―12―



「う……喉、乾いた……」
  ひとしきり泣ききって理性を戻すと、無性にカラカラした喉が気になった。
  それでも泣くとすっきりするというのは本当のことらしい。自分の大泣きがみっともないと自覚できるくらいには立ち直り、歩遊はごしごしと両手で強く顔を拭ってからそろりと下の様子を窺った。
  電気が灯っている様子はない。酷くしんとしていて、そこに人の気配は全くなかった。

(俊ちゃん……)

  この星見部屋には時計がないから、歩遊は自分がどれくらい泣き喚いていたのか分からなかった。今、何時だろう。俊史は寝てしまっただろうか。しかし、例えベッドに入ったとしても、こんな「大騒音」を出し続けられては寝るに寝られないだろう。寝室に使おうと言っていた部屋は確かこことは別の階段から上がった先の八畳間だが、静かな田舎の家屋だ、歩遊の泣き声はきっとどこの部屋にいても聞こえていたに違いない。

(絶対……呆れられてる。むかつき過ぎて、どうにかなっちゃったかも……)

  俊史の心情を考えて歩遊は今さら青褪めた。自分が悪いと分かってはいるものの、止められなかった「号泣」。しかしそれをやり通して幾らか落ち着いた今の歩遊には、己の愚行を後悔するだけの気力があった。それに乾き過ぎた喉が痛いし、ここは寒い。だから本当は今すぐにでも階下へ移動して、気になる俊史の姿も探したい。
  でも、それをするのはあまりに恐ろしい。
「どうしよう……」
  歩遊は傍のクッションを引き寄せてぎゅっとそれを抱きしめてから、小さな声で呟いた。
  「喧嘩」なんていつものことだ。俊史から怒鳴られて泣かされることなど、別に初めてではない。いつもみたいに「さっきはごめん」と言えばきっと許してくれる。駄目だろうか? いや、最初こそ仏頂面で「だからお前は…」と説教をしたとしても、俊史なら許容してくれる。少なくとも、これまではそうだった。
  だから、今回も。
「寒い…」
  ぶるりと震えて、歩遊はより強くクッションを抱きしめた。暖房器具もないここにいつまでもいたら本当に風邪を引いてしまう。泣き喚いていた時はむしろ暑いくらいだと思っていたが、涙も冷えた今となっては、やはり裸足のままここにいるのはあまりにきついと思った。
  それで歩遊は意を決して、もう一度下の様子をそろりと探った後、音を立てないよう慎重に梯子を伝って一階へ下りた。
  常夜灯がついているお陰で真っ暗ではないが、やはり辺りに俊史の姿は見えない。歩遊は何故か持ってきてしまったクッションを胸にしたまま、暫しその場に立ち止まり、もう一度ぐるりと広々としたリビングを見通した。
  ほんの数時間前まではここで紅白歌合戦を見て、「行く年来る年」で除夜の鐘を聞いて。本当に楽しくて幸せだったのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう。
「俊ちゃん」
  相対するのは恐ろしいと思っていたのに、歩遊は思わず呼んでいた。やっぱり、顔を見ずにはいられない。むしろ、今すぐ会いたい。一度そう思ったら止められなくなり、歩遊はやや駆け足で二階へ上る階段を使って寝室へ向かった。もし眠っていたら申し訳ないけれど、やはり起きてもらって謝ろう。そうしないと何も手につかない。それ以外のことを今は何も出来ないと思った。
「俊ちゃんっ」
  けれど勢いよく飛び込んだその部屋の中に俊史の姿はなかった。一瞬当てが外れた事に途惑ったものの、すぐにその両隣の部屋も開けていって俊史の姿を探す。
「俊ちゃん?」
  けれど俊史の姿は何処にもなかった。念のため一階の浴室やトイレ、それにテラスから見える外庭もぐるりと回ってみたけれど、やはり俊史は見当たらない。
  この家の周囲には何処にもいない。
「何で…?」
  室内の中央でボー然と立ち尽くしたまま、歩遊は突然不安な気持ちに襲われて心臓をばくばくと波打たせた。

  まさか、自分を置いて帰ってしまった? 

