―2―



  予告通り、俊史は夕食の時間になるとまた現れて、歩遊の為にいつもの美味しい食事を作ってくれた。
  少し前までなら夕飯は「各自で別々に」が定例だった。俊史は生徒会や時々入れているアルバイトとやらで忙しかったし、歩遊と違って交友範囲も広い。必然的に帰りも遅くなっていたから、たとえ夜の時間に歩遊の宿題を見に来てくれたとしても、大抵互いの食事は既に済んでいる事が殆どだった。
  それがいつからこうなったのか、歩遊にはもう思い出せない。ただ間違いなく言えるのは、最近では季節物のコンビニ弁当にもとんと疎くなった。
「明日、買い物に行くぞ」
  食事の最中、唐突に俊史がそう言った。
「旅行に必要な物とか。まぁ大体は向こうに揃ってるし、そんなたくさん買うわけでもないけど、着替えの服とかな」
「…ふうん」
  歩遊は失望や悲しみを努めて表に出さないよう気をつけながら相槌を打ち、誤魔化すように白米を口に頬張った。
  年末年始に用意した恋人との楽しい「お泊まり会」を自慢したくて、俊史がやたらとその話題を持ち出してくるのは分かる。分かるけれど、前準備としての買い物に行く事までわざわざ伝えなくても良いじゃないかと、恨みがましい気持ちがしてしまうのも止められない。
「何、他人事みたいに頷いてんだよ」
  けれど俊史はそんな歩遊に憮然とした顔を向けた。
「え……」
  だって他人事だ―……そう言いたかったが、これまでの事から想像するに、そんな風に答えたらまず間違いなく雷が落ちるだろう。
  歩遊がどう反応しようか逡巡していると、俊史は更にむっとしたように口許を歪め、持っていた箸をばしりと置いた。
「お前も行くんだよ」
「え?」
「えっ、じゃねえよ。買い物。お前も行くんだ、ついて来い」
「僕も?」
  当たり前だろうと言う顔をする俊史に、歩遊は自分こそが怪訝な目を向けながら暫し頭の上にクエスチョンマークを浮かべて沈黙した。
  何だって俊史と戸辺のデート―旅行の為の買い物をするのだから立派なデートだろう―それに、自分までついて行かなくてはならないのか。普通に考えても、2人の間に割って入るかのような自分は、邪魔以外の何者でもない。
  至極最もな結論に達する歩遊に、しかし俊史は言った。
「お前も服とか買った方がいいだろ。コートはこの間のクリスマスに買ってやったけど、冬物は色々少ないから」
「そ、そんな事ないよ。普通に過ごす分には十分だよ」
「十分じゃない。それにお前、結構背も伸びたし、去年からのじゃ着られないの増えただろ」
「え。背、伸びた? そう思う?」
  ふと違うところに関心の向いた歩遊に、俊史はつまらなそうにしながらも「ちょっとだけな」と素直に頷いてくれた。
「そうかなぁ…! そうなら嬉しいな!」
  思わず頬が緩んでしまう。
  歩遊は自身の身体的成長が他の高校生よりも断然遅い事を以前からとても気にしていた。
  元々、物心ついた頃には「ちびの歩遊」、「弱い歩遊」として、同じ年の子どもたちからも散々バカにされてきた。身体が小さいだけではない、それに応じて力も同じ年の女の子よりないくらいで、いつもちょっと小突かれてはすぐに転ばされて泣いていた。それで余計にからかわれたわけだが、つまりは仲間外れにされるなどしょっちゅうで、そういった事は時に同年代だけでなく、少し年上の上級生からも目をつけられる要因となった。
  オドオドと怯えた様子の小さな歩遊を「苛めてやりたい」と思う子どもは、いつでも後を絶たなかった。きっと傍に俊史がいてくれなければ更にもっと酷い中傷や差別を受けていただろうと、歩遊は確信を持って思うのだ。
「どれくらい伸びたように見える? 卒業するまでに、俊ちゃんに追いついたりして」
「無理だな、諦めろ」
「そ、そんな即答しなくても…」
  あまりに容赦ない返答に歩遊は思わず引きつった笑いを浮かべた。けれど俊史の方は至って素っ気無く、それどころか早く食べてしまえと急かすので、歩遊は仕方なく再び食事の手を動かし始めた。…まぁ実際、俊史との身長差はざっと見積もっても15cm以上はある。確かに残りあと1年ちょっとでそれだけ伸びたら凄い事だ。
(あーあ)
  さすがにそれは諦めようと歩遊は一つ溜息をつき、それでもその後はそっと俊史の精悍とした顔を盗み見た。
  俊史の凛とした面差しは既にどこか大人の男性のようで、見る者にしっかりとした印象を与える。だから歩遊はいつか自分もこんな凛々しい顔つきになりたいと、いつでも憧憬を込めた気持ちで自慢の幼馴染を眺めてしまう。

