だってばかだから4


―2―



  あれだけ怖いとびびりまくっていたモヒカン軍団だけど、人間の勢いってのは恐ろしいもんだ。
「ヨシヒト!」
  モヒカン軍団に囲まれて凄まれているヨシヒトに声を掛けると、ヨシヒトを含めその場にいた全員が一斉に俺を顧みた。うおぉっ……間近で見るとますますど迫力だ。金だの赤だの、色とりどりのモヒカンさんたちが(っていうか、モヒカン以外の髪形の人もいるけど)どんだけ悪辣な生育環境で育ったんですかって程の歪んだ顔をして俺を睨みつけた。うぅ、凄い眼光。田神ので見慣れていたとは言え、全然知らない奴らのガン睨みは凄まじい。
「あんだぁお前は!?」
  ドスの利いた声で一人がそう凄んだ。俺がひっと息を呑んで縮み上がると、既に何か言い合っていたのだろう、奴らに胸倉を掴まれて集団リンチ一歩手前っぽかったヨシヒトが「エイ!」と俺を呼んで奴らの手を振り払い、さっと俺の前に立ちはだかった。
「バカ、何で来てんだよ!」
「な、何でって、だってヨシヒトが…!」
 お前こそだ。何でわざわざこんな恐ろしい奴らの所へ突っ込んで行く!? 俺は、だからお前が心配だから来てやったのに!
「いいからお前はどっか行っていろ。こいつらとは俺が話をつける!」
「はあぁ!?」
「こいつマジで頭おかしくねえ?」
  いかにもヤク中っぽい目をした、どうにも言っちゃ悪いけど「やばい」としか思えない人相の奴がヨシヒトに顔を近づけて悪態をついた。俺はそれだけでもう気が遠くなりかけていたけど、ヨシヒトの方は何故かあんまりびびっていなくて、そいつを直視したまま一歩も引かず、それどころか俺の腕を強く引いて自分の後ろに隠してくれた。
  何だろう、この状況は。俺がヨシヒトを助けに来たはずなのに。
「テメエらなんかにゃ、用はねーんだよ!」
  その時、威嚇していたヤク中(っぽい)奴とは別の、背後でバイクにまたがっていた一人がイライラしたように唾を飛ばした。
「さっきから言ってんだろうが! ヒデって奴を呼んでこいってんだよ!」
「いっ……」
  や、やっぱりこいつら俺に用だったのか。俺が途端心臓を縮み上がらせると、不意にヨシヒトがぐっと俺の手首を掴んで無言のまま「喋るな」と伝えてきたのが分かった。
  そしてヨシヒトはモヒカン軍団に堂々と嘘をついた。
「そんな奴は知らない。大体ヒデなんて名前の奴、そこら中にいる。それより、校門の前にこんな風に広がられちゃ迷惑なんだよ。とっととどっかへ行け」
「あぁ!?」
「マジ殺したくなるな、こいつ!」
「ヤッとくか!?」
「……っ」
  ちょっと、本当にこれってやばいと思う! ヨシヒトが一歩も引かずに正論を述べるから、モヒカンさん達も余計カリカリしちゃってるし。いや、ヨシヒトが言っていることはもっともなんだけど、でもこういう人たちにそういう当たり前のことをエラそうに言うのって、よく分かんないけど、火に油を注ぐ行為のような気がする……。
「おーい、お前ら何やってんだよ、バカか!」
  けれどその発火寸前、今にもヨシヒトと俺に襲いかかってきそうな集団の奥から、甲高い声を上げてそれを制止してきた人がいた。何だろう、通りの向こうからこっちへやって来る。ちりりんって呑気なベルを鳴らしながら。
  軍団の一人が「ヤモリさん!」って叫んだ。そう、ヤモリ。俺の聞き違いじゃなければ確かにヤモリって言った。あだ名からしてもう、そのやばさ具合が爬虫類っぽく陰湿でネバネバ系な感じだけど、でも、この人たちを止めてくれたしな。
「あーあー、お前ら。バカバカ! 騒ぎを起こすな!」
「けどヤモリさん!」
「こいつが勝手に因縁つけてきたんっスよ! 俺らは、ただヒデはどこかって訊いただけなのに!」
  彼らは口々にヤモリさんに訴え始める。俺がヨシヒトの背中越し、ひょいと視線をそちらへやると、通りからキコキコと自転車を漕いできた背の高いヤモリさんが見えた。ここにいる人たちとは比べものにならない、立派なモヒカンだ。……って、あ! このモヒカンは、あの時昇降口で俺に声をかけてきたホンモノのモヒカンさんじゃないか!