  もう本当に嫌気が差して、一瞬でもあんな奴と同じ所にはいられないと思って、それで出て行ってしまったのだろうか。歩遊は慌てて俊史のバッグを探した。
  けれど、ある。それはすぐに見つかった。
「……バカだ」
  歩遊は足元のバッグを見下ろしながら思考を奮い立たせるべく、ぶんと首を横に振った。
「こんな時間に帰れるわけないんだ」
  自嘲の笑みをほんの少し浮かべてから、歩遊はマフラーを巻いてコートを羽織るとそのままだっと外へ出た。室内とは比べ物にならない外の冷気に、靴下を履いてこなかった事をすぐに悔やんだが、一度走り出したら止まらない。走っていれば暑くなるだろうと楽観的に捉えながら、歩遊は雑木林に囲まれた石階段を下りて海岸沿いと街へ向かう細い小道を一気に駆け抜けた。家の周囲にいないのなら、駅前のコンビニとか、或いはただの散歩で砂浜近辺にいるか。とにかく外にいるのは間違いないから、ここへ出れば俊史とはすぐに会えると思った。
  走り出してすぐに空からはぽつぽつと細い雨が落ち始めた。けれど傘をさすほどではないし、視界は元々暗かったから気にならない。白い息を吐きながら、歩遊は走る速度を緩めずに真っ暗な海岸線を暫しざくざくと砂を蹴り、歩いた。いつもは大好きなはずのそこも、すぐ傍にあるのに今はちっとも心躍らない。むしろ波の音も強い風も、そして断続的に降り続けるこの雨粒も、歩遊の行く手を阻む黒くて大きな怖いものに見えて、寒さではない震えが全身を襲った。

(ああ、そうだ……。でも、こんなのも、初めてじゃない……)

  それでも歩遊は段々と歩く速度を落としながらそう思い、街へと上がる階段が見えてきた手前でようやく足を止めるとはっと息を吐き出した。
「はあ…っ」
  ザンと寄せては返すその黒い細波を見つめながら、歩遊は荒く息を継いで暫しその場に留まった。じわじわと雨に濡れる身体を厭う余裕はない、ただ過去こんな風に俊史を追って走り回った子どもの頃が何故かひたすら思い返された。

(あの時も……大好きだったのに、怖くて仕方なかった……)

  それは夏祭りの屋台を一緒に見に行った時のことだ。
  こんなに凄い人ごみだから絶対に逸れるなよ余所見するなよと俊史からは散々注意されていたのに、歩遊は色とりどりの夜店を眺めていたら楽しくて、気付いた時にはまんまと独りきりになっていた。辺りはがやがやと大勢の人で賑わっていたし、夜空には花火も飛んでいたから、そのいちいちに沸く見物客の歓声は賑やかで周囲も明るかった。歩遊もそういう雰囲気が大好きだったからこそ、そこへ行くのを数日前から楽しみにしていたし、結局そのハイテンションではしゃぎ過ぎたが為に「迷子」になった。
『俊ちゃん、どこ……!?』
  それでも、先刻まで大好きで楽しいとしか思えなかった祭りの通りが、いざ俊史と逸れてしまうととんでもなく怖い所に思えて、歩遊は焦って走り回った。大人にぶつかって嫌な顔をされたり、知らない子どもが呑気に笑っている顔も自分が嘲笑されているようで不安だった。大好きだったはずの場所はモンスターの集まりみたいに不穏なものとなって歩遊に容赦なく襲い掛かる。恐ろしかった。俊史の手から離れて金魚掬いなんか見なければ良かった。ずっと俊史を追っていれば良かった。
  けれど次々とそんな後悔が襲っていよいよ泣きそうになった時、ようやく「歩遊!」と。
『歩遊! 見つけた、やっと見つけた! お前…!』
  必死に自分を探してくれていたのだろう俊史の怒った顔を見て、歩遊は心底ほっとした。その後は例によってこっぴどく叱られたけれど、そんなもの何ほどの事もない。俊史の手をしっかと握り、歩遊は心から安堵したのだ。俊史がいないとやっぱり駄目だ、そんな風に再確認した夜でもあった。
「そういえば、あの時……」
  急に全速力で走ったせいか、息は整えたはずなのに何だか立っているのが辛くなり、歩遊はよろりとその場に座りこんだ。寒い、でももう動けない。少し休憩しようと思い、歩遊はふらふらとしながら、数メートル先にあったボロボロの小船にまで這って行ってそこに身体を寄りかからせた。砂浜といえど、浪打際から少し離れたそこは貝殻や大きめの石粒がごつごつしていて座り心地が良いとは言えない。それでも体よく寄りかかれる場所をキープできた事で、歩遊はそこに身体を預けた格好でふうと目を瞑り、白い息を吐いた。波と雨の音がクリアーになる。寒さが増してきて唇が震えたものの、歩遊は再び祭りの時のことを思って独りごちた。
「あの時……俊ちゃん本当は……クラスの皆と、約束してたんだ、よね…」

