機械を愛すれば



  振り返るな。
  そんな恐ろしいことを、しかし葉山は心のどこかで願っていた。振り返ってくれなければ話は簡単だから。「もう終わり」と判断できた瞬間に自分は決断できる。もしも陽一がこのまま一度もこちらを顧みることなく去るのなら、今度こそ本当に誰の手も届かない場所へ閉じ込められる。その方が楽だ。
  だからもう、振り返らなくていい。いっそ振り返るな。

  連絡する―…。

  けれど陽一は振り返った。
  ドアを開けた先、目前の手摺に手をかけ、アパートの敷地を出る陽一の背中を眺めていたら、果たしてその恋人は振り返って葉山のいる2階を見上げた。そして葉山がそこにいることに驚きの表情を浮かべはしたものの、確かにその唇は大きく動いて、「また連絡する」と言ったのだ。
「……おひとよし」
  陽一に対する印象と言ったらそれが1番だ。後追いしていたことを気づかれたことは決まりが悪い。それでも、その恥ずかしさをごまかすように振ったこちらの手にすかさず返してくれて、さらに「連絡する」まで言ってくれた。ただ単純に、嬉しいと思う。陽一に依り過ぎであるとはいい加減自覚している。しかし葉山はこんな時、やはりアイツこそが自分を最もよく理解してくれる人間なのだと実感するし、決して手放せない存在だと確信するのだ。だから葉山はそんな陽一が通りの向こうへ消えてしまうまで、じっとその姿を追い続けた。やっぱり、振り返ってもらって良かったと思えた。
  その後、恐ろしく静かになった部屋へ戻ると、テーブルの上に放置していたスマホがちょうど誰かからのメール着信を告げてきた。開いてみると、それは霧島(きりしま)というツーリング仲間からで、時間があるなら彼が経営しているバイク店へ来ないかという内容だった。随分と久しぶりだと思う。以前ならこの手の誘いがかかることも珍しくなかったが、葉山はこのアパートへ越してくる前、これまでの友人知人とは大部分、一方的に連絡を絶っていたから、霧島のようにそうはしきれなかった相手でさえ、自分から連絡することはなくなっていた。人と付き合うことそれ自体が面倒になっていたのだ。
「まぁいいか…」
  それでも何となく、今日の予定であるはずだった「大学の指導教官に会う」よりは気楽だと思い、葉山は「これから行く」と返信した。



  霧島という人物は三十代前半の小柄だが筋肉質の男で、常に無精髭、坊主頭、白いTシャツにグレーの作業服を身に纏っているという、一見して野暮ったい外貌をしており、仲間からは何故か「坊(ボン)さん」と呼ばれていた。葉山はどうにもそれに合わせられず「霧島さん」と呼んでいたが、彼の大らかな性格に調子づいて「弁えない」年下のバイク仲間は時々お灸を据えられることがあったというから、そうして一歩引いた接し方で正解だったのかもしれない。お陰で葉山はバイクに関して、商売柄いろいろと詳しい霧島から何かと耳寄りな情報を教えてもらえたし、愛車のちょっとした不具合なら無料で直してもらえた。ツーリングに最適な場所や時間帯を知らせてくれるのも霧島だったし、思えば、高校を辞めることを一番に話して聞かせたのも彼ではなかったか。この頃はそんな「先輩」の店にもめっきり足が遠のいていたが、両親との仲が悪く、兄弟のいない葉山が、この十ほど年上の霧島に少なからず親しみを持っていたことは間違いがなかった。
  陽一の話をしたことはなかったが。
「お前、タイミング悪すぎ。まさか今日来るとは思わないわー。今日は忙しい、俺は」
  久しぶりに会った後輩に向かって、霧島は開口一番迷惑そうな顔でそう言った。
  駅から十数分歩いて、交通量の多い国道を突っ切った先に霧島のバイク店はある。一軒隣に極真空手のジムがある以外、他に店らしきものはなく、周囲は割と閑散とした場所だ。
  しかしバイク販売のみならず、廃車寸前と見紛うような中古車や農工作業用の埃を被った軽トラといった、バイク以外の修理も請け負う霧島の店には、店舗の隣の駐車スペースに沢山の車が置かれていて、なるほど確かに商売繁盛といった様子が見て取れた。
