デートのススメ

  ―1―


  年明けの新学期が始まってから、俊史はとても忙しくなった。
(あ……今日も俊ちゃん、早く行ったんだ………)
  寝ぼけ眼のまま階下へ向かい何となくキッチンのテーブルを見つめると、そこには既にきちんと用意された朝食と、「先に行く」というメモが置かれていた。しかもその伝言にはご丁寧にも、冷蔵庫の中にあるフルーツのことまで書き添えてある。
「おはよう、歩遊ちゃん」
「わっ」
  ところがそのメモにほんわか和んでいたところ、背後から突然そんな声がかかったものだから、歩遊は驚いて仰け反った。
  手元から落ちたメモはそのままひらりはらりと足下の床へ落下する。
「び、びっくりした……おじさん」
  未だドキドキしたままその場で硬直する歩遊に「おじさん」と呼ばれた貴史――俊史の実父だ――は、乱れた頭髪をがしがしとかきむしりながら「うん」と、こちらも寝ぼけたような目をしたままふっと笑った。既に年齢も四十後半になろうというのに、その容貌はとても若々しく、どこぞの映画俳優のように整っている。俊史が年を取ったらこんな風になるのかなと、歩遊は常々想像を膨らませては嬉しい気持ちになるのだが、当の俊史に言わせると「冗談じゃない」となるらしい。
「佳代さん、もう行ったんだ? 相変わらずあの人、酒強いなぁ」
「えっ? お母さん、帰ってきて……?」
  歩遊の驚いた様子に貴史は無感動な様子で「うん」と肯定し、「夜中、一緒に酒盛りしたから」などと付け加えた。そうして仮にも人様の家の冷蔵庫を我が物顔で勝手に開けると、取り出した冷茶をぐびりと煽る。そのどこか気怠い様子は如何にもちょっとした睡眠から覚めたばかりという風だったが、貴史の格好は上着こそ脱いではいるもののネクタイもつけたままの「外用」だったし、来訪してすぐ母と飲み会になっただろうことはすぐに想像出来た。
  歩遊の母・佳代は自他共に認める酒豪である。夫である幹夫はそんな妻の相手を早々に放棄し逃げ出すのが常なのだが、昔から良い飲み仲間である貴史、それに彼の妻・真理恵などはこうして泊まり込んでは晩酌のお伴を買って出る。普段から過重労働で疲れているはずの彼らだ、母の我がままに付き合わされて迷惑なのではないかと、傍にいる歩遊は時々心配になってしまう。
「おじさん、どこで寝ていたんですか? ソファ? 泊まるならちゃんと客間で寝れば良かったのに…」
「あー、いいの、いいの。俺はどこででも眠れるから。それより佳代さん、結局歩遊ちゃんと話していかなかったみたいだけど、今日からまた三日間くらい取材で東京離れるって言っていたよ。ミキさんは事務所にいるらしいけど」
「あ、そうなんですか。一昨日のメールには特にそんなこと書いてなかったけど」
  佳代たちのことは息子の歩遊よりも瀬能家の方が詳しく把握している。普通に考えて全く不可解な家族だった。
  歩遊ももう高校生で、今さら親に甘えたいというような年でもないが、彼の両親は呆れるほど実子への養育義務を怠っている。それでよくぞ曲がらず「こんな風」に育ったものだとは、瀬能家や歩遊を知る人々の総意なのだけれど、その点は歩遊の亡き祖母と、あとはやはり幼馴染の俊史の貢献によるところが大きいと言える。
「あっ、あの野郎! 俺の分も作っておけって言っておいたのに、歩遊ちゃんの分しか用意してねェ!」
  けれどその「貢献人」である俊史に対して、実父・貴史の評価は著しく低かった。
  テーブル上に整然と用意されている「一人分」の朝食を苦々しい顔で見やった後、彼はハアと大きなため息をついて傍の椅子に腰を下ろした。
「何であんな風に育っちまったのかねえ……」
  そうして独り言のようにそんなことを呟く。歩遊はそんな貴史に少しだけ戸惑った想いを抱いたのだが、最近の彼が特に「こう」なのはあのキス現場を見たせいだというのはよくよく分かっていた。だから何も言えなかった。
  冬休みの時、歩遊は俊史とキスをした。否、それどころではない、男同士だというのに、それ以上の身体の関係まで持ってしまった。ここにいる俊史の父は二人がいつかそうなる事はどこかで予感していたらしいが、実際にその予感が的中してしまったと知ると烈火のごとく怒り狂った。何てとんでもない事をやらかしたのだと、大罪人を見るような目で責め立てたのだ。
  ただし、それは実の息子の俊史だけに。
  歩遊には相変わらず優しい。
  それどころかあれ以来、貴史は頻繁に帰宅してくるようになった。自宅にではなく、歩遊宅に。
「歩遊ちゃん」
  そしてその貴史は、顔を洗ってこようと洗面台へ向かった歩遊の背中に唐突に声をかけた。
「昨日、俊のバカには佳代さんと一緒の時に言っておいたけど」
「え…?」
「家を出るなんてダメだからね」
  ぎくりとして動きを止める歩遊にも貴史は構わない。
「大学は自宅から通いなさい。それが出来る所を受けるんだから、二人で暮らすなんて俺は認めないよ」
  責める風ではないけれど、実に毅然とした物言い。
  歩遊は貴史に何も返すことが出来なかった。


