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年末をこんなに豪華な別荘で過ごさせてもらうのだから大掃除も張り切ってやろうと思っていたが、結局は「叔母さんが全部してくれていたから」と、歩遊は完全なお客さんでいる事が出来た。 「ふわあ〜気持ち良かったあ。俊ちゃん、先にありがとう!」 しかも俊史は紅白歌合戦を見たいという歩遊を先に風呂へ入れてくれた。湯上りで心身共にホカホカと温かい歩遊はにこにこと上機嫌でテレビの正面に座りこむ。俊史は未だキッチンで今夜のつまみか明日の仕込みかを準備中だったが、そこから漂う美味しそうな匂いがまた、歩遊の下降知らずなテンションを加速させた。 それに、歩遊の気持ちを浮き立たせていた理由は他にもある。 『 お前以外いるわけないだろ。他の奴なんかと一緒にいても疲れるんだよ 』 そうきっぱりと言ってくれた俊史の言葉がじわじわと胸に響いて、歩遊は広い浴槽の中でもずっと頬を緩め、終始ふわふわと夢見心地だった。 歩遊にとっては、俊史と一緒にいる時間は楽しくて安心できて大好きなものに違いないが、俊史の方もそうかと問われれば、それは容易に頷けない。歩遊は自分という人間がいつでも俊史の迷惑になっているという自覚を持って生きてきたし、実際当の俊史自身からも「お前は手が掛かる」だの「迷惑」だの「イライラする」だの散々罵倒されてきたから、俊史が自分と同じように「一緒にいて嬉しい」と思ってくれているなど簡単に信じる事は出来なくなっていたのだ。長年刷り込まれてきたものは、そうそう単純に解けるものではないのである。 けれど先刻、俊史は歩遊には気を遣わなくて良いと言ってくれたし、ここへ来るならお前としか考えられないという風な事も言ってくれた。その台詞に嘘や冗談が含まれているようには感じなかった。俊史はとても真剣な顔でそう言ってくれた。だから、堪らなく嬉しい。歩遊の胸は知らずどきどきと高鳴った。 「歩遊。お前、テレビ観るのはいいけど、髪もちゃんと乾かせよ」 「あ、うん」 ローテーブルの上にはすっかり夕飯の用意が整っている。と言っても、今夜はコンビニで買って来たカップ麺がメインなのだが、歩遊が風呂へ行っている間に俊史がサラダや小品を幾つかこしらえ、飲み物に注ぐグラスまで綺麗に並べていたものだから、歩遊にはずらりと並べられたそれらがみんな豪華なものに思えた。 だからそれらを眺めるのに夢中で、歩遊は濡れた髪を殆ど放置していたのだ。俊史はそれを指摘したというわけである。 「こういう事してるからすぐに風邪引くんだよ、お前は」 「ごめん。あ、いいよ、自分でやるから……うぷっ」 「いいから大人しくしてろ」 俊史はとことん歩遊を構わずにはいられない性質らしい。遠慮する歩遊には構わず、わしわしと白いタオルで歩遊の髪を拭くと、すぐに傍からドライヤーとブラシも持ってきて、実に丁寧な手入れを始めた。はじめは俊史自らの手で優しく髪に触れながら、やがてブラシを入れながら。 「気持ちい……」 思わず毛づくろいされている猫のような気持ちになって、歩遊はぼうと目を瞑ったままそう呟いた。すると、俊史の手がふと止まる。ドライヤーの熱風音で声は届かなかったはずだが、それでも俊史は嬉しそうな歩遊のほんわかした様子に目を奪われたのか、やがてドライヤーを止めると何やらじっと動きを止め、微動だにしなかった。 「ありがとう俊ちゃん。……俊ちゃん?」 くるりと振り返って笑顔を見せた歩遊は、しかし俊史のそのいやに思い詰めたような顔に驚き、ぴたりと口を閉ざした。俊史の真面目な顔に見つめられるとたじろいでしまう。何せ俊史はカッコイイ。それに何を思っているのかは分からないが、俊史が静かになった時というのは、大抵その直後に大きな雷や「何か」が降りてきて歩遊を仰天させるのだ。 「な、何……?」 