―16―



  耀と歩遊の母・佳代の姿を認めた時の俊史の無表情は、歩遊を無駄に怯えさせた。
「スゲー……こえぇ顔!」
  しかしそれは耀も同じだったらしい。ある程度予想していたようだが、突然現れた自分たちを見ても無反応な俊史には戸惑ったのか、耀はいつもの苦笑いを浮かべながら肩を竦めて見せた。
  歩遊はそんな耀に何とも返せなかった。ただひたすら、俊史の感情の見えない顔が怖かった。
「ちょっと俊ちゃん。私に何か言うことはない?」
  しかしそんな中でもやはり母は強し、である。憮然としながら荷物を部屋に運び入れる俊史に呆れた顔をしつつ、佳代は先刻歩遊に見せた「説教前」の姿勢を取ってキンとした声を出した。
「折角のお正月だからと思って、お土産いっぱい持って現れた私にその仏頂面もあれだけど。まずは何か一言あるべきだと思うわけよ」
「何ですか。別に何もないと思いますけど」
  ところが俊史は俊史でしれっとしている。どうやらあの頻繁な電話は佳代からのようだったのに、それを「ことごとく無視」していた人間の言い草とは思えない。歩遊は多少ならずとも驚いて目を見開いた。
  基本的に、というより、普段から俊史と佳代の仲はとても良い。それは息子である歩遊よりも良いと言って差し支えないだろう。元々せっかちで何事もさっさと片を済ませたい佳代は、同じく常に機敏な行動を心がける俊史とは相性の点からいってもばっちりだった。
  いつでも佳代は歩遊よりも俊史を頼りにし、何かというと、「俊ちゃんは凄いわねえ、偉いわねえ」と言って俊史ばかりを誉め倒した。家の事で連絡がある時も、歩遊にではなく俊史へ連絡するなどしょっちゅうだったし、歩遊の目からは、佳代の関心は常に優秀な俊史にだけ向いているように見えた。
  けれどその2人の間に何やら険悪な空気が流れている。ついぞ見た事のないその光景に、歩遊は知らずドキドキと心臓の鼓動を高めた。
「あのねえ、ないわけないでしょ。どうして電話に出なかったの?」
  荷物を置いてからキッチンで手際良くお茶の用意などし始めた俊史は、自分の背後でそう責めたてる佳代をちらとだけ振り返った。
  しかしすぐには何も言おうとしない。
「ちょっと、俊ちゃん?」
「気づきませんでした」
  そうして、佳代が催促するように言った言葉には「仕方ねーな」というような、そんな適当な返答。
  佳代の額にぴしりと怒筋が浮かぶのを歩遊は見逃さなかった。
「はあ、気づかなかった? あんなに何回も掛けたのに?」
「電源消してたんで」
  あくまでも俊史の返事は淡々としている。何だろう何だろう、この雰囲気は。いよいよ落ち着きを失ってきた歩遊に、しかし当の俊史の方は至って冷静だった。少なくとも、歩遊にはそう見えた。
「どうぞ。コーヒー淹れましたよ。おばさんの好きなやつ」
「……こいつ」
  佳代は俊史が差し出したカップと俊史とを交互に見やりながら、ぽつと呟いて鼻を鳴らした。
  それでも俊史は未だすまし顔だ。
  すると、キッチンから少し離れたリビングで2人のそんなやりとりを傍観していた耀が、こそこそと歩遊の肘を突いて「おい」と囁いた。
「瀬能の奴、今、佳代さんのこと“おばさん”って言わなかったか?」
「う、うん…」
「いいのかよ? だって俺には名前で呼べって言ってたぞ? ほら、佳代さんだって、あれ絶対怒ってるし!」
「うん…」
  「うん」しか回答できない歩遊は、しかし耀へ視線を向ける余裕がない。
  ただ、さすがに耀よりも2人との付き合いが長い分、その点には然程の驚きはなかった。
