気遣いやさん



  浅見陽一には葉山怜という同性の恋人がいるが、その事を知っているのは姉の光だけだ。
「陽一。じゃあ明後日まで帰らないから。橋谷さんとこから荷物来る予定だから、それ受け取るのだけ忘れないでね」
「うん」
「じゃね」
「行ってらっしゃい」
  姉の光同様、行動的な母親は外出する事が多い。この日も昼間から家に篭もって読書の陽一をよそに、自分は近所の友達と二泊三日の温泉旅行に出かけて行った。
  父は父で黙々と仕事をこなす会社人間で、家族を顧みないわけではないが、少なくとも子どもに過剰な干渉をするタイプではなかった。
  そんな両親の下で育てられた長女の光は自由奔放で実にマイウェイな性格となり、末っ子である陽一は……引っ込み思案であまり自分の事を外に出さない地味な子どもとして成長した。
  それは大学2年に上がった今でも何ら変わる事はない。

「ねえ陽一。あんた葉山の事、お母さん達にはいつ言うの?」

  だから母不在のその夜、光が思い出したようにそう言った時、陽一は心臓が飛び出るかと思う程驚いた。
「な、何言ってんの…?」
「何言ってんのって。そっちこそ何そんなに驚いてんの? だってさ、あんた葉山と付き合ってくつもりなんでしょ、今後も?」
「今後…」
「そう。今後。将来。大学卒業してからも」
「………それは」
  そうだけど、と言った声は、しかしもごもごとして喉の奥で消えてしまった。
  光はそんな気弱な弟の態度にぴくりと一瞬肩先を揺らしたものの、特別いつものように叱咤するつもりはないのか「別にいいけど」と白けた調子で返した。
「あんたって不器用な付き合い方しか出来ないし。お母さんたちにいつまでも隠し続けててもさ、却ってストレスになるんじゃないかと思って言っただけ」
「別にストレスなんか感じてないよ」
「でも将来の事は不安なくせに。葉山がそう言ってた」
「……え?」
  そこで葉山の名が出た事に陽一が驚いて顔を上げると、光はベッドに腰掛け組んでいた足をさっと元に戻し、身体を屈めて頬杖をついた。姉の強い視線がそれでぐっと下がってきた事に陽一はたじろいだが、勿論、気になっている事をそのままにもできなかった。
「葉山…何て言ってたの?」
「知りたい?」
「あ、当たり前だろ…っ。大体、何でそんな話姉さんにしてるの? いつ会ったの?」
「別にあんたに内緒で会ったりなんかしてないわよ。あんたに掛かってきた電話取って話しただけ」
「は…はぁ? お、俺の電話って…あ! また携帯盗った!?」
「人聞きの悪い事言わないの。あんたがお風呂入ってる時に鳴ったから、親切で取ってあげただけ」
「普通は取らないよ!」
「煩いわねえ、いちいち」
  全く悪びれる様子もなく光は耳を掻く仕草までして見せてそっぽを向いた。
  姉のこういった傍若無人な態度はそれこそ陽一が物心ついた時にはもう始まっていた。結局のところマイペースな両親の育て方がどうというよりは、陽一の場合この姉に支配され育ってきた事が現在の弱気な性格を形成したと言えるのかもしれない。
「あんたが自分の親の事訊いてきたって」
  未だ恨めしそうな目を向ける陽一に光が言った。
  陽一はそれで途端我に返ったようになり、目を見開いた。
「え?」
「嬉しそうだったけど……ちょっと嫌そうでもあったかな」
「………」
  光のその言葉に陽一は動きを止め、息を呑んだ。
  葉山の両親のこと……確かに訊いた。別に将来がどうとか考えてその話を振ったわけではなかったのだけれど、もしかすると無意識下では「それ」を心配して口にしたのかもしれない。

