後期試験が終わったらもっと時間を作ってたくさん会おうと言っていたのは葉山の方だった。
「お前は俺が誘わないと何も言わないし。それに何回も言わないと、俺がお前と一緒にいたいって事すら実感してくれないみたいだから」
  そんな事はないと陽一はその度焦ったように否定したのだが、葉山は「どうだか」と笑って流すだけで、後はもうその話題自体を止めてしまった。ここ半月はずっとそんな調子だった。電話でも、週末に駅前の喫茶店で少しだけ喋った時も。
「前々から言っておかないと、浅見は俺んちにすら来てくれない。自分から来たいなんて事も絶対言ってくれないだろ」
  葉山自身は軽い気持ちで言っただけなのかもしれないが、陽一にはその台詞のいちいちが責められているように感じ、心苦しかった。確かに陽一は2人の付き合いに対していつでも受身で、葉山が誘ってこなければ何処そこへ行きたいといった希望も言わないし、電話とて待ち合わせ場所の確認くらいにしか自分からは掛けた事がない。キスをする事も手を繋ぐ事とて、葉山が仕掛けてきてやっと応じるくらいのものだ。しかも人目のある所ではそれも絶対に嫌だときている。
「俺だって…」
  しかしだからこそ、陽一には葉山のその言葉が痛かった。自分でもこんな事では葉山に悪いという引け目があったから、それを相手に指摘されてより一層焦ってしまったのだ。
「俺だって考えてる…。ちゃんと…」
  だからそんな時、陽一はいつも意味のない言い訳を繰り返したり、時には逆に葉山への不満を述べたりもして相手を呆れさせた。

  葉山はいつもそうやって俺ばっかりが悪いって風に言う。でも、俺だって色々と忙しいし、それでも俺たちの事は俺なりにちゃんと考えているのだ、と。

「だけど…」
  そんなその場逃れのような自己弁護をして、後で1人落ち込むのは誰でもない、陽一自身だと言うのに。
「はっ…。分かった分かった。俺が悪かったよ」
  そういう時、決まってさっさと折れるのは葉山の方だった。俺が悪いよ、お前は悪くない。そう言って、ムキになって真っ赤になっている陽一に、機嫌を取るような甘く優しいキスをした。
  俺が悪いよ、お前は悪くない……。
  そう、苦笑交じりに。

『ただ今、電話に出る事ができません。ピーッという発信音の後にメッセージを……』

  ただ、そんな半月を過ごしながら後期試験が終わった頃には――。
「はあ……」
  もう一体何度目かも分からないため息をついて、陽一は大学構内にある電話ボックスから手にしていた受話器を元に戻した。
  ここ数日、葉山とまともな連絡が取れなくなっていた。部屋に来いよという誘いもなければ、あれだけ頻繁にあった電話も掛かってこない。
  避けられていると思った。