  灰色のコンクリートに寝そべってちょうど車体の下にいた霧島は、葉山の足を見るとすぐさま出てきて先の台詞を発し、その後も「忙しい」と何度も言った…が、それで葉山が帰ろうとするのはすかさず引き留め、頬についた泥を手の平で拭いながら「とりあえず店で待ってろ」と命令した。今日は社長である父親の姿がない。独りで仕事をしているようだった。
  特に用もないしと、無人の、しかしピカピカのバイクが整然と並ぶ店内に足を踏み入れると、葉山は、あぁ確かにここは久しぶりだが、相変わらず好きな匂いだと肩の力が抜けた。知らず、無沙汰の知り合いと顔をあわせることに緊張していたらしい。どうにも元の社交的な性格とは遠い人間になったものだと自嘲しつつ、葉山はふらふらと狭い店内を何気なく一周し、それから奥の自宅へ通じるレジカウンター横の丸椅子に腰をおろした。そうして大小色とりどりのバイクを改めて眺めてから、もうどれだけ走っていなかったかと回想した。バイクを嫌いになったわけではない。ツーリング仲間も他の遊び仲間とはどこか一線を画していて、霧島をはじめ、付き合うには気楽な連中が多いと感じている。
  それでもここから足が遠のいていたのは、きっと嫌なことを思い出してしまうからだ。
「やばいな…」
  咄嗟に呟いてから、葉山はジーンズの尻ポケットにしまっていた携帯をおもむろに出して、何ともなしにメールを開いた。着信はない。一瞬、陽一に打とうかと考えてすぐやめる。特に用がなくともメールを送ることなどしょっちゅうだが、さすがに先刻別れたばかりだし、別れ際にバカなことを言って無駄に怯えさせたばかりだし。
  今朝がた、葉山が「帰したくない」といった本音を思わず漏らした時――否、恐らくはその前からかなり思い詰めた顔をしていたのがいけなかったのだろうが――、陽一は「怖い」という、実に正直な感想を零した。勿論、葉山はそんな陽一の態度に傷ついたし、顔には出さないまでもいつものどうしようもない怒りを感じたのだけれど、自分が悪いことは一応理解していたので、全ては「冗談」であるという、いつものごまかし台詞で何とかその場をやり過ごした。しかし、靄は晴れない。陽一とは進路のことを真面目に考え直すと約束したし、だからこそ今日は、本当は大学へ行くべきだった。特に用もない昔馴染みの店で、こんな風にグダグダしていても何の意味もないことくらい分かり切っている。それでも葉山はそこから動けなかったし、意味もなくスマホの画面を眺めては陽一に連絡したい、いや駄目だと埒もないことを考え、そんな自分にまた苛立った。
  それから、消さずに済んだ陽一の写真を次々と眺めながら、今頃あいつは何をしているのだろう、またあの強引な姉に引っ張られて好きなように町中を連れ回されているのかと思い、胸の中がざわついた。それに従い、アルバムをめくる指先も速くなったが、陽一が裸で眠る画像に行き着くと、思わずといった風にピタリと動きが止まった。
  口では「消した」と言ったけれど、昨夜撮った画像も含めて、陽一を撮った写真は全てこのスマホとパソコンに保存されている。あんな言葉だけでこちらの言ったことを信じるなんて、陽一は馬鹿だと思う。消すわけがない。これらは保険でもある。もしまた陽一が「別れる」などと言い出した時に備えての、限りなく悪意に満ちた保険。そんな己が最低な存在だということは葉山も重々承知しているが、それでも、どんなことがあっても陽一を手放すことはできない。
  葉山がそうして鬱々とした時を過ごしている間、店には数人の客がやって来た。客、というよりは霧島の馴染みという感じで、その全員がバイクというより霧島自身に会いに来た風だった。相変わらず顔が広い。ただ、今日忙しいというのは本当らしく、外で作業している霧島はそうして訪ねてきた者たちを全て無碍に追い返し、やたらと大きな声で「バカ野郎」とか「ぶん投げるぞ」といった捨て台詞を放って笑っていた。それは霧島の愛嬌に満ちたいつもの口癖で、仲間内では「さようなら」の代わりみたいなものだったのだが、その声を遠巻きに聞きながら、葉山は「浅見だったらビビりまくるだろうな」などと思ったりした。