  確かに俊史は歩遊の両親と親しい。昔から絶大な信頼を置かれていて、実際に俊史はそんな佳代たちの期待に見合うだけの働きをしてきた。寂しがり屋で一人での生活がままならない歩遊の面倒を見てきた事は勿論、歩遊自身はあまり詳しくないが、俊史はよく2人の職場へ行っては彼らの仕事を手伝っているらしい。つまりは、公私共に親密な間柄というわけだ。
  けれど、だからかもしれない。俊史は普段は佳代からの要望通り、歩遊の両親を「ミキさん、佳代さん」と名前で呼ぶが、不機嫌だったり何か訴えたかったり、とにかく何らか含むものがある場合、わざと佳代を「おばさん」と呼ぶ事がある。
  だからそれ自体に歩遊は驚かないのだが、しかしつまりは、今の俊史は明らか虫の居所が悪いという事で、歩遊にはそれが心配だった。
  そもそも電話を取らなかったのは何故だ。母と喧嘩でもしているのだろうか?――考えるだに、歩遊の心内は穏やかでいられなくなった。
「おい」
  その時、いつの間に近づいてきていたのか、俊史が歩遊と耀の前にまで来ていて、物凄く据わった目と共にドスの利いた声で言った。
「お前にも淹れてやったぞ」
「えっ!」
  話しかけられたのは耀だ。ついと差し出されたコーヒーの入ったカップと俊史とを交互に見やり、耀は漫画のキャラクターのように目を白黒させて挙動不審になった。俊史がお茶の準備を始めた時、カップがここにいる4人分出されていたので、耀自身「もしや」とは思っていた。が、まさか本人直々、本当に茶を出してもらえるとは、さすがに思ってもみなかったのだ。
「え、えっと〜?」
「いらないのか」
「い、いるいる! サ、サンキューな!」
  むすっとしている俊史から慌ててカップを受け取った耀は、しかし礼は言ったものの「毒とか入ってないだろうな…」という本心は思い切り外に出ていた。
  もっとも俊史の思惑は別のところにあったようだが。
「歩遊。お前のはあっち。あっち行って飲め」
「え? あ、うん…」
「あ、そゆこと……」
  耀が呆れたように出した言葉の意味を、混乱している歩遊だけは分からない。
  何のことはない、俊史は単に肩を並べて立ち尽くしている歩遊たちを引きはがしたかっただけなのだ。歩遊は「椅子が2つしかない」キッチンで。耀はリビングの「そこら辺」で。
  その意図を正確に読み取り、耀はすぐさまひきつった笑いを浮かべたのだが、今はとりあえず言う事を聞こうと思ったのか、大人しくその場に座って恐る恐るカップに口をつけ始めた。
  歩遊はそんな耀をちらと振り返りながら、自分も従順に俊史とキッチンへ移動した。
「私の話はまだ終わってないんだけど?」
  けれど当面の俊史の「敵」は間違いなく、この佳代であろう。
  既に椅子に座ってコーヒーを飲み始めていた彼女は、しかし歩遊と共にその場に戻ってきた俊史を更に剣呑な目で睨み据えた。
「電源切っていたってどういう事よ。毎日連絡しなさいって言ったでしょう」
「連絡忘れたの、昨日だけじゃないですか。今日は掛けるつもりでしたよ」
「どうだか」
  ハンとバカにしたような笑いをもらした佳代に、すると今度は俊史が突っかかった。
「何なんですか?」
  びくりとしたのは、間に挟まれているような格好の歩遊だ。
  無理やり肩を押されてその場に座らされたものの、洒落た小さな丸テーブルを挟んで向かい側に座る佳代と、ぴたりと自分の隣について立っている俊史。この両者が発するただならぬオーラに、如何な鈍感な歩遊とて萎縮しまくりである。昔から、こういった他人の発するマイナスな波動にだけは察知能力が高いのだ。
  けれどそんなびくびくの歩遊に構わず、俊史は毅然としていた。
「何で来てんですか。わざわざ。正月も仕事だって言っていたでしょ」
「心配だから来たの」
「心配? 何がです? 歩遊が? そんなに俺のこと信用出来ないですか」
「出来ない。今は」
