―10―



  歩遊、歩遊と、軽く揺さぶられて目を開けると、隣にいた俊史が促すように窓の外を指差していた。
「んー…?」
  歩遊はそんな俊史にくぐもった声を漏らしながら恨みがましい目を向けた。どうやらずっと俊史の肩に寄りかかって眠っていたようだけれど、あと少しでいいからそのままでいさせてもらいたかった。何せ早朝から叩き起こされ、引きずられるように家を出てきたから眠くて仕方がない。第一、この電車に乗ったら暫く乗り換えもないし、寝ていていいぞと言ったのは俊史だ。それなのに何故急に起こすのだろうと、寝惚けているからこそ、歩遊は俊史に対して不機嫌な気持ちになった。
「……あっ!」
  けれど俊史の指した方へ機械的に目をやった瞬間。
  現金にも歩遊はたった今まで抱いていたそれらの不満を全て吹き飛ばし、感嘆の声を上げた。
「海!」
  いつの間に海岸線に突入していたのだろう。窓際に座る歩遊の視界には青白く静かな海がいっぱいに広がっていた。
「すごいっ」
  忽ち窓ガラスにベタリと両手を張り付かせ、歩遊は食い入るようにそれらを見つめながら、感動で胸を熱くさせた。
「うわぁ……いいなぁ……!」
「見たいだろうと思ったから起こした」
「うんっ。ありがとう!」
  くるりと振り返って、歩遊は隣に座る俊史に満面の笑みで礼を言った。
  冬の海だし、天気も格別に良いというわけではない。南国のような真っ青な海は望むべくもないが、それでも歩遊は嬉しかった。
  元々、歩遊は水際への憧れがとても強い。山も川も湖もみんな好きだし、緑の多いところは無条件で心が落ち着くからどれにも親しみを感じているが、海にはまた一際違った感慨を抱いている。何せ歩遊は幼い頃から何をしても駄目だ愚図だと、俊史をはじめとした周囲の人間たちからバカにされ続けてきたが、こと泳ぎに関しては人並以上に自信があった。その中でも特に海泳ぎが大好きだ。波の抵抗を考慮しながら身体を慣らし進んで行くと、歩遊はいつでも自分があの広い海と一体になったかのような心地良い気分に陥った。子どもの頃はそれが快感で、両親が偶に休みを取ってどこかへ遊びに連れて行こうかと問えば、冬でも「海!」と叫んだものだ。
「いいなあ、泳ぎたいなあ」
「駄目だからな」
「う」
「凍死する気か」
「わ、分かってるって……」
  しかしいきなり釘を刺され、歩遊は決まり悪そうに俯いた。
  実は歩遊には前科がある。あまりにもはしゃいではしゃいで、久しぶりに海に遊びに来られた事が嬉しかったある極寒の2月。何を思ったのか、歩遊は「波打ち際だけで」と約束していたにも関わらず、裸足で海に向かって駆け出したと思うや否や、そのハイテンションのまま冬の海水にばちゃんと強烈なダイブをしたのだ。あくまでも波打ち際での戯れである、波に攫われ溺れるような事態にはならなかったが、その突然の「暴挙」にぽかんとしていた両親をよそに、同じくその場にいた俊史は誰よりも烈火の如く歩遊を叱り飛ばし、以降、歩遊を滅多な事では海だけでなく、水際全般へ連れて行く事をしなくなった。
  そのせいだろうか、小学生の頃、歩遊はスイミングスクールに通いたくて仕方がなかったのに、それを何だかんだと妨害して阻止し続けたのは俊史だ。今年の夏、海沿いに住む祖父宅へ遊びに行こうとした時も「勉強があるだろう」と歩遊を引き留め縛ったのも俊史。
  だから歩遊にとって今目の前にある海は本当に久しぶりの、しかも「俊史公認」の「再会」なのだった。
「あとどれくらいで着く?」
  木々の茂みや長いトンネルに邪魔されて海岸線が見えなくなると、歩遊は改めて席に落ち着き、隣に座る俊史を見やった。幾つかのルートがある中でも割と遠回り路線の特急を選ぶと、列車内は思った以上に人がまばらで快適だった。向かい合う形の四人席に並んで腰を下ろしているが、そのスペースにいるのは窓際の歩遊と、通路側にいる俊史だけだ。