恐る恐ると訊いてみたが、俊史は何も言わない。それどころか声を掛けられて俊史自身もハッと我に返ったように暫し瞬きを繰り返した。特に何を考えていたわけでもないらしい。 その俊史は「何でもない」とうわ言のように答えた後、歩遊の頬をさらりと撫でた。 「しゅ…俊ちゃんも」 だから歩遊は焦った風になって口を継いだ。 「お風呂入ってきなよ。新しい桧のお風呂、凄かったよ! 広いし、いい匂いした! 明日はさ、何か……そう、柚とか入れようよ!」 「そんなもんねーよ」 「うっ……。じゃ、じゃあ何か、入浴剤とか!」 「それもない」 冷酷にそうばっさりと斬り捨てた後、しかし俊史はおもむろに俯くと少しだけ笑んだようになってもう一度歩遊の頬を撫でた。 「……っ」 歩遊は俊史のその優しい手つきにドキドキとする胸が更に高まるのを感じたのだが、それを誤魔化すように身体を揺らした拍子、俊史がふいと唇を寄せてキスしてきたので、一瞬のうちにその緊張を忘れてしまった。 「ん……」 最初こそ面食らって目を開いていた歩遊は、それでもゆっくりと馴らされるように背中を撫でられた事で安心し、瞼を閉じた。既に何度か経験したこの行為は、恥ずかしくはあるのだけれど、一方でとても安心して温かい気持ちになる。 歩遊は俊史からのキスがちっとも嫌ではない。むしろ嬉しいのだ。 「……先、食ってていいぞ」 唇を何度か行き来するだけの軽いキス。それを終えた俊史は、やがて歩遊の額を撫でながらそう言った。そのこちらを見る眼差しはあまりに優しい。歩遊は思わずカッと赤面した。俊史のこういう顔を見た事がないわけではないが、珍しいには違いない。見目の良い俊史がより一層カッコ良く見える。見えてしまう。 歩遊は内心で相当に焦った。 「い、いいよっ。俊ちゃん出てくるの、待ってるから!」 だから誤魔化すようにそう答えたのだが、俊史はそんな歩遊の態度を不審に思っただろうに、特には何も言わず黙って頷いた。そうしてもう一度だけちゅっと触れるだけのキスをすると、「じゃ、テレビ見て待ってろ」と再度歩遊の頬を撫でた後、浴室へと消えて行った。 「………」 その後ろ姿をぼうと見やっていた歩遊は、やがて今しがたキスされたばかりの唇に指を当てて、知らず「……はは」と腑抜けた笑いを零してしまった。 俊史が優しい。しかも今のは、凄く大切に扱われているというのを感じるようなキスだった。だからいつも以上に嬉しい気持ちがしてしまったのだ。 けれど歩遊がそんな風に浮かれまくる事を牽制するかのように、傍に置いてあった俊史のカバンから突然異音が発せられた。 「わっ」 驚いて身体をびくつかせた歩遊は、それが俊史の携帯電話から発せられた物だと分かって途端びくついた。カバンの奥でぶおんぶおんと持ち主に誰かからの着信を告げるそのバイブ音は、暫くの間騒々しく響き続けた後、やがてしんと静まり返った。 「びっくりした……」 カバンを凝視しながら歩遊はそう呟いたが、直後戸辺の存在を明確に意識してしまい、意図せず気持ちが沈んでしまった。 俊史の携帯を勝手に見ようなどとは勿論思わないが、今の電話が誰からかということは気になる。そしてその相手は十中八九戸辺からに違いないと思った。喧嘩別れのような形でお互い離れてしまったから、きっと年が明ける前に仲直りしようと思って電話してきたのだろう。まぁ恋人同士ならば当然のことだ。 「戸辺君……」 悶々と考え始めたところで、歩遊はハッとし、再び俊史からキスされた唇を押さえて顔を青くした。 自分は何というバカだろう。つい昨日、俊史とこうしてキスすることは俊史に「浮気」させている事になると気付いたばかりなのに。これは恋人である戸辺に対する重大な裏切り行為である。だから止めなければと反省したはずなのに、また何の抵抗もせずにキスされてしまった。 しかもそのキスをとても嬉しいとまで感じてしまった。 