「……今は? ははっ…そんなの。昔からでしょ?」
「俊ちゃん、そうやって不貞腐れるのやめなさい。らしくないよ」
「俺は元からこういう性格ですよ! 分かっているでしょう!」
「だったら俊ちゃんだって、私の性格知っているでしょうが!」
「ちょっ……」
  カップに触れかけていた手を震わせて歩遊が声をあげた。やや距離を置いている耀も立ったり座ったりと実に忙しない。果たして自分が間に入って良いものか逡巡しているのだろう。
「な、な、何で? 2人、喧嘩しているの?」
  歩遊はどもりながらもようやく問い質した。この空気に耐えられない。恐らく、というか絶対的に自分がこの2人を言い含めるなど不可能なのだが、それでも沈黙を続ける居た堪れなさよりも声を出す方が数段マシだった。
「お母さん、連絡しなかったことを怒っているの? そ、それなら、それ僕のせいじゃないか。お母さん、僕から連絡しろって言ってたんでしょ?」
「そうよ。言ったわよ。俊ちゃんに伝言したのよ、そういう風に。何であんたは電話1本、メール1通寄越さなかったのよ」
「忘れてたんだよ……」
  これは本当の事だった。
  正直、いちいち「親に連絡する」など、そんな余裕、本当に昨日はただの一秒だってありはしなかった。それどころではなかったのだ。昨日1日だけで一体どれだけの事があったか。俊史の浮気を心配したり、その事で怒鳴られて大泣きしたり。俊史が夜中に急に姿が見えなくなって、その背を追い求めているうちに「俊史が好きだ」と自覚して。
  その気持ちを整理しきれないうちに、風呂場で「あんなこと」もあった。
  その後も、勢い込んで告白までしてしまった。……まあそれは結果空しく、俊史から見事にスル―されて、「なかった事」になっているけれど。
「でも別に……場所が違うだけで、い、いつも僕が俊ちゃんと2人でいるのは同じなんだから。何でそんな、ま、毎日連絡しろとか言うの? お母さん、そんな心配性だった?」
  そんな盛りだくさんの大晦日を反芻した後、歩遊は仕切り直したようにそう訊いた。単純に疑問だったのだ。これまで両親が1週間まるごと家を留守にするなどザラだったし、それこそ、「電話1本、メール1通」寄越す事だって、歩遊の方からしてやっと反応がある程度だ。幾らもう高校生だからと言っても、両親の歩遊に対する放任っぷりは世間一般の常識からいっても、かなり薄情に映った。祖母が亡くなってからの歩遊のフォローは殆ど俊史1人だったし、大人からの干渉と言ったら、俊史の両親や学校の担任教諭の方が余程多かったくらいなのだ。
  とは言え、歩遊は両親を「酷い親」などとは思っていない。もっとたくさん一緒にいられたら良いのにとは思うが、そもそも歩遊はまともな反抗期というやつを迎えた事が一度もない。歩遊は佳代たち両親からそれなりの愛情を感じ取っており、それに感謝して生きてきた。だから彼らに対して全くひねたところがないし、突然だったけれど、こうして佳代だけでも別荘に来てくれた事は本当に嬉しいのだ。
  けれど、こんな風に俊史を責める母なら、それは嫌だ。
「ここは俊ちゃんの叔父さん家だし、そりゃあ汚したりしたら悪いし、使わせてもらうんだから掃除もしなくちゃって思ってたけど。ちゃんとやろうと思っていたし。そんな迷惑かけるような事はしないよ」
「……そんなこっちゃないわよ。あの男はどうせ道楽でまた家族とフランスでしょ?  こんな贅沢空間、好きなように幾らでも使えばいいわ」
「え」
  俊史の両親同様、この別荘を持つ叔父夫婦とも親交のある佳代は全く遠慮というものがない。あっさりとそんな風に切り捨てた彼女は、しかし歩遊が必死に俊史を庇おうとしている事で少し落ち着いたのか、ようやく吊り上がっていた目をすとんと落とした。