(やっぱり反対されちゃった……)


  学校へ向かう電車の中、歩遊は流れる車窓をぼんやりと眺めたまま小さなため息をついた。
  別荘でのことがあってから、俊史と歩遊はただの幼馴染から、「付き合っている」恋人同士になった。……たぶん。
  というのも、完全にそう言っても良いものか、歩遊には躊躇う部分がある。自分たちが「付き合っている」というのは、俊史も秋を通じて肯定してくれたし、何よりあそこでは何度も身体を繋げた。何度も戯れでないキスをした。だからきっと大丈夫、恋人同士と言っても良いのだろうなとは思うのだけれど、俊史からのはっきりした言葉がないのは、どうしたって不安を残した。
  あの別荘地で、歩遊は好きとか愛しているとかいった言葉にはない、それ以上の何か強い気持ちを俊史から感じることが出来た。自分は俊史からとても大切にされていると実感出来た。
  だからもう無理に言ってもらわなくても良いと思うことにしているし、心の中でも勝手に「自分たちは付き合っている恋人同士なのだ」と思うようにもしている。実際、俊史は「高校を卒業したら二人だけでずっと一緒に暮らそう」とまで言ってくれたし。

  けれど。
  胸の中には未だもやもやしたものがある。
  貴史からの「二人の関係を望ましいとは思わない」という視線もちくちく痛い。

(それに……今はもう同じ大学に行けるかどうかも分からなくなっちゃった。いや、元から無理な可能性の方が高かったけど……でも、あんな点数じゃ)

  戒めのようにずっと鞄に入れたままの模擬試験冊子を意識して、歩遊は再び嘆息した。
  別荘から帰ってきてすぐに受けた模試は本当に散々だった。ろくに勉強しないで臨んだのだから当たり前と言えばそうなのだけれど、それにしてもこれまでの努力は何だったのかという程の出来だった。蒼褪めながら自己採点の結果を告げた時、俊史は歩遊のその酷い結果に特に何も言わなかったが、これまで考えていた志望校が遥か遠くに行ってしまったことだけは誰に指摘されずとも明らかだった。
  だから歩遊は佳代に言われるまでもなく、「俊史と同じ大学には行けない、もし俊史が自分と同じところを受けると言っても、それは絶対に賛成できない」と思った。

“俊ちゃんは歩遊と一緒の所に行くって言っているけど、それはさすがにどうかと思うよ”