「あのなぁ、ケンとソータだけで行けって言っただろ? 何でこんな大勢になってんだ。しかもてめーら、これじゃあ門塞いじまってんじゃねーか、他人様に迷惑かけるコトしてんじゃねーよ」
「けど俺ら、ヒデの顔知らないですし……」
  ヤモリさんに叱られて一人が途端しゅんとしてそう言った。
  別の奴もぼそぼそとそれに続く。
「それに、どうせまともに訊いても俺らになんか誰も教えてくれねっスから。ヒデも逃げちまうかもしれねーし」
「それで、表と裏塞いで、一人一人ヒデかどうかって確かめることにしたんです!」
  う、うわあ……何か、言っちゃ悪いけど、とてもバカそうだ…。何か必死なのは分かったけどさ.。でも、俺がびびるって分かっていたなら、そもそもこんなド派手な威嚇スタイルで来ないでくれよ。
「すみません…。俺らも、ヒデって奴がどんなんか見てみたかったし……」
  そうこうしている間にも別の奴がまたヤモリさんにごめんなさい的なことを言った。さっきまで威勢の良かった奴らもどことなく皆しょぼくれている。ヤモリさんに怒られて呆れられたのがそんなにショックなのか。そういうところはちょっと可愛く見えないこともない。
  だってさっきまでの鬼の形相とはまるで違う、何だか小さな子どもみたいなんだ。
「お前らなぁ。ったく、しょーがねえ」
  ヤモリさんは自分の舎弟たち(だろう、多分)が殊勝に反省したのを見て怒る気をなくしたらしい。がりがりと髪の毛をかきむしった後、「別にいーんだよ」と呟いた。
「ヒデに帰られちまったとしても、それならそれで別に構わないって言ったろ。深夜に内緒でやってることなのに、てめーら、この学校で俺らが何か問題起こしたことがあいつに知られてみろ? 俺ら全員、あいつに首斬られっぞ。いいのか?」
「俺、深夜さんに斬られるなら別にいいかもー」
「俺も俺も! 深夜さんにならむしろいっぺん斬られてえよ!」
  ……な、何だろう。この人たちの話が、気のせいかアヤシイ……。
  俺はそわそわとヨシヒトの後ろで様子を窺いながら、途端に空気の変わったモヒカン軍団にただただ唖然とした。大体、ヤモリさんは「田神がお前らの首を斬るぞ」って脅しているのに、「別に斬られてもいい」ってどういうことだよ。この如何にもS軍団みたいな奴らが、実は意外やMだったのか?