「寝てんのかよ」
  汚れたタオルを首に引っ掛けながら霧島が店内に戻って来てそう言ったのは、それから数時間後のことだった。気づけばもう昼もとうに回っている。丸椅子に腰かけた状態で腕を組み、俯いていた葉山は、起こしていいのか悪いのかといったどこか遠慮しがちな声に逆に驚いてすぐに目を開けた。確かに寝ていたのかもしれないと思った。
「ちょっとウトウトしただけ」
「寝不足か? ちゃんと寝てんのか、普段」
  店に入ったら入ったで、気になる機体でもあったのか、霧島はそう訊いた葉山の元へはすぐに行かず、店先にある一台のバイクの傍にしゃがみ込んだ。
  だから葉山は、坊主頭しか見えなくなった姿に向かって声を返した。
「まぁそれなりに」
  とは言え、最近はすっかり眠りが浅くなっていた。陽一に会えたら抱き殺す勢いで一晩離さないことが常だし、会えない日は陽一が何をしているのかと気になって眠れない。それを気にする自分がまた嫌で目が冴える。
  要はどうしようもない日々なのだ。それが加速度を増して、この頃ではどんどん酷くなっている。
「今日、何の用だったんですか」
  しかもそれを全く関係ない第三者に当たりたくなる時もある。一応気をつけているつもりではあるが、あぁこのままここにいるのはまずいかもなと、葉山は口を開きながら咄嗟に危機感を抱いた。
「用ってほどの用はない。俺の美しいインディアンスカウト見せてやろうかと思って」
  そんな葉山をよそに、霧島は呑気な口調で返した。お陰で気が抜けたのだが。
「そんな感じかなとは思っていましたけど」
「そんな感じってどんな感じだよ。お前っていつも何気に失礼だよな、言い方。もっと、すげえ、今度はどんな改造を!?とかって大袈裟に興味向けろよな。ま、あのエンジンガード見たら唸るだろうが。俺も自分のことながら唸っている、何で俺はいつもこんなにカスタムセンスが良いのだろうかと」
「知ってます」
  霧島は「バイク屋だからバイクが好きで詳しい」のではなく、むしろ昔は、「バイクを愛しているからこそ、バイク屋にはなりたくない」と言っていた。仲間は緩い親の後を継いで日がな一日バイクを眺められる(と思っている)霧島の境遇を羨ましいと常より言っていたが、霧島自身はそれに何も反論しなくとも、腹の底で「こいつら、分かっちゃいねェな」と思っているだろうことは、葉山にも何となく察しがついた。実際、霧島は他人の境遇を羨んでばかりの人間とは巧く距離を置いていたし、その手のことは本人からも「ただでさえしんどいのに、“コイツ無理”と思う奴と無理に付き合いたくはない」と聞かされていたから、そこは自分と似ているとも感じていた。
  否、葉山は「それ」がしきれなかったからこそ、特に高校時代は散々苦しんだし、浅見陽一なる同級生にも嫉妬したし、同時に激しく惹かれたし。それを引きずったまま大学生になったから、陽一と付き合うまでは「無理な相手」とも付き合っていたわけで……だから陽一との関係が始まった当初はバカなこともしでかしてしまった。
  あぁやっぱりだ。ここにいると嫌なことを思い出す。
  葉山はチリリと心の奥で小さな火がちらつくのを感じながら、未だ機体の調整に目を光らせる霧島の姿を見やった。何だかんだと仮眠をとるほどここに居てしまったくせに、今はいつ帰ると言い出そうか考えていた。
「昼飯食ってけよ」
  それを察知したのか霧島が言った。ようやく立ち上がり、葉山の元へやってくる。近づかれるとやはり迫力を感じた。仕事を持つ男の貫禄とでも言おうか、それは今の葉山には確実にない雰囲気だった。
「バイクは?」
「飯食いながらでもいいし。カップ麺しかねェけど」
「今日、オヤジさんは?」
「出張。アメリカ」
