だってすきだから2


―1―



  俺、木戸英安は、現在しがない受験生だけど、それ以上に恐らく世界中でかなり上位に入る幸せ者だ。
  何せ、今の俺には、誰もが羨むカッコイイ恋人がいる。俺はその恋人を大好きであり、向こうも俺を好きだと言ってくれる。要はラブラブな仲なのだ。
  ただ、俺のその恋人―…田神深夜は俺と同じ男であるという―…何というか、この日本社会で生きる上ではいろいろな障害がなくもない。もともと俺自身、自分が同性愛者であることに引け目を感じて生きてきたから、男手ひとつで俺をここまで育ててくれた父さんにも、まだ田神のことを言えていない。いつかは言わなくちゃいけないと思うけど、まだその勇気がない。だから、それが今の悩みと言えばそうだけど、でも……そういった諸々の問題を差し引いても、今はやっぱり「幸せ」だと思う。好きな人がいると、人生って楽しい。だから受験なんて問題はさしたる苦難ではない、はずだ。
「英安」
  でも、それは俺の単なる現実逃避に過ぎないのかもしれない。
「たまには外でメシでも食おう」
  この冬休み、俺に対してずっと「自宅謹慎令」を出していた父さんが、突然部屋をノックし、そう言ってきた。俺は一気に気持ちが暗くなった。いや食事自体は別にいい。父さんとは、謹慎令を出されている間も毎日顔は合わせて食卓も囲んでいたし、雑談も普通にしていた。でも、改めて「外で食事」となると、きっと改まった話だろうなとは容易に分かる。父さんは深刻な話をするときは決まって俺を外へ連れ出すのだ。母さんが浮気して家出したことを初めて知らされたのも、公園の滑り台の上だった。
  今回は絶対、俺の「京都家出事件」の話に決まっているし、実際、進路の話はしないわけにいかない。あぁでも緊張するな。勿論、断れるわけもないから黙って頷いたけど、「10分で用意しろ」っていう要求にも、そんなに急がなくてもいいじゃないかと逃げの気持ちが頭をよぎった。
  上着を羽織って、部屋を出るとき…、大学のパンフレットを持って行こうかどうしようか、ちょっとだけ悩んだけど、結局やめた。
  父さんが俺を連れて行ったのは、歩いて10分ほどの場所にある地元のファミレスだ。俺はどうせ飯を食うなら、このちょっと先の通りにあるラーメン屋に入りたかったけど、そんな呑気な要求をしている場合ではないことくらい分かっているので、粛々と後をついて席に座った。世間は正月休みが終わったばかりで何となく落ち着かない…が、店内は割と空いている。奥の窓側の広いソファ席で赤ちゃんとか小さい子どもを連れたママさん連中が5〜6名でお喋りしていてちょっと騒がしい以外、目立った動きもない。あとは物静かそうな老夫婦が向かい合って珈琲を飲んでいたり、俺と同じ受験生っぽい女子高生が一人イヤホンをした格好でカウンター席で勉強していたり。あ、サラリーマン風の人も独りでご飯を食べている。そう言えば、父さんは何で今日仕事へ行かないんだろう?まだ休みなんだろうか?俺はそんなことに今さら気づいて、メニューを眺めている父さんを初めてまじまじと見つめた。
「父さん、今日は仕事じゃないの?」
「ん? ああ、休んだ」
「休んだ? 何で?」
「お前の進路について、ちゃんと話し合わなきゃならんと思って」
「……ッ」
  さらりと言われたその台詞に俺は衝撃を受けて固まった。きっとこうして連れ出されたのはそうだろうと思っていたけど、まさか仕事を休んでまで俺と話そうと思っていたなんて。夜でもいいじゃん。それが無理なら、何で俺が帰って来た正月三が日中のどこかで話そうとしなかったんだ。正月明けのこのあたりに会社休むなんて大丈夫なのか。多分、大丈夫じゃないだろう。それに、父さんがこんな風に仕事を休むところなんてめったに…いや、初めて見たかもしれない。父さんは超がつくほど真面目な人なのだ。
「お前は何にする」
  メニューから目を離して父さんが言った。俺は焦ってあわあわと口を動かし、適当に見つけたランチメニューを指した。父さんは頷いて店員さんに2人分の昼食を頼むと、「ドリンクバーからウーロン茶を持ってきてくれ」と言った。俺はすぐに頷いて席を立った。ちょっとほっとした。これから父さんとの圧迫面接が始まるから、一旦距離を置きたい。