  あれは模試の直後だったか、貴史同様、最近帰宅の増えた佳代からそういう風に言われた。偏差値うんぬん関係ないとは言うけれど、俊史にはまるで興味がない学部なのに同じ所を受けるなんてやっぱりおかしいし、それを良しとするのはダメなんじゃないか、と。ましてや、自宅から通える大学が幾つもあるのに、わざわざ二人だけで暮らす為に部屋を借りるなんて、「ちょっと気が早過ぎる」とは、佳代も貴史と同じようにやんわりとではあるが牽制したのだ。
  そのせいか、ここ数日俊史はずっと機嫌が悪い。
  生徒会の仕事もとても忙しいらしく、学校でも帰りくらいしか一緒になれない。いや、それすら時々叶わない事がある。自宅には貴史や佳代がいるから、なかなか二人きりにもなれない。
  そう、あの休みが終わってから、二人は「付き合っている」とは到底思えないようなすれ違いの生活を続けていた。
  やっぱりただの幼馴染なのかと錯覚するほどに。
(今日は一緒に帰れるかな……?)
  もしそれが出来たら、その時は貴史に言われたことをもう一度言ってみよう、佳代から言われた大学のことも相談してみようと、歩遊はどことなく重苦しい気持ちでそれだけを思った。





「ふーゆっ。おはよう!」
  教室に入ると朝練で既に登校していた耀が元気よく挨拶してきた。いつもにこにこした晴れやかなその笑顔に歩遊も自然笑顔になる。
「今日英語の小テストだな。歩遊、ちゃんと勉強してきたか?」
「うん、一応。でも、自信ないんだ」
  単語帳を出しながら歩遊が困ったように笑うと、「俺もー!」と言いながら、耀は当たり前のように前席の椅子に座った。自分の座席でもないくせに始業前や休憩時間には必ずと言ってよいほど耀はそこに座りたがるので、最近ではその席の本来の持ち主も殆ど諦めていて、「もう席を代わってやってもいい。一万円で」などと言い出していた。
「何か年が変わってから急に忙しくなったよなぁ。先生たちもどっかぴりぴりしているしさ。まぁそれは3年がもうすぐセンターだし、当たり前なのかもだけど、俺らはまだ関係ないんだから巻き込むようにテストだ進路だって急かさないで欲しいよ」
「耀君は進路もう決めたの? やっぱりあのサッカーの強い大学?」
  以前、クラスの噂でスポーツ推薦の話を聞いていたから、歩遊は何気なくそう尋ねた。サッカー部自体は周囲の強豪チームと比べて然程有名ではないが、耀個人は余所の大学やJリーグのスカウトからも見学が来るほどの有力選手なのだ。それもクラス中、学校中が話題にしていることだから歩遊もよく知っていた。
「んー、まだ分かんないけど、でも、推薦は取んないだろうな」
  けれど耀はあっさりとそう言った。
「えっ…そうなの?」
「うん。サッカーだけ期待されてそういう風に入学しても後が辛いから。勉強したい時に練習優先させられちゃうのも嫌だし」
「勉強? 勉強したいの?」
「おいおい歩遊〜。俺だって勉強したい時くらいあるんだぞー?」
「それは……きっとそうだと思うけど」
  耀は俊史や戸部のように秀才とか天才とか言われる部類ではないが、歩遊と比べれば断然「出来る」方だ。テスト後に張り出される成績優秀者の表にもいつも50番前後には名前を連ねているし、そういう耀だからこそ、歩遊は尊敬の念を深めてもいた。中学時代、俊史をそういう憧れの存在として眺めていたのと同じように。
「でも、耀君ってサッカー一筋なのかと思っていたから」
「勿論、好きだけどな。ただ、自分でプレイするのもいいけど、俺結構オタクだから、理論の勉強とかも好きなんだよ。あとスポーツ医学とか、ちゃんとやっておきたいんだよね。現役から離れた後もスポーツと関わっていけるような仕事したいじゃん」
「へえ……」
「それにドイツ語とかイタリア語もやりたいし! やっぱ本場見ておきたいっていうか!」
「凄いね……」
  歩遊は自分でそこまで将来についてまともに考えたことはなかったから、そんなことを飄々と話す耀に思い切り感心してしまった。母・佳代が折に触れ「よく考えてみなさい」と言っているのはきっとこういう類のことなのだなと思う。歩遊はまじまじと耀を見つめて、「すごいなあ」と再度呟いた。
「えー? 何だよ、歩遊〜!」
  すると耀が照れたように笑ってのけ反った。歩遊はそれに「だって凄いんだもん」とまたまたしつこく誉めちぎった後、何となく嬉しくなってにっこりと笑った。
「な………何か、歩遊って」
  すると耀はそんな歩遊の表情に今度こそ困ったような顔になって、どことなく頬を赤らめ目を逸らした。
「何かちょっと変わった?」
「え? 何が?」
「んー、んー…まぁ、うまくは言えないけど。何か雰囲気って言うか、顔つきって言うか。ちょっと変わったかなって」
「え? そう…かな? 別に普通だと思うんだけど…」
「いやぁちょっと。いや、ちょっとというか、かなり可愛くなったというか――」
「おい、そこまでにしておけ」
  けれどその時、言いかけている耀をぴしゃりと止めて、不意に二、三人の男子生徒たちがさっと歩遊たちのいる机を取り囲んできた。
「は?」
  それに耀は当たり前のようにぽかんとしたのだが、どこか強面の彼らの迫力に歩遊は忽ち氷のように固まった。何故って彼らの様子からして明らかに「友達になろう」という風ではない。いじめられっ子歴が長い歩遊としては、こういう時はロクな事がないというのを経験で、肌で知っているのだ。
「相羽、ちょっと顔貸せ」
  そして案の定カチコチと緊張し萎縮する歩遊に向かって、強面男子生徒の一人がくいと顎をしゃくりながらそう言った。
「戸部さんがお呼びだ」
「……え?」
  しかも「よりにもよって」な人の名を出された。
  歩遊は今度こそ固まった。





