だってすきだから
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―1― 俺、木戸英安(きど ひでやす)は高3生。そして今は冬。学校もすでに冬休みに入っていて、直に年も明ける。つまり今は受験本番間近の、凄く忙しい時期ってやつだ。 けどそんな俺は今、必死の形相で人気のない山道をモクモクと登っている。あ、「必死の形相」で「モクモク」って、日本語的に変かな?モクモクって何かストイックな感じがするし。今の俺はそんなカッコイイもんじゃない。長年の運動不足が祟って息も絶え絶えだし、一度立ち止まったら二度と歩くことは出来なさそうなくらいにバテバテ。汗もだくだく。他人事みたいに言うけど、さぞかしひどい顔で歩いてんだろうなと思う。 それでも、俺はこの山を登らなくちゃならない。何としても。 「でも実は……何やってんだって、思わなくも、ない、けど!」 誰もいない、誰も聞いていない山道で、俺はゼエハアと息を吐き出しながらそう言った。独り言って心細いと出るのかもしれない。だって俺はこの「獣道か?」とツッコミたくなるような茂みに囲まれつつ、かれこれもう4時間は独りで歩き続けているのだ…すげえ。いや、昼前に入山して、今はもう日が落ちかけている感じだから、もしかしてもっとかも? しかし怖くて時計は見られない。見たいけど、見たくない。 「はあ…大丈夫かこれ…」 大体、無茶だったんだよな。ここ、明らかに登山初心者がほいほい来るような山じゃないし。一応、全く人が通らないって所じゃないみたいで、道幅はないけど、道筋はくっきりしているから、迷子の心配はなさそう。所々に案内標識みたいな立て看板もあるし。割に有名な山だそうで、コアな観光客が「精神修行」と称して、偶に訪れることもあるらしいし。そうそう、今って、俗世の生活に疲れたお姉さんたちが、期間限定で山寺にこもって座禅組んだりってのが流行ってるんだろ。俺だったらそんな観光旅行絶対ヤだけど。誰が好き好んでこんな不気味な山に来たがるんだ。下手して遭難とかしたら大迷惑だ。……どうしよう、もし俺自身がそんな迷惑な人になっちゃったら。いやいや、大丈夫だ、それはない! ここには崖もない。猛獣もいない。冬だけど雪山でもないんだから! 第一、今さら後戻りなんて出来るわけがない。してたまるか。 俺は田神を追いかけるって決めたんだから。 「でも田神、あんまりだよ、勝手に行っちゃうなんて。絶対目の前で『バカ』って言ってなんなきゃ気が済まないぞ!」 俺と田神がめでたく「らぶらぶカップル」になったのは、冬休みになってからすぐのことだ。 俺が田神に告白して、田神も俺のこと好きだと言ってくれて。俺たち男同士で、俺はずっと「そういうの」に引け目を感じて生きてきたけど、田神はそんなの全然気にしてなくて、冬休みも傍にいると言ってくれた。本当は、田神は家のことでいろいろあってそれは難しいはずだったけど、でも、一緒にいるって言ってくれたんだ。 「深夜ならいないぞ。昨日から京都だ」 けど、25日のクリスマス。田神の誕生日に、俺は田神の家の近くで佐霧さんと会って、その事実を告げられた。予備校の授業が終わってから行ったから、もう大分遅い時間だった。 「聞いてなかったのか。元々休みに入ったらすぐ行かなきゃならなかったのを、今までずっと引き伸ばしにしていたから、向こうの師匠がキレたんだ。――で、ほとんど強制送還のノリだったんだが…ヒデには言ってったもんだと思ってた」 「俺……なんにも……」 「……ふうん。なら、すぐに帰ってくんだろ」 「ホントに!?」 誕生日に会えないのはがっかりだけど、佐霧さんが割とあっさりそう返してくれたので、俺は藁にもすがる思いででその言葉を信じた。 