「マジですか」
「大マジだよ。あの野郎だけずりぃよな?」
  首にかけていたタオルをレジの横にバシンと投げ置くと、霧島は葉山を押しのけて奥の居間へ上がり、「カップ麺、選べるほど種類ねぇけど、カレーとシーフードはある」と言った。
「俺、いいです。食欲ないんで」
  帰りたいから言ったのではなく、それは本心だった。全く関係ないと思いながらも、浅見はグルメな姉に連れられて外で美味いものを食べているのだろうなと考えると、余計に何も食べる気がしなかった。
「お前さ。何かやべぇの?」
  しかし霧島がふと真面目な声でそう言ってきたので、葉山はハッとして顔を上げた。気づけば霧島は何故か卓袱台の傍で正座しており、それが本人のキャラクターとは妙に異質で滑稽だった。
  それでも葉山は笑わなかったが。
「何ですか、やべぇって」
「知らん。けど、周りの奴らが言っている。お前が最近病んでいると」
「は?」
  軽く笑い飛ばしてやろうとしているのに、今度は霧島が笑わない。膝に両手を置いて、小さい子どもが怖い親を伺いみるような殊勝な格好で問い質してくる。いい加減むず痒くなり、葉山は多分に仰け反りながら眉をひそめた。
「とりあえずその格好やめてくれません?」
「ウケるか?」
「ウケますよ、勿論。というか、変だし」
「じゃあやめてやるよ」
  俺も気持ち悪かったしと、霧島は一気に胡坐をかいていつもの態勢をとり、今度はがっつり腕を組んで葉山の顔を睨み据えた。
「お前が女を大事にしない話も聞いた」
「……誰に」
「誰でもいいんだよ、んなこたぁ。俺が不誠実な輩が嫌いなことは知ってんだろ」
「知ってますよ。霧島さん、真面目だし」
「おぉ、そうだよ。だから俺は、もともとお前みてェな、モテ顔の男は大っ嫌ぇ。何もしなくても女寄って来るし。はっきり言うとむかつくわな」
「それと真面目は関係なくないですか」
「けど分かんねぇけどよ、お前はお前で、もしかしたら大変なのかもしれねぇとも思うよな」
  葉山のツッコミなど丸きり無視して霧島は言った。
「例えば、全く興味ねぇ女とかも沸いて寄ってくるわけだろ、お前の場合。俺の場合は男がそういうパターンで次から次へと群がってくるわけだが。だからこそ、女が寄って来るお前が羨ましいとも思っちまうわけだが」
「霧島さん」
「けど、もしかしたら俺が日々感じている鬱陶しさをお前も感じているんだとしたら、そりゃあ、ちっとは可哀想だなとも思うわけだ」
「これって一体何の話なんですか」
「お前が殆どの奴を勝手に切って、音信不通になっている話だよ」
「………」
  葉山が思わず黙りこむと、霧島は「お前にとっては」と腕を解きながら言った。それから傍の急須を引き寄せて茶葉を確認し、ポットから湯を入れる。
「お前にとっては、もう結構前の話かもしれんけどな。引っ越して大分経つだろうし。どんくらいだっけか? 忘れたが。まぁけど、じわじわときているんだな、これが。怜どこ行った、お前は連絡先知ってんのか、とかな。女の中には、お前の大学行ったヤツとかもいるらしいじゃねーか」
「知ってますよ、声かけられたし。普通に話しましたけど」
「けど連絡先は教えなかった」
「そんな親しくもない相手なんだから当たり前でしょ? 下手に出回ったらヤだったんで。引っ越した意味なくなるし」
「無理やり捨てた女のダチだったりするしな、そういう時に勢い込んで来るヤツって」
「………何が言いたいんですか」
  まさかと思ったが霧島がそういう話を持ってくるとは。不快な、しかし「自業自得」という想いとも相俟って、葉山は喉が詰まるのを感じた。
  それを察したのか単なる偶然なのか、霧島は自分の為に淹れたのかと思っていた茶の入った湯飲みを葉山に差し出してから続けた。
「俺だってこんな説教くせぇこと言う役、やりたくねぇよ。けど、マサキ達も最近のお前の態度は行き過ぎだって言い出しているしな。女のことはともかく、偶に一緒に走る奴らとはうまくやっていたいだろ、お前も」