「あんたたち」
  その時、俺同様、今まで黙って彼らの会話を聞いていたヨシヒトが口を開いた。ヤモリさんが「おや」という顔でヨシヒトを見る。それから俺のことにも気づいたみたいで、「あ」と口を開きかけたんだけど、ヨシヒトの方が早かった。
「よく分からないけど、迷惑だってことが分かっているなら、こいつら連れてさっさとどこか行ってくれ。みんな帰れなくて困っているんだ」
「え? ああ……すみませんね」
「何でヤモリさんが謝るんっスか!」
「テメエ、マジで地獄見せるぞ、おおぉ!?」
  ヤモリさんが素直にヨシヒトに謝ると、途端M軍団(名称を変えてみた)の奴らが一斉に殺気立って再びヨシヒトを威嚇し始めた。も〜、折角穏便に去ってくれそうなのに、どうしてこうヨシヒトは人の癇に障るような言い方をしちゃうんだろ。いや、ヨシヒトが正しいのは分かるよ。現にうちの学校の連中はすっかり怯えて下校出来ない状況なんだから。この人たちが非常識なのは間違いない。この改造バイクだって多分法律違反してる。
  ……でもさ、何かこう、この人たちだってヤモリさんには「あんな顔」をするわけじゃん。
  だからさ、うーん、うまくは言えないけど、最初からちゃんと話し合えば分かってもらえたんじゃないのかなあって……思うわけで。甘いかな。俺だって田神と出会う前だったら絶対こんな風に思わないだろうけどさ。
「あんた、もしかしてヨシヒトか?」
  その時、ヤモリさんがヨシヒトをまじまじと見やってそう訊いた。何でヤモリさんは俺の時もそうだったけど、会った事もない奴のことが分かるんだろう。俺が不思議に思っていると、ヨシヒトはもっと不審な顔をして眉をひそめた。
「そうだけど。俺はあんたのことなんか知らないよ」
「てめ、マジでその口のきき方ふざけんなよッ!」
「いいからお前らは黙ってろ」
  ヤモリさんはヨシヒトに飛びかかろうとしたM軍団の一人を困ったように片手で払った。
  そうして「話をややこしくするな」と、この見た目からはとても考えられないような落ち着き払った様子で「そうか」と頷いてから、ちらりと俺にも視線を送った。俺はそれにびくっとなった。
「名乗りもせずに悪かったな。俺は秀陽の佐霧(さぎり)ってもんだ。田神深夜の……まぁ、ダチってやつか」
「この騒ぎもあいつのせいか」
  ヨシヒトの言葉にヤモリさ…あ、サギリさんだっけ……は、ぴくりと細い眉を吊り上げた。
  が、声は至極穏やかだ。
「さっきこいつらにも言っただろう、深夜は何も知らねーよ。だから出来ればこの騒ぎも黙っていてもらえるとありがたい。俺たちはただヒデに用があっただけなんだわ」
「ヒデなんて奴は知らない」
「いや、そんな風に知らばっくれられても困んだけど」
  ヤモ……サギリさんは俺のことを知っているから、勿論他の連中みたいにヨシヒトの適当な発言にごまかされない。どうしたもんかって風に一度苦く笑うと軽く首を振った。
  でも、サギリさんはその後も何故かすぐに俺を指さして「ヒデ、話があるんだよ」とは言わなかった。俺がそれを不思議に思って自分から名乗りを上げようとしたことすら、すかさず「やめろ」と目だけで止めてきたのだ。
  どうしてだろう、俺に話があるはずなのに。
「まぁ、とりあえず、こいつらは帰らせるから」
  そしてサギリさんはそう言って、「お前ら帰れよ」とM軍団を振り返った。彼らは当然のごとくそれを渋ったし、未だヨシヒトに睨みを利かせている奴もいたけど、サギリさんから「お前らが張っていてくれたお陰で、ヒデに帰られずに済んだから助かったよ」って言われると、それだけであっという間に舞い上がって、大人しく引き上げて行った。
「やれやれ」
  で、その場には俺とヨシヒトとサギリさんだけになり、辺りは途端静かになった。
  そしてそのタイミングを見計らったかのように、先生たちが徒党を組んでこちらにやってくるのが見えた。先生たち、事が済んだようなのを察知してから来るってどうなんだ。いやしかし、やばいな、怒られるかもしれない。俺がそう思ってじりりと逃げの体勢を取ると、サギリさんが自転車に跨って「ヒデ」と、ようやくここで俺の名を呼んだ。