「まあ。歩遊がこんなだってことは、特に何も問題はなかったようね」
「え? 何それ…」
「分からないならいいわよ」
  佳代は片手を振ってため息をつくと、何事か物言いたげに俊史を見やった。
  俊史の方は未だ腹に据えかねるように怒った顔をちらつかせていたが、ひたすら歩遊の手元だけ見つめて黙っている。
  歩遊は戸惑いながらも、それで自分もしんとして口を噤んだ。
  佳代が発したところの「何も問題は」と言うのなら、それは「あった」というのが正しい。通常、普通の幼馴染同士が深夜帯の風呂場で「あんなこと」はしないし、あんなに何度もキスしたりしない。そもそも歩遊は俊史を好きだと自覚したのだ。
  何かはあったのだ。確実に。
  しかし、歩遊はその性格が性格だけに、母から「あんた達、まさか2人してエッチな事とかしてないでしょうね?」なんて訊かれない限りは、正確な反応が出来ない。ストレートに尋ねられたら一発でお陀仏だったのは間違いないが、天性の鈍い感覚を持つ歩遊には、佳代のあの程度の問い掛けでは、昨日の自分たちと「何か」を結びつける事は出来ないのだった。
「まあ、いいわ。とりあえず、夕飯は焼き肉ね。で、早速荷物取ってきてくれない。さすがに耀君と2人では全部運びきれなくってさ」
「荷物?」
「お肉」
  きょとんとする歩遊に佳代は何でもない風に答えた。
「ここに来る途中、大型スーパーでしこたま買いこんできたから重くって。お肉、クーラーボックスに入れてあるんだけど、早いとこ運びこまなきゃ。耀君、悪いけど、駐車場までまたひとっ走りお願い」
「あ、勿論! 行きますよ!」
「うう〜ん、イイ返事! 耀君ポイント高いわあ、ホント!」
  元気良く立ち上がった耀にニコニコする佳代。
  今度は俊史の額にぴくりと怒筋が浮かんだのを歩遊は見た。
「……佳代さん。何であいつまで連れてきてんですか」
  そして遂に我慢出来なくなったのだろう、真っ先に訊きたかったであろう事を俊史は口にした。
「え〜?」
  けれど今度は佳代がしれっとする番である。わざと視線を余所へとやりながら、彼女は妙な薄笑いを浮かべながら答えた。
「偶々一回家に寄ったら、耀君が家に来てくれたのよ。何回か家の方に電話もくれていたみたいで、歩遊のこと凄く心配してくれていたから。だから、どうせならみんなで一緒にお正月過ごした方が楽しいでしょって思って。何てったって、耀君は歩遊の大切なお友達なんだから。でしょ? 歩遊?」
「えっ!? う、うん、そりゃあ……もちろん……」
  ちろちろと俊史を見ながら歩遊は遠慮がちに頷いた。実際、佳代が来てくれた事は勿論、耀がここに突然現れた事も、歩遊の気持ちを驚くほど穏やかにしてくれた。素直に嬉しかった。
  俊史のこんな顔を見るのは、これはこれでまたどうして良いか分からないのだけれど。
「それよりほら早く。お肉持ってきてって!」
「おい、行こうぜ瀬能!」
「……煩い、俺に話しかけるな」
「ったく、お前は〜」
  けれど急に素早く身を翻して外の出口へ向かう俊史に、耀は苦笑いしつつも何とも堪えていないように後を追いかける。
「あ、僕も…」
「あんたはいいの」
  けれどそんな俊史たちの後を追おうとした歩遊を佳代が止めた。
「え?」
「おっきい男が2人も行くんだから、荷物運びはいいわよ。あんたはこっちで私の手伝い」
「あ、うん……」
  返事をしながらちろりと扉の方へ視線を向けると、同じようにこちらを見ていた俊史とばっちり目があった。
「あ…」
「あ、おい、だから待てって、瀬能!」
  けれどそれもほんの一瞬で、慌てる耀を置いて俊史は一人さっさと靴を履いて外へ飛び出して行ってしまった。