俊史は口では「戸辺とは付き合っていない」と言ったけれど、これまで約一年半に渡って信じ込まされてきた事と、昨日のたった一度の発言、どちらに重しを置くかと問われれば、それは前者に決まっている。それに二人は明らかに険悪な様子で「喧嘩」をしていたのだから、あの意地っぱりな俊史がああいう発言をするのも納得がいく。「あの」アニメ作品から推察しても、それは明らかな事なのだ。 「どうしよう……」 もうしてはいけない、次は断固として断らなければと決めていたのに、何だかんだとバタバタしていたし、今日は朝からの出発で眠かったり浮かれたりで、「浮気」の事に関して考える暇なぞなかった。 でも、今度こそ、もうしてはいけないと思う。次に俊史からキスされそうになったら、その時は絶対に拒絶しよう。何故って、それは俊史という素晴らしい人間から「誠実」というものを奪い去ってしまう所業だから。 「はあ……」 けれどそれを決めたら決めたで、どうしてだか歩遊の気持ちは靄が掛かったように不明瞭で気分の優れぬものとなった。いよいよ俊史と距離を取ることを覚悟しそれを断行しなくてはならない事に言い様のない寂しさを感じたからか、或いは別の何かか。 「ふう……」 一人なのを良い事に歩遊は溜息を連発し、ごろりとその場に横たわった。きっと冬にだけ敷いているのだろう、質の良さそうなホットカーペットは歩遊が風呂上りだからという事を差し引いても電気なしで十分温かかった。気持ち良いなと思いながらクッションを引き寄せ、更に深く目を閉じてそこに身体を擦り付けると、もうすぐ紅白の始まる時間だというのに歩遊は急激な睡魔に襲われた。このまま眠ってしまうのは如何にも勿体ないというのに。 「俊ちゃん……」 まぁいい、俊史が来てくれたらきっと起こしてくれるだろう。 「俊ちゃ……」 何となくそう思いながら、歩遊は誘惑に抗えずに意識を遠くの方にしまった。そうして、今さらだけれど、買ってもらったばかりのパジャマの肌触りも最高だ、着てすぐに俊史にもそう伝えれば良かったと思った。 「ん……?」 意識が浅くなり、賑やかな音が聞こえるなと認識し始めたところで歩遊がゆっくりと目を開けると、もう紅白歌合戦は後半戦に突入していた。転寝を始めてから既に三時間近くも経ってしまった事に気付く。 「うー……寝ちゃった……?」 「今日は朝から早かったからな」 俊史の労わるような声が上からすぐに降ってきた。目を擦りながら身体を反転させそちらを見やると、まさにそのすぐ真上に俊史の顔があった。しかも優しい手つきでずっと髪の毛を撫でてくれていたのだという事にも歩遊はすぐに気がついた。 「あっ……」 しかもこれは。膝枕じゃないか。 「俊ちゃ……」 「あんまり気持ち良さそうにぐうぐう寝てるから起こさなかったぞ。別にどうしても見たいようなら再放送だってあるんだし、文句言うなよ?」 「い、いいよ…っ。それより…」 慌てて上体を起こした歩遊はその拍子に乱れた髪の毛を両手で撫でつけつつ、申し訳なさそうに項垂れた。 「ごめん俊ちゃん……足、痛かった? 僕ずっとのっかってたの?」 「……まあな。でも別に痛くねーよ」 「本当? あ、もうこんな時間だね……。そういえば勉強も今日全然してない……単語帳すら――」 「さすがに今日はいい。お前だってフルで紅白見る気だったんだろ? 気にすんな」 「うん…ごめん」 やっぱり、恐ろしいほどに俊史が優しい。 何かの前触れかと警戒するほどだが、それでも歩遊は照れたように俯き決まり悪そうに笑った後、傍にあったグラスを何となく引き寄せた。少し乾燥している室内で寝入ったせいだろうか、酷く喉が渇いたからだが、俊史はそれを察するとすぐにテーブル上にあったジュースを注いでくれた。 「ありがとう……美味しい…」 「カップめん食うか?」 「うん」 歩遊が頷くと俊史は立ち上がってキッチンからお湯を持ってきてくれた。