「英安」
「いっ…!?」
  しかしその圧迫面接はさらに予想を超える事態に陥りそうだと瞬時に悟った。店のレジ横にあるドリンクバーへ向かった俺は、店の入口から颯爽と現れて俺に声をかけてきた人物に思い切り度肝を抜かれたのだ。危うく手にしたグラスを落とすところだった。
「な、何で…」
  一応訊いてみると、その男ヨシヒト―…俺の「元彼」ってヤツで、今はただのクラスメイト―は、相変わらずの涼やかな顔で答えた。
「親父さんに呼ばれたんだよ。今日の昼、英安と進路について話をするから、俺にも来てもらえないかって」
「何でお前が来るの…関係ないじゃん…」
  俺の声は限りなく小さかった。今さらそんなことを抗議してみたところで、実際コイツを呼びつけたのは俺の父、実の父さんなのだ。一体いつの間にこんなに仲良くなったのか、それは分からないけど、ヨシヒトと父さんがLINE仲間で、俺のことで何やらこそこそ話していたのは知っていた。でもショックだ。父さんが家族との大事な話にコイツをわざわざ呼ぶだなんて。
  そのヨシヒトと席へ戻ると、父さんはヨシヒトにだけ人の良い笑顔を浮かべた。
「おぉヨシヒト君。悪いなぁ、忙しい受験生に、こんな家のゴタゴタに巻き込んで」
「いいえ、呼んでもらえて嬉しいです。僕も英安の進路のことは心配だったので」
  如何にも優等生然としてヨシヒトはそう言った。それから当たり前のように俺のすぐ隣に腰かける。俺が恨めしそうにじっとその横顔を眺めると、その視線に気づいてヨシヒトはふっとあの美形過ぎる顔で笑った。そう、美形過ぎる。本当に何でこんな顔の男が存在するのか。単に俺の好みドストライクってだけなのだが、それでも、先ほどまで一生懸命勉強していたはずの女子高生や、お喋りに花を咲かせていたママさん連中までこっちを見て何やら嬉しそうにしているから、多分、コイツの容姿は一定数の人間を惹きつけるものであるのは間違いない。それにコイツって、何か絶対的オーラがあるし。
  でも、今の俺にとっては苦痛のオーラだ。
  俺がボー然としているうちにヨシヒトは自らも昼食の注文をし終えて、改めて父さんとどうでもいい世間話をし始めた。もうすぐセンター試験だけど、勉強の方はどうかと父さんが聞けば、もう直前なので、あとは風邪をひかないように体調管理するくらいですねと余裕の発言で返すヨシヒト。この回答、人によっては単なる嫌味としか思えないし、お前は自分が頭いいのをひけらかしているのか?なんて、劣等感バリバリの俺は思ってしまうんだけど、父さんには何でかコイツの発言いちいちがヒットするみたいで、「そうかぁ、凄いなぁ」なんて単純に感嘆している。
  とにかく最悪の流れだ。
「それで」
  早々に飯が運ばれてきたので、俺はすぐにそれらに手をつけようと箸を掴んだ。今日のランチメニューは和風ハンバーグ定食だったらしい。父さんはガパオライス、ヨシヒトは野菜カレーを頼んでいた。
  しかし俺と違って2人はすぐに食べ始めようとせず、それどころから店員さんがいなくなった途端、神妙な顔つきとなった。
  そして父さんは言った。
「結局、英安は受験する大学をどうするんだ」
「……今話すの? せめて食べ終わってからにしない?」
「食べながらの方が気楽に話せるかと思って食事時を選んだんだ。この休み中、父さんはいつお前が京都の大学について話してくるかと待っていたのに、お前は何も話さないし」
「え! だって……京都から帰ってきた時、父さんめちゃめちゃ怒って、俺に外出禁止令出すし、とてもそんな話できる状態じゃないと思って…」
「怒るのは当たり前だろう、あんな勝手に…何だ? どこやらの霊山へ登りに行ったなんて聞かされちゃあな」
「う…」
「見も知らぬお坊さんからいきなり、『お宅の息子さんがやって来られて』って、最初は何の悪戯かと思ったぞ」
「京都へ行ってくるって書き置きしたじゃん」
「あんなもので納得できるわけないだろう」
  父さんの口調がやや強めになった。いつも冷静であまり声を荒げない父さんだけど、あの時のことを思い出すとやはり腹が立つらしい。そりゃそうか。あの時はただ田神に会いたい一心だったから他のことを考える余地はなかったけど、一見してあんなの、突発的な家出以外の何物でもないもんな。
