない、「そんなこと」を葉山がするとは考えもしなかったから、最初は何が起きたかが分からなかった。
「が…っ」
  それでも突然詰まらされた呼吸と首への強い締め付けに驚愕し、陽一は反射的に両目を開けた状態で、今起きていることを必死に理解しようとした。反射的に浮かした両手は、元からの非力故か、相手の力が強過ぎるせいなのか、まるで役に立たない。
「浅見」
「……ぁ…ッ」
  陽一は、自分がこんなに驚き、苦しんでいるのに、変わらずそんな平静な声を出す葉山が信じられなかった。と同時に、とても恐怖を感じた。
「浅見」
  それでも葉山の声の調子に変化は起きない。
  ベッドに横たわる陽一の首に片手をかけ、いつでもそれ――陽一を絞め殺すこと――が出来る葉山は、今一体どのような表情を見せているのか。
  この暗い闇の中では、それを確認する術はない。
(何……何だよ、これ……葉山…)
  実際、首への締め付けは然程強いものではない。むしろ今では殆ど首筋に触れているだけだ―…が、最初に力を込められたこと、葉山をはっきりと視認出来ない状況での出来事で、陽一は単純に強い恐怖から身動きが取れなくなっていた。
  ただ、ドクドクと心臓の鼓動が速まる。
  そんな仰向けの陽一を真っ直ぐ見下ろす葉山は、依然として何を考えているか分からない様子で、暫しじっとしていた。
「浅見」
  そして、本当に突然という風に口を開いた。
「本当に、俺のこと捨てるの」
  それは明日の天気を尋ねるような、感情の乗らない淡々とした声音だった。
「もう俺のこと要らない?」
  それでも葉山は立て続けにそう訊いた。
「……ッ」
  聞きたいなら、その手を放せ。
  そう思うのに、陽一は声を出せなかった。怖い、葉山が怖い。まさか自分を殺す気はないだろうけれど、こんな風に追い詰められている葉山から見下ろされている、この体勢がとてつもなく嫌だ。
  だから陽一はそれを見ない為にぎゅっと目を瞑り、どうしてこんなことになっているのだろうと心底情けない想いがした。
「泣きたいのはこっちだよ」
  けれどそんな陽一の様子にも感慨を見せずに、葉山は言った。
「どうせ捨てられるなら、めちゃくちゃにしてやろうか」
  葉山は自棄のようにそう言って陽一に近づいた。それで陽一も観念して葉山を見た。これだけの至近距離ならその顔も見える。
  理性はある、ただ悲壮に満ちた瞳。
「葉山…」
  こんな時なのにそれを綺麗だと思ってしまい、陽一はそれを誤魔化すように声を上げた。その際うっかり唇が震えてしまったが、とにかく葉山の名を呼べたのは良かったと思った。
「駄目だよ」
  けれど葉山はそう言って、戦慄く陽一の唇を自らのそれで塞いだ。
「俺を拒否する浅見の声なら聴きたくない」
  首に手をかけられたまま口を塞がれて、陽一にはもう何も出来なかった。再度目を閉じ、葉山からの口づけを受け取る。ゆっくりと重ねられたそれは、やがて無理やり口腔に舌を捻じ込まれて中をも舐られた。
  何度も啄んでは重ねられる。その唇はやはり熱くて、陽一はその温度にただひたすら翻弄された。こんなにも鬼気迫る口づけをされたことはなかった。
「なあ。お前、俺のこと知らな過ぎだよ」
  ひとしきり陽一の唇を堪能した葉山は、酷く冷えた声でそう言った。そうしてそれに陽一が何も言えないままただ反射的に震えると、葉山は泣き笑いのような顔を見せて、陽一の首筋に歯を立てた。




後編へ…