  ガランとした生徒会室。歩遊は実に横柄な態度で、革張りのソファに寝そべっている戸部と対面した。
「相羽歩遊君」
  立ち尽くしている歩遊は立たせたまま、戸部はだらりと横になった体勢で片肘だけを立て、その手に小さな頭をもたげかけている。小首をかしげたようなその格好は一見実に可愛らしいのだが、如何せん、歩遊はもう彼の「正体」を知っているので、背中に冷たい汗が流れるのを止められない。
「よ、用って……?」
「言っておくけど俊はいないからね。下僕どもを使って外の用事をさせているし。あのサッカーバカも押さえてあるから、援軍はゼロ。つまり君は袋のネズミなわけ。分かる?」
「よ、用は何ですかっ」
  同じ年なのにどうしてもこの戸部の前では敬語になってしまう。歩遊は未だだらだらと心の中で冷や汗を流しながら、なるべく怯まないよう努力しながら戸部を見つめた。
  あまり考えないようにしてきたことだが、この戸部と対面するのはとても辛い。
  何故って。
「じゃあすぐ本題に入ってあげるけど。あのさあ、冬休みの間にさあ。もしかして君たちって、デキちゃった?」
「なっ…に…?」
「だあからあ!」
  ぎょっとする歩遊に戸部はうんざりしたようにまくしたてた。
「最後の一線まで越えちゃったのかって訊いてんの! どうなの? ヤッたの? ヤッてないの?」
「かっ……な……関係な……!」
「いやあ、関係なくないっしょ」
  むくりと上体を起こして戸部は無碍もなくそう言った。それからちょいちょいと指を動かして歩遊に「もっと傍に寄るよう」命令する。
  歩遊にそれを聞く義理はなかった。
「う……」
  それでもちっとも逆らえない。以前にもあったことだが、歩遊はまるで魔法にかかったかのような状態でふらふらと戸部に近づいた。
  戸部はそんな従順な歩遊ににやりと笑う。
「全くねえ。仮にも彼氏持ちの男を横から寝盗っておいて、関係ないだもないもんだ。顔に似合わず、随分と罪なことしてくれるじゃない、歩遊ちゃん」
「しゅっ……瀬能君は、と、戸部君とは、付き合ってないって!」
「ははぁ? へえほう? 俊がそう言ったんだあ? じゃあ、あいつもそれなりに罪人だとしてえ。もし、それが違ったら? 俊が嘘ついているだけだったらどうする?」
「え……」
  歩遊の思考が動き出す前に戸部は更に続けた。
「そしたら、やっぱり歩遊ちゃんは罪作りな人ってことになるよねえ? 僕という恋人がありながら、俊のこと横からかっ攫うようにして寝盗ったんだからさあ。ねえ?」
「う、そ…? 二人は……付き合ってない……」
「え〜? 何でそんなこと言い切れるのう? 僕たちが付き合ってないって証拠でもある?  周りはみーんなそう言っているじゃない、僕たちがラブラブだって」
「だっ…! でも、俊ちゃんは違うって!」
「単に歩遊ちゃんとヤりたいが為にその場でかました方便かもしれないじゃん。実際、俊は君とエッチする時、ちゃんと付き合ってって言ったの? どうなの、あいつは好きって言った?」
「う…」
「あー、やっぱり言ってないんだあ。うーん、なるほどなるほど」
「……っ」
「いやあ、あいつ如何にもそういうこと言いそうにないもんねえ。好きとも言われないのにカラダ許しちゃったの? もう歩遊ちゃんはおひとよしだなー」
