貴方の最大の…



「ホント、浅見のそういうところ、信じられない」

  葉山は吐き捨てるようにそう言って、しばらくの間は陽一と口をきこうとしなかった。陽一が勇気を出して電話を掛けてみても、また自分から葉山の住むアパートへ訪ねて行っても、葉山とは連絡が取れなかったし、会う事も出来なかった。

「ごめん。俺が勝手に逆ギレしただけだから。浅見は悪くない」

  それなのにその音信不通の数日を置いて、先に謝ってきたのは葉山だった。突然鳴った電話だったから、陽一としても「葉山と連絡が取れたらまず何て言おう」と色々考えていた台詞は全て吹っ飛んだ。そして向こうが「ごめん」と謝り先の台詞を発したせいで、陽一もそれに流され「葉山が謝る事ないよ」と応えたものだから、結局その「喧嘩」はうやむやのうちに収束した。
  本当はもっと問い詰めるべきだったのに。
  けれど陽一にはそれが出来なかった。また下手な事を言って葉山を怒らせるのが怖かったから。





「陽一。あんた、葉山からは何を貰ったの?」
  2人の喧嘩も、その喧嘩の理由も陽一より正確に知っている姉・光は、その仲直りの後、数日経ってからふと思い出したようにそう訊いてきた。例によってそれは陽一が自室で読書をしている時に無断で入ってきて発せられたものだ。
「何って」
  もうあの気まずかった時の話はしたくない。陽一は何とかその話題をかわそうとした。無論、この姉にそれが通用しない事は分かっていたのだが、互いの仲を修復した後も何かと気まずい雰囲気が続いていたから、陽一は真剣に葉山との関係について想いを馳せ、悩んでいたのだ。
  その矢先に「何を貰ったの」の質問はきついものがあった。
「陽一ちゃん? まずはその体勢をやめなさい。ベッドから下りて、私の目の前にちゃんと座るの」
「………」
  自分の部屋で寝転んでいようが何をしようが、本来は陽一の勝手である。それでも陽一は光に言われるまま、開いていた本を閉じてのろのろとベッドから下りるとその場に腰をおろした。
  従順な弟の姿に満足した後、光は偉そうに腕を組んだ。
「で? 葉山からは何を貰ったの? 正確な金額も込みで正直に述べなさい」
「何でそんな事いちいち姉さんに言わなくちゃならないんだよ……って、イテ! 痛いっ! 痛いって、何す―!」
「お黙り」
  陽一の膝をこれでもかというほどきつくつねり上げた光は、端麗な顔をきっと吊り上げ鋭い眼差しを向けると、しげしげと弟の全身を舐め回すように眺めてから再び口を開いた。
「あんたのその可愛らしいお洋服。上下併せて消費税込み、3万7800円。アンタねえ、今どき弟にそんな貢いでやる姉なんていないわよ。しかも失業中の姉なのに」
「そんな事いばられても知らないよ…。俺、別に頼んでないし…って、イテ! もうっ! 本当やめてくれよッ!」
「昔はそんなに生意気じゃなかった!」
  光は心底嘆いているという風に大袈裟に喚いた後、陽一をつねっていた手を大袈裟に上げて溜息をついてみせた。
「それもこれも全部あの葉山のせいね。あの男に毒されてるから、そういう口をきくようになっちゃったのよ、あんたは」
「葉山は関係ないだろ」
「大有りよ。あんたね、あんたは私に葉山との事を逐一報告する義務があるのよ! そもそも、速水さんからのプレゼントだって、私が事前に察知して取り上げなかったらどういう事になってたと思うの? あんなクソ高い時計なんて貰っちゃったら、あんた絶対色々な意味で追い詰められて、そのまんま食われちゃってたわよ。確実に」
「だっ…だからそんなの、知らないよ! 俺は速水さんとは関係ない! メールだって見てないし…! 大体、姉さんが勝手に俺のメルアド教えたりするから―」
「だから、逆らうなっての! 言い返すの禁止!」
  今度はつねりはしなかったものの、光は顔をぐんと近づけ、幼い頃からしてきたであろう、陽一への威嚇のひと睨みをしてフンと鼻を鳴らした。
 そうして弟がそれでまんまと黙りこむのを見計らってから、口を尖らせてそっぽを向く。
「とにかくねえ、そのあんたとは何の関係もないという速水さんでさえ、あんたの誕生日にたっかいブランドものの腕時計をプレゼントしてこようとしたのよ? 姉の私だってあんたにぴったりのその可愛いお洋服買ってあげてるし、父さんたちからだってお小遣い奮発してもらってたでしょ? そしたら、あんた、恋人の葉山なんてさぞかしイイもん贈ってきてるでしょうって話なのよ。そうでなきゃおかしいでしょ?」
「別に…おかしくないよ」
「おかしいね。大体、誕生日の当日に何も持ってこなかったんだから」
「だから、それは…っ」
  結局この話は長引いてしまうのか。陽一は一度は反論しかけたものの、思わず息を詰まらせて嘆息した。
  先日、陽一は20歳の誕生日を迎えた。しかし陽一自身は誕生日だからどうのこうのといった感慨は抱きにくいタイプだ。姉がイベントや祭り事が大好きな性格だから、彼女の誕生日に限っては人並以上に気も遣うが、基本的に自分の事はどうでもいいと思っている。光はそれを面白くない子だ何だと言って、本人以上に勝手に盛り上がって毎年何やかやと家族総出のお祝いパーティを企画するのだ…が、その光が「今年はプレゼントだけね」とつまらなそうに言いながらも、どこか嬉しそうな顔で祝いの会を開かなかった。恐らくは内向的な弟でも「恋人」である葉山となら、己の誕生日を初めて大切な気持ちで過ごしてくれると期待したに違いない。