「俺、もう走らないと思う」
「………はぁ?」
  霧島が初めて剣呑な顔を見せた。葉山はそれを見て、「あ、これは本当にぶん投げられるかもしれない」と思わないでもなかったが、「それならそれで案外スッキリするかも」という半ば自虐的な想いもすぐ沸いた。
  だから迷わずに告げた。
「俺もう、浅見のことしか興味がない」
  そう言った瞬間、思い出したくもない「嫌な予感」と称してごまかしていたその映像が、まさしくはっきりと葉山の脳裏に浮かび上がった。

  浅見が初めて予告なく自分からアパートへ来てくれた時のこと。その時の自分。受話器越し、歯が浮くような軽い口調と笑顔で、浅見以外の人間に「愛している」との言葉を放った。それを聞いていたバイク仲間はからかうように笑って冷やかし、葉山もまたそれに呼応して嗤った。
  それをもろに目撃し、蒼褪めていた浅見。

  あの時の葉山は、陽一となかなか関係を進められないことに苛立ち、「本気でなくていいなら」という条件付きで、何年か前にバイク仲間を通じて知り合った子と身体の関係を持っていた。要は浮気、或いは二股? 否、あの時の葉山にそういった意識は薄かった。すでに陽一以外の人間などありえないと思っていたし、実際、自分の不貞を見られて陽一から逃げ出された時は心底焦ってその背を追った。本来ならその場で土下座でも何でもして、なりふり構わず謝るべきだったし、多分、追いかけた時はそうするつもりで走っていた。
「バイクを愛している時は良かった」
  それなのに陽一と面と向かった途端、急に殴りたくなるような、とことん虐めたくなるような衝動が全身を襲って、葉山はあの時、平静を保つので精一杯になってしまった。
  葉山は陽一を深く愛しているのに、同時に堪らなく憎くて仕方なくなる時がある。腹の底からせりあがる感情が怒りなのか悲しみなのかは分からないが、何にしろ「いいものではない」と自覚している。
  それを仲間たちが「病んでいる」というのなら、それは間違いなくそうなのだろう。
  手にした湯飲みを口に運ぶことなく、葉山はただその静かに揺蕩う液体を見ながら呟いた。
「無機物相手ならこんな苦しまずに済んだし、今でも皆と適当やって、うまい人間関係築けていたと思う。俺、そういうのには自信あったし。……女に不誠実っていうのは変えられていないと思うけど、皆に不誠実なスタンスならある意味平等でしょ。『怜は最低な女好き』ってことで話は済むんだろうし」
「実際、今もそれはそれで済んでるぞ。お前の大学まで行ったヤツが『あんな最低男はやめとけ!』つったお陰で、お前に捨てられたって子も、最初はいろいろ拗ねてたらしいが、今は新しい男もできたらしいし」
  葉山の独語のようなセリフに霧島はきちんとした返しを寄越した。葉山はそれに内心で狼狽えながら、言われた内容は心底「良かった」と思ったので、「それは良かった」と素直に返した。
「けど時々、『やっぱり怜の方がカッコ良かったし好きだった』つって、今の彼氏とはしょっちゅう修羅場なんだってよ」
「それ俺のせい?」
「いや全然。しかし何だ? お前、今さっきすげぇサラッと言い放ったけど、何? アサミちゃん?…って子のことが好きなのか、今? その子のことしか興味ねえって?」
  恐らく霧島は「浅見」を女子と勘違いしているとは葉山にもすぐ分かったが、面倒なので訂正しなかった。そもそも、何故咄嗟に浅見の名を出してしまったのか、我ながら驚きだった。
  そんな葉山をよそに、霧島は考え込むような態度で再び腕を組んだ。
「あっ、そうなん。へえー、そうだったのか。お前がねえ…。まぁ別に、好きな子ができたってのは悪いことじゃねーし、むしろお前みたいなのにはイイコトなのかもしんねーけど。それで何でこれまでの人間関係まで絶つことになるわけ。そこがさっぱり分からんのだが」
「…霧島さんとは縁切ってないでしょ。ここにこうして来ているわけだし」