「あのな、話があるんだわ。ちょっと付き合ってくれるか」
「え……あ、はい」
「エイ!?」
  それにぎょっとしたのは勿論ヨシヒトだ。ヨシヒトはヨシヒトでまだサギリさんに何か言いたいことがあるのか、戦闘態勢になりかけていたんだけど、俺があんまりあっさりとそう返事をしたもんだから意表をつかれたみたいだ。
  でも先生たちも近づいてきている今、いつものようにヨシヒトにかかずらわってモタモタもしていられない。俺は急いでサギリさんの乗る自転車の後部座席に跨った。
  無論、そのままむざむざ行かせてくれるヨシヒトではないんだけど。
「ちょっと待て、エイ! こんな奴と……どこへ行く気だ!?」
「えっ…どこかは知らないけど、とりあえず話が出来る所?」
「ああ」
  サギリさんが俺の問いかけにうんと頷いた。
「ふざけるな、お前…っ。エイ、降りろ!」
「大丈夫だよ、この人田神の友だちだもん」
「そうそ。何もヒデ取って食いやしねーって」
「信じられるか!」
「お前なんぞに信じてもらわなくても構わん」
「う!」
「あ!」
  俺はサギリさんがヨシヒトに何をしたのかよく分からなかった。
  ただ一瞬だけ。そう、ほんのちょっとの間だけ、彼はさらりと俺を掴むヨシヒトの手に触れた……のだと、思う。
  そしてたったそれだけの行為だったのに、ヨシヒトは何かに吹っ飛ばされたかのようにその場に勢いよく横転した。
「くっ…!」
「ヨシ―…!」
「しゅっぱーつ」
  何が起きたんだ、分からない。既に自転車のペダルに足を掛けていたサギリさんがヨシヒトに足払いを出来るわけもないし。
  でも、ヨシヒトは確実にサギリさんに何かされた。そしてその場に倒れた。しかも俺がそれにぎょっとして声を出した時には、もうサギリさんはぐいぐいと自転車を漕いで俺たちに追いつきそうになっていた先生たちを振り切り、町中を飛ばしていた。その間僅か30秒……いや、それにも満たなかったと思う。何て神業だ。
「ヒデ」
「はいっ!」
  だから俺は暫く無言で走り続けていたサギリさんが何気なく呼びかけてきた時、まるで田神と初めて喋った時のように硬直して妙な声を出してしまった。
「バカ、何が『はい』だよ」
  するとサギリさんはそんな俺を鼻で笑って、「俺ら同じ年だぜ」と、自転車をキコキコ漕ぎながら「フツーに喋れ」と命令した。
  そして一体どれくらい飛ばしていたんだろう、国道みたいな広い道路も随分と走って、ようやく車の通りも少なくなってきた頃、サギリさんはふいとスピードを緩めて、口調ものんびりとしたものにしながら言った。
「しっかしなぁ」
「え」
「あれが噂のヨシヒトか。確かに殺したくなる顔だな」
「えっ…」
「さっきのさ。あいつらとどういう揉め事起こしたのかも手に取るように分かるわ。ま、今回は俺らに非があるからしゃーねーけど」
「あ、じゃあ殺すのは勿論やめ……」
「ああ、深夜には殺らせねーよ。あんなのに手をかけたとあっちゃあ、あいつが汚れるからな。殺る時は俺が引き受けるから、ヒデ、そん時は真っ先に俺に話通せな?」
「い、いや……その………」
  俺はだくだくと嫌な汗を掻きながらふるふると首を振った。自転車が風を切って走っているから涼しいはずなのに、むしろ寒いはずなのに、どっと汗が浮かぶって変だ。でもホント、いい加減この手の「冗談」は勘弁だ。ただ、田神相手なら「やめろよなー!」とかって窘めたりもできるけど、俺とこの人との間には何の友情も築かれていないし、「冗談はよせっ」とツッコミを入れられるような雰囲気で言われたわけでもない。あのM軍団よりは全然全く百倍くらい落ち着いているサギリさんなのに、でもやっぱり血の気の多い人なんだろうかと怖くなる。
「俺さあ」
  そんな俺のびびりを知ってか知らずか、サギリさんは言った。
「深夜とはガキの頃からの付き合いなんだわ。家同士が親戚みたいなもんだからな。つっても、あっちが本家で、俺んとこが分家みたいな立ち位置だから、親同士にはおもっくそ胸糞悪い上下関係があって、昔っから俺の家は親父お袋、祖父さん祖母さん、みんな深夜の家にはてんで頭が上がらねえ。俺も深夜の親父には何度も足蹴にされてきた」