  ところが、葉山は陽一の誕生日を知らなかった。

  答えは単純で、陽一が葉山にそれを知らせなかったからだ。そして恐らくは葉山もそういった事に無頓着だった。
  翌日、光が何気なく葉山に「陽一に何をしてやったのか」と訊ねた事によって、その「何も起こらなかった誕生日」は白日の下に晒された。
  自他共に認める「弟バカ」な光はその事を知って葉山に激怒したし、それを知った陽一は姉に激怒…とまではいかないまでも、「何故葉山を責めたのか」と姉を詰った。陽一はその日、大学の講義が夕方過ぎまでフルに入っていた事と、明日までに提出しなければならないレポートがあって、図書館が閉まるギリギリの時間まで大学に詰めていたし、葉山もバイトの日で互いに一切連絡は取らなかった。ただ、それは別段特別な事ではなくて、互いにとっては当たり前の、よくある1日だったのだ。
  だから陽一は光がお節介を焼いて葉山に誕生日の話をしたのが嫌だったし、まるで「何かくれ」と催促しているようで物凄く後ろめたい気持ちがした。葉山とてそうだろう。事前に知らされもしていなかった誕生日だ、そんな事を過ぎた後に知らされても、不快な気持ちこそすれ、申し訳ないなどという感情は起きないはずだ…と、陽一は思った。

「浅見のそういうところ、信じられない」

  案の定、光との電話の後、葉山は陽一の携帯に掛けてきて怒気を含んだ声でそう言った。当然の事ながら葉山は怒っていた。ただ、その「怒る」理由は陽一が考えていたものとは違う。葉山は陽一が己の誕生日を自分に教えてこなかった事に怒ったのであって、陽一の考える「たかが誕生日くらいで姉が電話をした」事実に怒ったわけではなかったのだ。それは一般的に考えれば「葉山の怒りがもっともで、陽一はズレている」という事になるのかもしれなかったが、そのあたりが、浅見陽一という人間がこれまで他者と深く接してこなかった事を示しているとも言えた。
「悪いのは葉山よ。普通は言われる前に自分から訊くもんよ」
  けれど光の意見は「それ」である。
  そもそも弟が前もって言っておらずとも、恋人の誕生日くらい自分で調べて知っておけというのが彼女の言い分だ。それなのに陽一を怒って電話を切った葉山を光はまた激怒し、「そんな勝手な奴とは別れろ」うんぬんと、その数日は本当に大変だった。葉山が陽一からの連絡を断ったという点も、彼女の怒りを買うには十分だった。