  後からいつも邪険にされているクラスメイトからその事を告げられ、歩遊は愕然とした。

《本当はあの祭り、俺らと俊、みんなで行こうって約束してたんだ。それなのにお前も行きたいって言うから、俊は俺らとの約束をなしにして、お前に付き合う事にしたんだ! お前はトロ臭くて俺たちの足を引っ張るからって……お前、本当に俊の迷惑なんだよっ。勿論俺たちにも! そういうの、お前って自覚した事あんのか!?》

  自覚は何度もしていたが、改めてそう言われた事はショックだった。それから暫くの間、歩遊は俊史と祭りに行くのを楽しみにしていたという女子からも総スカンを喰らった。いつでも俊史は歩遊の面倒を見なくちゃいけない、だから俊史は自由になれない、お前は俊史の足手まとい――。そんな風に言われて傷ついたけれど、事実だと思ったし、俊史に申し訳ない気持ちの方が強かった。
  だって本当に心から悪いと思っていたのなら、強引にでも何でもその手を離すべきだったのに、歩遊はそれをしなかったのだ。出来なかった。

「だって一緒に……いたかったん、だ」

  ハアと息を吐きながら、歩遊はそう呟いた。成長するにつれ、もう子どもではないし、いつまでも俊史に面倒をかけてはいけない、自分のことは自分でやらなければいけない。そう思い、実際それを俊史に告げた事もあった。けれど現状は何も変わらなかった。それは歩遊が、俊史が本当に大丈夫だと安心して離れられるくらいになっていなかったからだろうと思う。そうして、その状況をまずいと思いつつ、やっぱりそれを「嬉しい」と思っている自分がいた。
  歩遊は俊史から離れたくなかったのだ。

「どうしようも、ないんだ……」

  ああ寒いな、と思って歩遊は仕方なくのろりと目を開けた。目の前の海はやっぱり黒くて怖い。夜の海だって大好きなはずなのに、今は怖い。
  俊史がいないからだ。何だって俊史が傍にいないと、歩遊はいつだって不安だ。

「歩遊!」

  けれどその時、遠くから俊史の呼ぶ声が聞こえて、歩遊は怪訝な顔をして眉を寄せた。
「歩遊ッ! 歩遊、何処だ!」
  それは段々と近づいてくる。幻聴ではない。しきりに歩遊の名前を呼んで、どうしてそんな風に切羽詰まっているのだろうと不思議に思うほど崩れ落ちそうな悲しそうな声で。
  歩遊は気だるい身体を少しだけ浮かし、小船の陰から声のする方を見やった。
「歩遊! いないのか、歩遊ッ!!」
  俊史が叫んでいる。先刻歩遊が下りてきた階段の方からやって来たようだから、俊史は違う道を使っていてタイミング悪く擦れ違っていたのかもしれない。しかも今、歩遊はこの小船のある所にまで移動して身体を隠してしまったから、俊史のいる所からは姿が見えないらしい。俊史はただ必死に歩遊を呼び、そのまま街の方へ走って行ってしまおうとする。
「あ…っ」
  ここに、いるよ。
  そう言いたくて唇を開いたものの、うまく言葉が出なかった。寒さと喉の乾きのせいだったが、それでも歩遊は慌てて身体を浮かせると小船の陰から出て俊史を追おうとした。待ってと言いたいのに、言えない。あぁ行ってしまう、悲愴に暮れかけた瞬間、しかし半分腐った木造の小船が歩遊の体重を借りて代わりにギイと鈍い悲鳴を漏らしたお陰で、ハッとする俊史を振り返らせた。
「歩遊っ!?」
  急いで駆け寄って来る俊史に歩遊はほっと身体から力を抜いた。ああ良かった、見つけてもらえた。本当は自分が俊史を探しに来たはずなのだが、何だかいつの間にか立場が逆だ。だが、まあいい。そんな事はどっちでもいいと思いながら、歩遊はゆらりと両足で踏ん張り立ち上がってから、青褪めつつこちらへ来る俊史をほうとして眺めた。
  そうして、唐突に思った。

