聴いて、触れて―1―



(どうしたんだろう…。今日の俊ちゃんは、何だか凄く機嫌が良い…)

  それは歩遊にとって何にも代え難い喜びだったが、そんな幸運はいつも滅多な事でやって来るものではない。それ故、今やすっかり不幸体質な歩遊は、隣でどこか浮かれたような雰囲気を纏っている俊史を恐る恐るという風に見つめやった。
「ほら、こうやれば簡単だろ。解いてみろよ」
「う、うん」
  隣で難解な数式をあっという間に解いてしまった俊史は、ぼうっと呆けたような歩遊に顔を上げてそう言った。
  歩遊はそれに慌てて頷き、とりあえず今は数学の勉強に集中しようと、握っていたシャープペンシルを力強く持ち直した。

  今は冬休みの真っ最中だ。

  ――が、歩遊にとってそれは学校があるかないかの違いだけで、取り立てて何があるというわけではない。最初こそ、両親の計らいで豪華ホテルでディナー&宿泊というクリスマスプレゼントが用意されたが、あとは年末年始も特に予定はない。両親も帰ってこないようだし、至って普通の休日と変わらない。せいぜいが年明けすぐに受ける事になった模擬試験の対策勉強が忙しいくらいか。

(でも…俊ちゃんがこうやってずっと教えてくれてるし)