  それでも数日を経て葉山の一方的な謝罪があった事で、2人は実にあっさりと仲直りを果たしたのだが。

「遅れた分、いい物をくれるのは当たり前よね。豪華ディナー? ブランド物の服?  アクセサリー? いきなり指輪とか贈ってきたりして?」
  光はわくわくと目を輝かせて陽一に訊いた。別れろだ何だと言っても、所詮は「陽一大事」な光である。葉山とたった数日連絡が取れないだけでも生気を失っていた弟に、光も自身の責任を感じていたのかもしれない。
  これを言ったらその姉はまた怒るんだろうなと憂鬱な気持ちになりながら、陽一はそれでも仕方なく口を開いた。
「何も貰ってないよ」
「……え?」
「何も貰ってない。この間ちょっとだけ会ったけど…別に、いつも通りだったし」
「……嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。でも別に俺もそんなの気にしてないし。また騒がないでよ?」
「騒ぐに決まってるでしょ!?」
  光はがばりと立ち上がると、いよいよ頭にきたと言う風に鼻息を荒くした。
「だってあんたたち、この間仲直りしたんでしょ? 葉山が、『自分が一方的にキレて悪かった』って電話してきたって、あんたそう言ったじゃない!」
「そうだよ。そもそも葉山が謝る事なんてないのにさ…。でも、葉山そう言ってくれて…だから、もういいんだ」
「何がいいのよ!? じゃあ、遅れてもいいから、誕生日プレゼント寄越しなさいよ!  高いやつ!」
「あのね…」
「いや、別に高くなくたっていいわよ!? そりゃ所詮学生だしね! 速水さんのウン十万の時計とまでとはいかないまでも! でも、それってあんまりじゃない!?」
「何でそんなにこだわるの? 大体、俺が誕生日祝いとかそういうのあんまり好きじゃないって、姉さんだって知ってるだろ?」
「知ってるわよ」
  陽一の発言により途端声のトーンを下げた光は、むっとした気持ちを抑えられずとも不意にしんとなって黙りこくった。
  それでもこのまま沈黙して部屋を出て行くのは嫌だったのだろう、「…あいつは」と呟くように言ってから段々とまた声を大きくしていった。
「たとえば、葉山の奴は、その理由を知っているわけ」
「その理由って?」
「あんたが誕生日を祝われるのが嫌いな理由よ」
「別に嫌いじゃないよ。それに何? 理由って?」
「あんたに自覚がなくとも私は知ってるのよ。でも、そうね…。それなら、あいつが知るわけはないか」
  光はふうと溜息をついた後、さっと手を出して「はい」と当然のように陽一を見つめた。
「何?」
「携帯貸して」
「な…何で」
「葉山に掛けるのよ。明日にでもあんたに誕生日プレゼント寄越せって催促。ちゃんと祝えって催促」
「だから、止めてくれって、そういうの!」
  折角葉山と仲直りしたばかりだというのに、こういう姉のこだわりには本当に参ってしまう。それでも陽一は、それだけは嫌だという風に頑として携帯を出すのを拒むと、わざと身体をベッドの背に擦り付けてズボンの尻ポケットに納まっている携帯を隠すような所作を示した。
「……分かった。それなら、私からはもう言わない」
  陽一の態度が頑なな事を感じ取ったのだろう、光は意外にもあっさりとそう言って引き下がると、しかし「その代わり」と言い含めるように告げた。
「明日、あんたからデートに誘いなさい。丁度土曜日だし、葉山にバイトがあったって空いてる時間くらいあるでしょ。いつもは葉山から誘うんだろうけど、あんたから誘いなさい」
「何で…」
「あんたから誘えば、あいつも舞い上がってサービスするかもしれないしね」
「そんな、また…」
  姉と話しているとどうしても気恥ずかしい気持ちが増してしまう。さっと頬を赤らめてしまう陽一に、しかし光の方はいやに冷めた目をした後、「言う事きかなかったら承知しないわよ」と言って部屋を出て行った。
「何なんだよ、もう…」
  確かに明日は大学もないし、自分とて葉山とは会いたいと思っていたけれど。
  自分で誘う事くらい何という事もない。別に初めての事でもないしと思いながら、それでも光にわざわざそんな風に言われて掛ける電話は照れくさいなと思った。
  思いながらも、陽一の気持ちは既に「明日葉山に会ったら何をしよう」という浮かれた気持ちになっていた。





