夕方のデート |
陽一が自分のその変化に気が付いたのは、事が起きてから数秒後のことだ。 「あれ?」 別に大したことではない。そのはずだけれど、その違和感には自身で戸惑った。気持ちの一方では、「こんなことも偶にはあるだろ」と思っているのだが、その「偶に」というやつが記憶の中ではあまりなかったからこそ、僅か数秒で「おかしい」ことを感じ取ったともいえる。 何ということもない、陽一はさきほど葉山からメールで、「今日大学終わったらうちに来て」といういつもの誘いがあったのを、「家の用事がある」と断ったのだ。別に嘘などついていない。その日は姉の光から「早く帰ってきて」と頼まれていて、それが何故かは分からないまでも、「分かった」と約束していた。いつも人の予定を勝手に変えてこようとする身内の意味不明な要請と、恋人からの誘い、どちらを優先するか。それは陽一の自由だ。傍から見れば、そんな理由の分からない「用事」を取るだなんてという向きもあろうが、陽一にとって姉は大切な存在だし、また「先に約束した」ことを尊重するのも当然の行為だった。 それでも「あれ」と思ったのは、全く迷いもなく、即断りの返事を入れたせいだろう。普通、恋人から「会おう」と言われたら、嬉々として応えるだろうし、仮にどうしても外せない用事があったとしても、「本当は会いたいのに」という悔しい気持ちを抱きながら断腸の想いでその誘いを断るはずだ。 けれどもこの日の陽一にそれはなかった。 (何か……よくないな、この傾向) 無意識に足早となりながら、陽一は頭の片隅で自らの言動を振り返り、ため息をついた。 葉山と会いたくない、わけではない。そのはずだ。 そう言い聞かせるように思い直しながらも、一方では「ここ何日かの葉山のせいだ」とも思っている。葉山を責めたい気持ちが少しある。何故って、ここ数日、2人は日を置かずに会っていたが、その度に陽一は葉山からの求めに応じて、長時間、身体を開かねばならなかったから。 (どうせ今日も、会ったらすぐやりたいとか言うんだろうし…。やっぱり、うん。偶にこうやって断ってもいいよな?) 誰に言い訳をしているのか、陽一は早急にそう結論づけると、ふっと肩に入れていた力を抜いた。 しかし帰宅してから姉のその「用事」とやらを聞いた時は、さすがに唖然とした。 「……嘘でしょ?」 だから思わずそう訊き返したのだが、姉は「何が」と全く平然としている。 そうしてリビングのテーブルに開きっ放しとなっていた雑誌を顎でしゃくると、さも当然という風に「早く解いてよ」と言う。 「それ、締め切りが明日の消印有効なのよ。あと1個解けば全問正解用のハガキで応募できるんだけど、最後のそれだけが難し過ぎて、どうしても解けなくてさ。陽一はこういうの得意でしょ? だからちゃちゃっと解いて、ついでにハガキにも全部の答え書いて、明日中に出しておいて」 「こんなのどうでもいいじゃないか…どうせ暇つぶしでやっていただけでしょ?」 「そうだけど、あと1問ってなったら全部解き終わりたいし、懸賞だって貰いたいじゃない」 「大した賞品ないよ、こんなの。さも急ぎの用事みたいに言っておいてこれって、ちょっと酷くない?」 「何よ、今朝早く帰ってこいって言った時は、何も言わなかったじゃない。あんただってどうせ暇でしょ」 「暇じゃない」 「何か用があったわけ?」 「あったよ、葉や―……」 ムキになって言い返そうとして、陽一はしかしぴたりと動きを止めた。 言い合いをしながらも、姉の方は珍しく自分でお茶を淹れようと台所にいて、陽一からは背を向けていた。そのことに少しほっとする。やはり後ろめたかった。葉山より姉を取ったこと、その決断をしたのは紛れもなく陽一自身だ。だから例えその用事とやらが、「締め切りギリギリのクロスワードパズルを解くこと」だったとしても、それで姉を責めるのは違う気がする。 