  夏休みは生徒会の仕事だ何だとやたら学校に詰めていた俊史だが、冬休みは比較的個人の時間があるらしい。
  先日、俊史の留守中に歩遊のクラスメイトである耀が「抜き打ち」で遊びに来てからというもの、気のせいか俊史が歩遊宅に入り浸る時間は格段に増えた。戸部や他の仲間と会う約束もあまりしていない様子だ。
  だから2人はこうして四六時中一緒にいて、勉強に専念する毎日を送っている。
「歩遊。手が止まってるぞ」
「ごめん!」
  集中しようと思っていたのにどうしても落ち着かず、歩遊はまたノートに向かう手を止めてしまっていた。
「い、今…今、解くから…っ」
  きっとこっぴどく叱られると思って歩遊は反射的に首を竦めたが、しかし今日の俊史はやはり違った。
「……?」
  いつまで経っても降ってくると思った鉄拳がやってこない。歩遊がゆっくりと顔を上げると、俊史は実に穏やかな顔であっさりと言った。
「休憩するか」
「え……」
「疲れたんだろ」
  俊史はふっと笑ってそう言うと、歩遊の髪の毛を一度だけまさぐり、直後おもむろに頬への軽いキスをした。
「あっ」
  歩遊はその不意打ちのキスに思わず声を上げたが、俊史はそれに構う事もなく、一人さっさと階下へ行ってしまった。きっと一足早くにキッチンへ行って紅茶でも淹れるつもりなのだろう。冷蔵庫に俊史が買ってきてくれた地元名店のショートケーキが入っているのを歩遊はちゃっかり把握している。
「はあ…」
  それでもすぐに嬉々として下へおりて行く気がせず、歩遊は思わず溜息をつき、椅子の背に身体をもたげ掛けた。
  俊史が機嫌が良いのはとても嬉しい。理由は分からないが、俊史が嬉しいのなら、歩遊だって同じように嬉しいのだ。…ただ、今のように俊史はごくごく自然に歩遊にキスをしたり身体をまさぐってきたりという事を繰り返すが、あれだけはどうしても慣れない。クリスマスの時にもみっともなく泣いてしまったが、そもそもどうして俊史が折に触れ、自分に対してああいう事をしてくるのか、歩遊はよく分かっていないのだ。
「俊ちゃん…。休み中は戸辺君と会ったりしないのかなぁ…」
  思わずそんな事を独りごちてしまい、歩遊はそんな自分に慌てたようになって身体を元に戻し、そのまま机に突っ伏した。
  噂では俊史と戸辺は付き合っているはずだ。恋人同士のはずだ。
  けれど冬休みに入ってから俊史は最初の方こそちょくちょく出掛けていたようだけれど、今は歩遊宅で歩遊と2人だけの勉強特訓の日々だ。戸辺と連絡を取っている様子も見られない。
  普通恋人同士ならば、こんな休みの時こそ頻繁にデートしたり、とにかく会って話をするものじゃないのだろうか?
  それどころか。
  そう、それどころか、俊史はいつだって歩遊に触れてきて、歩遊に不意打ちなキスをする。それは今日みたいに頬の時もあれば、額だったり瞼だったり。
  時には唇にだってする。
「わあぁ…っ」
  互いの舌まで絡め合わせるような濃厚な口づけを思い出してしまった歩遊は、思わず声を震わせてから頭を抱えこんだ。身体が熱い。きっと今は顔中も真っ赤になっているに違いないと思う。こんな状態で俊史の前に出て行けない。
「鎮まれ鎮まれ…っ」
  そうしてあたふたとしていると、突然、妙なタイミングで携帯電話が誰かからの着信を告げてきた。
「わっ、びっくりした」
  予期せぬそれに歩遊はびくんと上体を奮い立たせ、机の上にあったそれを取りながら目を見開いた。相手は耀だ。歩遊の携帯に電話をしてくる者など、家族と俊史を除けばこの耀しかいないから、別段驚く事でもないのだが。
「も、もしもし?」
  俊史が下に行っていて良かったと思いながら、歩遊は慌てて携帯を取った。
『あー、歩遊? 俺、耀! 今大丈夫だったか?』
「うん。どうしたの?」
『へへへえ。あのさあ、明日とかうちに遊びに来ねえ? 面白いもん借りたんだ!』
「面白いもの?」
  歩遊が小首をかしげると、耀は電話口の向こうでどうにも腑抜けたような笑いを浮かべながら「そうそう!」と続けた。
『部活の仲間で回してんの。歩遊はきっと観た事ないと思ってさぁ』
「何を?」
『AV』
「何?」
『だから、AV! アダルトビデオだよ、Hなビデオ! はぁ!? はは、うっせえなあ、いいだろ、今友だちと話してんだから!』
「よ、耀君…?」
『あ、悪い悪い。今、姉貴が勝手に人ん部屋に入ってきてさぁ』
  電話の向こう側で違う人間と話し出した耀の態度に歩遊が途惑っていると、今度は確実に違う女性の声がして、『こんな悪ガキと付き合うのは止めた方がいいよ〜』などという茶化すような言葉が投げ掛けられた。
『もー! だから、姉貴はあっち行けって! ははっ、ごめんな歩遊? 今追い出したから。もう大丈夫!』
「お、お姉さんと、仲いいんだね?」
『えー、どうかなー? 他所と比較した事ないから分かんないけど、まあ割と何でも話し合う方ではあるかな?』
  耀のオープンな性格はきっとこういう家庭環境が関係しているんだなと歩遊は何となく微笑ましい想いがして頬を緩めた。歩遊は兄弟がいないのでよくは分からないが、普通ならば異性の兄弟でアダルトビデオの話題などあまり大っぴらには出来ないように思うのだが。
  と、それよりも。
  その時になって、歩遊はようやく先刻耀が持ち出した話題にはたと立ち返り、どきりとした。
「と、ところで耀君…。さっきの話…」
『え? あー、そうそう! で、明日とかどうよ? 暇か? うち、新しいDVD買ったばっかだしさあ、超高画質で観られんぜ? な、来いよ! 瀬能には何とかうまい言い訳考えてさっ』
「ぼ、僕……そういうビデオって……観た事ないし…」
  歩遊がしどろもどろながらそう答えると、電話口の向こうで耀は優しげな笑みを漏らし、何でもない事のようにその惑いを吹き飛ばした。
『だーから、誘ってんじゃん! どうせ休み中も瀬能の奴に束縛されまくって窮屈な想いしてんだろ? 歩遊もさ、たまにぱーっと発散した方がいいぜ? な、俺が色々教えてやるからさ』
「い、色々って…」
  色々って何を?
  そう思ったが、ふと階下から俊史が呼ぶ声が聞こえて歩遊は思わず椅子から転げ落ちそうになった。
『ふ、歩遊!? どうした、大丈夫か!?』
  異変を感じ取った耀が焦ったような声を上げたが、歩遊は何でもないと慌てて体勢を持ち直して立ち上がり、また今夜電話すると言ってすぐに電源を切った。
  俊史は歩遊が返事をしないのを不審がって、今度は先ほどよりも強い口調で呼んでいる。
「い、今行く!」
  歩遊は急いで大きな声を上げ、ぎゅっと握っていた携帯を意味もなくベッド上の枕の下に潜り込ませた。
  先刻俊史を意識して真っ赤になっていたのとはまた違う、仄かな熱に侵されて、妙に胸がドキドキしていた。