「そもそも何でそんな霊山?なんかに、登ろうと思ったんだ?」
  黙っていたヨシヒトが口を挟んだ。俺が意表をつかれて隣へ目を向けると、そこには心底怪訝な顔をしたヨシヒトのドアップがあった。あのな、ちょっと近過ぎ!もうちょっと離れて座れないのか、コイツは。
「親父さんからその話を聞かされた時、俺も意味が分からなかったけど。普通に考えて、その霊山と、京都の大学を受けたいことって関係しているんだろ?」
「……まぁ」
「どういう所なんだよ? ネットで調べたけどよく分からなかった」
「調べるなよ、勝手に」
「英安! 何だ、その言い方は!」
  父さんが怒った。俺はびくんとして不承不承黙りこみ、ヤケのように茶碗を持つと白飯をかっこんだ。何で父さんはヨシヒトを呼んだんだ。また同じ不満が頭をよぎる。そりゃあこの休みの間、俺もなかなか話を切り出せなくて悪かったとは思うよ。でも、家族の問題なのに、どうしてここにヨシヒトを入れるのか、それこそ分からないよ。
  俺のそんな不満たらたらの顔を見て、父さんがあからさまなため息をついて見せたことも俺を地味に傷つけた。俺は父さんのことが好きだ。だから極力父さんを失望させたくない。ずっとそう思って生きてきた。だから俺は自分がゲイだってことも言えずにいたんだ。
  それなのに、今の父さんは明らか俺に失望している。そして、俺のことを手ひどくフッたヨシヒトなんかを頼りにしている。
「ちゃんと話せば、親父さんは分かってくれるよ、英安のこと」
  ヨシヒトが言った。俺が黙って顔を向けると、ヨシヒトは真面目な顔で尚言った。
「どうして京都の大学を受けたいと思ったのか。ゆっくりでいいから話してみろよ。親父さんはさ、英安のこと、凄く大切に想ってくれているじゃないか。こんな風に仕事まで休んでくれて、ちゃんと面と向かって話を聞いてくれる親なんて、そういないぞ」
「…………」
  あまりにも正しいことを言われて俺は黙り込んだ。お前に正しいことなんて言われたくないよ…そういう愚痴もあるはあったけど、この発言に関して、ヨシヒトの言っていることはきっと正しい。父さんがいい親だっていうのは、俺だって認めている。父さんは俺の話を聞いてくれると思う。真剣に話せば、分かってくれるかもしれない。
  でも、本当のことを全部話すとなったら、田神の話をしないわけにはいかない。
  俺が京都の大学に行きたいのは、ひとえに田神の傍にいたいから、それだけ。
  考えたら、凄く不純かもしれない。日本文化がどうのこうのって、それを勉強したいことに嘘はないけど、絶対京都の学校じゃなきゃダメってことはないし、つまりは現時点でその動機はただの口実に過ぎない。そう、俺はただ単に田神の近くにいたいから、京都に行きたいだけなのだ。
  ……駄目だ。頭がごちゃごちゃしてきた。どうしよう。目の前には父さん。横にはヨシヒト。この2人の視線に耐えられない。2人は俺が話すのを待っている、でも俺にはやっぱり言えない。今、自分がゲイで、田神って恋人がいて、だから田神のいる京都へ行きたいなんて。どう考えても、父さんに分かってもらえると思えない、うまく話せる自信がない。父さんの許容キャパだって余裕でオーバーするに決まっている。
「ただ単に家を出たいだけか」
  暫くして父さんが言った。俺がえっとなって顔を上げると、そこには何を考えているのか分からない、無表情な父さんの顔があった。
「大学生って言ったら、そろそろ一人暮らししたい年頃だろうしな。そんなに煩くお前に干渉しているつもりはなかったが、遠い土地で一人になって自由を謳歌したいってことか? 父さんにもそういう時期はあったから、親元を離れたいって気持ちも分からないではない」
「いやっ…。そういうんじゃないよ、別に。別に、今の暮らしに不満があるわけじゃないし。父さんと一緒に暮らすのが嫌とか、あるわけないし。そういうことじゃない」
「じゃあ何でなんだよ」
  ヨシヒトが口を挟んだ。俺はちょっとカチンときた。今はお前が入って来るタイミングじゃないだろ。どうしてコイツはこう空気を読めないのか。いつでも自分中心じゃなきゃ気が済まないのか。