「え……」
「けどあの腐った家で、深夜だけはそういうの関係なく、俺とも対等のダチでいてくれようとした」
「いてくれようと……?」
  俺が何となくその言葉を反芻すると、サギリさんはふっと息を吐いた。
「それが出来なかったのは俺の器の問題だ。俺の方が遠慮しちまったから」
「遠慮…?」
「いつの間にか染みついていたんだろうな、俺自身にも。奴隷根性ってやつが」
「………」
  サギリさんは何の話をしているんだろう。
  俺がそのでかい割に細い胴体をじいっと眺めながら先の話を待っていると、突然さっきの口調とは打って変わって明るい声が聞こえてきた。
「あのな、ところでな。もう知っているかもしんねーけど、今月の25日って田神の誕生日なんだわ。クリスマスのバースデーってやつだ」
「誕生日?」
  知らなかった。そうなんだ。俺がそう答えると、サギリさんは「そうかぁ、まあそんな話いちいちする奴じゃねーしなぁ」と頷いてから続けた。
「けど、俺らは何か祝いたいんだよな。毎年のこったけどよ。この日だきゃあ、俺らの仲間連中、女いる奴らだって何だって全員深夜優先だ。深夜の為に予定空けて、深夜が喜ぶようなことみんなでやろうぜって毎年何かしら企画するんだよ。まっ、結局は酒と食いもんかき集めてどんちゃん騒ぎするだけだけど」
「へえ……」
  凄いな。
  俺はぽっとそれだけを思った。
  みんなに恐れられて、誰もが避けて通るような秀陽の連中が田神の為に誕生パーティを計画してわくわくしている。プレゼント何にしようかとか考えるんだ。田神にはギリギリまで内緒にして、当日わあってケーキとか出して驚かせたりするのかな。
  そういうの、想像しただけで何だか楽しい。
  俺まで凄く嬉しくなる。
「でな、今年の目玉は何つっても、ヒデだろ」
「え? 何が?」
  俺がきょとんとしてその背中に問いかけると、サギリさんはじろりと俺を振り返って「バカだな」って顔を見せた。
「何がじゃねーよ。今年の深夜へのプレゼントは、ヒデ。決まってんだろーが」
「………は?」
「けど何つーか、今のヒデには飾りっけがなくていけねえ。まぁ深夜もいろんな女相手してきて、ヒデみたいな素朴なのが新鮮なのかもしんねーけどな。ただ、やっぱ何つーの? 俺らとしては、ヒデには深夜にふさわしい、それ相応の奴になってもらいたいわけだ」
「え、ちょっと待って何を――」
「大体、俺がさっきあいつらの前でヒデのこと名指ししなかったのも、ヒデの安全を思ってだぜ。あいつらあんな大勢でお前のこと見に行きやがってよ…。まぁ、深夜を慕っている連中の中でもあいつらはとりわけ熱狂的な方だから。な、そんな奴らが、ヒデみてーな平凡なの見て、『想像してたのと違うー』だの、『深夜さんにふさわしくねー』だの言い出したら面倒だろうが?」
「…………あの」
  ほとんど絶句、頭の中がぐるぐるし始めた俺に、サギリさんが不意に「ケケッ」と妙に恐ろしい笑声を零して肩を揺らした。……俺はこの人が何で「ヤモリさん」って呼ばれているのか、この時とてつもなくよく分かった。
「まぁ、ともかくだな、そんなわけで」
  言いながらサギリさんがキッと自転車を止めた。
「あ……?」
  気づけばそこは全然見知らぬ土地だった。そんなに長い間走っていたのかな。それはよく分からないけど、とにかく辺りはとても静かで、俺的には突然異世界にワープしたみたいな、どうにも変な違和感があった。
  だってあまりにここは静か過ぎる。
「ヒデ。お前にはすげー重要な任務があるわけだ」
「任務?」
  俺は周りの異様さとサギリさんの突如とした真面目顔に翻弄されて、よたよたと自転車を降りながらも無駄に挙動不審になった。
「んで、その任務に失敗したら、実際あいつら止めるのは俺でも難しい」
「い、一体何の話してんですか? っていうか、ここ何処――」
「ここは深夜ん家だよ」
「え?」
  サギリさんに言われて俺は改めて周りをぐるりと見渡した。
  家って……家って、何処にあるんだよ。