「まぁそうかもしれんが。彼女大事で、ダチとの関係がテキトーになる男なんてのも珍しくはないし? むかつくけどな。けど走るのをやめるってのは? アサミちゃんがバイク嫌いなのか」
「別に…」
「彼女に注ぐ時間が1日24時間じゃ足りないと」
「何それ」
  笑い飛ばそうとしたが失敗した。戸惑っていたから。葉山自身、突き詰めていなかったが、まさにそうとしか言えない答えを、今日初めて陽一のことをちらつかせた相手に見透かされてしまった気がして。
「何それじゃねぇ。要はそういうことだろうが」
  憮然とした様子の霧島は、自分にも淹れた茶をぐいと飲み干してから続けた。
「お前は俺とは違うからな。いや、同じバイク好きと認めちゃいるが。…お前さっき愛車のこと、無機物って言っただろ。そういう違いはある」
「何か腹立ったならすみません」
「馬鹿、違ェよ、そんなことでいちいちキレるか。お前がお前なりの愛情でバイクを愛していることは俺にも分かっている。だから俺は、お前のことは認めている」
「…どうも」
  葉山の気持ちのこもっていない礼に、勿論霧島も無感動だ。卓袱台に置いたカップ麺の外装フィルムをびりびり破きながら葉山を見ずに喋る。
「俺が言いたいのは、お前はバイクを愛しちゃいるが、もしか先にカーレースと出会っていたらそっちに行っていたかもしれねーし、雪国に生まれていたらボードにハマったかもしらん。海辺育ちならジェットスキーな」
「はあ…」
「とぼけたツラしてんじゃねえよ。今のは単なる俺の貧相なイメージから湧いて出たってだけのもんだ。要は、お前はスピードとスリルの世界で生きていたい男ってこと」
「……へえ」
  何故か一瞬、返しが遅れた。
「知らなかった。俺ってそうなんだ。けど、遊園地のジェットコースターとか好きじゃないけど」
「茶化すなよ、そもそも遊園地なんて柄じゃねーだろ、お前。だが確かに、ちっと例えがまずかったな…。そう、つまりは非日常ってやつだ。お前はこの、クソッタレな現実世界じゃない、今いる場所からは見えない景色に憧れを持っている男なわけよ。うん」
「うんって」
「それに、お前って実は天体観測も好きだろ?」
  霧島の指摘に葉山はやっぱりごまかし笑いができなかった。
  それでも何とか「普通」を装う。
「実はって、別に隠してないですけど。星見るのなんて、前からまぁ好きだし…あれだけ夜に走ってりゃあ―…」
「けど、マサキとかはそういうの気づいてねーと思うぜ。俺もそうだけど、あいつらは如何にカッコ良く愛車をカスタマイズするかってことや、如何に速く走るかってことに重きを置いている。けど、お前は何処を走って、何を見るかが大事なんだよな」
「……だから?」
「だから? だからって、うまく言えねーよ、馬鹿。えーと何の話なんだっけか。そう、つまりは、お前は誰に対しても適当だけど、それを何とかしたいともがいて生きていたところは俺と似ている。だからそういうお前にバイクだのスリルだの星だのって、趣味が多いのは結構だ、好きな子ができたことも喜ばしいのかもな、むかつきはするが」
  けどなぁと。いやに間延びした声を出してから、霧島は天井を仰ぎつつ唸るような声を出した。
「惚れた子のことしか考えられないってのは……、そういうモガキ属性のお前にとっては如何にもやばそうだから気をつけろ?」
「………」
「あぁ、そうだった。お前がやばいって連中が心配してるっつー話をしようと思ってたんだ、思い出したわ!」
「……バイク見せるってのは口実で?」
「そうだな。まぁどうせお前も興味ないだろ」
「そうですね」
「………」
  言ったきり思わず黙りこむ葉山に、霧島は急に足を伸ばして仰け反るような態勢を取ると、何気ない感じで言った。
「今度紹介しろよ、アサミちゃん」
「嫌ですよ」
「即答かい。何でよ? つまり、周りと関係切ったのもそういうことか? 俺らに紹介して、その子横取りされたら困るとか思ってたり? 言っておくが、俺らは女関係についちゃ、お前ほどクズじゃねえぞ」