「何だって用事があった方が、罪悪感は薄れるでしょ、あんたの場合」 「はっ…?」 びくりとして顔を上げると、すでに何もかもお見通しという風な姉は、くるりと振り返って陽一を見やりながら、両手に腰を当てた格好で続けた。 「あんたの場合、本心では会いたくないなー、めんどくさいなー、だるいなーって思っていても、本当に用事がないと用があるとかって嘘つけないじゃない。だから私が真っ当な理由を作って断りやすくしてあげたの。むしろ感謝してもらいたいくらいよ」 「な…何、言ってるの…」 自然と動悸が早くなって、陽一は姉の前だからというのもあり、実に無防備にその胸を抑えた。すぐさま「そんな風に思っていない!」と反論すべきだったが、思うように口が動かない。 その間にも早口の姉はどんどん先へ行ってしまう。 「それに、そのパズルを解いて欲しいって思っているのは本当よ。確かに殆どの懸賞はちゃちだけど、その最難関パズルの賞金は旅行券3万円分だからね。その前のページに載っているやつもプレステだし。結構…というか、かなり欲しい」 「……姉さん、普段ゲームなんてやらないでしょ」 「だから偶にはやりたくなるのよ。部屋に引きこもってさ。お菓子とか食べながら。楽しそう。で、それが終わったら、旅行券使って旅に出る!」 「………」 「あ、そんな話していたら、適正温度からズレちゃったじゃない!」 姉はそう言って再び陽一から背を向けると、ポットの蓋を少し開けながら不平を述べた。それから、白い湯気の立つお湯をコポコポとお気に入りのカップへ注いでいく。姉の光は基本的に好き嫌いのない大食漢だが、こと、紅茶の淹れ方には煩い。両親は呆れかえって「すぐ文句を言う光にはもうお茶は淹れてやらない」と宣言しているけれど、姉に逆らいきれない陽一は随分と長い間、「姉が美味しいと思う紅茶の淹れ方」を説かれ、今では家族全員から「マスター」の称号を頂いている。時々やってくる姉の友人らにも大変好評なので、恐らく陽一が淹れる紅茶は、多くの人間に通用する腕前にまでなっている。 それでもまだこの姉には到底敵わない、と陽一は思っているのだが。 「特別にあんたにも淹れてあげたわ」 その姉は本当に珍しく陽一のカップにも紅茶を注いでやると、それをリビングにまで運んできて「とりあえず座れば?」とパズル雑誌が置いてあるテーブルを指し示した。陽一が素直に言うことをきいて目前のソファに腰をおろすと、光の方は立ったままカップに口をつけ、ややあってから言った。 「ねぇ、新しい男を紹介しようか」 陽一は口にした紅茶を吹きかけて前のめりになったが、姉はまるで動じていない。陽一が思い切り責めるような目を向けてもお構いなしだ。 「前にあんたのメルアド教えてくれって迫ってきた速水さんなんて、今のこの状況聞いたら、喜び勇んで速攻アタックかけて来ると思う。あの人、基本紳士で、人のものには手を出さないってポリシーがあるから今は鳴りを潜めているけど、あんたがフリーになるって言うなら、絶対我こそはって立候補してくるよ」 「そんなバカな…もう、変なこと言わないでよ! それに姉さん、あの人とまだ親交あったの?」 「あるわよ。前に言ったでしょ、あの人、私のこと珍獣扱いで面白がっているから、しょっちゅう絡んでくるって」 「相手にしなきゃいいじゃん、そんな失礼な人」 「別に相手になんてしてないわよ。ただ、いつかあんたの相手になるかもしれないって気持ちでキープしているだけ」 「は?」 陽一が眉をしかめるのにも姉は無頓着である。いつだって平静に淡々ととんでもないことを言い出すのだ。 「他にもいるわよ。私の好みでは全然ないけど、あんたには合うかもって男友だち、何人かキープしてる。別に男だけじゃなくて、女友だちで紹介したい子も結構いる。というか私、女友だちには自信あるけど、男友だちって変な奴しかいないから、本当は女の子の方を紹介したい。