キャラメルのおまけ ―1―



「陽一。あんた、春休みの予定はあるの」
  しょんぼりと俯いた風に帰宅してきた陽一に、キッチンで何やらごそごそと料理をしていたらしい姉―光(ひかり)―が声を掛けてきた。陽一と全く逆の性格をしたこの行動派の姉は、最近長らく勤めていた証券会社を辞め、何を考えているのかここのところ家でただゴロゴロとした生活を送っていた。ひたすら黙々と世間のレールに乗った生活を送る陽一には、姉の突拍子もないこういった行動はまるで理解できないのだが、そういう対照的な部分を尊敬しているところもあった。
  派手過ぎる男関係や、こちらのプライバシーに無頓着でお節介、という点を除けばの話だが。
「試験、もう終わったんでしょ。真面目なあんたの事だから、どれも単位は取れてるんだろうし」
「結果が出ないうちはまだ分からないよ」
  洗面所へ行ってまたリビングに戻るのは面倒だからと、陽一は仕方なく姉がいるキッチンの水道から手を洗い、うがいをした。姉に話し掛けられている時に勝手に2階の自室へ行こうものなら、必ずと言って良い程しつこいお小言を受けてしまう。今現在の心境でこのパワー溢れる姉と会話をする事はなるべくなら避けたかったが、当然のようにそうする事は許されなかった。
「結果が出るまでって、そんなのずっと先の話でしょ。そんな事いちいち気にしてたら全然遊べないじゃない。フツーの学生なら、今の時期はもうすっかり開放的な気分になってさ、旅行なりバイトなりするもんじゃないの。少なくとも私はそうしてたけど」
「姉さんとは違うんだから…」
「だから私を見習えって言ってんの」
  姉が作っているものはホットケーキだ。フライ返しを手にしたまま偉そうに両手を腰にやるその仕草は、どう見ても肝っ玉母さんそのものだった。ボーイッシュな雰囲気とスラリとした長身細身な外見はどちらかといえばそんな家庭的な印象とはかけ離れているのだが、彼女は弟の陽一の前ではいつでも「過剰なる保護者」であった。
「あんたも食べる? ホットケーキ」
「……珍しいね。姉さんが台所に立ってるなんて」
  視線をちらちらとコンロの方へやっている姉に陽一は厭味ではなく単純な驚きを込めてそう言った。普段は料理などしない姉だ。余程暇だったか空腹だったかのどちらかだろうと思った。
「この家には何も食べる物がないよね。我慢できなくて棚から引っ張り出してきたわけよ、これを」
  傍に置いていたホットケーキの箱を片手で持ち上げながら姉は言った。
「私としては夕飯まで粘って寝ているつもりだったのにさ。誰かさんへの電話のせいで起こされたってわけ。何ていうの、うちの電話ってのは私が取る確率が非常に高いよね。まあ、この家の人たちは電話が鳴っても誰も取らないからって事もあるけど」
「電話……」
  どきりとして顔を上げると、姉はそ知らぬ顔でそんな陽一から視線を逸らし、ホットケーキへと目を戻した。話し掛けて欲しくない時はほいほいと口を動かすくせに、こういう肝心な事になると途端もったいぶる。
  陽一は焦れた想いで先を急かした。
「誰からの電話?」
「知りたい?」
「知りたいから訊いてるんだろ…っ」
「何よその態度は」
  珍しく反抗的な口調の弟に気の強い姉はむっとしたようになったが、すぐに立ち直るとニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「あんたに掛かってくる電話なんて1人しかいないじゃない」
「じゃあ葉山から?」
「うーん。そうかもね」
「姉さん!」
「……何よ。まったくもう大きな声出して、この子は」
  フンと鼻で笑いながら、姉はぷくぷくと泡の立ってきたパン生地をフライ返しでうまい具合に裏返した。
  それから陽一をより一層苛立たせるように最近のお気に入りの曲を口ずさみ始めた。
「……姉さん、葉山何だって?」
  焦っている事を気取られないようにと、努めて平静な声で訊いた。
  まさか以前のようにいきなりどこそこで待っているとかいう伝言だろうか? 今まで連絡がなかったのはたまたまで、単にバイトが忙しかっただけかもしれない。ようやく時間が空いて、会いたいと言ってきてくれたのかもしれない。もしそうなら、まだ今帰ってきたばかりだし、すぐに出掛けられる。葉山に会える。
「姉さん」
  姉の横顔を必死に見やりながら、陽一は縋るような想いでじっとその場に佇み、その答えを待った。
「……陽一」
  そんな弟の姿に、姉の光は心底呆れたようにため息をついた。
「あんたね。その、ご馳走をお預けされたワンちゃんみたいな顔はやめなさいよ? いい年して甘えモード作戦? でもそれって、あんたの事をよく知ってる私にしか通用しないんだからね。あ、だから私に使ってるのか、くそう…」
「何訳分からないこと言ってんだよ。それより葉山は――」
「携帯変えたんだって」
「え?」
  口を開いた状態のまま、陽一はまじまじと姉の口元を見やった。
  姉は抑揚の取れた声のままその台詞の後を付け足した。
「だから今までの番号に掛けても繋がらないって。新しいのを買ったらまたこっちから連絡するからって」
「………」
  息を呑んだようになって口を閉じた陽一に、光は探るような目をちらりと向けた。
「普通さあ、新しいのに変えてから今の携帯解約しない? メンドくさいじゃないねえ。また新しく全員に教え直すの」
「………」
「何かさ」
  姉は徐々にきつね色になってきたパンケーキを見つめながら、自分を見つめる陽一に静かな声だけをやった。
「葉山って基本、冷たい男でしょ? 人当たりはいいんだけど、相手をとことんまでは寄せ付けない、みたいなさ。……そういうの、あんたにはちょっと向かないんじゃない」 
  葉山の事など姉の光は何も知らないはずだった。葉山とは陽一へ掛かってきた電話を何回か取り次いだだけの間柄だ。勿論、陽一たちとの「関係」も知るはずがない。
「……何で」
  それなのに何もかも分かった風に姉は陽一にそう言った。確かに昔からそういうところがあるにはあった。互いに成長した最近は顔を合わせる機会も減って、その事もすっかり忘れていたけれど。
  姉は陽一とは正反対の人間なのだ。鋭くて、相手の事を想い量る能力に長けている。
  陽一とは逆で。
「で、さっきも訊いたけど。あんたも食べる? まだ生地余ってんだけど」
  姉の再度の問いかけに陽一は何とも答えられなかった。
  まるで同情されているようだと思った。
  葉山と数日会っていないというそれだけで、呆れる程に落ち込んでいる。そんな自分に、姉はホットケーキを焼いたと言うのだ。
  その生温い慰めは陽一自身が必死に心の奥底へ仕舞いこもうとしていた不安を実に鮮明に表出させた。