「じゃ、じゃあ戸部君には言うのっ? 戸部君には、す、す、好きって…!」
「その前に、お前の口から俊と寝たかをどうかを早く聞かせろって」
「わっぷ!」
  いきなりぐいと引き寄せられて、歩遊は面喰らった。細いながらも首に腕を絡まされてあっという間に呼吸困難になる。ソファに無理やり押し倒されもして、まるで戸部に襲われているような格好だった。
  歩遊は暫しのパニックに陥った。やっぱり戸部は苦手だ。
「離……いっ!」
  首元を肘で押さえつけられ声を塞がれる。小柄な戸部にどこからこんな力が出てくるのかと心底不思議だ。
  意地悪な声がすぐ耳元で聞こえた。
「ほうら歩遊ちゃん、ギブですかあ? 苦しいでしょー」
「んっ! んうっ!」
「早くゲロしなさい、あんまり可愛くもがくとちゅーしちゃうよ? ねえ、俊とはシたの? シてないの?」
「し……」
「し?」
「知ら…知らないっ」
「知らない〜? 知らないわけないでしょ、自分のことなんだから。あのねえ、隠したって無駄なんだよ、俊とお前の態度見てれば一目瞭然なんだから。ヤッたんだろ? セックスしたんだろ?」
「や…!」
「全く恥ずかしい人たちだよな。それに巻き込まれるこっちはたまったもんじゃないって!」
「は、離…っ」
  上に乗る戸部の拘束がより一層きつくなった。戸部は面白がってやっているだけなのだが、必死な歩遊はそれに気づかない。
  しかも戸部の発言はセクハラまみれである。初心な歩遊にはこれまた耐えられない事だった。
「ねえねえ、俊とのセックスってどうだったの? あのアニメみたいにほんわかメルヘンな感じだったのかなぁ? 歩遊ちゃん可愛いし。でもさあ、歩遊ちゃんのことだもん、最初は『分かんない、分かんない』って、泣き喚いて俊のこと困らせたんじゃないの? 服とか自分で脱いでないっしょ。俊が全部やってくれたんでしょう?」
「そ、そん…っ」
「ねえ最初ってどこでしたのさ。やっぱりベッド? 豪華な別荘に行ったんだもんね? いいねいいねえ、このこの!」
「いた! 痛い痛い!」
  全身を拘束されたままぐりぐりと拳骨で側頭部を弄られる。歩遊は情けない声をあげた。
  しかしこの場には確かに誰もいない。扉の向こうには歩遊をここまで連れてきた「戸部の下僕」たちが控えているだろうが、つまりは彼らが防波堤になって歩遊が幾ら叫んだところで助けは来ないということだ。歩遊がここへ連行される時に一緒にいた耀は「歩遊をどうする気だ、自分も行く!」といきりたったのだが、彼らの仲間何人かに無理やり押さえつけられて、あれからどうなったのか分からない。
「歩遊ちゃん」
  あまりに無力な歩遊を攻撃することに飽きたのか、暫くしてようやく戸部が攻撃の手を止めた。
「……っ」
  殆ど涙目の歩遊はそれによってすぐさまガバリと上体を起こしたのだが、戸部は歩遊にそこまでは許してもぎゅっと手首を掴んだままそれ以上の動きは認めなかった。
  だからソファからは逃げられない。
  歩遊はぐっと唇を噛んだまま、その意地悪な相手を真正面から見つめやった。
「僕は悲しいよ。俊がさ、最近凄く冷たくて」
「え……?」
  ところが向かい合ったところで、突然戸部の声色と表情が変わった。