田神が高校を卒業したら剣の修業で京都へ行かなくちゃいけない、しかも少なくとも向こう1年はまともに会えなくなるという話は、両想いが分かった日に聞いた。冬休みにはその師匠の元へ行かなくちゃいけないということも。 けど、田神は俺と恋人になったことで、そのことも何とかすると言ってくれていたし、そもそも田神の誕生日は俺が祝いたいって言ったら、田神も「分かった」ってOKくれていたんだ。なのに連絡が取れなくて…おかしいと思って、家に向かったらそれで。田神が俺に何も言わずにいきなり消えたことが本当にショックだった。例えすぐに帰ってくるつもりでも、普通は何か一言言ってから行くもんだろ。約束していたことはもちろん、俺は田神の恋人なんだから。 そりゃあ……まだそんな、恋人っぽい感じではなかったかもしれないけど。 「ヒデは、あれか。もう深夜のダチはやめたのか。お前ら、そういう関係として付き合うことになったって聞いたぞ」 「え!」 突然佐霧さんがそう訊いてきて、俺はびびりながらも背筋を伸ばした。佐霧さんは田神の友だちだけど、まともに上から見下ろされるとやっぱり怖い。ただでさえ迫力あるモヒカンヘアーをされているのに…しかも、そんな直球で質問されると恥ずかしい。 でも佐霧さんに嘘を言うわけにもいかない。 「そ、そのう…そうです、ハイ。一応、そういうことに」 「へーえ。で、ヒデの方から告ったってのはホントか? 深夜が言うには、いきなり家に押しかけてきたと思ったら、好き好き迫ってくるから、スゲー引いたって言ってたぞ」 「なっ…」 「冗談だよ」 ぴくりとも笑っていない顔で佐霧さんはそう言った。しかも俺が口を開けたままフリーズしていると、あの猛者たち暴走軍団を一手にまとめ上げている「ヤモリさん」は、おもむろに俺の頭をぽんぽんはたいてから「とりあえず」と続けた。 「あいつのあんなにやけた面見たのは、俺も初めてだった。だから、まぁ心配要らねーんじゃねーの? 仮にも付き合い始めたばっかなら、すぐ帰ってくるだろ」 「そうですか…」 「けどもし帰ってこなかったら……あいつの力じゃどうにもならん事になっているのかもな」 「え」 「その時は、お前が男らしく深夜を掻っ攫いにいけば?」 それもまた、佐霧さんの気取ったジョークなのかと、その時は思っていた。 だって、掻っ攫うって言ったって、何が何だか。どういう状況なのかも俺にはさっぱり分からないのに。そもそも、一体誰から田神を掻っ攫うというのだろう? その剣の師匠か? 田神の進路を無理やり決めている育ての、或いは実の親父さんか? それとも田神の家から? そんな大それた真似、俺に出来るのか。そもそもそれを田神は望むのか。 いや、考えなくとも良いことなんだ。きっと田神は帰ってくる。大晦日までには帰ってきて、悪かったなヒデ、25日は約束守れなくて。この埋め合わせは何でもしてやるよ、なんて。あのカッコイイ顔で言ってくれるに違いない。それで、俺が調子こいて怒ったフリなんてしようものなら、あのおっそろしい眼で凄んでくるに違いないんだ。 でもその後はまた優しく笑ってくれる。 だから俺は何の心配もせずに、田神を待っていればいい。予備校の冬期講習に通って、ひたすら勉強して。まだ父さんや学校の先生から京都の大学を受ける許可は貰えていないけど、その説得もして。俺は来年、田神と一緒に新しい生活をスタートさせる。ずっと田神と一緒にいるんだ。 でも、田神はメールも電話も。 大晦日が近づいても、一向に連絡をくれなくて。 「だから……こういうことに、なってるんだ、けど、な…!」 ゼエゼエと山道を登り続けながら、俺はまだ独り言を続けていた。 喉が渇いた。ここへ来る前に寂れた駅の自販機で買った水は、もうとっくになくなっている。俺、もしかしなくても、田神に会えなかったら死ぬかも。…なーんて絶望的なことを考えていたら、いきなり木の枝から飛び立ったでかい鳥が「キエー!」