「夕方前には着くだろうな」
  出来れば明るいうちに着いてもう一度間近で海を見られればと考えていた歩遊に、俊史は見事その期待に応えるような回答をした。それで歩遊もいよいよ嬉しくなり、そわそわと身体を揺らしながら、ついねだるような目を向ける。
「砂浜も歩ける?」
「……荷物置いた後、まだ明るければな」
「やったあ!」
「煩い」
  思わず声をあげた歩遊に俊史はすかさずべしりと頭を叩き、「騒ぐな」と注意した。それによって歩遊はすぐさま身体を縮めて謝ったが、内心では珍しくへこたれず未だ浮かれ続けていた。ここへは遊びに来たのではない、静かに集中して勉強する為に来たのだと、頭では分かっている。けれど、嬉しいものは嬉しい。海を眺められるだけでも十分贅沢で満足だけれど、うまくいけば毎日大好きな波打ち際を歩けるかもしれないのだ。朝早起きしてもいいし、夜の海を見に行くのもきっと楽しい。考えただけでわくわくする。
「ほら、飯」
  一人想像を膨らませていた歩遊に、俊史がついと弁当を寄越してきた。一つ前の停車駅で買っていたものだ。普通の幕の内弁当と鰻弁当、どちらが良いかと訊かれて鰻が食べたいと言ったらそれを渡された。電車の中で駅弁を食べられるなんて本格的な旅行みたいだ。実際旅行なのだが、歩遊はいよいよ喜びがピークに達してきて笑顔が止まらなくなった。
「いただきます!」
「お茶、そっちに置けよ」
「うん」
  いつの間にか俊史は熱いお茶も用意していた。いつもの事とは言え、至れり尽くせりである。あまり調子に乗ってはいけないと頭では分かっていても、こうなると歩遊もどんどんと自制が利かなくなっていく。何せここは学校ではない。周囲の目を気にして俊史を「瀬能君」と呼ぶ必要もないし、勝手の分かる家にいるわけでもないから、いつもより俊史を頼っても許される。戸辺もいない。だから俊史とこうして一緒に弁当を食べていても大丈夫だ。「君ばっかりが俊を独り占めして」と戸辺から責められる事もない。……後日責められたとしても、それはもう素直に受け入れよう。
  そんな風に結論を下して、歩遊は今この時を大切にしたいと思った。
「ほら、これも好きだろ。やるよ」
  その時、ぽいと、俊史が唐揚げを歩遊の鰻弁当の上に置いた。鰻の方がいいと言ったのは歩遊だが、ちらりと一瞬向けた視線だけで俊史は歩遊の「その唐揚げ美味しそうだな」オーラを感じ取ったらしい。
「ええっ…でも…」
「欲しいって顔に書いてあんだよ。それにお前の方がちびなんだからいっぱい食え」
「う……うん。ありがとう」
  ちびと言われた事は何気に傷ついたが、俊史の声がとても優しいとは分かっていたので、歩遊のハイテンションはまだ下降しなかった。それにがっつくつもりはないが唐揚げが好物なのは事実である。最初こそ遠慮したもののやはり嬉しくて、歩遊は早速貰ったそれをぱくりと口に頬張った。美味しくてまた笑顔になると、それを見つめていた俊史も珍しく和らいだ笑顔を見せた。どうやら俊史の方も学校にいる時より遥かにリラックスした状態でいるらしい。
「これ、良かったらどうぞ」
  すると、そんな二人の遣り取りを一部始終見ていたのだろう、通路を挟んで俊史の隣の席にいた老婦人がにこにこしながら歩遊たちに蜜柑を差し出してきた。俊史がそれに驚きながらも恐縮して受け取ると、白髪を綺麗にカールしたその女性は人の良い柔らかな微笑を浮かべながら、ゆったりとした口調で話しかけてきた。
「仲良しの兄弟なのねえ。お兄ちゃん、弟君にとっても優しいし」
「え」
  婦人の発言に歩遊はぴたりと動きを止めたが、俊史は別段否定するつもりもないのか、いつもの外面用の笑みをしれっと返していた。
「兄弟で旅行? どこへ行くの?」