「きっと俊は歩遊ちゃんの方が良くなっちゃったんだろうね。君に僕とは付き合ってないなんて嘘を言うくらいだし。君が本命になったから僕を捨てる気なんだ。それってあんまりだと思わない?」
「そ……」
「だから、ヤキモチでつい意地悪言っちゃったの。ごめんね?」
「そ、それじゃあ……やっぱり、二人は付き合って…?」
「でもね、あいつってホント口下手じゃない?」
  歩遊の質問を軽く無視して戸部は続けた。
「僕のこと嫌いになったのならなったってそう言ってくれればいいのにさ。はっきり切ってくれないから、僕も諦めがつかないわけじゃん。でも、本当に君たちが両想いで、もう離れられないって言うんなら。確かに二人は付き合っていて、俊が歩遊ちゃんの方が凄く凄く好きなんだって事が分かるような、何か証明をしてもらえるなら――」
「しょ、証明…?」
「うん、証明。そうしたらさ、僕も潔く身を引こうと思うんだ。だって二人が愛し合っているなら、僕が幾ら頑張っても無駄でしょ?」
「そんな……でも戸部君は……」
  戸部がそこまで俊史を想っていたなんて知らなかった。
  歩遊は俊史が「戸部とは付き合っていない」と言った言葉を信じることにしていたから、ここへ来るまで戸部が何と言おうと、まともに耳を傾けてはいけない、それはすまいと誓っていた。
  けれどもし、付き合いうんぬんではなく、戸部の気持ちがこうまで俊史にあるというのなら、それはまた別の話だ。
  何だか胸が痛い。
「戸部君は俊ちゃんのことが好…好きなの?」
「うん」
  決死の想いで尋ねたのに、戸部はにっこりと、いとも簡単にそれを肯定した。
  歩遊は胸の痛みだけでなく、後頭部をがつんと殴られた想いだった。
「だからさ、今はもう殆ど諦めてはいるんだけど、最後にちょっとだけあがかせてくれない?」
「え?」
「俊に、二人で同じ日にデートの申し込みをするの。それで、俊がどちらを選ぶのか見てみない?」
「何…、そんな……」
「大体さあ」
  唖然とする歩遊に戸部はころころと表情を変える。悲壮な様子かと思うと突然策士のような顔になったり、何かを嘲るように鼻で笑ったり。今は後者のそれだ。
「歩遊ちゃんは俊と付き合っているらしいけど、二人って、実際ちゃんとしたデートとかしたことあるの?」
「え」
「歩遊ちゃんから俊をデートに誘ったことはあるの?」
「ぼ、僕から?」
「そう。ないでしょ? どうなの?」
「そ……」
「前も映画の時さ、結局ちゃんと誘えなかったでしょ。しかも、よりにもよって歩遊ちゃん、その後あのサッカーバカと映画行こうとするしさぁ。僕がその事を俊に教えてあげたから良かったようなものの。俊さ、あの時、超焦ってもう歩遊なんか誘ってやんないって意地張ってたくせに、結局自分から行ってやんの。映画館先回りして歩遊ちゃんのこと横からかっ攫ったでしょ? 全く笑えるよー」
「……は?」
  戸部は俊史のことが好きだと先刻歩遊に言ったばかりだ。
  それなのに今の発言はどう聞いても明らかにおかしい……と、思う。
  けれど違う意味で俊史よりも遥かに怖くて恐ろしい相手を前に、歩遊は冷静に己の考えを巡らす事が出来なかった。
「でさ、話戻すけど。やろうよ、デート作戦。今度の日曜なんかどう?」
「あの…」
「歩遊ちゃんは、俊とデートするならどういう所に行きたい?」
「ぼ、僕?」