  自分も一緒に行きたかったと名残惜しそうに見ている歩遊に、すると佳代がわざとらしい咳をした。
「あっ…。何、手伝えばいいの?」
「………」
  けれど焦った風にそう返した歩遊に、佳代は暫し何も言わない。歩遊は途端気づまりを感じて、そわそわと身体を動かした。
  そういえば、母と2人きりになるなどあまりない。これまで面と向かった時にどんな会話をしていたかも思い出せない程だ。
「え、えーっと…。そういえばお母さんたち、車で来たの?」
「そう。明日には帰らなきゃ」
「えっ、そうなの?」
「耀君も部活があるから明日には帰らなくちゃいけないって。結構無理して来てもらったのよ。勿論、耀君自身も行きたいって言ってくれたから連れてきたんだけどね」
「そ、そうなの…?」
  折角来たのに、明日にはもう帰るだなんて。
  少しがっかりした気持ちでいると、佳代が唐突に言った。
「歩遊。あんたも帰る?」
「え?」
「明日。私たちと一緒に帰る?」
「な、何で…?」
  佳代の顔が怖い。別段怒っている風ではないけれど、酷く真面目な顔だ。
  俊史同様、佳代も歩遊をよく叱る方だが、それでもこんな表情はあまり見ない。元々あっけらかんとして明るい人だし、普段息子に何もしていないという負い目もあるのか、佳代は基本的に歩遊に対して寛容な親である。
「ねえ、どうなの。帰る?」
「そ、それは…。俊ちゃんが、帰るって言うなら帰るけど」
「俊ちゃんが言ったら? じゃあ俊ちゃんが帰らないって言ったら? あんたは残るの?」
「う、うん…?」
  どうしてそんな当たり前の事を訊くのだろう。母の意図がいまいち分からず、歩遊は首をかしげた。
「歩遊、あんたね。前から思っていたけどもさ!」
  ぐびりと残りのコーヒーを全て煽ってから、佳代はガチャンとそのカップを皿に戻して声を荒げた。
「いつもいつも、俊ちゃんが言ったらこれする、俊ちゃんが言ったからこれしたって、あんたはいつでも俊ちゃんの言いなりよね。じゃあ俊ちゃんが死ねって言ったら死ぬの?」
「な、何それ…? その例えっておかしいよ…?」
「じゃあ死なない?」
「死なないよっ。当たり前じゃん!」
  まさに昨日も俊史からは「いっぺん死ね!」と言われたばかりだが、悲しい気持ちはしても、実際に「じゃあ死にます」などとは微塵も思わない。当然だ、歩遊にだって意思はある。何でもかんでも俊史の言いなりではない。……と、歩遊自身はそう思う。
  けれど母はイライラしたように急に早口になった。
「耀君から聞いたけど、俊ちゃんって、あんたと耀君が仲良く遊ぼうとすると怒るんだって?」
「え……」
「別にね、耀君は私に俊ちゃんの悪口を言ったわけじゃないわよ? そりゃあ控えめな感じに教えてくれたわけよ。あの子、ホントいい子だわ。耀君はね、単に本当のことを話してくれただけよ。事実をさ」
「事実……」
「だって事実なんでしょ? 俊ちゃんはあんたの交友関係にまで口を出すんだ?」
「そ、それは……」
「それは、何よ?」
  フンと鼻を鳴らした佳代は、そうは言ったものの別段その先を歩遊に促すつもりはないのか、自分がさっさと言葉を継いだ。
「歩遊。あんたが俊ちゃんを好きなように、私だって俊ちゃんが大好きよ。生まれた時から見てきたし、あんたを想うのとおんなじように、自分の本当の子どもみたいに思ってるわ。頭もいいし、仕事も出来る、気が利く本当にいい男になったよね。ちょっと不器用なところもあるけど、まあそれも愛嬌だわ」
「ぶ、不器用? 俊ちゃんが? どこが?」
「……分かんないなら、あんたは俊ちゃんをちゃんと見てないのよ」
「え」
  母の突き刺さるような言葉に歩遊の息は一瞬止まった。
  けれど気の強いこの人はある意味俊史同様、容赦というものがなかった。