でもあんたが女の子ダメって言うなら仕方ないと思って、それで男でマシなの探しておこうって、全然自分のタイプじゃない、まっとうな普通のイイ男と知り合いになっておいてる」 「…………姉さん」 仄かに頭痛がして、陽一は額に手を当てたのだが、光は依然として動じていない。むしろ全く乗り気でない陽一の態度に不機嫌な空気を発し始めてすらいる。どうしてこんなにありがたい姉からの申し出を、そんな風にさも迷惑というような反応で返すのか、と。暗にそう責めてくる空気すら感じた。 姉は言った。 「あんたの相手って、結婚したら私は勿論、父さん母さんの家族にもなる人じゃない。だから、いわゆる『ちゃんとした人』と一緒になって欲しいって思ってる。私がこんなんだからさ、あんたにはまともな相手を見つけて欲しいのよ。で、その『ちゃんとしていて』『まとも』って基準は、とりあえず第一に、あんたが私の相手もできる時間を定期的に確保してくれる人って意味ね。――その点で言うと、今の葉山は最悪」 「な…もうっ…、何、何、言ってんだよ…!」 「携帯見てみなさいよ」 「は?」 唐突に話の腰を折る姉の真意が分からずに怪訝な顔をすると、光はそんな陽一より余程露骨に眉間に皺を寄せてキンとした声を出した。 「いいから早く。自分の携帯、見てみなさいって」 「…何だよ」 強く急かされて、陽一は仕方がなく、尻ポケットに入っていた携帯に手を伸ばし、電源を入れた。 「なっ…」 途端にぎょっと目を剥いてしまった。音を消していたから全く気がつかなかったが、着信とメールが数件ずつ入っている。慌てて確認すると、それはいずれも葉山からで、留守電にメッセージこそ残されていないものの、その後に打ちまくったのであろう、数通のメールには殆ど同じ内容で、「用って何」、「電話出られないの」、「今話したいんだけど無理なの」といったことが立て続けに綴られ、送られてきていた。 「……っ」 その圧迫感たるや。ただの無機質なメールのはずなのに酷く強烈に感じられて、陽一は一瞬息が詰まる想いがした。確かに大した事情も説明せず、ただ「家の用事」とだけ言ってすぐに誘いを断ったけれど。そしてそのことに「悪いな」という想いもあったけれど。 しかし「こんなこと」、別にこれが初めてではないし、葉山の方から断りを入れてくることだって普通にある。互いに大学も違って、学年すら違うから、それぞれの生活形態によってすれ違うこともザラだ。ましてや葉山にはバイトもあるから忙しい。陽一は密かに反対だけれど、最近になって葉山は就職活動も始めた。だから恋人とは言え、毎日会えなくても、それは不思議なことではない。……その割に、ここ何日かは毎日のように呼び出されて、しかも「やや乱暴に」抱かれていたわけだけれど。だからこそ、陽一の方の生活リズムは狂いっ放しで、疲弊もしていたわけだけれど。 そうだ。だから「今日くらい断ってもいいか」と思ったのだ。それくらいのこと、偶にあったっていいじゃないかと。 「このまま返信しなかったら、夜には百通超えるかもね」 姉がぼそっと言ってきたことに陽一はどきっとして顔を上げた。茶化したり、冗談を言っている風には見えない。至って本心を口にしたという顔だ。陽一はごくりと唾をのみ込みながら「まさか…」と小さな声で反論した。 「何がまさかよ。現に、今だって電話だのメールだのが来ていたんでしょ? 想像もしなかった? だからあんたは甘いと言うのよ」 「だって別に、誘いを断るのなんて初めてじゃないし…」 「でもここ最近は毎日のように会っていたじゃない。何か日増しに酷くなっている気はしてたのよね」 「酷くって…」 小さく問い返すと、姉はそんな陽一を暫しじっと見つめた後、ため息交じりに答えた。 「あいつのあんたへの期待だの要求だの…そういうの。