  ああ、俊史のことが大好きだ、と。

「歩遊っ!」
「い…っ!」
  俊史は歩遊のどこか憔悴したような顔とぐっしょり濡れたその姿に狼狽した様子だったが、構わずぎゅうと強く抱きしめてくると絞り出すような声を上げた。
「何処行ったのかと思ったぞッ!」
「しゅ……」
  それはこちらの台詞だと思ったのだが、如何せんきつく抱きしめられているせいで声が出ない。痛い。それすら訴えられなくて歩遊は困り果て、けれどもこうされる事はやっぱり嬉しかったので、とりあえずはじっとして目を瞑った。
  瞑って、俊史が好きだと、もう一度思った。
「こんな……か、風邪、引くだろうがッ!」
  一方、俊史の方はがばりと両手で歩遊の肩を掴みながら改めてその濡れ鼠のような姿を凝視し、責めるような言葉を吐いた。
「……?」
  けれど歩遊はそれに不思議な心地がして首をかしげた。いつもの怒鳴り声に覇気がない。どれだけ激しく叱られるのだろうと思っていただけに、むしろ拍子抜けするくらいの力ないそれに、逆に不審な気持ちがした。
「……とにかく、戻るぞ」
  何も言わない歩遊に途端気まずくなったのだろう、俊史は不意に苦しそうな顔を浮かべるとぐっと歩遊の手を掴み、ずんずんと先頭切って歩き出した。強引に引っ張られるそれに腕がじんと痛んだものの、歩遊は俊史からの視線がなくなってようやくその背中に語りかける事が出来た。
「俊ちゃんがいなかったから……」
「何て声だよ。いいから喋るな」
  確かにガラガラとしたそれはいつもの歩遊の声とはかけ離れていた。ああ喉が渇いたと改めて思い、歩遊は暫く黙って手を引かれていたものの、階段に差し掛かった所で再び話しかけた。
「何処、行ってたの……?」
「別に……。ちょっと出てただけだろ」
「最初、帰っちゃったかと、思って」
「……電車走ってねえよ」
  歩遊の言葉に一瞬詰まったようになったものの、俊史は振り返らずにそう答えた。
「でも、呆れたかと思って」
「何が」
「あんなに泣いたし。煩かったでしょ」
「別に」
  これには、俊史はすぐに答えた。それからまた暫くの沈黙。二人は手を繋いだまま黙々と歩き、やがて別荘に通じる平淡な小道に至ってようやく歩遊は息を吐いた。勢いよく引っ張られた事で言い出せなかったが、先刻から身体がだるくて仕方なかったのだ。自久走は得意なはずだったのに、どうしてこんなに息が苦しいのだろう。分からなかった。
  それに寒いはずなのに俊史に握られている手が燃えるように熱い。
「俊ちゃん、あつい……」
  だから正直にそう訴えると、これには俊史も「えっ」と足を止めて歩遊を振り返り見た。
「暑いってお前……熱でもあるのか。だから、こんな夜中にそんな格好で―」
「違うよ、手だけが熱い。ちょっと離して」
  寒かったり暑かったり忙しない。けれど俊史がいないと分かって夢中で走り始めてから、こうして無事に出会えて安心してからも、歩遊の異変は治まらなかった。俊史に見つけてもらえたからもう大丈夫だと思ったはずなのに、どうにもおかしい。歩遊はとりあえず火照った手を自由にしようと俊史からの拘束を解こうとした。
「……あと少しで着くから辛抱しろ」
  けれど俊史はそうする事を良しとせず、自分から逆らって手を振り解こうとする歩遊に憮然としてそう言った。怒った風ではない。けれどそれは許さないとばかりに、俊史は尚も歩遊の手を強く握り、再び歩き始めた。
「しゅ……」
「こうしてないと、お前はすぐいなくなるだろ」
  歩遊に言わせないで俊史は頑として言った。
「すぐ…お前は、俺の目の届かない所へ行く……」
「え……」
  そんなの、それは俊史の方だと思うのに。
  けれど歩遊は何も言えずに一旦開きかけた口をまた閉じた。今さら気付いたけれど、俊史の手がとても冷たい。それは火照っている歩遊にしてみれば気持ちの良い温度だったけれど、俊史の全身もこのくらい冷えているのなら俊史の方こそが心配だと思った。
「俊ちゃん、大丈夫?」
「何が…」
「手、冷たいから…。あ、そ、それって僕のせいか。僕がいなくなったから探しに来てくれたんだもんね、ごめん」
「………」
「あ、あのさ」
  何も言わない俊史に歩遊は焦りながら声を出し続けた。相変わらずしゃがれた酷い声だったけれど、今どさくさに紛れて一度謝れたし、この勢いなら先刻思っていたようにきちんと言える気がした。
  さっきはあんなに泣いてごめんと。
  困らせるつもりはなかったと。
「俊ちゃん、さっき……」
  けれどきちんと謝ろうと思ったのに、何故か歩遊はここで喉をひくつかせた。焦って自由の利く手でそこを押さえてみたものの、異物が詰まったような感覚に途端呼吸するのも苦しくなる。おかしい、早く俊史に謝って許しを請いたいのに。あんな気まずい想いはもう嫌だ。まっぴらなのだ。ごめん、と言って。呆れたと思うけど、本当に嫌だと思うけど、でも許して欲しいと言わなければ。