  元来陽一は己に自信がなく、自分の事はいつでも卑屈でつまらない奴だと思っていた。葉山と違って気の利いた面白い話ができるわけでもないし、何か熱く語れる特別な趣味があるというわけでもない。また、葉山と所謂恋人同士というものになっても、カップルの大勢がそうするようにイベント毎にプレゼントを交換しあうとか、デートスポットとして有名な行楽地や夜景を見に行くといった事にも正直興味がなかった。むしろそういった場所で男2人が並んで歩く事に周囲の目が気になったし、そもそも葉山が口にする「デート」という言葉自体に抵抗があった。
  葉山が自分を性的な目で見ているという事実にも、陽一はいつまで経っても慣れなかった。
  陽一の中で葉山という男はいつでも完璧な昔の同級生だったのだ。葉山は地味で冴えない自分を支えてくれる「凄い奴」であり、また不可解な存在だった。
  そんな葉山が陽一に卑猥な言葉を吐いたり、「お前の事が好きだ」「愛してる」と囁いてきても、 陽一には何か悪い冗談のように感じる事さえあった。葉山という人間と近くなればなるほど、陽一の中で「葉山と付き合う」という事は、どこか現実味を欠いた事柄のように思えたのだ。
  それでも一緒にいたいと欲するのは、葉山が陽一にとって誰よりも特別な存在に違いないからなのだが。
「俺、お前には嫌われたくない」
  以前、葉山は泣きそうな目をして陽一にそう言った。それは付き合い出してからもう一体何度目か、葉山が陽一を強引に組み伏せ、けれど陽一の猛烈な拒絶によって断念せざるを得なかった行為の最中、発せられた言葉だった。
「ご、ごめん…」
  その時陽一は葉山に押し倒され、シャツは中途半端に剥かれた状態、ズボンのベルトも既に外されて下着に手を掛けられたところだった。
「ご、ごめん…。俺、やっぱり無理だ…」
  何度も大丈夫だと思ったのだが、やはりどうしてもその先を許したくなくて陽一はそう言ってしまった。
「ごめん…」
  葉山に申し訳なくて、自分が限りないバカだと分かっていて、それでも陽一はただ謝る事しかできなかった。幾ら葉山が「待てるから」と優しく言ってくれているとしても酷過ぎた。こんな風に何も知らない少女のように、何度も何度も勿体ぶる程のものを自分は持っていない。
  分かっているはずなのに。
「ごめ……」
「謝るのは俺だって」
  けれど唇を噛んで顔を逸らす陽一に葉山は子どもをあやすような仕草で額を撫でると穏やかな口調でそう言った。
「俺、お前に大丈夫だって言って、ここで何回お前にサカってんのか分かんないな。こういうこと何回もやってりゃ、いつか何かの弾みでやれるんじゃないかって打算的な事考えてんだよ。汚い奴なの、俺って」
「そん…なこと…」
「本当ごめんな」
  すうっと身体に風が通ったような感じがして視線を元に戻すと、その時にはもう葉山は陽一を拘束していた手を放し、立ち上がってトイレに行ってしまっていた。
「………」
  何が恋人だよ。
  そんな葉山の背中を見送って陽一は自分自身を責めた。
  俺は本当に何様のつもりなんだろう。あの葉山が俺を好きだと言って、俺の身体を欲しいと言ってくれているんだ。さっさと身体を開いてしまえばいい。葉山と付き合うようになってから自分なりに男同士のセックスについてもこっそり勉強したつもりだった。いつだって今日こそはできると思って、この部屋にやってきているはずなのに。
「今度はさ、外で会おうか」
  やがて戻ってきた葉山は先ほどの出来事など全部忘れてしまったかのようになってそう言った。
「浅見は人が多いとこ嫌いだろ。どっか…落ち着ける所。俺、探しておくからさ」

  試験が終わったらちょっとだけ遠出しよう?