あんたが葉山の言うことほいほい聞きすぎて甘やかしてきたから、ここまでエスカレートしたとも言える」 「別に、俺は―…」 「ただいまぁ」 しかし陽一が姉に言い返そうとしたのとほぼ同時、玄関から母の声と、そのままこちらへバタバタと勢いよく近づいてくる足音が聞こえた。咄嗟に口を閉ざすと、両手に買い物袋を抱えた陽一達の母が現われて、「あら、2人ともいたの」と半ば呆れたような顔を見せた。 陽一たちの母はもう五十代半ばだが、実年齢より若く見える。小柄で細身の体型に、ふわりとしたショートボブを明るく染め上げていて、どこへ行っても「お若いですね」と誉められるのが自慢だ。本人は大して身なりに頓着する方ではないのだが、自然とする格好にセンスがあるのかもしれない。現に、ファッションに煩い光も、陽一のことは何だかんだと文句を言うくせに、この母親にそういうことでケチをつけるところを陽一は見たことがない。 その見た目若々しい、しかし成人2人を子に持つ母は、まるで遠慮する風もなくさらりと言った。 「玄関が開いていたからどっちかはいるだろうと思ったけど、まさか2人ともいたとはね。暇ねぇ、あんた達。外でやることないの? 特に光さん、あなた」 毒気のまるでない、それはいつもの口調ではあったが、光は露骨に嫌そうな顔をしながら「私はいつも忙しいわよ」と肩を竦めた。そうして自分から話題を逸らすべく、すかさず質問を返す。 「そういうお母さんも今日は早くない?」 「うん、今日は半休取ってきたから。実はねぇ、困ったことが起きたのよ。ちょっと玄関行って見て来てよ」 「何を?」 「いいから、行けば分かるから見てきて!」 母がそう言うのを、2人の姉弟は不審な様子で顔を見合わせつつも、とりあえず言う通りに玄関へ向かった。 「あ!」 「え、うそ、可愛い!」 玄関先にいたのは一匹の小さな黒毛の仔犬だ。柴犬の子だろうか。 段ボール箱に敷き詰められたタオルケットの中で丸くなって眠っている様は何ともあどけない。光の歓声にも微動だにしないくらいの熟睡で、陽一はもしや死んでいるのではと一瞬ヒヤリとしたほどだ。 「本当、可愛いな…」 しかし近づくと身体は上下に動いているし、特に苦悶した様子もなく、すうすうと気持ち良さそうな寝息を立てている。思わずふわりとした笑みが零れた。陽一は元々犬が好きだ。猫も他の動物も好きだけれど、犬が一番かもしれない。 「所長がね、会社の前で拾っちゃったんだって」 後からやってきた陽一たちの母親は、腕組をしながら苦い顔をしてそっと言った。所長というのは、母親が勤める会社の上司のことだ。 「それで私に飼えって言うんだけど、うちは金輪際、犬ネコの類は預かりもしないし飼わないことを誓っていますって断ったら、それじゃあ保健所へやるしかないな!なんて言うもんだから。他の子達も一人暮らしだったり、アレルギー持ちだったりで、一時しのぎでも預かれそうな人がいなくてね。それで仕方なく。あー、お父さん、嫌がるだろうなぁ」 「飼ってあげればいいじゃない。うちは私以外、みんな犬好きなんだし」 光がしれっとしてそう言うのを、母はむっとして唇を尖らせた。 「簡単に言わないで。動物を飼うって本当に大変なことなのよ? あんたは普段から後先考えないで生きているから、いつもそういうこと、ちゃちゃっと言っちゃうけどね。うちは、私もお父さんも働いているし、あんた達だって普段から早く帰れるわけじゃないから、日中この子独りになっちゃうの、可哀想じゃない! 散歩だってあるし、何より犬は私たちより先に死んじゃうからね、それが一番の悲劇よ。今だって情が移らないように我慢して、あんまり触らないようにしているんだから!」 「じゃあどうするのよ」 光が今度は至極まっとうな質問をすると、母はふっとため息をつきながらいつでも強気な娘を見やった。 「あんた、顔が広いんだから、飼ってくれそうな友だちの1人くらい、いるでしょ? ちょっと色々連絡してみてよ。