「何でって…。つまり、今の暮らしも大事だけど、それよりもっとこうしたいってことができたんだ。それが京都なんだ。今はうまく言えないけど…そのことを、父さんには本当に申し訳ないと思うけど…、でもっ! そのうち必ずちゃんと説明する! だから、今は京都の大学を受けることを認めて欲しい。俺、ちゃんとやるから――」
「駄目だ」
「えっ…」
「そんな事情も分からないまま、お前を遠い土地へ一人でやれるわけがない。許せるわけがないだろう、お前もそれくらいのことは分かるだろう? 理由があるなら、きちんと今、言いなさい」
「……京都なんて遠くないよ。せいぜい新幹線で2時間ちょっと―」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題じゃないだろ、それは」
  父さんとヨシヒトが同時に同じことを言った。俺はいよいよカッとして、ヨシヒトの方へ向き直り、本気で珍しく声を荒げた。
「お前には関係ないじゃん! お前、ここにいるなよ! 煩いんだよ!」
「英安!」
「父さんだって酷いよ! 何でここにヨシヒトを呼ぶんだよ!? これはさ、俺と父さんの、家族の問題じゃないか! ヨシヒトは関係ない! こいつがいると、俺だって話せることも話せないんだよ!」
「それはどういう―…おいッ! 英安!?」
  父さんが慌てて呼びとめる声が聞こえたけど、俺はヨシヒトを無理やり押して席から脱出すると、一度も振り返らず一直線に店の出口へダッシュした。もうダメだ。興奮したら負けだ。つまり負けたのは俺。第一、ヨシヒトのことだって俺は父さんには絶対に、それこそ田神以上に知られたくないのに、あんな言い方したら父さんが引っかかるのは当然だ。失敗した。しまった。つい口が滑った。でも、父さんが酷いと思ったのも事実だ。ヨシヒトは邪魔!ヨシヒトを呼んで欲しくなかった。父さんと2人で話したかった。2人だからって話せるかって言ったら、それは話せないかもしれないけど…少なくとも、こんな風に決裂みたいになって、俺が逃げ出すことはなかったんじゃないか、そうだよ。
  つまり、悪いのはヨシヒトだ。
「ああぁー、もう嫌だッ! ハアァ〜ッ! 田神に会いたいっ!」
  五百メートルくらいは走ったかもしれない。気づけば俺は家とは逆方向を全力疾走して、バイパスの向こう側にある繊維工場と貸し出し農園以外は何も見えない閑散とした通りにまで移動していた。昔はこの道沿いをよく自転車で散策したな。車の通りは結構あるけど、人通りは少ないし、空気は悪いけど景色が開けていて空も広く見える。今日は俺のこの気持ちのようにどんよりとした曇り空だけど…そして視界が開けているというのは、今の俺には逆に心寒い感じもするけど。いやしかし、今は家に戻れない。少し頭を冷やさなきゃ。
  ゼエハアと息を継ぎながら、しかし俺はそう思いつつも、もう咄嗟に携帯を取り出して、出るはずもない田神の番号を押していた。田神に会いたい。会えないまでも話したい。そう思ったから。別にいいんだ、出なくても。ただ田神の番号に電話するってこの行為自体に意味がある。そうだ、着信履歴つけまくって、田神が山を下りた時にドン引きするくらいにかけまくろうかな。それはなかなかにグッドアイディアな気がする。俺がこんな気持ちの時に俺の傍にいてくれないんだから、それくらいしても罰は当たらないだろう。
  ところでそんないじけた気持ちで掛けた電話は、ワンコール終わるか終わらないかのうちに取られた。そしてドスの利いた低い声が俺の耳に響き渡った。

『ヒデ。どうした』
「こっ、これ……、田神の、番号―…」
『今は俺が預かってんだよ。あいつの留守知らねェ奴が結構いるから、連絡係としてな。で、どうした。ヒデはあいつが山籠りしてんの知っているだろ。何で掛けてきた』
「いや……その……すみません……」

  佐霧さんは田神の友だちだ。本人は舎弟みたいなもんと言っているけど、どう見てもそういう感じではない、あの田神に唯一まともにタメで偉そうに話している人だし。見た目もスゴイモヒカンを天にひけらかしていて、スゲー怖い。喧嘩も多分、超強い。いや、悪い人じゃないって分かっているし、そもそもこの人がいなきゃ、俺は田神にフラれたのかと思ったまま最悪の年末年始を送っているところだったから、むしろ恩人とも言える。