  葉山はそう言って実に綺麗な顔をして笑った。笑ってくれた。カッコイイ奴だなと陽一は思った。葉山の端麗な顔を見上げ、確かにその時陽一はそう思ったのだ。
  葉山からの連絡はその日を境に途絶えたのだけれど。





  陽一が葉山のアパートへ行こうと決心したのは、姉が葉山からの電話を取ったという翌日の事だった。少なくとも携帯を変えたと連絡をくれたのだから会いに行ってもいいんだよなという気持ちが、陽一の鉛のように重い身体を後押ししていた。
「あ……」
  信じられない早さで目的地には着いてしまったのだが、その敷地内に葉山のものだけではない、数台のバイクが停まっているのが目について、陽一は思わず立ち止まった。
  葉山は無趣味な陽一などとは違い昔から様々な事に対する興味関心が多彩で、その分交友範囲も広かった。特にバイクには一時期相当ハマっていたようで、遠乗りは勿論の事、メカの改造自体にもかなり入れ込んでいたようなのだ。だから葉山の携帯にもよくその関係の仲間とおぼしき連中から、ツーリングやその他の誘いが掛かってきていたのを陽一は知っていた。
「……そっか」
  今はそのバイク仲間たちが来ているのだろうと思い、陽一はすぐに諦めて踵を返した。自分の知らない人たちが来訪中なのだし、また改めて出直そうと思った。あれだけここへ来る事を逡巡してやっと来られたというのに、たった一つ、いつもと違う物を見てしまっただけで陽一は既に逃げの体勢だった。

「だからぁ、ちょっと待てよ。煩くて聞こえない」

  その時、タイミングが良いのか悪いのか、丁度陽一がアパートの敷地を囲むブロック壁の向こうへ姿を消したと同時、葉山のよく通る声が飛び込んできた。
「……っ」
  陽一が咄嗟に足を止めて振り返ると、その位置からは見えないながらも、葉山の誰かと話す声が耳にはっきりと届いてきた。
  どうやら携帯電話で誰かと話しているらしい。
「え? だから聞こえないって。こっちだけじゃないだろ、煩いの。そっちも相当だぞ、今何処にいるんだよ?」
  葉山が苛立った時に見せる荒っぽい口調だった。陽一には滅多にその怖い部分を見せないが、葉山の素の部分には乱暴なところが多々ある。それは姉の光が言っていた「誰も寄せ付けない」雰囲気を発する時に垣間見せる、陽一の苦手な葉山だった。
  そっと物陰から盗み見るように、陽一は葉山の声がするアパートの敷地へと目を戻した。葉山は部屋から出てきて自分たちのバイクが停まっている階下にまで移動してきていた。また、2階にある葉山の部屋からはもう1人、今度は仲間らしき若い男が顔を出して、何やら意味不明な事を言って葉山をからかい始めた。陽一にはその男の声はよく聞こえなかった。
「煩ェな!」
  葉山はその仲間の男に笑いながらも声を荒げ、再び携帯の相手へと意識を戻した。
  陽一はただ黙ってそんな葉山を見つめやった。
  葉山の携帯はいつも持っていたそれと何ら変わっていなかった。
「うん。うん、ああ。え? あーそうなんだ。え? 知らねえよ、そんなの。はっ、だから知らねえっての!」
「何ごまかしてんだよ!」
  2階にいる仲間の男が盛んに茶々を入れ、笑い声を上げる。
「浮気がばれたのかー?」
  そうして更に新たな仲間が部屋から出てきて、階下の葉山へそう声を掛けた。葉山はそんな2人の友人にはもう一切構わず、相手と楽しそうに何やら談笑し始めている。陽一にはよくは分からない内容だったが、とにかく今度会って遊ぼうとかそういう類の話らしかった。
「あー、はいはい愛してるって」
  その時、葉山が笑いながら電話の相手にそう言った。
「ははっ、ばあか。はっ、ヤだよ。もういいだろ。は? だからもう嫌だっての。1回でいいだろ!」
「何回でも言ってやれってー」
「そうだよ怜君。もうそっちにしちゃえ。ちっともヤらせてくれないコイビトなんか捨ててさー」
「お前ら、だから煩……」
  けれど葉山がそう言って顔を上げ、彼らに抗議の声をあげようとした瞬間だった。