それこそほら、この間うちに連れてきた速水さんってお金持ちのお医者さんなんていいんじゃない!?」 「えー。私、男に借り作らない主義だから」 「あんたの主義なんてどうでもいいのよ! とにかく、可愛くて手放せなくなる前に、引き取り手を探すの手伝って! あと陽一は、できればそれまでの間、なるべく早く帰ってきて、この子の散歩係になって」 「え」 突然言われたその要請に陽一が意表をつかれて固まると、反して光の方は「あら、それ丁度いいじゃない!」と人差し指を立たせながら目を輝かせた。 そして余計なことまで口走る。 「この子、今付き合っている奴と適度な距離を取るために、誘いを断る体のいい用事を作りたがっていたのよ。ワンコの面倒見るって理由なら、何かほのぼのしているし、イイ感じじゃない」 「ちょっ…姉さん!」 勿論、2人の会話についていけずにきょとんとしたのは2人の母親である。大して驚いた風ではないが、それでもぱちぱちと何度か瞬きをしてから疑問をぶつける。 「何それ? 陽一、あなた、付き合っている子なんていたの? それっていつから?」 「えっ!? え、えっと…」 「もう1年くらい経つんじゃない? でももう倦怠期で別れるかもしれないって」 「だから姉さんは黙っていてってば!」 「はぁ? あんた、愛しのお姉様にその態度、許されると思っているの」 「ぐっ…」 ぴしゃりと言われて睨まれると、陽一はもう一言も発せられない。幼い頃から慣らされた悲しき習性というものだろうか。 しかしそんな2人のやりとりを眺めていた母親が、光よりもさらに「ぴしゃり」とした強い口調を放った。 「光、あんたそうやって陽一をからかったりつきまとうの、いい加減やめなさい。まったく、いつかちゃんと言わなきゃいけないと思っていたけどね。あんたはねぇ、重度のブラコン。陽一が可哀想」 「はっ? 何それ、何で陽一が可哀想なのよ、こんな美しいお姉様に構ってもらえて、陽一だって嬉しいに決まっているじゃない!」 「あー、気持ち悪い気持ち悪い。だからあんたは彼氏と長続きしないし、結婚もできないのよ」 「ちょっと、お母さん?」 光の抗議を母は全く受け付けない。しかし光は諦めず、頬をやや引きつらせながら台所へ戻る母親を追いかけて行く。普段は可もなく不可もない母子関係の2人であるが、それは総じて互いがあまり関わらないせいかもしれない。母も光も、自分の世界を色濃く持つ人間であり、昔から煩く干渉するということがない。陽一自身も、母からああしなさいとかこうあるべきとか言われた記憶があまりない。気楽に自由に過ごさせてもらっている。一方で、陽一が他人とあまり関われずに苦労しているのは、幼少の頃より、そんな親との情緒的交流が不足していたからではないか…と思わないでもない。無論、そんな風に思ってずっと過ごしてきたわけではないが、葉山と付き合うようになってからは、自らの親についても考える時間が増えた。葉山の両親はどうやら陽一のところとは逆で、かなりの過干渉というか強制力を持つ人達のようだし、そんな家庭環境の真逆さが、自分たちの今の性格を形成したと言えるかもしれないなどと思うのだ。 「あっ…」 そんなことをぼんやりと考えていたら、いつの間にか段ボール箱で惰眠を貪っていたはずの仔犬が起き上がって陽一のことを見上げていた。くんくんと鼻を鳴らし、人懐こいつぶらな瞳で見つめてきている。確かにこれはまずい、関わると可愛くて手放せなくなる…。陽一は焦って辺りをあてもなく見渡した…が、台所の方ではまだ母子の言い合いが続いているようで、あの中へ戻るのは何とも憂鬱だと思った。 かといって、この仔犬を残して自室へ引きこもるのも気が引ける。 「外…行く?」 段ボールから這い出ようともがき始めた仔犬を片手で抱え上げて胸に抱きこみ、陽一は恐る恐る話しかけた。仔犬はふんふんと陽一の胸を嗅いだ後、不思議そうな顔でまた見上げてきた。