  あるのはどこまでも、それこそ天にまで伸びていそうな背の高い青々とした竹林があるだけだ。いや、どことなく近寄りがたい竹と木を組み合わせて作られたような高い塀はある。それが細い細い砂利道の向こうの先までずらっと続いていて、とりあえず何かの敷地だっていうのは分かるけど……でも、この先に人の住む家があるなんてどうしても想像できない。
「ここって東京?」
「れっきとした東京だ。まぁ、ここに住んでいる連中は時代錯誤な奴ばっかだけどな」
  サギリさんはそう言ってから、改めて俺をまじまじと見下ろした。つんつんに逆立ったモヒカンまでもが俺を隙なく検分しているみたい。
「あのな、ヒデ」
  そのサギリさんがまるで小さいがきんちょを相手するみたいな声色で言った。
「俺らは深夜のダチにはなりきれてねーけど。けど、みんなあいつのことが好きなんだよ。それは間違いねえ。あいつはいい奴だからな、分かるだろ?」
「うん」
  田神がいい奴かどうかなんてのは、そりゃあ勿論俺だって分かる。サギリさんほどの年季はない、まだたった数か月の付き合いだけど、それくらいはいくらばかな俺だって分かるよ。
  でもそれがどうしたってんだ。
「だから、俺らは、出来ればこれから先もずっとバカみたいにつるんでいてーし。それが無理でも、まぁ深夜の良いようにはさせてやりてえ、その手伝いがしてえとは思ってんだ」
「うん…?」
「お前さ、深夜が高校卒業したらどうなるか知ってんの?」
「え?」
「知らねーよな。知るわけねーよ、あいつ喋ってねーし。けど、普通は訊くもんだぜ。お前はあいつに何でも話聞いてもらってきただろ? むかつくヨシヒトの話なんかも散々して、散々あいつに甘えてきただろ? ……今度はお前の番なんじゃねーの」
「え……」
  何だろう。俺は胸がどきどきとした。
  もしかして心臓が止まってしまうんじゃないかってくらい、急に鼓動が早くなって、それから息が苦しくなった。
「……やべえな。俺、深夜に殺されるかもしんねえ」
  けれど俺がよほどひどい顔色をしていたんだろう、サギリさんは急に自分の方こそが苦しそうな顔になって俺に「悪い」って頭を下げた。俺には意味が分からない。サギリさんに謝られる理由も、田神に何が起きているのかも。
  俺がこんなに急いた気持ちになっているのも。
「さっきはああ言ったけど。多分な、今年はあいつの誕生パーティやれねえから」
  サギリさんが明後日の報告を向いて言った。俺が黙ってそんなサギリさんを見つめていると、サギリさんは急に俺を見つめて、凄く頼りない弱々しい目をして言った。
「あいつの話、聞いてやってくんねえ?」
「話を?」
「だってお前、あいつのダチだろ」
  サギリさんはそう言ってちっと舌を打った。そして早口でまくしたてる。
「だから、頼むわ。この先にいるからよ。あいつ、弱音とかそういうの、吐いたことねーんだ。愚痴も聞いたことねえ。けど、あいつはそういうの言うべきだし、言わなくちゃダメになる。俺はそう思う」
「……田神がダメに?」
  何言ってるんだろう、そんなことあるわけないのに。けどサギリさんはめちゃくちゃ真剣な顔で「頼むな」と繰り返した。
「ここ真っ直ぐ行けばすぐだ。大体この時間は修練場に籠っているから」
「しゅうれんじょう?」
「じゃあな」
「えっ…」
  そしてサギリさんはさっと背中を向けて自転車にまたがると、まるで俺から逃げるみたいに立ち乗り姿勢でぐいぐいとペダルを漕いで今来た道を戻って行った。あんな、訳の分からない話だけで俺を置いていった。説明が足りないよサギリさん。一体何なんだよ、田神がどうしたってんだよ。
  俺は人気の全くない竹林の真ん中で一人立ち尽くした。
  ただサギリさんを見送った後、臆病者のこの足は何故か迷いもなく細い砂利道を踏み、目は緩やかなカーブを描く塀をなぞるようにして忙しなく動いた。本来だったら、こんな所とても怖い。だって妖怪とか出てきそうだし。もうすぐ暗くなるし、オレンジの夕日を背景に鳥たちが急いで巣に帰るのも無駄に見えるから心細い。
  でも、この先に田神がいるなら早く行かなくちゃって、そう思った。
  田神の話を聞いてやれって?