と叫びながら頭上を飛んで行った…ので、俺はそれに「ひえー!」と言いながら、その場にしゃがみこんでしまった。 「び、びびった…」 何だ今の怪鳥は。不吉な予感。何だか目から液体が零れてきそうだ。 俺、ホントに一体何やってんだろう…。田神に会いたいって一心だったけど、よく考えなくても、やっぱりこれって無謀だったよな。でも俺がいきなり現れたら、田神はどんな顔をするんだろう。まぁまずは驚くとして。何せ何の連絡も取らずにやってきたんだ。まさにアポなし突撃取材ってやつ。いや別に取材じゃないけど、でも、田神がやっている修行とやらには興味あるな。今どき山に籠って剣の修業って何だよ。何時代だよ。しかも真剣とか。やばい。けど、道場で剣を振っていた田神はめちゃくちゃカッコ良かった。 「はあ……会いたいよー……」 俺は頭を抱えたままその場にうずくまり、子どものように愚図った。もう歩きたくない。疲れた。喉が渇いた、腹も減った。足が痛い。そうだ、もう一歩だって歩けない。 俺がここまで来たんだから、あとは田神が迎えに来るべきだ。 「田神〜」 頭にのせていた両手をそのまま拝むように組ませて、俺は念力とばかりに田神の名前を発した。なむなむ。来てくれ。ホントに疲れた。それに孤独だ。このままじゃマジで泣く。 田神が来てくれないと、俺は――。 「……冗談だろ」 その時、ザザッと前方の茂みが動く音と、直後に変な声が聞こえて、俺は思い切り肩を震わせた。咄嗟に獣だったらどうしようと血の気が引いたが、それにしては人間の言葉が聞こえたのがおかしい。だから「変な声」と思ったわけだけど、実際その声はちっとも変じゃなかった。 それどころか、それは俺の大好きな低い声。ちょっと怒っている感じだけど…。 「ヒデ」 顔を上げた先には、俺の名前を呼んだ田神がいた。びっくりだ。俺の念力が通じたみたい。袴姿の田神は横道からいきなり現れただけあって、その本来は綺麗だろう和装を汚していた。髪の毛も乱れているし、珍しく息も切らせている。 「あ…髪、切ったのか?」 けど、焦った風の田神より何より、俺は田神の姿でまずそれを思った。 田神の髪が、あの鋭い眼光をごまかす為の坊ちゃんヘアーじゃなくなっている。走ってきて髪がぼさぼさだからあの前髪ぱっつんに見えないのかとも思ったけど、そうじゃない。田神は全体的にただでさえ短かった髪をもっと短くしていて、前髪も眉にかかるかかからないかくらいまでにしていた。しかもそれは揃えられておらず、斜めに流してある感じで、すげーカッコイイ。何、何あれ。狙っているのか?何でこんな自然な感じにアシンメトリーになるんだ。俺なんかいくらブローしてもくせっ毛が変な方向にいっちゃって毎度困るのに、田神ばっかり、許せんぜ。 しかし俺のそんな評価を田神は知るよしもない。ただ単に「髪切ったのか」という台詞だけを拾って、田神はいつもの恐ろしい顔で俺のことをじろりと見据えた。もっとも、その時間も然程長くはなかった。田神は素早く辺りを見渡してから、再び俺のことをじろじろ観察し、それからやっと傍に来て俺の目線に合わせるように屈んでくれた。 「お前、どうやってここまで来た」 「どうやってって、登ってきたに決まってんだろ」 「まさか、独りじゃないだろ。才蔵は」 「いないよ。独りで来た」 「ふざけるな」 田神の声は至って静かだったが、俺を追い込むみたいにぽんぽん投げかけてくる短い台詞はやっぱりちょっと怖かった。 しかし俺は「田神に会えた」というそのことで秘かにテンションマックスで、表情こそボー然としていたかもしれないけど、ただただコワイ田神の顔をしげしげと眺めながら素直に応えた。 「ふざけてないよ、ホントに独りで来たんだって。確かにここのことは佐霧さんに訊いたけど、『年賀状出したいから住所教えてくれ』って言っただけだし」 「住所だけでここが分かるわけないだろ」 ぴしゃりと言われて、俺は言われてみればと目を瞬かせた。 