それから、恐らくは歩遊を待っていてくれたのだろう、未だ封を切られていない自分の物にもお湯を注ぎ入れる。 歩遊はそれを黙って見つめた。テレビのざわざわとした音が耳障りだと思えるくらい、今のこの時がとても貴重なものだと感じた。 その後、二人は夕食を済ませ、残りの紅白を見て、「行く年来る年」で除夜の鐘も無事聞いた。テレビ画面に映されていた時計が「23:59」の表示から0時ジャストに変わった瞬間、落ち着いた声色の男性アナウンサーが「新年明けましておめでとうございます」と言うと、たったそれだけの事なのに歩遊は何故だか「凄い」気持ちがして感動した。 「こっちからも直に聞こえるだろ」 するとその感動を歩遊から聞かされた俊史は、おもむろにテレビを消してそう言った。 「あ、本当だ!」 それに歩遊も驚いて目を見開く。言われた通り、どこか近くの寺でも鐘を鳴らしているのだろう、たった今までテレビで流れていたのと同じ、荘厳な鐘の音が微かに、けれど直に聞こえてきて、歩遊は声を上げた。静かな夜に神秘的に鳴り響くそれは否が応もなく歩遊の胸を徐々に昂揚させる。普段大して興味もないはずの音なのに、こんな時ばかりどうして特別なものに聞こえるのだろうと不思議に思いながら。 「ついでに星見るか。今なら結構見えるかも」 「えっ、うん、見たい! 行こう行こう!」 歩遊は俊史の誘いを受けて勢いよく立ち上がると、我先にと特別仕様の天窓がある星見部屋へ梯子を伝って上った。そこはちょっとした円のスペースに大きな望遠鏡が置いてあったが、基本的にはそれとリラックスできるようなクッションが幾つか置かれている以外は何もない。 ただその天窓からは無数の冬の星が臨め、歩遊を忽ち感嘆させた。 「凄い! いっぱい見えるよ!」 「今日は特に空気が澄んでるらしい……お前ってこういうのにかけては、本当ラッキーなんだよな」 「こういうのって?」 不思議そうに振り返り見る歩遊に、後から室内へ上がってきた俊史は笑った。 「何十年に一度の流星とか月食とかさ。そういうの、お前が見たいって言った時は大抵晴れてて見られるだろ。晴れ男なんだろうな、基本」 「ええ、そうかなぁ? でもそれ、必ずしもいい事ばっかりじゃないよ。体育祭とか、雨降って中止になって欲しいって願っても一度も叶ったことないし」 「はは……まあな。ほら歩遊。それより、あっちの見ろよ。何座か分かるか?」 「ううん……でも凄い……綺麗だよ」 ぼうと星を眺めるだけの歩遊に、俊史はその後実に丁寧な星座講釈をしてくれた。歩遊はすぐさまそれに夢中になり、それこそ目をキラキラさせて夜の星空を見上げ続けた。ただ眺めるのでも十分満足だけれど、冬の夜空に見えるあれらの星々に一つ一つのエピソードや歴史があると知ると余計に興味が深くなる。 それに、俊史はやっぱり凄い。話を聞かされる度、色々知っているんだなと思うと、その尊敬の念でますます気持ちが浮上してしまう。 だから歩遊はその感動もそのまま素直に伝えた。 「俊ちゃん、凄いね。何でそんなによく知ってるの?」 「別に、普通だろ」 「普通じゃないよ。俊ちゃん、昔っからそうだもん。僕が訊いた事で答えられない事ないし。何でも知ってる」 「んなわけないだろ」 「えーでも」 笑いながら歩遊が俊史を見返すと、俊史は至極真面目な顔で歩遊を見ていた。 「別に何でも知ってるわけないだろ。お前が知りたがるから……お前の興味あるもんは調べて覚えてるだけだ」 「え……?」 「………」 俊史がじっとした視線を歩遊に向け、何も言わない。歩遊は途端どきんとして笑顔を引っ込めた。これは先刻見せた時の顔に似ている。そうだ、あの転寝をする前の。 キスされる、そう思った。 (あ……駄目だ) と同時に、歩遊は先刻改めて決意した事を思い出して焦り、動揺した。 「んっ…!」 