「………あ」


  思わず隠れる事を忘れてその場に佇んでいた陽一は、何気なく正面を向いた葉山ともろに視線を合わせてしまった。
「浅見……」
「あれー? 誰、怜。その人」
「誰?」
  上にいた2人も葉山が急に携帯を下ろして黙りこんだのを見て陽一の存在に気づいたらしい。不思議そうな顔で屈託なく声を掛けてくる。
  けれど葉山と陽一はそんな彼らにはまるで視線をやらず、ただ暫く互いに向かいあい、見詰め合った。
「浅見……」
  先に我に返ったのは葉山の方だ。
「浅見」
  3度呼ばれ、それで陽一もようやくはっとなってぱちぱちと瞬きをした。携帯を握り締めたままこちらを見やる葉山の視線を改めて見やり、思わず「ごめん」と口走った。
  自分でも何故謝ったのかは分からなかった。
「……何だよそれ」
  葉山も陽一のその場違いな発言にくぐもった声を出した。最初こそ一瞬「しまった」というような顔をしていたものの、葉山は陽一の咄嗟の謝罪に明らかにカチンときたようで、怒りを露にむっとした目を向けてきた。
「………あ」
  陽一はそんな葉山の顔を見たらもう堪らなかった。
「ちょ…浅見!」
  葉山が怒鳴って呼び止めるのも構わずに陽一は走り出した。
「はっ…」
  何故来てしまったのだろうか。息を切らせながらその事ばかり頭の中でぐるぐると繰り返した。ただ息をする事も忘れて陽一は走り続けた。一刻も早くこの場から離れたかった。
「浅見!」
  背後でまだ葉山の焦ったような声が聞こえた。やばい、追いかけてきているのだと気づいたのはその時で、その声がすぐ近くにまで来た時、陽一は余計に焦ったこともあって道路の真ん中で勢いよくもんどり打って倒れてしまった。
「痛…っ」
「あ、浅見っ!」
  葉山も陽一の転倒に面食らったのだろう。荒く息を継ぎながらあっという間に追いつくと、素早く前に回りこんで屈み込み、うつ伏せになったまま顔を歪める陽一を覗きこんだ。
「大丈夫か?」
「……う、ん」
  何とか返事をし、陽一は急いで身体を起こした。恥ずかしい。顔から火が出る思いだった。葉山がそんな陽一を助け起こそうと腕を掴んで来た時は、だからか思い切りその手を払ってしまった。
「………!」
  その陽一の所作に葉山は一瞬傷ついた顔を見せた。
「あっ」
  それで陽一も瞬間的にまた申し訳ない気持ちがして表情を崩した。
「………」
「………」
  そしてまた2人は道路の真ん中で座り込んだ格好のまま、互いに沈黙で見詰め合った。
「何逃げてんだよ」
  やはり最初に口を開いたのは葉山だ。そうして今度は問答無用に陽一の腕を掴むと無理に立ち上がらせ、道の端へ連れて行ってから服についた砂利をぱっぱと払った。それから陽一のジャケットに手を触れ、さっと俯く。
  陽一はそんな葉山の姿を黙って見つめた。
「……呼ばないのに来るなんて初めてじゃん。何で来たの?」
「お、俺……」
  会いたかったから。
「………」
  そう言えば良いだけなのに、陽一はそれを言う事ができなかった。この期に及んでそんな台詞を吐く事は恥ずかしいと思った。泣きそうに今の状況に傷ついているくせに、まだ自分を護ろうとしている。別に葉山に彼女が出来たとしても、誰かと親しくなったとしても、それを自分は責められないし、もし葉山がその相手のところへ行ってしまったとしても大丈夫だと言わなければ。
  その為には葉山を好きな自分をここで晒す事は避けなければならない。
  バカだ。バカだ大バカだ。そんなくだらない事。
  分かっているのに。
「……何か言ってくれよ」
  黙りこむ陽一に葉山が情けない声を出した。ぎゅっと陽一の服を掴むと、ハアと深くため息をついて続ける。
「嬉しかったんだぜ? 浅見がここにいた事。お前、俺が呼ばないと絶対うちに来ないし、もしかしたら来たくないのかもって思ってたし。俺だけがいつも強引に誘うだけだろ」
「い、嫌なわけ…ない…」
「お前はいつもそう言うけど」
  笑ってから葉山は一拍後に続けた。
「その台詞すら俺が無理やり言わせてるんじゃないかって思い始めてた」
「どうして……」
「口と行動がめちゃくちゃあってない俺にお前が嫌気差したって言っても……俺はお前を責められないだろ」
「……け、携帯」
「ん……」
  思わず口の端に乗せた言葉に陽一は自分自身でも驚いた。けれど今なら訊けると思った。
「携帯、変えてないじゃないか」
「ああ…」
「何で…?」
  陽一の勇気を振り絞った質問に、しかし葉山は小さく笑って首を振った。そんな事…と、小さく口元がその台詞を形作るのが見えた。
「変えたって言ったら、もうお前からの電話は絶対来ない。来る予定のない電話を待ち続けて傷つかなくて済むから」
「お、俺…!」
「何」
「昨日、掛けた…」
「え? 俺に電話を? いつ?」
「ひ、昼…。大学の公衆電話から」
  陽一の必死の台詞に葉山は何ともないようにあっさりと返した。
「俺、分かんないところからのは取らないんだよ。メッセージ入れてないだろ」
「うん…」
「だろ。でも……そうか。お前、電話くれたの」
  静かに驚きが襲ってきたような葉山は何か眩しいものを見つめるような顔で陽一の手に触れた。どきんとして顔を上げると、葉山は更に顔を近づけ唇を寄せた。
「何で電話くれたの?」
「さ、最近…」
「会ってなかったから?」
「……うん」
「……ははっ。あいつらの言う通り」
「え」
  その言葉に陽一が怪訝な顔をすると、葉山は目を細めてそんな陽一の前髪を掻き上げた。
「さっきのツーリング仲間。俺みたいな粘着質な奴は適当に距離置いた方が相手から来てくれる確率増すって。俺、こう見えて相手追いかけた事なんかないからさ…。よく分からなくてお前の事あいつらに相談してた」
「そん…」
「あ、相手がお前だとは言ってないから。相手は女だと思ってるから。…ちゃんと」
  それから、と葉山は更に付け加えた。
「まさかくだらない誤解してないと思うけど、さっきの電話の相手は何でもない奴だからな。愛してもいないから。愛してない相手に愛してるって言うの、俺得意だから。適当な付き合いの奴だからな」
「………」
「お前が泣きそうな顔で走ってくから血の気引いたぞ」
「………」
「浅見? 誤解…してないだろ?」
「………うん」
  葉山のぽんぽん出てくる言葉を黙って耳に入れながら、陽一はただ無機的に頷いた。
  葉山に誤解してないよなと言われればしていないと答えるしかない。陽一は葉山に嫌われたくはなかった。本当は自分の知らない知り合いとあんな風に楽しそうに話していた事、自分の知らない相手に適当とはいえ「愛している」と言った事、その全てが嫌だと思った。誤解だろうが何だろうが止めて欲しいと思った。自分以外の人間たちと何て広い付き合いをしているのだろう葉山という人間がとても遠い存在に感じられた。心細かった。葉山の交友範囲が広い事などとうに知っていたし、葉山が人気者なのも当たり前の事だ。分かっている。だって葉山はこんなにカッコ良くて性格も良い、頭も良いし、楽しい事をいっぱい知っている。だから葉山は誰からも愛されて当然なのだ。知っている。だから自分は葉山に反論する事なんてできない。
  でも――……と、陽一は心の中だけで呟いた。