「葉山の両親ってどんな人?」

  あまり陽一から話題を振った事がないから珍しいというのもあったのだろう。
  その日2人はいつものように葉山の部屋にいて、何をするでもなく葉山が作った夕食を取りながら別段見てもいないテレビをつけていた。
「共働きなんだっけ」
  葉山は何気なくそんな事を言い出した陽一を驚いたように見つめ、持っていた箸までテーブルに置いて酷く真面目な顔をした。
「何で急にそんな話?」
「え…何でって…。別に…」
  葉山がどことなく怒っているようだったので陽一も慌てた。
  元から気になっていたといえば気になっていたし、偶々つけていたテレビで「大家族物語」という特集をやっていたから流れで訊ねたというのもある。
  けれど陽一はその理由をうまく説明出来ず、思わず「別に」などと言いながら口篭った。
「今まで俺の親の事なんか訊いた事ないじゃん」
「う、うん」
「何。興味ある?」
「それは……うん」
  それは勿論あるから陽一も素直に頷いた。以前、一度だけ葉山が「親、あんまり好きじゃない」と言っていたのを覚えていたから、率先して話題にしてはいけないんだろうなと何となく思ってはいた。「世間体を気にする奴ら」だから、「最低限大学までは行ってくれ」と懇願されたという話も覚えている。
  だから、多分「もし葉山の両親が自分という存在を知ったら、きっと激怒するくらいではすまないだろう」と思った事もある。
  でも。
「特に…話したくないなら、いいんだけど」
  別に突き詰めて今話さなければならない事でもないしと自らに言い聞かせながら陽一は早口でそう言った。こちらを見ている葉山がやっぱり憮然としていたし、どういう風に対応していいか分からなかった。
「……別に嫌じゃないけど」
「え?」
  けれど葉山は葉山で、陽一の困ったような様子に気づいたのだろう。
  ようやくふっと視線を逸らすと、笑みはないまでも柔らかい調子で答えた。
「父親は高校で数学教えてる。母親は予備校の教室長」
「え…凄い。どっちも教育者なんだ?」
「凄くないよ別に」
「でも…。ああ、だから葉山って勉強出来るんだ」
  陽一が納得したように頷くと、葉山はやっぱりストンと機嫌を急降下させてむっとした顔を見せた。
「俺の出来は俺の努力の結果だよ」
「え……」
「あの人達に何かしてもらった記憶ってないし」
「………」
「そりゃ、学費出してもらってるし、そもそも産んでもらってるし? ちっとは受け継いでるもんもあるんだろうけど、基本的には別の人間だから。そんなまともな会話したって記憶もないし」
「ご、ごめん……」
「………別に浅見が謝る必要ないけど」
  この話はもうやめようぜと葉山は気まずそうに言い、それから暫くは何も話そうとしなかった。
  けれど陽一がそのせいでとことんまで落ち込んでしまったのは容易に分かったのだろう、夕食を済ませて後片付けをする頃には、もう葉山の方がやたらとそわそわして落ち着きがなかった。
「浅見」
  そうして半ば焦った風になりながら、葉山は陽一を台所の流し場で抱きしめると、強引とも取れる口づけをして言った。
「浅見。俺…俺、浅見のこと、好きだから」
「う、うん。俺も……」
  だから陽一も必死にそう答えて頷いたのだが、葉山はそんな浅見を見ても安心しなかったようで、もう一度ちゅっと軽いキスをした。浅見がそれにぼっと赤面すると、調子に乗ったように、二度、三度と。
「んっ…」
  そして陽一がそのキスに溺れかけた時、葉山は自身もそうなりかけていたのをふと止めて、「あのさ」と突然言い淀んだ声を出した。
「浅見が俺の親に会う事は多分一生ないと思うけど。俺は…そのうち、お前んとこの親には会うつもりだから」
「え」
「俺も、お前の親の事は気になってるから」
「葉山……んっ…」
「浅見」
  葉山はその後も立て続けのキスを仕掛けた。陽一は案の定それでいっぱいいっぱいになってしまい、結局その話題はそれきり終わりとなった。
  葉山もやっぱり、あの事を気にしていたのか。