それでも俊史からのキスが降ってきて歩遊はそれを避けきれなかった。然程強い力でもなかったが、歩遊の後頭部ごと抱きかかえるようにして重ねられた唇は歩遊自身が望んでいたかのように深く繋がり、あっという間に危機意識をぼやけさせる。 だってそれはやっぱり、とても気持ちが良かったのだ。 「んっ…ん…」 息苦しくも必死にそれを受け留めていると、やがて侵入してきた俊史の舌に自らのものを絡め取られ、歩遊はいよいよ身体が熱くなった。しかし、嫌ではない。それどころか俊史の優しい愛撫と連続したキスに心まで蕩けるようで、このまま流されてしまいたくなる。 「あふ…」 けれど「このまま流される」というのは、一体どういう事なのだろう? ふと疑問に浮かんだそれに猶予を与えられる間もないまま、歩遊は俊史に身体を押し倒されてその場にごろりと横たわった。驚いて咄嗟に目を開けると、ぎらついた眼光の俊史と目が合って瞬時に身体がぶるりと震えた。 「しゅ……」 俊史の熱っぽい目はただ歩遊を見下ろしている。しかも歩遊の呼びかけには答えず更に深い口づけを施してきたかと思うと、そのままパジャマの中にするりと手を差し込み、その肌に愛撫を重ねてくる。 「ひぁっ…」 ひやりと冷たい俊史のそれに歩遊は小さく悲鳴を上げた。と同時、この状況がまさにあのアニメで見た男子生徒二人の営みにそっくりである事に思い至った。 「あ……!」 胸の突起に指を絡められて歩遊はびくんと背中を浮かせたが、俊史はまだ何も言ってくれない。まずい、これは駄目だ。そう考えて歩遊は暴れようと身体を捩ろうとしたが、上からかぶさってくる俊史のせいでどうにもならなかった。その間も尚、首筋や耳に舌を這わせられ、歩遊は触られていない下半身にもむずむずと仄かな熱が灯り始めるのを感じた。 「い……あっ……」 しかも歩遊は俊史の方も酷く身体を昂ぶらせていることに気がついた。 「俊ちゃ……」 「じっとしてろ……」 やっとくぐもった俊史の返答が聞けて安心はしたが、それでも俊史の手は、キスは止まらない。歩遊はいよいよ焦燥に駆られ、ぐいとパジャマズボンを下げかけられた時になってやっと大声を上げた。 だってこんなのは、これは駄目だから。 「俊ちゃん、駄目だよっ」 「……るっせえ」 耳元で叫んだせいだろうか、キーンと耳を傷めたような俊史が相当不機嫌な呟きを返してぴたりと手を止めた。けれど必死になっている歩遊もそれどころではない。遠慮がちに、しかししっかと意思を持って俊史の胸を押しやりながら懸命に言った。 「駄目だよ俊ちゃん! 離…離れてっ!」 「……んでだよっ。嫌なのか!?」 「え…っ」 「嫌なのかっ! 俺とこうするのが、嫌なのか!?」 すると俊史の方も我慢ならないという風に大声を上げた。それに歩遊はすっかり萎縮し一瞬にして身体を固めたが、それでも俊史に不貞を働かせてはいけないという想いを頼りに弱々しい声で続けた。 「だって……だって、僕は、違う…。僕のことじゃなくて、こんなの……駄目で……」 「何が駄目なんだ? お前は嫌じゃないんだろ? なら何も問題はない。確かに……あの時、お前の嫌がることはもうしないって言った。けど…お前が、嫌じゃないなら…っ」 それはあのクリスマスイブのことを言っているのだろうと歩遊にも瞬時に分かった。 あの時は歩遊自身が怖くて訳も分からず怯えてしまい、「嫌」だと思ったけれど、確かにあの時とは少し感じが違う。ずっと優しい俊史に触ってもらえて、こうして優しくキスをしてもらえて、確かに嬉しいと感じた。あのアニメは大して見なかったけれど、変な話、男同士だってああいう事をしてもそれほどおかしくもないかと思ったりしたし、これまで俊史と戸辺の関係を「何となく」のみで容認していた歩遊も、より確固とした気持ちで自分が同性同士の恋愛というものを受け留めていると感じた。 けれど今はその戸辺の事がまさに問題なのだ。