「歩遊は俊ちゃんのことが分かってない。俊ちゃんもまあ……勝手なところは多々あるけど、あんたはあんたで、もっとしっかりしなさい」
「そ、そんなの…」
  気弱な歩遊だが、珍しくこれには鼻白んだ。
  確かに「しっかりしていない」と言われればそれはそうだと認めるよりないが、「俊史を見ていない」と言われることは歩遊にしてみれば心外だ。何故って、多くの迷惑を掛けてきた自覚こそあれ、同時に、歩遊はいつだって俊史中心に生きてきたし、俊史を気遣い、俊史を思いやってきた自負がある。勿論、それは強制されてやっていた事ではなく、俊史が好きだから自然と言動に表れていたとも言える。追従していた事とて、母が言うように「何でも出来る凄い俊ちゃん」に憧れの気持ちが強かったからだ。
  歩遊はいつだって俊史の背中を追って過ごしてきた。ずっと俊史を見てきたのに。
  どうして「分かっていない」などと言うのだろう。
「お、お母さんより、僕の方が俊ちゃんを知ってるよ」
「それはないね。絶対」
「な! 何でそんな言い切れるの!?」
「それが事実だからよ。言ってみたら歩遊、あんたは耀君にだって負けてるね。耀君の方がよっぽど俊ちゃんって男を知ってるよ。いや、耀君だけじゃない。きっと俊ちゃんを知る人間全員に歩遊は勝てないね。歩遊がビリ! ダントツビリよ! 一番分かってない!」
「酷いよそれはっ!」
「煩い!」
「うっ!?」
  突然鼻先をぐにと指先で潰されて歩遊は思わず声を詰まらせた。
「ちょっ…何…!」
  それでもすぐさまその指を振り払おうと歩遊は懸命に顔を動かした……が、母はまるで中国拳法の達人のように、指先一つでつんつんと歩遊を素早く突つきまくった。
  そしてそれを一向に止めようとしない。
「も…やめ…」
「あはは、ちょろいちょろい」
  それがあまりにしつこく、しかも不敵な佳代がまた呑気にけらけらと笑うものだから、さすがの歩遊もいよいよ頭が沸騰した。親に対してどうなのかとも思うが、まるで煩い蠅を追い払いたいのにそれが全く叶わない気分だ。
  遂に我慢が出来なくなり、歩遊は乱暴に椅子を蹴って立ち上がると荒っぽい怒鳴り声を上げた。
「もう! 何なんだよ、お母さんはっ!」
「あら」
「何でこんな事するんだよ! やめてよ!」
「へーえ?」
 ただし、歩遊の怒鳴り声などたかが知れている。やはりというかで、相手には何の効力もなかったようだ。
 ただ、立ち上がった事で距離は取れた。ようやく「突っつき攻撃」から解放されて歩遊はふうと息を吐いた。
「歩遊」
  けれど佳代がここで改まった静かな声で言った。
「あんたでも文句言う事あるのね。でも、俊ちゃんにもそういう態度取れるの?」
「はっ!? い、今……、俊ちゃんの事は関係な――」
「あるわよ、すっごいある。いつでも俊ちゃんは関係大ありよ」
  すると佳代もまた急に眉を吊り上げると対抗するように立ち上がり、これが何度目か、ひとさし指を差し向けて歩遊の胸先を突ついた。
「言っておくけどね、歩遊。高校卒業したら、進路は別々だからね。あんた達、ちょっとは離れた方がいいわ」
「……え?」
  突然そんな事を言いだした母に歩遊はぴたりと動きを止めて目を見開いた。
「な、何急に…」
「これは決定事項だから」
  けれども佳代はそれだけ言うと再び椅子に腰を落ち着け、ついとそっぽを向いてしまった。それはまるで「もうこの話はこれでおしまい」とでも言うような、目の前でぴしゃりと扉を閉めるような態度だった。
  それで歩遊もそんな母に対し、すぐには何も言い返す事が出来なかった。



To be continued…




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