「ごめん。今日は友達と先約があるから」
「えっ…あ……そうなんだ」
  予期せぬ言葉に一瞬言葉が詰まったものの、陽一は努めて冷静を装って会話をし、電話を切った。自分から誘って断られたのは初めてだ…。暫しボー然としたものの、葉山にとて都合があるし、自分とは違い友人もたくさんいるのだからと、思い直した。

  けれど、その「ごめん」が二度、三度となった時、さすがにこれはおかしいと陽一は蒼白な思いがした。

  自惚れるつもりはないけれど、葉山は普段よりとても気遣いのある人であるから、たとえば一度自分のせいで約束が反故になったり会えなかったりという事があると、日を置かずに「この間の埋め合わせをするから」と連絡してくるのが常だった。好いてもらえていると思う。大切にしてもらっているという自覚がある。
  だから会えないという素っ気無い言葉だけを連続して聞いてしまった陽一は、「これはいよいよ本当に嫌われたのかも知れない」という想いが強くなり、どんよりと重く淀んだ気持ちになった。
  いつかはこんな日が来るのではないかという気もしていた。葉山はことあるごとに「浅見は何でそうなの?」と苦笑しては、「まあいいよ」と流してくれていたけれど、互いの価値観が違い過ぎるのか、陽一の言動に苛立ちを見せる事が多かった。その度に陽一は申し訳ない気持ちがしたから「ごめん」と素直に謝ったのだが、それがまた余計に葉山の怒りの琴線に触れるようで、「だから、もういいって」と荒っぽく言われて白けた空気が流れたりした。
  ただその度、暫くすると葉山は決まって「さっきはきつくなり過ぎてごめんな」と謝ってきたのだけれど。
  その後、姉の光から「プレゼントは貰ったのか」としつこく訊かれるのが嫌で、陽一はそれに関しては「ちゃんと貰ったよ」と嘘をついた。何を貰ったのかという事に関しては、そこまで偽りを重ねる事に抵抗があったので言葉を濁して逃げたのだけれど、とりあえずは「貰った」という事実が大切だったのか、光もそれ以上問い質してくる事はなくなった。
  そして悩みの種は、いよいよ葉山との微妙な距離感のみとなった。

(もう1回誘って今度も断られたらどうしよう…)

  携帯を握りしめながら陽一は思案した。たかだが誕生日を教えなかったくらいでこんなに気まずくなるなんて思いもよらなかった。大体、そんなに怒るなら葉山だって姉の言うように事前に訊いてきたら良かったのだ…。そんな愚痴めいた想いまで浮かんでしまい、陽一は大きく嘆息し、結局携帯を閉じた。
  やっぱり顔が見えない電話では駄目だ。明日、思い切って葉山の家へ行ってみよう。
  顔を見れば分かるはずだ。本当に用事があって断ったのか、それとも自分と会いたくないから断ったのか…。
「うん、そうしよう…」
  陽一は一度決めたらすっきりとした気持ちになり、携帯は電源ごと切ってそれを枕の下に仕舞った。
  今夜はもう何も考えずに眠ろうと思った。



 

後編へ…