「親戚の家です」
「まあまあそうなの。いいわねえ、お正月はそちらでのんびりなのね。ご両親は?」
「仕事です」
「まあ。それで兄弟二人きりなのね……」
  婦人は、仕事とはいえ年末年始まで放置される「可哀想な兄弟」に心を痛めたのか、不意にふっと悲しげな顔をして見せた。そうして隣でこくりこくりとうたた寝をする己の夫であろう人物には見向きもせず、更に鞄をがさがさと漁って、俊史に「コアラのマーチ」を差し出した。
「お菓子好き? 良かったらどうぞ」
「わあ」
  歩遊が思わず目を輝かせてそれを見ると、俊史は咎めるように「バカ、遠慮しろ」と叱咤した。
「いいのよ、いいのよ」
  けれど婦人はそんな歩遊の態度が嬉しかったのだろう、細い目を一層細くしながらやや身体を乗り出して「お菓子好きなの?」と優しげに訊ねてきた。
「はい」
  俊史に叱られた手前、歩遊は遠慮がちに頷いたが、にこにこと笑う婦人を見ているとどうしても優しかった祖母を思い出してしまい、懐く気持ちが抑えられなくなった。だから自らも俊史を間に挟みながら身体を向け微笑み返すと、婦人も一層にっこりとして「可愛い弟君ねえ」と俊史に感嘆したような声を投げた。
  結局、極度の「おばあちゃん子」であり、「おばあちゃんキラー」でもあったらしい歩遊にとことんまで気を良くしたその老婦人は、恐縮する俊史に「コアラのマーチ」だけでなく、その他大量の菓子を半ば強引に押し付けて、次の停車駅で去って行った。
「凄い、優しい人だったね」
  呑気にそんな感想を漏らす歩遊に、俊史は深々と溜息をついた。
「バカ。お前、図々しいんだよ」
「だ、だってお菓子……好きかって訊くから」
「どこでもそういう真似するなよ?」
「そういう真似って…?」
「とにかくするな」
  ぴしゃりと怒られてすぐさましゅんとしたが、歩遊は先刻の婦人の言葉が尾を引いていて、一旦は首を竦めたもののすぐに俊史を窺い見るようにした。
「あの人、僕たちのこと兄弟と間違えてたね」
「……ああ」
「やっぱりそう見えるのかな。顔、全然似てないけど」
「お前のオーラが甘えただったからだろ」
「あ、甘えた…?」
「ガキに見えるって事だよ」
「……ごめん」
  何だか迷惑そうだったので、さすがに歩遊も小さくなった。どうやら調子に乗り過ぎていたようだ。兄弟と間違われた事を歩遊は嬉しく感じていたのだけれど、俊史の方はそうでもなかったらしい。膝に乗せられた「コアラのマーチ」を開ける事も忘れ、歩遊は「ちゃんとする」と項垂れた。
「……バカ」
  すると俊史はおもむろに歩遊の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて溜息をついた。
「別にいい。甘えるなとは言ってないだろ」
「でも……俊ちゃん、嫌そうだから……」
「違う。あの婆さんが兄弟なんて言うからだ」
「……やっぱり、間違われたのが嫌だったの?」
「嫌に決まってんだろ。兄弟なんかじゃねーんだから」
「……そっか」
  歩遊は俊史を家族のように想っている。大切な存在だからこそ、他人に近しい間柄に見てもらえて素直に喜んだけれど、事実と違う風に勘違いされる事を俊史は望まないのだ。
  少しだけ落ち込んだ想いがして黙りこんだ歩遊だったが、その後すぐにまた一時見えなくなった海岸線が姿を現して、そのモヤモヤは胸の奥に仕舞われた。俊史の方も、もうそれ以上の事は言おうとしなかった。





「別荘行く前に、どっかで飯買って行かなくちゃな。ここらは店が閉まるのも早いから」
  吹き荒ぶ海風に目を細めて辺りを見回す歩遊に俊史が言った。