「大晦日から出掛けるぞ」
  案の定、紅茶とケーキのセッティングが成されたダイニングテーブルに歩遊がついたところで、俊史が唐突にそう言った。
「え?」
  あたふたとしながらすぐにフォークを取った歩遊は、俊史のその突然の申し出にきょとんとして目を瞬かせた。
  けれども俊史が実に何でもない事のような様子で、後は済まして紅茶など飲んでいるので、歩遊も自然と落ち着いた気持ちになり、あからさまがっくりとした顔を見せる事はせずに済んだ。
「そ、そうなんだ…。いつ計画してたの?」
  やっぱり、この休みの間、戸辺と全く会わないなどあるわけがなかった。きっと年末年始は一緒に過ごす予定で、だからそれまでの数日間は自分と一緒にいてくれる事にしていたのだろう。そう思った。
「折角の冬休みだもんね…」
  それに対しどうしても寂しい想いを抱く事は止められないが、我がままは言えない。歩遊は努めて何でもない風を装いながら、「何処へ行くの?」と立て続けに訊いてみた。
「お前も行った事あるだろ、親父の弟が持ってる伊豆の別荘。突然連絡あって、叔父貴たちは年末からフランス行くから、使うか?ってさ。ま、最近あまり行ってなかったらしいから、この期に体よく、ボロ屋の掃除でもさせようって事なんだろうけど…、タダで使えるならオイシイだろ?」
「そ、そうだね。あそこ、綺麗だもん。海も見えて…夜は星が綺麗だったし」
  小さい頃に何度か遊びに行った俊史方の親戚が持つという別宅は、歩遊もよく覚えていた。場所こそ違えど、偶然歩遊の親戚宅も同県にあったし、何せ昔は泳ぐ事が大好きだったから、砂浜の近い別荘で毎日俊史と遊んだあの時の事は、今でもとても大切な思い出なのだ。
「偶に違う環境で勉強するのもいいだろ。余計な邪魔も入らないしな」
「うん……」
  余計な邪魔って、もしかしなくても自分の事だろうか?―…歩遊はツキンと胸を痛めて、コトリと力なく、手にしていたフォークを皿に戻した。
  確かに、こうして毎日俊史から勉強を教わっているから、戸辺との逢瀬を邪魔していると言われれば何も言えない。最近では歩遊の実力が上がっている事もあり、俊史も然程時間を取られる事なくいられるようだが、それでも未だ足を引っ張っているのは間違いない。学年2位の戸辺と勉強するならば俊史もそんな目には遭わないで済むのだから、せめて年末年始くらい歩遊から離れて恋人と2人きり、海辺の別荘へでも行きたいと考えるのは至極当然な事に思えた。
「どうした歩遊。それ、美味くないのか」
  すると、すっかり食欲をなくしてしまった歩遊に、俊史が不審の声をあげた。
  歩遊は慌てて「そんな事ない」と言って再びフォークを手に取ったが、どうしても味わって食べる気がしない。今さらながら、自分が俊史のとんでもないお荷物であるという事を自覚してしまい、すっかり気持ちが落ちてしまったのだ。
「歩遊? …具合でも悪いのか」
「え…」
  いよいよ俊史が低い声で再度訊ねてきた。歩遊が何でもないと言ったところで、明らか態度はしょげているのだから、俊史としても放っておけないのだろう。目の前に座っていた椅子を蹴ると立ち上がって歩遊の傍へ行き、額に手を当てて熱がないかと確かめてくる。
「な、何でもない。大丈夫だよ…」
  歩遊はそんな俊史にもう一度慌てて首を振って見せたが、それでも俊史の心配そうな眼差しは離れてくれなかった。今日の俊史は機嫌が良いだけではなく、更にいつもの数段、優しいのだ。弱っている時にそんな風に気遣われては泣いてしまうのではないかと歩遊は自身の反応に怯えてしまい、再度フォークを離すと逃げるように席を立ってリビングのソファへと移動した。
「な、何か急に…お腹、痛くなって」
  下手な言い訳かとも思ったが、俊史から逃げるにはそれしかなかった。両手で腹を押さえながらソファへ転がりこむようになだれ込むと、身体を丸めて顔を俯かせる。俊史の顔を直視出来なかった。
「大丈夫か」