歩遊自身が俊史とどうとかいう以前の問題で、俊史には戸辺という相手がいるのである。 俊史が何故というなら、その戸辺こそが今の歩遊の足枷だ。 それがなければ、恐らく歩遊は俊史と「こういう事」をしても、この先までいってしまってもいいと思っている。………多分。 「だって……こんなの………気、でしょ?」 だから歩遊はそう言った。 「は……?」 しかしそれはあまりに小声だったせいで聞こえなかったらしい。俊史が怪訝な顔をして歩遊を見下ろす。 歩遊はオロオロとしながらそれでも俊史の下にいたまま、更に大きな声で思い切って言った。 「こんなの浮気でしょ!?」 「浮……何、言ってんだおま……」 ぎょっとしたように俊史は目を見開いたが、瞬時ざっと青褪めてがつりと歩遊の両肩を力強く掴んだ。 「おいッ! お前、それどういう意味だっ? お前、まさか太刀川の奴と…!?」 「え!?」 「そうなのかッ!? 答えろ! お前、太刀川と何かあったのか、俺の知らない間に、何を……!」 「え、え? 何…? ちが……僕の、ことじゃ…っ」 がくがくと身体を揺さぶられて歩遊は目を白黒させながらそれを否定した。 「お前のことじゃないなら何…っ」 けれど俊史はそこまで叫んで急にハッとしたようになると、途端しんとなって剣呑な眼で歩遊を睨みつけた。 「じゃあ何のことだ……何でそんな風に言う」 「……と……だって俊ちゃ……」 「は!? 俺が何だって、もっとはっきり言ってみろ!」 「と、戸辺君っ。だって、戸辺君がいるのに!」 俊史に恫喝されて歩遊が叫ぶと、俊史は半ばその答えを予測していたようだったが、改めて耳に入れて脱力したのか、ハッと一瞬泣き笑いのような顔を浮かべた。 それからすうと歩遊の身体から離れ、距離を取り、おもむろに立ち上がった。 「俊ちゃん…?」 歩遊ものろりと上体を起こし、ずり下がったままのズボンを穿いて俊史を見上げる。 俊史は落ち着きのない動物のようにその場を暫しウロウロとしていたが、やがて困惑する歩遊をキッと見下ろし、厳しい視線を向けた。 「俺は昨日言わなかったか? 戸辺とは付き合ってないって」 「き、聞いたよ、でも……」 「でも!? 何が『でも』なんだ!? 俺の言う事が信用できないってのか? 何も信じてなかったのか!?」 「そ、そうじゃっ…。で、でも、喧嘩してたみたいだし、それに――」 戸辺自身、「君ばかりが俊を独り占めして」だの、「こんなのは浮気だね」だの。二人が如何にも付き合っているような発言を繰り返していた。 俊史をまるっきり信用していないというのでは勿論ない。けれどあのたった一度の発言で俄かには納得できないくらい、二人の関係には歩遊も確信していた部分があったのだ。 けれどそれをうまく言えなかった。 「結局……」 すると俊史が急に自嘲したような笑みを浮かべて言った。 「結局お前はそうなんだ。そうやっていつでも俺から逃げて、俺を振り回す。訳も分かんないまま俺をバカにしてやがる……」 「え……?」 何を言っているのだろう。俊史をバカにした事など一度もないのに。 歩遊は焦って何事か反論しようとしたが、しかし俊史はそれを言わせてはくれなかった。 「ふざけんじゃねえよッ! いい加減に……だからお前はバカだと言うんだ!」 「ひっ」 殴ってくるのじゃないかというその勢いに歩遊が首を竦めると、俊史はそんな歩遊の態度にますます激昂したようになって目を剥いた。 「そのうじうじとした態度も! ドン臭いテメエの思考回路も、ほとほと嫌気が差してんだよ! ただのバカってレベルじゃねえよ、お前のバカは罪悪だ! 人を巻き込んでイラつかせて、どうしようもない気持ちにさせる! お前の存在そのものが俺をこんなにむかつかせてんだよッ!」 「……っ」 これまでにない俊史の暴言に歩遊は唖然として唇を閉ざした。何か言おうと思っていた言葉も全て吹き飛んだ。