『歩遊ってさぁ、体毛うっすいのな!』

  その時、歩遊は不意に、体育の着替えの際、耀がそう言って驚いていた事を思い出した。
  背が低い事もコンプレックスなのだが、耀に指摘された「それ」も歩遊の深刻な悩みの1つだった。高校生にもなれば、男子生徒は皆大抵髭が伸びるのも早くなるし、普段の運動量に応じて備わった健康的な筋肉も目立ってついてくるものだ。そういった部分を誇示する為にわざと上半身裸になったり、「暑いから」と短パンのまま教室を走り回るお調子者の男子生徒は、クラスに1人か2人必ずいる。それで女子生徒などは折に触れ「汚い足を見せるな!」などと半分冗談、半分本気で彼らを邪険にするのだが、そんなクラスメイトの男性的な部分とて、歩遊にしてみたら羨ましいの一言に尽きるのだった。
  歩遊は耀の指摘通り、一般的な男子生徒よりは何もかもが未発達なのだ。
  それに体毛が薄いのは見える部分だけではない、人に言えないところまで……。

「歩遊。何ボーッとしてんだよ。実はまだ腹が痛いとか言うんじゃないだろうな」
  いつの間にか再び手を止めてしまった歩遊に、俊史が声を上げた。
  歩遊はハッとし、「何でもない」と誤魔化すように傍のお茶を手にしてそれをごくりと一気飲みしたのだが、未だ俊史が不審な目を向けてくるものだから、思わず考えもなしについ口にしてしまった。
「ねえ俊ちゃん…。あそこに毛がないのって……やばいかな?」
「は……?」
  歩遊は割と思い詰めて訊いた部分もあったのだが、何しろあまりに唐突な質問だったせいか、俊史には意味が分からなかったらしい。
  そんな相手のリアクションのせいで、歩遊は途端、(何をバカな事を訊いているんだ)と顔から火が出る想いだったのだが、それにしても今さら後には引けないし、第一、こんな事は俊史にしか訊けない。
  だから思い切ってもう一度、歩遊はまじまじとした目を向けながら再度言ってみた。
「だから。そ、その、全くないわけじゃないけど…っ。何か少ないような気がするんだよね。その……人より」
「だからお前は何を言ってるんだ?」
「いや! 別に人のも、そんな見た事あるわけじゃないけどっ。で、でも耀君も、僕の体毛って凄く薄いってびっくりしてたし」
「はあぁ!?」
  耀の名前が出たせいか、俊史はここにきて初めて露骨な反応を示した。
「ひっ!」
  それによって歩遊はまんまと身体を仰け反らせて怯えた態度を取ったのだが、勿論そんな事は突然とんでもない発言を聞いてしまった俊史の構うところではない。
「お、お前…!」
  むしろ俊史は歩遊よりも余程仰天したように、気のせいか微か手元を震わせながら握っていた箸をぎゅうっと握りこむと、鬼でも射殺しそうな眼光で押し殺した声を出した。
「太刀川のバカが、お前に何だって……? 何を…言いやがった…!」
「えっ。だ、だからっ。そのっ……やっぱり、何でもない!」
「何でもないわけあるかっ!」
「わあっ!」
「歩遊っ!!」
  比較的静かに平和に流れていた夕食の時間がとんだ大騒ぎになってしまった。
  俊史のあまりの剣幕にびびりまくった歩遊は悲鳴を上げながら条件反射で席を立つと、そのまま隣のリビングへ急いで逃げた。……が、それを俊史がそのまま良しとして許すわけはない。自分もすぐさま追ってきて、何故かソファの背に意味なく隠れようと身体を屈める歩遊の前に回りこみ、小動物を捕える寸前の肉食獣よろしく、鋭い眼光のままじりじりと距離を詰めて行く。
「テメエ……何逃げようとしてんだよ…!」
「だ、だって…俊ちゃん、めちゃくちゃ怒って……」
「怒るに決まってんだろッ! ちゃんと説明しろ! 太刀川が何だって!?」
「そん……そんな、怒鳴らないでよっ。ただ、言われただけだよ、体毛薄いって! 耀君、『歩遊は足も腕も、それに脇毛も生えてないんだ』ってからかうんだよ、それでっ」
「なんっで、あいつの口からそんな発言が出るッ!? お前の裸見たって事だろ!?」
「そりゃ見るよ! だって体育で着替えてたんだから!」
「バカ! あいつの見えるところで着替えるな!」
「そ、そんな無茶苦茶なっ!」
  耀とは同じクラスなのだから、確かにむちゃくちゃである。
  けれど俊史から怒られると、歩遊はいつだって悪いのは自分のような気がして、すっかりしょげかえって落ち込んでしまう。今でこそわあわあととんだ大騒ぎになってしまって夢中になっているから落ち込む暇はないが、これも後になってさんざっぱら俊史に責められ続けたら、「悪いのは全部自分です、ごめんなさい」コースに突入して、少なからず泣かされる羽目に陥るのだ。
「僕だって気にしてるんだよ…っ。前から!」
  それでも歩遊は勢いがついている分、今日は珍しく言い返しながら俊史に必死の涙目を向けた。
「何か…何か、ずっとチビだしさ…! 俊ちゃんはどんどん大きくなっていくのに…! そりゃ、昔っから、俊ちゃんの方がいつでも断然大きかったけどさっ。でも僕は…何か、他の人よりも何か、遅い感じしたしっ。でも、さっき俊ちゃんが背が伸びたって言ってくれたから…! だから嬉しくて! で、でも、体育の時に言われた事、思い出して!」
「……それでいきなりあんな事訊いてきたのか」
  俊史もひとしきり叫んで少々冷静になったらしい。