《いっぺん死ねよ!》

「…っ」
  けれど瞬間、悲鳴のようにそう叫んだ俊史の顔と声を思い出して、歩遊はびくりと身体を震わせた。
「歩遊……」
  すると俊史は自身もぴたりと歩く足を止め、歩遊に向き直った。歩遊が謝ろうとして、けれど言葉を詰まらせた事が分かったのだろう、急に居た堪れないような顔で眉をひそめる。
「あ…」
  いけないこれではまたイラ付かれてしまうと、歩遊は無理矢理喉元を手で強く押さえながら何とか声を絞り出そうとした。
「しゅ……ごっ…ぐっ…く……」
  意味不明の音だけが漏れる。真っ暗で俊史の顔は見えない。否、歩遊が顔を上げられないのだ。再びじわりと涙が滲んできて、歩遊はいよいよ困ってしまった。はっきりしないお前が本当にむかつくと何度言われてきたか分からない。だからはっきり謝りたいのに、でも出来ない。
  こんなに俊史が好きなのに、謝れない。
「うっ、く……」
  駄目だと思うのに涙が零れた。あれだけ泣いてすっきりしたと思ったのに、俊史に迎えに来てもらえて手を引かれただけで胸がいっぱいになっている。どうしようもない気持ちになっている。これは何だろうと思ってもよく分からない。どうしよう、助けて欲しいと思って、歩遊は耐え切れずに俊史を見上げた。結局駄目だ、俊史を頼らずに一人で何かを成し遂げる事が出来ないと、歩遊は簡単に白旗を揚げる。
  情けない。けれど涙が零れてしまう。
「俊ちゃ……」
「ごめんな」
  けれど歩遊の出しかけた声を止めて俊史が言った。驚いて涙の溜まった目を見開くと、その歩遊に俊史はまた言った。
「ごめんな、歩遊」
「え…?」
「酷い事言ってごめんな。あんな事……言うつもり、なかった。思ってもいない。馬鹿だ……訳分かんないまま頭に血が上った。あの時、お前を傷つけてやりたいって、そればっかり頭ン中ぐるぐるして……お前を痛めつけてやりたい、めちゃくちゃにしてやりたいって、俺は……どうしようも、なかった」
「俊ちゃ……」
「けど、一瞬で後悔した。出来るわけがない……いや、実際傷つけたけど。あんなに泣かしたけど。けど俺は……」
「あ!」
  すかさず頭のてっぺんから包まれるように抱き込まれて歩遊は意表をつかれ、後退した。
「つっ…」
  よろけたせいで傍の木にぶつかり、俊史の体重がかかっていた事とも合わさって、歩遊はそのまま木の根元に背を預けて座りこんだ。
「しゅ…」
  それでも俊史は離れない。先刻よりもよほどきつい拘束で歩遊を抱きしめ、自らの顔が見えないようにしながら「歩遊」とくぐもった声を漏らす。それがあまりに悲痛なもので、歩遊はズキンと胸が痛んで俊史の背中に自らの手を添えた。
「しゅ…俊ちゃん、僕が、謝らなきゃ……」
「……違う」