  電話の相手に、嘘でも愛してるなんて言わないで欲しい。
  適当に言える言葉なら、俺に言ったそれも適当なのか?

「大丈夫」
  誤解しているなんて絶対に言えない。
「……良かった」
  陽一の言葉に葉山はほっとしたようになって笑った。そうして俯き加減の陽一の頬をさらりと撫でると、「部屋来いよ」と誘ってきた。
「あいつら紹介するよ。割にいい奴ら。浅見とも気、あうと思うけど」
「ううん」
  けれど陽一はそれにはすぐに首を振った。
  絶対に嫌だ、それだけは絶対に嫌だ。そう思った。
「ごめん、今日はもう帰る。会えたから…。今日会えたから、それでいいよ。また……」
「……そうか」
  葉山は陽一を引き止めなかった。葉山は陽一の性格を分かっているはずだ。陽一が知らない誰かと葉山を介して過ごす時間を望んでなどいないという事を。
  それならあいつらを帰すからお前は残れ……。けれど葉山は、そうは言ってくれなかった。
  そんな事は贅沢な欲求だと陽一は自身、重々承知していたけれど。
「またな」
  その場で見送る葉山に陽一は律儀にぺこんと頭を下げた後、まるで先ほどの逃走の続きのように走り出した。全力で、息も止めたまま。
  早く、少しでも早く、走りたい。
  陽一は葉山に今の自分を見られたくなかった。




後編へ…