「確かに。けど、貰ったメモにちゃんと行き方が書いてあってさ。知る人ぞ知る観光名所だって。だからますます“こりゃ行けるな”って」 「バカか。まあいい、分かった。才蔵は後で殺す」 「えっ、何で!」 「煩い」 そう言って、田神は再度辺りを見回した。いまだに俺が独りでここまで来たってことを信じていないらしい。本当に独りだっていうのに。 だって、確かに佐霧さんは田神を攫いに行けと俺をけしかけたけど、実際に俺が田神の所へ行きたいと言った時は反対した。何でも、田神の師匠さんとやらはすげー怖い人で、その上かなりの偏屈人らしい。んで、気に食わなければ、フツーに人のことを真剣でぶった斬ると…何ともクレイジーだ。よくこのシャバの世界で生きて来られたもんだ。あ、生きられなかったから、こんな山奥に住んでいるのかな。 「親には何て言ってきた」 田神が言った。凄く責める風に。俺はちょっと「う…」と思ったけど、言わないわけにもいかないので、ぼそぼそと地面を見ながら説明した。 「直接は何も言ってない。書き置きはしてきたけど」 「おいヒデ――」 「しょーがないだろ!? 今、俺んちは“京都”ってキーワードに対して、風当りが強いんだ。父さんがヨッ…ヨシヒトと結託して、俺が、京都の大学受けることに反対してて!」 これはなるべくなら言いたくないことだったけど、やっぱり田神に嘘はつけない。 田神にとっては“ヨシヒト”こそが最大のNGワードなのにな。 でも本当はこのことも早く田神に相談したかった。いろいろ怒られるだろうなとは承知の上で。 「でも父さんが悪いって言うよりは、俺が田神のことをちゃんと話せないのがいけないんだ…と、思う。父さんは俺が何か隠してるって感じてて、でもそれが何か分からないから、ヨシヒトを頼る。そしたら、ヨシヒトはヨシヒトで、田神のことバラさないでいてくれるのは良かったけど、逆にそれを利用して、俺が目的もなく京都に行きたがってるって風に俺の邪魔するんだ」 ホントにあいつは何なんだ。田神にぶん殴られても懲りるどころか、ますます俺にくっついてくる。 「……付き合ってた時だって、あんな気に掛けられたことないよ」 いったん話し始めたら、相談というより、ヨシヒトに対する愚痴みたいになってしまった。 俺が勇気を振り絞って「もう俺に関わらないでくれ」と頼んだのを華麗にスルーしたヨシヒトは、つい最近、この田神に思い切りしばかれた。あの時は俺も田神に無視されていて辛かったけど、ヨシヒトもあれはかなり男のプライドを砕かれた出来事だったと思う。何せヨシヒトは何事にも自信を持って生きている奴だし、結構なお坊ちゃんだから、これまでの人生で誰かに殴られたことなんてなかったと思うし。 だから、これでもういい加減、俺たちから離れてくれるかなと思ったんだけど…。 あの男前な顔を酷く腫らしてしまった後も、ヨシヒトは俺の父さんと一緒になって、俺の京都受験をやめさせようと説得に来た。俺は日本の伝統文化を学ぶという名目で、京都の大学にある日本文化学科を受験したいと言ったんだけど、「そういう学科なら関東にもたくさんあるだろう」と突っ込まれた。確かに、説得するにはインパクトが弱かったかもしれない。実際のところ、俺の本当の動機は、「少しでも田神がいる所の近くにいたいから」というただ一点だったし。 俺は2人に責められてきつかったし、早く田神と話したかった。けど、田神は突然消えた。しかも俺に一言もなく。佐霧さんの予想とは裏腹に、明日はもう年明けだ。田神と会えないまま、父さんと(たぶん)ヨシヒトが来ている家で紅白歌合戦を見ながら年越しなんて絶対無理だ。 「田神だって嫌だろ、俺がヨシヒトと紅白見ながら年越しそば食べるの! だからこうやってさ! ここ、こうやって、死ぬ気でこんな秘境みたいな所にまで登ってきたってのに、そっ、そんな怖い顔しなくても、いいじゃないか!」 