「ち、違く、ないよ? あの、俊ちゃん……信じてなかった、わけじゃない。本当だよ……で、でも、分からなかったし……あんな事は……。そ、それに、それに僕は……」
「もういい」
「わっ…」
  更に強く押し潰されるように抱きこまれた事で歩遊はぐらりと体勢を崩し、そのまま地面の上に倒れこんだ。
  雨に濡れてぐちゃぐちゃになった土の上でじわりじわりと頭に冷たい感触が襲う。
「あ……」
  それでも上から覆い被さる俊史に見つめられて歩遊の身体は一気に火照った。もう手だけではない、身体全部が熱い。俊史を見ていられない、でも目が離せない――そう思った。
「俊ちゃん……」
「いっぱい……泣いたな」
「え……うん」
  未だ頬に残っていたその涙の跡を辿るようにして、俊史はじっとした視線を落としたままそう言った。改めて言われると恥ずかしい、思わず赤面したが、どうやら大泣きした事を俊史は怒っていないようだ。ぱちぱちと涙を振り落とすように瞬きして、歩遊は俊史をじっと見つめ返した。
「俊ちゃん…もう怒ってない?」
「お前だろ?」
「え?」
「怒るのは、お前の方だろ?」
「僕はっ。僕は、違う! 俊ちゃんが…!」
「ふ……顔、泥ついてる」
「え?」
  突然会話を遮断し、俊史は不意にぐいと指の腹で歩遊の頬を撫でた。もっとも一度地面に手をついた俊史のそれでやられたものだから、余計にそこは汚れた。それが歩遊にも分かり、けれどそのお陰で却って冷静になれた気がして、歩遊はようやく小さく笑えた。
「俊ちゃんも……びしょ濡れだよ」
  ぽたぽたと俊史の前髪から滴る雨の粒が歩遊の顔に当たる。歩遊はそれに僅か目を細めながらそう言った。お互い、元旦から散々だ。ボロボロで寒くて、それなのに熱くて。
  でも、俊史が謝ってくれた。歩遊はやっぱり泣きそうになって、代わりに精一杯目元を緩めた。
「歩遊」
  すると俊史がそっと顔を近づけてきて、歩遊の唇に遠慮がちなキスを落とした。
「ん…」
「…歩遊」
  それは本当に「しても大丈夫だろうか、嫌がられないだろうか?」というような、どこか怯えた一瞬のキスだった。
  でも歩遊は嫌じゃない。ただそこも火が出るように熱くなるのが困るくらいで。
「あの、俊ちゃ……」
「……帰ろうな。ホントに、風邪引いちまう」
  けれど歩遊の途惑いを俊史こそが困ったもののように見て、そして一瞬だけ本当に悲しそうな顔をして。
  俊史は歩遊の腕を引っ張り立ち上がらせると、敢えて顔を背けてぽつりと言った。
「ごめんな」
  それは先ほどの謝罪の続きだったのか、今のキスについてだったのか。
  何だか答えは後者だった気がして、歩遊は精一杯「ううん」と首を振り、掴まれたその手を強く握り返した。



To be continued…




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