「いずれきちんと挨拶するつもりだからって言ってたよ。葉山」

  はっとして顔を上げると光が探るような目をして陽一を見ていた。そして立て続け、思い切りからかうように形の良い唇を上げると、光は「うへ」と気味の悪い笑声を立てて言った。
「それってさあ、やっぱりあれ? 『娘さんを僕に下さい!』ってやつかな。あ、あんた息子だっけ」
「姉さん! で、出てけよ!」
「はあぁ? 何よその生意気な態度は〜!」
「痛っ! う、だ、だって…姉…痛い痛ひ!」
  伸びた爪を容赦なく立てて頬をぐりっとつねってくる姉に陽一は情けなくも悲鳴を上げた。どう考えても悪いのは姉の光の方である。自分は悪くない、そう思うのだが、光は光で陽一が自分に逆らう事に慣れていないのか、一向引く気はないらしかった。
  それで結局。
「ご、ごめん…! 悪かったから離し―!」
「……ようし」
  一体全体何戦0勝何敗なのか。いずれにしろ、陽一はヒリヒリとする頬を押さえながら光を前にがっくりと項垂れた。姉には一生勝てない気がする。
  またそんな脱力感と共に、葉山の言った言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、陽一は少しだけ胸が痛くなった。
  葉山が自分の両親を気に掛けていずれ会うと言ってくれる事は、勿論とても嬉しい。けれど、同じくらいとても不安だ。葉山がああ見えて実はとても繊細で考え込んでしまうタイプだとはいい加減陽一もよく理解しているつもりである。だから葉山が一人でいる間にどういった思考を経てそういう結論に至ったのかを想像すると、それは必ずしもただ明るい未来だけが待っているように思えなかった。
「あんたは向こうの親にはいつ会うの?」
  そして姉の光は弟である陽一に考える隙を与えてくれない。この人は一体いつになったら自分の部屋に戻ってくれるんだろうかなどと考えながら、陽一は仕方がなく背中を丸めてぼそりと答えを出した。
「葉山は…俺が葉山の両親に会うのは嫌みたい」
「え? 葉山がそう言ったの」
「うん。多分会う事は一生ないだろうって」
「……ふうん」
  光はそれを聞いて何事か考えこむように片手を顎先に当てて再び足を組んだが、やがてぱっと顔を明るくさせると、「まあ、さ」と声色も弾んだものにして言った。
「あんたらどうせ成人してるんだし。あと数年もすれば働くだろうし、そしたら一人前よ。その後は結婚しようがどうしようが、あんたらの勝手だもんね。親は、まあいいんじゃない?」
「何が…」
「そんな気にしなくてもさ」
「そ、そうかな…」
  姉は気にしなさ過ぎなんじゃないかと一言口にしそうになったが、陽一は慌ててその言葉を飲み込んだ。
  勝手にし過ぎる姉は仕事を辞める時も両親には一言もなかったし、恋人をころころと変えては修羅場を起こす事もしょっちゅうだ。当然、結婚のけの字もその気配を見せない。そんな破天荒な娘を「どこか諦めの境地」で見ている両親が、引っ込み思案ではあるが「人並だろう」息子の陽一に期待している事は、陽一にもよく分かっていた。その期待は勿論大金持ちになってとかテレビに出るくらいの有名人になってとかそんな飛びぬけたものではなく、どこぞに就職して、それなりの年頃になったら似合いの女性と結婚して、子どもを作って育てて…といった、ごくごく一般的な期待である。
  人によってはくだらない、つまらないものに思えるかもしれないその普通の幸せが、両親にとってとても大切なものである事は陽一もよく分かる。それをバカにするつもりも毛頭ない。
  というか、葉山に再会するまでは陽一も自分の人生をそんな風に歩んでいきたいと考えていたから。
  だから、今の状況は幸せだけれど、本当にぽっとした時にじりりと不安になる事があるのだ。
  それを葉山も感じていたのだとしたら、陽一は何だかとても居た堪れなかった。ただ何の考えもなく「自分たちの好きにしよう」なんて言葉は到底吐けなかった。
「あんたらって……」
  下を向いたままじっと何も言わない弟の姿を見て、光はまた何か言いたそうな顔をした……が、結局そこまでで、口煩い姉もその夜は特にそれ以上口を挟もうとはしなかった。陽一にはそれがありがたかったが、一方で姉は何を言おうとしていたのか、いつもはお節介が過ぎるとしか思わないくせに、やっぱり少しだけ気になってしまった。



 

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