田神の睨みが怖かったので、俺はいつの間にか半泣きだった。それを誤魔化す為に敢えて声を荒げてそんな風に訴えたのだが、それでも田神に動きはなかった。普通なら愛する恋人が自分の為にこんな所までやってきたんだ、感動して、それこそ泣きながら、「ヒデーッ! お前って奴はーッ!」とか何とか言いながら、ぎゅうっと抱きしめて、ぶちゅーっとチューとかしてくれて然るべきだ。 それなのに。 「何でそんな顔で黙ってんだよぉ!」 田神は俺をじっと見下ろしてまだ何も言わない。ホントに泣くぞ。いいのか。そう思いながら、俺も田神をむむむと睨みつけた。確かに、ヨシヒトの話は面白くないだろうし、親に何も言わないで(メモは置いてきたけど)勝手にこんなことしちゃって、「意外に常識人」な田神にしてみたら、いろいろ言いたいことがあるのも分かる。言いたいことがあり過ぎて、呆れすぎて、それで俺に何も言えないんだろう。 けど、例えそうだとしたって、だんまりは本当にやめて欲しい。説教でもいいし、バカにしてもいいから、とりあえずその前に一言だけでも言って欲しいよ。 ヒデが来てくれて、ヒデに会えて嬉しいって、言って欲しい。 「深夜」 「ぎゃっ!?」 俺は思わず叫んでしまった。田神の優しい声を期待して期待して、期待がピークに達した時に突然別の人間の声が聞こえてきたから。 しかも…何か、こう言っちゃ何だけど、その声は凄く低くてしゃがれていて…一瞬、人のものとは思えなかった。 加えて言うなら、その「人」は田神が現れた所から同じように出てきたはずなのに、茂みを揺らす音も何の気配すらも感じさせずに、いきなりパッと現れたように見えた。 その上、白い。お化けみたいだ。老人のお化け。 そのお化けが俺を見て言った。 「奇怪な獣の正体は小僧か」 「私の友人です」 田神がきりっとした声で答えた。うわ、お化けと違ってカッコイイ声…なんて思っている場合じゃないけど、カッコイイもんはカッコイイ。 俺がぼけっとしながら田神を見上げていると、田神は俺のまん前にさっと立って、俺をお化けから隠してくれた。俺がお化けを怖いって思ったのが分かったのかな? 「すぐに下山させます。麓まで送り届けてきても宜しいでしょうか。ここまで独りで来たと申しますので」 俺はえっと思った。折角ここまで来たのに、もう帰らないといけないのかって。でもよく考えたら、田神は修業に来てるんだから、「友だち」の俺がいきなりアポなしで「遊びに来ましたー!」なノリで来たからって、「おうよく来た、それじゃー、茶の一杯も飲んで行け」な展開になるわけはない。 …あれ。つまり、もしかしなくても、俺って田神に、凄まじく迷惑なことをしてしまっているんじゃ? 「戯けたことを」 俺がようやくそのことに気づきかけると、背が低いこともあって俺がいる所からは完全に姿が見えない白いおじいさん(お化けはさすがにまずいと悟った)は、あの低いしゃがれ声で「ふはは…」と笑った。…コワッ。笑い声、コワッ! こりゃお化けじゃないや、イメージ的には、妖怪小豆洗いだ。妖怪の声なんて知らないし、そもそも小豆洗いって婆さんの妖怪な気もしたけど、そんなことはまぁ、どうでもいいだろう。 とにもかくにも、その妖怪じいさんは、急に笑ったせいか、いきなりゲホゲホ咳き込んで苦しそうな顔をした。でも、えっ、大丈夫と心配しかけたら、もうまたあの怖い声で言った。 「唯の小僧が独りでここまで来られるか。どうせ才蔵の仕業だろう、あの悪餓鬼が」 「そうかもしれませんが、近くにあれの気配はありません。彼を送り届けても宜しいですか」 田神がもう一度訊いた。何としても俺をすぐさま下山させたいらしい。仕方ないけど、ちょっとさみしい。 「ならぬな」 しかし妖怪じいさんはそう即答した。