  ダチの女横取りするヤツがいたら俺がぶん投げると霧島はいつもの調子で淡々と告げた。葉山はそれに苦く笑って見せてからかぶりを振り、レジ横のカウンターに、まだ中身が残っている湯飲みを置いた。
「俺がクズだから会わせたくないんですよ。霧島さん達だけじゃなくて、世の中の人間なんて、俺よりイイ奴ばっかりでしょ」
「あん?」
「だからあいつには誰にも会わせたくないし…、できれば俺しか見えない場所に監禁したいってしょっちゅう思ってる」
「はあぁ…?」
「それに俺、付き合う前っていうか、そいつのことが好きかどうか曖昧だった時は、表でイイ面見せて、裏ではイタ電かけまくって、あいつが怯える声聞いて面白がってた」
「……それは何の例え話だ?」
  よくもこんな話についてくるものだと葉山は霧島に目を見開いたが、こうなるともうついでだからと、開き直って訊く方を重視した。
「冗談じゃなく、ホントの話ですよ。俺は浅見を好きで大切にしたいって思っているけど、同じくらい虐めてやりたいっていうか、無性に意地悪したくなることもあるって話。霧島さんにはそういうのないの」
「いや……そりゃガキの頃はな……好きな子のスカートめくったりとか……」
「つまり俺はまだガキってこと?」
「いやお前のそれは、何かストーカーっぽくねえ? 彼女、お前のそういう危ないとこ知ってて付き合ってくれてるのか?」
「一応」
「凄いな、そりゃあ。見てくれの勝利だな」
  思い切り嫌味を言われて葉山はむっとしたが、言い返せる立場でもないので黙っていた。やっぱり言わなければ良かったか。いや、本当は霧島がここまで引かなければ、きっともっと「ドン引かれること」を喋りたかった。そんな気もする。付き合うようになった後も、なかなかヤラせてくれないことに焦れて、だから浮気したということ。それを許された後も何かと駄々をこねては酷いセックスを強要し、別れようと言われた時には首を絞めたこと。さらに折を見ては写真を盗み撮り、それはいつかまた別れたいと言われた時の保険として使えるように隠してあることまで――。
  その時、不意に携帯が震えて、葉山はぎくりとして身体を揺らした。霧島が「誰」と訊くのでスマホを取り出し画面を開くと、それは思いも寄らぬ相手―…陽一の姉・光−からで、もし暇なら新宿で陽一とお茶を飲んでいるから来ればという誘いだった。
「誰。アサミちゃん?」
「の、姉貴」
  葉山の答えに、霧島はどこかホッとしたように表情を明るくした。
「は? 家族ぐるみの付き合い? 監禁したいとか危ないこと言っているから、彼女とはもっと閉鎖的な付き合いかと思ったわ。ちょい安心したわ」
「勿論、この人のことも嫌いですよ。邪魔」
「お前な。……で、その姉貴が何の用だ?」
「今、浅見とお茶しているから、来られるなら来ればって」
「行くのか」
「まぁ暇だし」
  本当は光になど会いたくない。大体、陽一と会うのも何となく気まずい。今朝がた別れたばかりだ。メールすることすら躊躇っていたのに。
  けれど会えるのなら、やはり会いたい。迷う余地がない。
「連れて来いよ、彼女。今度。絶対」
  立ち上がった葉山に霧島は座ったままの態勢でそう言った。結局、霧島自身には本当に用などなく、ただツーリング仲間からの「最近の怜は付き合いが悪い」、「あいつはヤバい」といった訴えを確認する為、久々に顔でも見ておくか程度の心持ちだったのだろう。この閑散とした場所に、それでも定期に人が訪れるわけだと妙に納得して、しかし葉山は振り返りざま、やはりそれならこれも訊いておこうと口を開いた。
「それで俺って、やっぱり『やばい』って感じでした?」
「はぁ? ………うーん、さあなぁ。アサミちゃんを見てから答えるわ」
「………」
  その返答は葉山の期待や予想とは遥かに遠い回答だった。
  葉山は別れの挨拶もほどほどに、オイルの匂いに満ちた、元は大好きだったその空間から背を向けた。そして、きっともうここへは来ないのではないか。そんな風に思った。



 

後編へ…