  未だ荒く息を継いでいるものの、俊史は先刻より格段と落ち着いた声色で歩遊をじっと見下ろした。その表情に鬼人のそれは既にない。ただボー然と立ち尽くしている感はあったが。
  けれどそれで歩遊もほっとし、恐る恐る頷いた。
  2人はそれから暫くの間、特に意味もなく黙りこんでソファ一つ隔てた距離の中で見つめあっていたのだが、そうしていても埒が明かない事を俊史が最初に気づき、すっと目を逸らした。
  そうして呆れたようにぶすくれた声を出す。
「くだらない事気にしてんじゃねーよ。そんなもん、個人差だ。お前は今のままでいい」
「あ……」
「早く飯食え。それと、明日は午前中に出掛けるからな」
「あ、や、やっぱり僕も行くの?」
  すっかり忘れていた「戸辺とのデートに何故か乱入」を思い出した歩遊は慌ててそう口を切った。俊史が歩遊の着る物にまでいちいち気を向けてくれるのは今に始まった事ではないけれど、つい先日クリスマスでの食事会で両親から「俊ちゃんにパンツまで買ってもらっている」事実を控え目に指摘された歩遊は、もうこれからはあまりそういった事でまで俊史を煩わせてはいけないと反省していた。
  ましてや、明日は戸辺がいるだろう買い物デートなのに、普段の俊史の使命感から歩遊の服まで付き合わせるわけには断じていかない。
「僕はいいよ。何なら一人でも買いに行くから」
「はぁ? 何言ってんだ、お前が買いに行くなら、尚の事一緒に行っちまった方がいいだろ。何で別々にする必要がある?」
「だって…いつも俊ちゃんに買ってもらってるし、そういうのはやっぱり悪いし、それに―…」
  戸辺君もいるだろうしと言おうとしたところで、しかしそれは俊史の頑とした口調に遮られた。
「またそれか。金ならミキさんたちから貰ってるって何度も言ってるだろ。むしろ買ってもらってんのは俺の方なんだよ、うちのバカ親が親としての義務果たさねーから。だから、俺が何か買う時にはお前のも買ってやんなきゃ後味悪いんだし、お前はごちゃごちゃ言ってないで黙ってついてくればいいんだ」
「嘘だよ……」
「は?」
  歩遊が咄嗟にぽつりと呟いた言葉に、俊史がぴたりと動きを止める。
「俊ちゃん…っ」
  歩遊はそれに焦りながらも、また止められないうちにと、自分なりに早口でまくしたてた。
「俊ちゃんはお父さんたちから、そんなにお金、貰ってないでしょ?」
  俊史がすっと眉をひそめる。それが視界の隅に映ったけれど、敢えてそれを無視して歩遊は続けた。
「実際貰ってる時も、それってお父さんたちの事務所でちゃんとアルバイトした時だけでしょ? お父さんがそれっぽい事、この間メールで言ってたよ」
「……だから?」
「だ、だから…その、あんまり俊ちゃんに甘えるのはやめなさいって言われてるし」
「…………」
「た、確かに、幾ら幼馴染だからって、こんなのやってもらい過ぎだと思うんだ。お婆ちゃんが死んじゃってからは特に、僕の着てる物って前から殆ど俊ちゃんが買ってきてくれたやつだし……、そういうのって普通に考えたらおかしい事だぞって耀君も言って―」
「またあいつかよ!」
「!」
  突然大きな声を出した俊史に歩遊が驚いて口を閉ざすと、俊史はイライラを再び内から蘇らせたようになりながら、ツカツカと傍に近づいてきた。
  そうして乱暴に胸倉を掴むと、あわあわとする歩遊を無理に立ち上がらせる。
「いっ…」
  歩遊がそれに恐怖と苦痛の色を浮かべると、俊史は一瞬狼狽したような顔を見せた。
「……歩遊」
  けれど本当に苦しいのは自分なのだと言わんばかりの表情をちらつかせた後、俊史は―…、無理に歩遊の唇を奪った。
「んっ」
  いつでも俊史のキスは唐突な事が多いけれど、今は服を強く掴まれて無理に締め上げられていた分、とても辛かった。
「ん、ふ…!」
  嫌なのだと抵抗しようと手を俊史のそれに添えたが、うまくいかない。
  歩遊がみっともなくじたばたとしている間に、その感じる余裕も与えられない一方的な口づけは、同じように一方的なまま終わった。
「……いいか、歩遊」
  そうして俊史は歩遊の頬をやや乱暴に撫でた後、すぐ間近に顔を近づけ、再び唇が触れ合うような距離から言い含めるような声を出した。
「あんな奴の言う事なんかいちいち気にしてんな。お前は俺の言った事だけ聞いてりゃいい。他は全部間違いだ。いいな?」
「間…違い?」
「そうだ。お前は俺だけ信じてればいい」
「それは……」
  俊史を信じるのは、いつだって歩遊の「正解」だ。今さら言われる事ではないのだが。
「でも耀君…んんっ」
  再び大切な友人の名前を紡ごうとしたものの、再び強引に奪われるキスをされて歩遊は言葉を失った。吸い付かれるその激しい口づけは歩遊の頭の中をいつだって真っ白にしてしまう。
「んっ…ふぁ…」
  先ほどはなかった優しい舌の動きが歩遊を刺激する。それは自由に歩遊の口腔内をまさぐり、全身をゾクゾクとした感覚に包み込んでいく。
  歩遊にとってそれは気持ちが良いものだけれど、一方でとても怖いものでもあった。
「ふ……ん……」
  いつしか何ら抵抗できなくなって大人しくそのキスに身を委ね続けていたら、俊史もようやく満足したのか、やがて好き放題していた歩遊の唇をちゅっとした音と共に離した。
「明日は出掛けるからな。寝坊すんなよ」
  そうして偉そうにそれだけ言うと、俊史は歩遊の途惑いには全くお構いなしに、一方的な約束を取り付けてしまった。