俺が田神の陰からそろりとその姿を見ると、バチッと! まさにビームみたいな眼光が本当にバチッという感じで俺に当たった。 俺は心の中で「ひえええ」と悲鳴を上げ、すぐまた田神の後ろに隠れた。 「あれの仕業なら、あれに始末をつけさせろ。お前が下りることは罷りならん」 「才蔵はいません。彼を独りでは帰せません」 「知らぬな。そもそも、そこな小僧も同罪だわ。霊山を穢す馬鹿者めが」 「何も分からず来てしまったのです」 田神が静かに反論した。 俺はどきどきした。 多分、というか、絶対、この妖怪じいさんが田神の剣の師匠じゃないか。だとしたら、田神がこんな風に食い下がるのはまずいだろうし、そもそもこの人、俺のことを、「霊山を穢す馬鹿者」だって。やっぱり俺、やっちゃいけないことをしてしまったらしい。佐霧さんは「マイナーな観光名所」なんて言っていたけど、ここに来るまで誰とも出会わなかったし、2人の話を聞いている限り、どうやらそれは佐霧さんの嘘っぽい。確かに道標らしきものがあったから俺は迷わず来られたけど、もしそれも佐霧さんの手筈だったら? ていうか、佐霧さんが何でそんなことしたのか、俺にはさっぱり分からないし、俺自身は田神に会いたかったから、それはそれでありがたいことだったわけだけど。 でも結果、それで田神は困っている。これは俺と、あと佐霧さんのせいだと思う。俺は佐霧さんに感謝しているけど、でも、これって明らか田神の為になってない。 どうしよう。 「あの…俺、独りで帰れるんで…。どうもすみません…」 とりあえず謝ってみた。 田神の陰から身体半分だけ出して頭下げるってのがまともな謝罪なのかは微妙だけど。でもだって、この妖怪じいさん、声だけでなく、顔も怖い。田神の眼光ってこのおじいさん譲りなのかな。あ、でも別に血は繋がっていないのか。 「ヒデは黙ってろ」 そんなことを考えていたら、田神がすかさずそう言って俺を睨んだ。うぅ、田神にまで睨まれちゃ、俺の逃げ場はどこにもない。分かってる、田神が俺を庇ってそう言ってくれているのは。でも俺も田神に迷惑かけたくない。もう十分かけてるけど。 「独りでは帰せません。こいつの馬鹿さ加減は、常に予測の上を行きます」 えっ、何それ。田神が妖怪じいさんに言っている台詞が何気にヒドイ。確かにそうかもしれないけどさ。 しかしじいさんの方はまるで動じずぞんざいに頷いた。 「そんなことは見れば分かる。――おい、小僧」 「ひっ!? ははいっ!」 突然呼ばれて俺はびびりながら背筋を正した。自然その場で正座になっちゃう。それくらい、何か気合の入った声で呼ばれた。ガラガラした声なのに耳に響く痛い音だ。 「深夜の友人だそうだが。道場の者ではないのだな」 「は。はい、違います」 「唯の学友が一体ここまで何をしに来た。冷やかしか」 「まっ…! まさか、めっそうもございません!」 俺は思わず変な高い声を出してしまった。だって本当にびっくりしたから。俺が田神を冷やかすなんて意味が分からない。確かにここが観光名所って知った時は「行ける!」とか思って、多少なり舐めて、それなら俺でも登れるだろうから、ちょっと会うくらいいいよな、なんて、思ったことは事実だけど。けどそれは、それこそ「田神に会いたい」一心から出た勢いというか愛故であって、そもそも、そういうもんがなくちゃこんな所まで来られない。ほとんど飲まず食わずで半日仕事だぞ。いやもっとかも。ただの遊び気分だったら、とっくに途中リタイアしてるぜ。 「ならばこやつに何の用だ」 俺の無言の訴えが分かったのか、妖怪じいさんは吊り上げていた目を少しだけ緩めた。 それで俺も膝の上で握っていたグーをちょっとだけ解いた。 「何の用…と、言われましても…」 だから、ただ会いたかっただけだっての。だから、とか言っても、口に出していないわけだから通じるわけもないけど。 