  何の事情も説明せずに、俺をあんな妖怪の住まう山へ一人で行かせたことはともかくとして。
  でも、何でかびびっちゃうんだよなぁ、反射的に。声だけで迫力があるというか。

『おいヒデ。俺は何があったのかって訊いてんだよ。何謝ってんだ』
「や……だって、田神にイタ電したから……」
『はぁ? んだよ、これイタ電かよ。ああ、分かった。あいつが出ないの分かっていて、あいつの留守中、無言の着歴いっぱい残してやろうとか考えたんだろ? ガキだなーヒデは』
「ぐ……そ、その通りだけど…いや、その通りです」
『けど? けど、何だよ?』

  電話向こうの佐霧さんはどことなく楽しそうで、柔らかい雰囲気だった。だから俺もちょっとだけ喋る気になって、歩道の端に寄って行きながら、その先にあった歩道橋の階段に腰をおろして受話器を握り直し、言った。

「田神が出ないのは分かっていたけど、田神に会いたくて。せめて声が聴きたいと思って、百万分の一くらいの確率を期待して、電話したのも事実です。もしかしたら奇跡が起きて田神の手に携帯があるかもしれないと思い」
『携帯持ってないって聞かされていただろ。ヒデも見ただろ、あの鬼畜な妖怪どもを。あいつらにこんなもん隠し持っていること知られたら、マジでぶっ殺されるからな』
「田神…まだ当分帰れないんですか」
『何だよ、この間会えて充電できたろ? 切れるの早くねえ?』
「そんなことないです! 俺のスマホだって充電は1日1回やらなきゃ切れるし!」
『はいはい、そうかよ。けど、深夜はまだ帰れねえ、我慢しろ。何か緊急の用あるなら俺から伝える』
「伝えるってどうやって。佐霧さんが京都まで行ってあの山登ってくれるんですか」
『んな面倒な真似するかよ。まぁいざとなったら伝書鳩とか飛ばしてな』
「まさかぁ…。さすがの鳩も死にますよ、あんな所まで行かされたら」

  佐霧さんの軽口に俺はちょっとだけ笑った。この人でも冗談言うんだ。田神と話せないことは残念だったけど、誰も出ない電話にかけ続けるより、こっちの方が良かった。俺は佐霧さんにもう一度謝った後、電話を切った。ちょっとだけ気持ちが落ち着いていた。
  でも。
「田神、今東京にいないのか」
「うわあっ!?」
  俺が驚いて仰け反ると、いつの間にか目の前にはヨシヒトが立っていた。俺がびくついてその場に固まると、一体いつからそこにいたのか、ヨシヒトは真面目な顔で俺のことを見下ろしていた。ちょっと息が荒い。こいつも走って来たのか?
「今の電話。佐霧って、あの時のあいつだろ。学校に来た連中のリーダー格だった。英安を自転車で連れ去った」
「つ…って。俺が一緒に乗って行ったんだから、連れ去られたわけじゃない」
「京都へ行きたいって、田神の為なのか。あいつがそっちにいるのか。何で?」
「……っ」
  本当にヨシヒトに知られたくなかった。俺が黙っているとヨシヒトは一人で続けた。
「隠したって無駄だ。そもそも急に京都の大学受けたいと言い出したのだって、あいつが関わっているのは分かっていた。だってこの前、英安が自分で言っていただろ。田神の行くところに行きたいって。つまりは、そういうことだろ」
「別に…同じ大学って意味じゃないよ」
「関係ない。あいつがそっちにいるから、近くに行きたいってことだろ」
「………」
  完全にバレている。でも、そういえば言ったかもしれない。ヨシヒトに俺と同じ大学受けて欲しくなくて、一生懸命「ガンバッタ」あの時に。でもヨシヒトは分かってくれなくて、でもあの時は田神が救世主みたいに来てくれて、ヨシヒトをぶん殴ったんだった。あ、そう言えばヨシヒトはあれから大丈夫だったのか。見たところ顔に傷は残っていない。良かった。
  って、今はそれどころではない。
「何であいつは京都になんかいるんだ。お前を置いて」
  ヨシヒトが言った。俺が黙って顔を上げると、ヨシヒトはちょっと怒った顔を見せた。