『えぇ〜。明日駄目なのかよ〜。俺の方が先に約束したのに!』
  俊史が自宅に帰った後、遅い時間に申し訳ないと思いながらも歩遊が耀のところへ断りの電話を入れると、気のいい友人は冗談交じりながら不平の声をあげた。
「ご、ごめん…。どうしても断りきれなくて…」
『俺の誘いは断りきれるのに、瀬能の誘いは断れないんだから、歩遊はやっぱり駄目だな!』
「うん…」
  携帯を握りしめながらしゅんとして俯くと、電話向こうの耀は微かに笑ったようだった。
『嘘だよ。仕方ねーよ、あいつがコエー事は俺もよくよく分かってるし。それに、ロクに作戦立てないうちに歩遊にうまい言い訳考えさせるなんて無謀だった。俺んちはまた今度な』
「本当にごめん」
『けど、ビデオは観ろよ?』
「え?」
  きっぱりと言う耀に歩遊がきょとんとすると、耀は当然とでも言うように偉そうな口調で続けた。
『ビデオは貸してやっから。いいから見てみろ、なっ? えっと、お前は瀬能と出掛けるんだろ? そしたら、多分昼頃になると思うけど、俺、いつものジョギングのついでにお前んちのポストにビデオ入れてってやるから。返すのはいつでもいいぜ?』
「あ、あの、耀君…?」
『んじゃ、そういう事だから! まさかポストまではチェックされんと思うが、とにかくあいつには気づかれないようにしろよ?』
  ビデオを入れる封筒には一応俺の名は書かないでおくからと、耀は悪戯小僧のような笑いを立てつつ、一方的に電話を切ってしまった。
「そんな……」
  歩遊は呆気に取られながらも急に赤面する想いがしてぶるぶると首を横に振った。
  別に、楽しみなわけじゃない。けれど……やっぱり、見てみたい。
「うわあぁ…」
  そんな風に思う自分は駄目だと思いながらも、歩遊はその晩悶々としてしまって、なかなか寝付く事が出来なかった。



 
To be continued…




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