でも、言うことといったら、それしかない。田神に会いたかったから来た。だって俺は田神の恋人だから。しかもなりたてホヤホヤの。 しかしまさかそれを言うわけにもいかない。かと言って適当な嘘を言える状況でもない。 俺は慎重に言葉を選びながら答えた。 「その…つまり深夜君と、もう会えないのかと思いまして。それは嫌だと思いまして」 「あん?」 「ヒデ」 田神が余計なことを言うなって顔で見た。うっと思って俯いたけど、でも田神だって悪いんだって気持ちもあった。だって俺に何も言わないでいきなり消えて。俺だって俺なりに怒っているんだからな。 「恋…友だちにいきなり何も言わないで姿を消すなんて、一体どういうことかと思いまして。佐霧さんはすぐに帰ってくると言っていましたけど、そういう問題じゃないと思いました。だって僕たちは恋…スゴイ、仲なのに」 「ヒデ! 頼むから黙れ!」 「スゴイ仲というのは、それは何だ? どういう意味だ?」 妖怪じいさんがくいっと細い片眉を上げた。器用な顔だ、こんな表情もするんだ。 どんな顔だろうが妖怪みたいだけど。 「は、スゴ…スゴイ、仲が良いってことです。僕の、たった1人の、友だちです」 これは大丈夫だよな? ギリセーフ? ちょっとどぎまぎしたけど、我ながら秘密を隠しつつ言いたいことの半分くらいは言えた。それこそ俺ってスゴイかも。 「……小僧は、深夜以外に友がいないのか?」 すると妖怪じいさんは、初めて可笑しそうに目を細めた。これは笑ったのか? どうなんだろう、何にしろ細まった眼も異様に光ってて鋭いんで、微妙に判定が難しい。 ちらりと田神を見上げると、田神は俺を見ておらず、かといって妖怪じいさんも見ておらず、何というかすっかり「放棄」という感じで、唇を歪めて他所の方向を向いていた。鈍感な俺でも、田神が俺の回答に満足しておらず、それどころか呆れているのが分かった。 でも今さらそんな田神を気にして沈黙するわけにもいかない。俺は妖怪じいさんの顔を見て頷いた。 「はい、そうです。僕はずっと本当の友だちがいなかったので」 「くはっ! それはこの深夜とて同じこと。…なるほど、互いに唯1人の友ということか」 「そ、そうです、はい!」 妖怪じいさんの言葉に俺は目が「キラン!」と光った。何か分かってもらえた感じがした。じいさんも笑っているし、これはもしや…!? 「だからと言って小僧。お前がしでかしたことを許す理由にはならん」 ……しかし、世の中ってのはそんな甘いもんじゃないらしい。 「ここは禁足地だ。このことの意味が分かるか? ここはな、許可を得た者しか入れないのだ。師範もお怒りになるだろう」 「師範代、ヒデは――」 「黙れ、深夜」 有無を言わせぬ風に妖怪じいさんは田神を黙らせた。田神のこんな殊勝な態度は初めて見た。 いよいよ俺はまずいことをしたんだと分かった。一瞬でも大丈夫なのかと安心した自分は本当にバカだ。 「とは言え、直に日も暮れる。講堂へ入れるわけにはいかんから、僧房へ連れて行け。処分については師範に仰ぐ」 妖怪じいさんの声を、俺はどこか他人事のように聞いていた。これぞ現実逃避ってやつか。気持ちが深いこと考えていられない、みたいな。勿論、「とにかくまずいことになった」ってのは分かる。そして、どうやら犯罪者な俺の刑罰を決めるのは、この妖怪じいさんじゃないってことも。妖怪じいさんが一番偉い人じゃないんだ…何てこった。じいさんだけでもこんなに怖いのに、さらに上がいるなんて、寺だかどこだか知らないけど、妖怪屋敷に入り込むようなもんじゃないか。佐霧さんのヤモリっぷりなんて緩いもんだったんだな。 せめて田神にこれ以上の迷惑がかからないことを祈るのみだ…。 |
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