「そう。歩遊ちゃんが誘うんだから、歩遊ちゃんが全部プラン立てるの。俊も喜ぶだろうしさあ、それでここ最近の不機嫌も何とかなるってもんだよ」
「え?」
「ほら、早く早く」
「あ、あの!」
  戸惑う歩遊に全く構う風もなく、戸部はメモ帳まで取り出して急かすように「俊と行きたいところをあげろ」と迫った。
  やっぱり、おかしい。
  戸部は「互いにデートの誘いをして俊史を取り合おう」と提案する割には、歩遊が俊史をデートに誘うところにしか興味がいっていない。現になかなか良い案を出せない歩遊に早々痺れを切らすと、「もういい!」と言って唐突に二枚のチケットを取り出した。
  そしてそれを歩遊の胸に押し付ける。
「な、何…?」
  機械的にそれを手で受け止めた歩遊は、チケットには目を落とさず、脅すような勢いの戸部だけをじっと見やった。
「それね、M区のオルゴール館でやっているミニコンサートのチケット。歩遊ちゃんって音楽が好きなんでしょ?」
「え」
「そこのオルゴール館ね、一日たったの30名しか入館させないの。まぁちっさい施設だからっていうのもあるけど、つまりは、通には嬉しい粋なデートスポットってわけ。館内には色々な種類のオルゴールが展示されていたり、販売もやっていて、奥にあるバラ園にはお洒落なカフェ兼ミニコンサート会場まであってさ。そこで毎日二回、アコースティックギターの演奏会までやっているんだよ。ドリンク券つきで二千五百円。良い感じでしょ」
「これ…どうして?」
「まぁ、たまたま人から貰ったやつだよ。自分で行こうかとも考えていたけど、歩遊ちゃんがデートプラン考えられなかった用にって念のため取っておいて良かった。まだ誰も誘ってないからさ」
「まだ誰もって、でも」
「だからあ、俺も誘うけど、歩遊ちゃんもこれ使って俊のこと誘うの! ちゃんと一緒に行きたいって言うんだよ? で、俊が一緒に行きたいって言った方が行けばいいじゃん」
「な、何で、戸部君……ならチケットは……」
「あぁいいから、これは歩遊ちゃんが持っていなよ。俺はそれがなくても内容説明できるけど、キミは無理でしょ。ほら、リーフレットもあげるから。自分で予約したって言っていいから。というか、絶対そう言え!」
「――…ッ!」
  歩遊が唖然としたまま何も言えないでいる間に、戸部はさっさと一方的にそこまで決めてしまうと、ふと手元の携帯に目を落としてからちっと小さく舌打ちした。
  それからそこに来ていたらしいメールを一読し、「やばいな」と大してそうも思っていないような声で呟く。
「歩遊ちゃん、そういうわけで、俺の用はもう済んだから。もう行きな。俊の奴が何か感じたのか猛烈な勢いでこっち戻ってきているって言うからさ。間違っても僕とここで話した事は俊に知られないようにするんだよ?」
「戸部君」
「歩遊ちゃんがちゃんと俊をデートに誘えて、俊がそれを喜んで受けたら、俺もちゃんと祝福してあげるからね。その代わり―…」
  戸部はわざと一拍置いて、やはり意地悪そうに言った。
「もしちゃんとデートに誘えなかったら、俺、歩遊ちゃんのこといじめるから」
  ふふふと酷薄に笑ったその顔はどうやら本気のようだった。
  歩遊はごくりと唾を飲みこんだ。手元のチケットをぎゅっと握り込んで。



 

後編へ…