  人気のない小さな駅の改札を抜け、ボストンバッグを肩に担ぎ直した俊史はすぐにさっさと歩き始めた。歩遊は周りが珍しかったからもう少しのんびり行きたいと思ったのだが、俊史に置いていかれたら大変だと慌てて後を追いかけた。確かにリゾート地などと言われ観光スポットにもなっている割には、周囲に転々とある商店もどこか寂しく、人通りも僅かだ。ここで一気に暗くなり、俊史と逸れでもしたら大変である。
「お前、ここらの記憶ってあんまりないの」
  そんな歩遊の焦りが伝わったのか、俊史がちらと振り返ってそう訊いた。
「来た事あるだろ。あの家まで一人でも行けるよな?」
「もう無理だよ。全然覚えてない、道とか」
  それにあの時は俊史の父親が運転する車に揺られていたから、歩遊が見ていたのは海だけだ。ところどころ、温泉へ行ったり森の広場でバーベキューをしたりといった断片的な絵は思い出せるが、この辺りの詳しい地理にはさっぱりである。元々俊史のように記憶力が良いわけでも、方向感覚が優れているわけでもない。
「結構歩く?」
「そうでもない。徒歩10分ってとこかな」
  言いながら俊史が入って行った先は、新しく出来たばかりのような小綺麗なコンビニエンスストアだった。自動ドアを潜り抜けながら「とりあえず食いたいもんカゴに入れろ」と言った俊史は、その後先刻の発言を付け足した。
「俺も知らなかったけど、叔父貴、当時叔母さんと離婚しようと思ってこっそりあの別荘買ったんだと」
「えっ、そうなの?」
「まぁ、あの人の仕事なんて別に東京じゃなくてもいいわけだし。お前と一緒で海の好きなオッサンだから、とりあえず駅近で洋館風のちっさい別荘イッコ買っとけって。不動産屋行って、一番最初に目にしたやつがあそこらしい。……結局、その後すぐに美保ができたってんで、別れるのも止めたけどな」
「そうなんだ……」
  歩遊は妙な話、自分の親戚よりも俊史の家との繋がりが強いので、俊史の親戚筋のこともよく知っている。だから以前にもその俊史の叔父が所有している別荘へ遊びに行った事があるのだ。その人は俊史の父・貴史の兄弟だが、貴史によく似た自由人で、歩遊にも会う度とても優しく、いつも面白い話をしてくれる。……だからその優しさはそのまま彼の家族にも変わらず与えられていて、離婚がどうのなどという問題が浮上した過去があるなど、これまで一度も想像した事がなかった。
「一緒に暮らしてりゃ、色々あるんだろ」
  俊史の言葉に歩遊は黙って頷いた。
「うちの両親も一緒に仕事してる割、仲いいんだか悪いんだか分かんないし」
「そ、そうなの? でも……」
「ほら、そんな話もういいから、何か入れろって。美保が友だち連れて来てたから、野菜と米は叔母さんが結構置いてってくれてるけど。まあ……カップ麺とか惣菜入れろよ。俺も今日はそんな手のかかるもん作る気ないし」
「うん……」
  俊史にとっては親や親戚の夫婦仲など本当に些細な雑談に過ぎなかったのだろう。俊史にはこういうドライなところが結構ある。歩遊もそれはもう分かっているつもりだが、内心穏やかではなかった。もしも自分の両親が不仲だったり、万が一離婚の危機だったりしたら、きっとこんな風に冷静には話せない。
  一緒に暮らしていたら色々……。
  しかし、それはそうかもしれない。歩遊とて俊史とは殆ど一緒に暮らしているようなものだけれど、いつでも仲良く円満にやれているかと言えば決してそんな事はない。むしろいつもノロノロしているせいで無駄に俊史を苛立たせているし、どちらかといえば波風が立っていない時の方が珍しい。
  それでも長年の付き合いというか何というかで、俊史もある程度歩遊のことを分かっているから、それで大分許してくれているところがあるのだと思う。
(なるべく……俊ちゃんが不愉快な気持ちにならないように気をつけないと)
  折角ここへも連れてきてくれたのだ。勿論勉強も頑張るつもりだけれど、家の中の事も極力やろうと歩遊は心に決めた。