もうダメだ。母のように「見ないようにする」なんて自分にはできない。陽一は「散歩へ連れて行くから」と聞こえるか聞こえないかくらいの声で言ってから、仔犬と2人で外へ出た。 仔犬とは言え、さすがに放し飼いで歩かせるわけにはいかない。 しかし首輪もリードもない状態で外へ出たため、陽一は「散歩」と言いながらも仔犬を抱きかかえたまま、足早に近所を歩き始めた。この少し先に公園の広場があるから、子どもがいないようであればそこで放してやろうと思った。もう夕刻だから小さな子はいないだろう。 歩いているうちに、陽一はさきほど姉がさらりと母に告げたことを思い出して、今さらながらに焦った気持ちになった。葉山と付き合っていることを、まだ両親には言えていない。いつかは言わなければと思っているが、それが「今」とは思っていないし、思えない。姉が言うような「倦怠期」というのは断固として否定したい気持ちだったが、今日の自分が葉山を避けたことは言い訳ができない。結局全てはそこに帰結していく。葉山からの誘いを断ってしまった。何故って、今日は「したくなかった」から。そう、会いたくないわけではない、全ては、会ったらすぐにサカッてくる葉山がいけないのだ。 「そういえば…」 公園に着き、空いているベンチを探してそこに腰かけてから、陽一は仔犬を抱いたままの状態で、ポケットにしまっていた携帯を取り出した。少し心臓の音が騒がしい。まさかあれから然程の時間も経っていないし、増えてはいないだろう、いやしかし。 そんなことを思いながら電源を入れて、直後陽一は「うわっ」と声を上げてしまった。それに仔犬が驚いて自らも身体を震わせる。 「ご、ごめん!」 陽一は仔犬に謝ってその背中を撫でてやりながら、しかし視線は携帯の画面に注力してごくりと唾をのみ込んだ。 先ほどからまた数通増えている。電話に関しては0件だが、その分メールが。次々と開いて見るそこには、簡素な一文が並んでいた。 何で電話出られないの? 用事が何かだけでも教えて。 メールだけでもいいから、一言返事くれない? くれなきゃ家に直接行くけどいい? 「なんでこんな…」 どんどんと切羽詰まって来るそのメールに、陽一はくらりと眩暈を感じた。葉山が情緒不安定なのは今に始まったことではないが、確かに最近はそれが特に顕著だった。それに目を瞑ろうとしていた、それも認める。会えば落ち着くかと思って、それで無理して毎日会いに行っていたのも本当だ。 けれどその「症状」はどんどん悪化しているのではなかろうか? 一体葉山はどうしてしまったのだろうか。 「浅見」 しかし、驚いてはいけない。 「……葉山」 驚いたり怯えたりすれば、余計に葉山の感情には火が灯ってしまう。陽一を甚振りたい、酷くしてやりたいと思う加虐心の強い葉山の気持ちを。そう、だから今ここに葉山が現われたとしても、何ら不思議はない、そう理解しなければ。さっきからこうやって何度も連絡を寄越しているのに陽一は返信をしなかった。実際、返事がなければ家へ行くと最後のメールにあったのだから、予告通りだ。 だから驚くことはないのだ。そう、驚いた顔をしてはいけない。 けれど。 「何で?」 それでも訊かずにはいられなかった。何故ここにいる。どうして、こんな風に突如として目の前に現れて、暗い顔をして、責めるような目で自分を見るのか。この公園のことを知るわけはないから、きっと自宅から後をつけてきたのだ。こんな葉山は嫌だと思う。余裕がなくて、今にも崩れてしまいそうで。浅見陽一のことしか目に入らない、視野の狭い葉山怜は嫌だと思う。 陽一ははっきりとそう思っていた。そんな葉山を愛しいと思える時もあるけれど、少なくとも今はそう思えないと。はっきりと思っていた。 |
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