  そりゃあ、そんなの、勿論、あいつが話したいならいくらでも聞くよ。当たり前だろうが。確かに俺は……いつも自分が話すばかりで、あいつの話なんか聞いたことない。いつもいつも、田神が優しく笑って俺の話を聞いてくれたから、それが心地良くて全然気づかなかった。一方的な関係。俺って本当にダメだ。田神は俺の友だちなのに、田神が何かに悩んでいるかもしれないことに全然気づかなかった。呑気に早く冬期講習が来ないかななんて考えて、そしたらまた田神と一緒に買い食いできるって、そればっかりで。俺はサギリさんに負けた。サギリさんは俺に負けたって思っているみたいだけど、それはとんでもない勘違いだ。
「いって!」
 夢中でざくざく歩いていたせいで、俺は塀の先、小さな扉を越えてすぐ入った所で鬱蒼と茂っていた植木の葉っぱに思いっきり顔をぶち当ててしまった。まったく、狭いんだよ、ここの入口は! 大体、家があるって言っても、あるのはやたらとでかい林みたいな森と、ごつごつした大岩と、それに――。
「うわ、俺、これ知ってる……」
  俺は目の前に開けたものを見て思わず息を呑んだ。木の枝に顔を引っかかれたこともすぐに忘れた。
  異世界ワープしたような気持ちになったのも道理だ。そこに見えた建物は、俺が今受験で勉強している日本史でも散々史料集で見た寝殿造そのものだった。……ん、あれ違う、書院造だっけ? 武家造だっけ? いかん、ごっちゃになってきた、家に帰ったら復習し直さなければ。
  って、そんなことはどうでもいいんだけど! とにかく、田神の「家」は俺が想像していた一般家屋とは大きく違い、まるで昔の貴族か武将か、ともかくエライ奴が住むようなやたら横幅のあるでかい屋敷だった。恐らくこの無駄に広い庭もこの家屋に併せて造られている芸術品なんだ。こんなでかい池のある家なんて、テレビ以外で見たことないよ。
  しかも俺はどうやら表門から入ってきたんじゃないらしい。いきなり庭先に出たところからしても、多分まっとうな訪問の仕方はしていない。大丈夫か、いきなり家宅侵入したとか思われないかと俺は途端不安になったけど、とにかくそろりこそりと庭を抜け、俺は長い廊下が続く開かれたその屋敷に近づいて、それからふと、その隣にまたどかんとぶっ建っているでかい建物に目をやった。
  本宅と繋がっているけど、そこは明らかに生活の匂いがしない。あ、しゅうれんじょうって修練場か!と俺が気づいたのはその時で、分かったと同時に俺は急いでそちらの建物の引き戸を勢いよく開けた。

  果たして田神はそこにいた。

「…………」
  でも俺はすぐに声を掛けられなかった。文字通り絶句してしまったから。
  後ろ姿だったけど、それが田神だとはすぐに分かった。上は白の武道着に下は黒の袴姿。そして素足だ。ぴかぴかに磨かれた木張りの板の上を軽やかに動いているのに、あいつは全く音を立てない。まるで羽がついているみたいに軽くその場を舞うように。
  田神は剣を振るっていたんだ。
  最初はその動きだけに囚われてよく分かっていなかった。ただ剣道でもやっているのかなって思った。
  でも、違った。
  刀は刀でもあれは竹刀なんかじゃない、素人の俺だって分かる、それくらい。
  田神が振っているのは真剣だ。
「わ……」
  怖い。
  咄嗟にそう思って後ずさりした瞬間、俺は何だか腰が抜けてその場に尻もちをついた。

「ヒデ」

  そしたら田神が俺を呼んだ。いつものあの優しい声だったから心底ほっとした。
「何でいる」
  田神が俺に訊いた。でもどうして田神は後ろを向いたまま俺のことを言い当てられたんだろう。不思議だ。あいつは背中に目でもつけているんだろうか。
「……困ったヤツだな」
  そして田神は何にも言わないで腰を抜かしたままの俺にそう言った。そしてようやく振り返って、あのいつもの不敵な怖い眼を、でも俺のとても大好きな眼を向けて笑ってくれた。
「ヒデは本当に困ったヤツだ」
  それから田神はもう一度そう繰り返して、流れるような自然な動作で刀を鞘にしまってくれた。




後編へ…