「冬に食べるアイスっていいよね」
  店を出てから歩遊はうきうきとした気持ちで先を歩く俊史に言った。
  たった今さっき「迷惑を掛けないようにしよう」と決めたばかりなのに、俊史が「アイスも買えば」と発したその一言だけであっという間に浮かれている。長く人を恨み続ける事が出来ない歩遊だが、同じく悲愴な決意を保ち続けるのも苦手らしい。
「夕飯の後、食べていい?」
「ん」
  けれどそれは俊史の態度もかなり影響しているといえた。
  俊史は明らかにいつもより数段優しかった。列車内でも既にそうだったが、はしゃぐ歩遊に適度な牽制はしても、基本的には好きなようにさせるし、甘やかす。元々、本来の俊史の姿はこちらに近い。歩遊を心配するがあまり、時にきつい言葉を浴びせる事はあるが、根底では自分より弱くて「駄目」な歩遊を尊重し、歩遊を守る事に全力を注ぐ。
  それこそ、面倒見のよい兄のような感じで。
「あっ、砂浜!」
  細い道路を暫く行った先、遂に顔前に現れたそれに歩遊は叫んで駆け出した。
  ただでさえ嬉しい気持ちで弾むように歩いていた足が更に軽くなる。石段を下りて目的の浜へと突進すると、背後から俊史が「あまり走るな」と言う声も振り切って両手を広げ、潮風を目一杯浴びた。コンビニの袋も放り、ボストンバッグもその場に放置だ。海風の強く吹くそこに人の気配はない。まるでこの広い砂浜一帯が全て自分のものになったかのような錯覚に囚われる。
「うわぁ、気持ちいい!」
  ザザンと心地良く耳に響く波の音に歩遊は目を瞑って聞き入った。もう夕刻も大分過ぎて日も落ちかけているから少し肌寒いが、時折波の音と混ざる海鳥の鳴き声がいやにじんと胸に響く。ふわふわと身体が浮き立ち、自分も空を飛べるのじゃないかと思えるほどだ。
「歩遊。もうすぐ着くから、とりあえず来い」
  俊史がすぐ背後から呆れたように声を掛けてきた。歩遊はすぐに振り返って、そんな俊史に上づった声を出した。
「凄いね! 海!」
「何が凄いんだよ。別に普通だろ」
「でも凄いよ! 広いし!」
「ああ、ああ、分かったから。さっさと鞄拾ってこい。ほら、あそこにもう見えてんだろ」
「……あ」
  俊史が顎でしゃくった方角。小高い丘陵の木々の合間からちらりと見えたクリーム色の建物には確かに見覚えがあった。俊史の叔父の別荘だ。そう、あそこなら家からでもこの海を臨む事が出来るのだった。眠る時も波音を間近に聴く事が出来る。
「嬉しいなあ、凄いなあ。俊ちゃん、ありがとう!」
  だから歩遊は心底感動したように俊史に礼を言った。
「ここ、連れてきてくれて! 凄い、最高のお正月だよ!」
「……そうか」
  俊史は歩遊のその台詞に一瞬だけ言い淀んだようにしたものの、やがてそう返事した。
  それから「行くぞ」と再び先を歩き出す。それで歩遊も急いで鞄を放った場所へと戻り、その後を追った。
  石階段を上って砂浜を離れ、ほんの数十メートル程続く木々の細い小道を抜けると、その洋風の一軒家は姿を現した。以前歩遊が来た時にはなかった丸いドーム状の屋根が一際目についてすぐにそれを指摘すると、俊史はあの天窓から夜は天体観測が出来るようになったのだと教えてくれた。庭もよく整備されており、掃除をしなければいけないと聞いていた割には、中も外もそれは綺麗なものだった。
「わあ、広い」
  吹きぬけのリビングとキッチンも清潔に片付けられていて、そのスペース内には実際に使えるのか暖炉もあった。外庭に続くウッドデッキには如何にも手作り風のテーブルと椅子がある。そこから海を眺めるのも楽しそうだ。
「どこの部屋使ってもいいらしいけど、二階がいいだろ。天窓の部屋にベッド置いてあるらしいし。布団も新しいのにしといてくれたらしい」
「うわあ……僕も叔父さんたちにお礼言わないと」