俊史を怒らせた。それは分かるけれど、何を持ってここまでの事を言われなくてはいけないのかが分からない。 けれど確かなのは、自分という存在が俊史をこうまで煩わせ、そして怒らせているということ。 迷惑を掛けているという、それどころの話ではない。 「いっぺん死ねよ!」 しかも極めつけはその台詞だった。ふるりと震えた拳が歩遊を殴りたいのに殴れない、けれどどうにかして歩遊を傷つけてやりたいと望んでいて、それ故に発せられた言葉に違いなかった。 「……………」 これまで随分と酷い台詞を言われてきた。お前はバカだ愚図だ、どうしようもない奴――。お前なんかがいても周りに迷惑になるだけなんだから、小さくなって隅っこにいろ。見てるとイライラするし、本当どうしようもない。勘違いして、何かしようなんて気を起こすんじゃないぞ……。 色々傷ついてきたけれど、結局最後の最後では俊史が歩遊を想っていて、歩遊に優しくて。歩遊を見ていてくれていると歩遊自身が分かっていたから、どれだけ泣かされても翌日にはもう立ち直る事が出来た。戸辺との事とて、家族のように、否家族より近しい俊史が遠くへ行ってしまうのじゃないかと思って寂しい気持ちではいたけれど、俊史みたいな凄い人になら戸辺みたいな子がぴったりだし、仕方ないとも思った。 最近はその俊史が自分の身体に触ったりキスしたり、それに翻弄されていたけれど、「浮気」を意識するまでは嬉しかった。嫌じゃなかったから。俊史の戯れでも何でも、嬉しかったのだ。 しかしこんなに怒られるのなら、黙って受け入れていれば良かったんだろうか? そうだ。こんなに存在ごと否定されて拒絶されるくらいなら、何も言わないでいた方が良かった。浮気でも何でもしてしまえば良かった。 「………う」 いつものように「ごめん」と言いたかったのに何故かその台詞は出なかった。口が動かない。困ったように俊史を見上げると、どうしたことか俊史の方も青褪めて唇が震えていて、固まったように歩遊をただ黙って見下ろしている。幾ら歩遊相手でもさすがに「いっぺん死ね」はなかっただろうと後悔しているのだろう。死ねとか殺すなんて台詞、今はクラスの皆だって平気で使っている。そんなに申し訳なく思う必要ないのにと歩遊は思う。だって実際、自分はどうしようもない存在なのだから。 でも「ごめん」という言葉は出てこない。 「あ……」 しかも何かがぽたぽたと膝に落ちているから何かと思えば、それは大きな水滴だった。頬から伝っていたもので、それは大粒の涙だった。歩遊は瞬時に「しまった」と思う、けれど止まらない。俊史に泣かされる事など何度もあるのに、こんな風に無造作に涙が出て、自分でも分からないうちに泣いていたなど初めてだった。 慌ててその涙を拭おうと歩遊は必死に両手でごしごしと顔を拭った……と、急にどたんと大きな音がして、ハッと視線を上げると俊史が階下へ行ってしまったのが分かった。 「俊ちゃん……」 俊史が行ってしまった事に歩遊は絶望した。俊史は当然の事を言っただけなのに自分がみっともなくぐずりだしたものだから、きっと呆れてしまったのだ。俊史に軽蔑された、嫌われた。 見捨てられてしまった。 「う……ううー、うううーっ……」 そうなると何が何だか分からないうちに、歩遊はもっともっと泣きたい気持ちになってしまった。 「う…う、う……わあああああん!」 すると、もうここに俊史はいないのだからいいだろうと、とんでもない大声が口から飛び出した。 「わああああ……ッ!」 こんな風に泣き喚いたら階下の俊史にも聞こえるに決まっているのに。それなのに、歩遊は声を惜しまず大声で泣き続けた。 とんだ年明けになってしまった。 |
To be continued… |
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