  それでも俊史は歩遊を放っておいてはくれない。それどころか声に僅か狼狽したような空気を漂わせ、俊史はすぐに歩遊の傍へ寄ってソファの脇に屈み混むと、歩遊の額に触れて少し長くなっていた前髪を掻き揚げるようにして何度も撫でた。
「しゅ…俊ちゃ…」
「痛いか?」
「だ、大丈夫。ちょっと休めば…治る、から」
  さすがに避け続けるわけにもいかず、そう言いながら歩遊はそっと俊史の方へ目を向けた。ばっちりと視線が絡み合う。俊史は微か眉をひそめたような難しい顔で歩遊を見つめていたが、怒っているものとは違った。ただ純粋に心配しているのだろう、横たわった歩遊のわき腹から、歩遊が押さえていた腹の辺りへも手を伸ばし、遠慮がちに摩ってくる。
「……っ」
「痛いか」
「大丈……」
「ああ。すぐ治る」
「…!」
  こんな風に心配してくれる俊史に嘘を言っているのがとてつもなく気まずい。
  歩遊はその事にこそ泣きそうになり、思わず目を潤ませた。俊史はどうしてこんな風に優しいのだろう。確かにいつもは断然怖くて、いつも怒られてばかりだけれど、いざという時にはこうして絶対的な安心をくれる。絶対傍にいてくれて、大丈夫だと言ってくれる。
  でも、俊史はやっぱり戸辺のもので、自分のものではない。
  そんな事はとうの昔に知っていて、それを寂しいと感じていた自分にも気づいていたけれど、それでも、割り切ろうとしていたはずだった。
  けれど何だか、それが難しいと感じる。
「しゅ…俊ちゃん…っ」
「ん……」
  ゆったりと腹を撫でてくれる俊史に、先の言葉を継げられずに歩遊は思わず沈黙した。どうせ何を言うと決めていたわけでもないのだけれど、それでも今確かに何かを言いたいと思ったはずだった。
「俊ちゃん…もう…」
  けれどその言葉が思い浮かばず、歩遊はとりあえず俊史から距離を取ろうと閉じかけた唇を再度開き、「もう平気だから」と告げようとした。
「歩遊」
「んっ…」
  けれど瞬間、身構える前に俊史からのキスを受けて、歩遊は意図せず言葉を飲み込んだ。
「ふ…んぅ…」
  慌てて俊史の髪の毛をまさぐり、その片手だけで駄目だと訴えて引き剥がそうとしたけれど、俊史は頑として離れようとしなかった。
  それどころか身を乗り出して更に激しく歩遊の唇を貪ると、歩遊がそれで呼吸を奪われ苦痛に歪んだ顔を見せても、喰らいつくように唇を吸い、舌を差し込んで、すぐの解放を許さなかった。
「はぁ…っ」
  俊史の唇が離れて行ったのは、歩遊がいよいよ苦しさ故に涙を浮かべ始めた時だ。ようやく息を吸う事を許されて薄っすらと目を開くと、間近にあった俊史の顔がじっとこちらを見ているのが分かった。
  歩遊はそれに思わず「ひゅっ」と喉を鳴らし、怯えたような目を向けてしまった。
  見られている事は予測していたはずなのに、それでも俊史の眼光が怖かったのだ。
「……悪い」
  すると俊史はそう言ってすぐに謝り、慰めるように歩遊の瞼に優しいキスを落とした。
「具合悪いって奴に何してんだろうな…。まだ痛いか?」
「う、ううん……」
「ケーキ…治ったら後で食べればいい、今はちょっと休め。夕飯の時間になったらまた来る」
「あっ…何処…行くの?」
  不意に離れられて歩遊は思わずそう訊いたのだが、俊史は止まらなかった。
  まるで逃げるようにリビングの入口にまで行ってしまった俊史は、もう歩遊を振り返る事もなく「ちょっと用を思い出した」と言ったきり、そのまま外へ出て行ってしまった。
「俊ちゃん…。怒ったのか、な…?」
  嘘がバレたんだろうか? でも、優しいキスもくれたし、いきなりのあれには謝ってもくれた。優しかった。だから怒ったわけではないのだろうけれど。
「……熱い」
  激しく吸われた唇は火がついたように火照っている。
  歩遊はじんわりと身体中に妙な熱が帯びるのを感じながら、ただボー然と、暫しソファの上から動けずにいた。



 
To be continued…




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