「いいよ、そんなん。それより、冷蔵庫に入れるもん出せよ」
「うん」
  荷物をその場に放置し、とりあえず二人はコンビニで買ってきたものを冷蔵庫に入れたりキッチンテーブルに並べたりした。年末だからと選んだ蕎麦のカップ麺はもう少し夜も更けたら食べようと決めて、とりあえずは長旅で疲れたし、揃って購入した惣菜のコロッケをつまみ食いする事にする。
「もう暗くなるから、今日は砂浜下りるのは駄目だな」
「えっ、駄目?」
「駄目。二階から見てろ。それでもいいだろ」
「うん……。じゃあ、明日は行ってもいい?」
  恐る恐る訊ねると、そんな歩遊に俊史は素っ気無くも「それなら」と返した。
「早起きして日の出でも見に行くか?」
「え! いいね、初日の出だね! 絶対起きる! 絶対起こして!」
「けどお前、今日も俺が起こした時、不満たらたらだったからな」
「だっ、大丈夫だよ! 今日早く寝るから! あ、でも行く年来る年で除夜の鐘は聞きたいしなあ。紅白歌合戦も見たいし」
「紅白見るのかよ」
「え、駄目?」
「……まぁ別にいいけど」
  とりとめのない会話が続く中、やがてコロッケも食べ終わり、一瞬だけしんとした沈黙が二人を襲った。
(幸せだなあ)
  それでも歩遊はそれを特に気まずく感じるでもなく、ただもう何だか嬉しくてひたすらにこにこしていた。勉強も全く苦ではない。俊史と二人でこんな風に年を越せるなんて、とても幸福な事だ。
  やはり俊史と一緒にいるのが大好きなのだと改めて実感する。
  本来ならば今日ここへ俊史と一緒に来るのは戸辺だった。歩遊はずっとそう信じていた。それは諦めと共に半ば受け入れていた事ではあったけれど、いざ自分が「それ」を体感し、改めてその事を想像してみると、とても胸が痛いと感じる。この楽しい時を共有出来ずにあの家に一人きりで、ここで俊史と笑い合ってるいのがもしも戸辺だったならば。
(考えると……、何だか苦しい。考えるの、やめよう)
  それはとてもずるい事だと思ったけれど、それでも歩遊は俊史と一緒にいる今だけを考えていたかった。この時間を大切に大切にしたい。
「……?」
  そう考えながら歩遊がふと顔を上げると、俊史が酷く真面目な顔でじっとした視線を向けていて驚いた。
「俊ちゃん…?」
  途惑いながら問いかけると、俊史は不意に腕を伸ばし、そんな歩遊の手を掴んだ。
「わっ…」
「何考えてたんだ? 今」
「え、今?」
  今この時を、もしも俊史と戸辺が一緒だったら嫌だなと思っていた――とは、さすがに言えない。
  けれど歩遊は俊史に隠し事を出来ない。
  すっかり困りながら、「えっと」と口篭った後、歩遊はぼそぼそと内心を告げた。
「ここへ俊ちゃんと来られたのが自分で……良かったなって」
「……………」
「ご、ごめん! だって――」
「お前以外いるわけないだろ」
「え…?」
「他の奴なんかと一緒にいても疲れるんだよ」
  掴まれた手を更に強く握られて、歩遊はその痛みに眉をひそめた。けれど俊史の力は緩まる事がない。歩遊は困って、けれどそれをどうする事も出来なくて。
  口の端にコロッケの欠片をつけたまま、ただ力なく俊史の真剣な顔を見つめやった。
「お前には……無駄に気ィ遣わなくてもいいからな」
  すると暫くして、俊史がふうと小さく嘆息しながらそう言った。
「あ……」
  不安に翳りそうになった歩遊の気持ちはそれで見事に霧散した。
「うん……」
  確かに一緒にいれば色々あるかもしれないけれど、だからこそ築けてきたものもある。
  俊史が自分という存在に気負っていないというのなら、それは限りない喜びだと歩遊は思った。



To be continued…




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