「お前たち、付き合い始めたばかりなんだろ。お互い好きだって確認したんだよな。それなのに、何でこんな大事な時期にあいつはいなくて、英安だけが親父さんの矢面に立って苦しんでいるんだよ。本当に2人で一緒に暮らしたいと思っているなら、あいつだって正面切って親父さんと話すのが筋だろう?」
「いや…別に一緒に暮らすとかそういうんじゃないから…」
  何を暴走しているんだ、こいつは。それにそうだ。そもそも、俺があっちに行ったところで、きっとほとんど一緒にはいられないんだ。田神は最初の1年は大学を休学して山籠もり続行だろうし、そうなったら距離的には東京より近くても、実質会えることなんてない。俺がまたお忍びであの山を登れば…とも思うけど、見つかったら今度こそ殺されるかもしれない。それくらい、田神のお師匠さんは怖い人らしいし。あの佐霧さんでさえびびっているんだ、妖怪レベルも相当高いだろう。
「英安は自分のことや田神のこと、親父さんに話す気はないのか」
  ヨシヒトはまだ俺に話しかけていた。俺は耳を塞ぎたい気分だったけど、一方で真剣に話してくるヨシヒトを無碍にもできなかった。こいつには本気で頭にきているけど、あの時頑張ったことが報われていないので、もう一度でも二度でも、頑張らなきゃダメだとも思った。
「話す気はある。話す勇気がなくて今まで来ちゃったけど、話そうとは思っている」
「いつ」
  あー、言うと思った。俺はすぐにきっぱりと答えた。
「それをヨシヒトに言う気はない。俺はヨシヒトには何も言わない。お願いだから俺のことは放っておいてくれ」
「英安…」
「俺がエイって言われるの嫌だって言ったら、そうやって名前で呼んでくれるようになったり、俺の父さんの悩み聞いてくれたり。それって本心で凄く嫌だけど、でも、ヨシヒトがヨシヒトなりに俺のこと考えてくれているのは分かる。何であんなフリ方した俺にこうまで関わってくるんだとは、思わないでもないけどさ、まぁ、それがお前なんだよな。でも、頼むからこの件に関わってくるのはやめてくれ。本当に、頼むから。俺につきまとうのはもうやめてくれ…、いや、やめて下さい」
「英安はもう俺のことが嫌いか」
  ヨシヒトがやや気落ちした風にそう訊いてきた。俺はちょっとためらったけど、ここで同情しちゃダメだと思って強く言い切った。
「好きか嫌いかって二択なら嫌いだよ。当たり前だろ? 確かに前は俺、お前のこと好きだった。けど、あんな酷いフラれ方して、無神経なことされて…傷ついたんだ。そういう傷って、そんな簡単に癒えるもんじゃないんだ。ヨシヒトはモテモテでそういうの分からないと思うけど、今の俺はお前を許せる気持ちになれない、どうしても」
「未来の英安なら許せる?」
「はぁ!? あぁ俺の言い方がまた悪かった!? 今も昔も未来も許せない! しつこいヨシヒトは嫌だ! これで分かった!? とにかく今は独りにしてくれ!」
「分かった」
  ややヒステリックに叫んだら、ようやくヨシヒトはそう言った。意外に早かった!?俺はまた「嫌だ」と言われるのを覚悟していたからこれにはちょっと驚いたけど、さすがにここまで言われたら、ヨシヒトも退くのか。あぁ良かった、とりあえず。それで俺がほっとして息を吐き、ここから去ってくれるであろうヨシヒトを見上げると。
  そのタイミングが悪かったのか。
  顔を上げたその瞬間、俺はこちらに迫ってきていたヨシヒトにキスされた。
「うわっ!?」
  思わず飛び退ったけど、もう遅い。俺の口とヨシヒトの口はくっついた。キス、してしまった。いや、これは事故か!? そうだ、そうに違いない、これは出会いがしらの衝突事故だ。俺は悪くない、俺は――…。
「英安のことが好きだ」
  茫然自失の俺を前にヨシヒトが言った。
「だから俺は諦めない。今は嫌われても嫌がられても…、お前が許してくれるまで待つよ。俺は田神から英安を絶対に取り返す」
  俺は浮気なんかしていない。
「英安には俺が合っているよ。あいつじゃない」
  ヨシヒトは延々と何か言っているけど、俺は違う、違うんだ。俺は浮気なんかしていない。断じてしていない、キスなんか。田神以外の奴と俺は。
  でも悔しい。不覚を取ったのは俺の責任だ。俺が悪い。俺はそんな自分が情けなくて悔しくてどうしようもなくて、目から透明の水を滲ませてしまった。




後編へ…