―19―



  歩遊は俊史にはっきりと「ここに残りたい」、「俊史と一緒にいたい」という意思表示が出来たことで激しく自己満足し、終始ニコニコしていた。久しぶりに味わえた「達成感」というやつだ。
  また、そうやって歩遊が機嫌良くしていれば俊史とて嫌な顔をする理由はないから、自然柔らかな態度になる。佳代たちを送った道すがら、俊史がさり気なく握ってきた手を歩遊が振り解かず、むしろ嬉しそうにしたことも多大な影響を及ぼしたようだ。俊史は別荘に帰った後も歩遊に買ってやったデザートを食べさせたり、傍にいて勉強を見てやったりと、それはそれは優しく振る舞った。そしてこれにまた歩遊が有頂天になるものだから、一見すれば何の問題もない、どこからどう見ても「バカップル」な2人に見えた。
  しかし、昼食も3時のおやつも過ぎて、勉強を続けるのにもさすがに疲れが出始める夕刻あたり。
  俊史の様子が段々とおかしくなっていった。

(何だろう…この沈黙……)

  歩遊は問題集を解くフリをしながら、ちらりと隣の俊史を盗み見た。
  ついさっきまでは熱心に勉強していたようなのに、どうしたことか俊史の手は突然動かなくなった。
  手元には書きかけのノートがあるし、手にはシャーペンが握られている。歩遊が使っている物とは数段レベル違いの憧れの問題集も開いたままだ。
  けれど俊史は金縛りにでもあったかのようにぴたりと止まったまま、どこでもないどこかを見つめて微動だにしない。はっきり言って不気味である。
「俊、ちゃん?」
  ただならぬその様子に耐えかね、歩遊は思い切って声を掛けた。
「どうしたの…?」
  普段は勉強中に話しかけるなとか集中しろとか怒られるから黙っているのだが、さすがにこの態度は異常としか思えなかった。それに、ほんのついさっきまではいつも通りだったのだから、具合でも悪いのか、或いはまた自分が何かやらかしたのかと、歩遊は気が気でなかった。
「あの、お腹でも痛いの?」
「………えっ……?」
  すると俊史は問いかけのあった五秒ほど後にふと顔を上げ、半ばぽかんとした様子で歩遊の顔を見やった。まるで本当にどこか違う世界へ行っていたかのようだ。
  そんな俊史に歩遊はますます戸惑った。
「いや…その、何か……具合、悪いの?」
「は……? 何で……」
「だって全然手が動いてなかったし。ぼうっとしていたから」
「ぼ……ぼーっとなんてしてねーよっ。お前こそ、ちゃんとやれ!」
「ごっ、うん!」
  いつもぼうっとしている歩遊から「ぼうっとしている」などと言われて屈辱だったのろう。むっとし、すぐに気を取り直した俊史は忽ち通常のお怒りモードで歩遊の問題集を取り上げ、即間違いを見つけると「ここ、ちゃんとやれてないぞ!」と叱ってきた。
「解き直す!」
  全くやぶへびである。
  歩遊は返してもらった問題集にかぶりつくように向き合い、シャーペンを握った。
  ……が、しかし。

(ま、また……)

  暫くすると俊史の手は再びぴたりと止まった。目も虚ろだ。
「……っ」
  さながら地蔵のようなその様子はやはり異様で、歩遊はそれを見て完全に勉強する気を失くしてしまった。
「俊ちゃん、休憩しようよ!」
「………は? ………んだよ」
  俊史はそれでまたハッと我に返って不快な顔を見せたのだが、人を叱っておいて自分こそ何もしていない事は承知しているのか、決まり悪そうに呟くと、遂にシャーペンを放り投げてゴロンとその場に横たわった。
「何か飲む? 持ってこようか?」
  黙ったまま目を瞑ってしまった俊史に歩遊はそう言った。おやつの時は自分が用意してもらったのだから、今度は自分の番だと思った。
「要らない」
  しかし無碍もない返事だけがくる。歩遊はぐっと黙りこくった。

  シン――…、と。

  何の音も聞こえないだだっ広い部屋の中で、2人は暫く何も喋らなかった。
「……………」
  しかしその時間、歩遊は眠ったかのような俊史の端正な顔を見つめながら、次第に胸をどきどきと高鳴らせて、俊史が或いは体調を悪くしているかもしれないのに、(今なら、また好きだと言えるかな?)と考えた。
  周りには誰もいない。
  騒音もなく、至って静かである。
  冗談を言う雰囲気でもない。
  俊史には悪いが、告白するのにこれ以上の好条件はないように思われた。
「よ、よし…!」
「何が『よし』だ?」
「え!?」
  しかし思わず入れたその気合に、俊史がすぐさまツッコミを入れてきた。眠ったかのように静かだったから思い切り意表を突かれて、歩遊は驚きと恥ずかしさとでカーッと赤面した。
「な、何でも……別にっ!」
「別にって事はないだろ。……何か言いたい事でもあるのか」
「う……えっと……その」
「……うぜーな! 言いたい事あるならはっきり言えっていつも言っているだろう!」
「し! 進路の!」
  俊史のイラついたような声と顔に、歩遊は咄嗟にそう口走った。
  とてもじゃないが、こんな状態ではやはり言えない。告白はお流れだ。
「進路の……そう、進路の話をさ……」
「はぁ…?」
  そして飛び出た新たな話題がそれだった。
  それは口からでまかせというよりは、きちんと処理すべき事項として気持ちの前面にあったものだったから、歩遊も急いでそちらに話を切り替えられた。
「そ、その……、そう、お母さんに言われたことなんだけどっ。進路のこと、もうちょっとちゃんと俊ちゃんとも話しておこうと思って」
「……ああ、そういえば、話聞くの忘れてた」
  後で佳代との会話を教えろと言っていた俊史だが、歩遊にこうして持ち出されるまでこの件に関してはすっぱりと忘れていたらしい。思い出したような顔をしながら、それでも気になっていた事には間違いないのか、俊史はむくりと起き上がると真面目な顔で歩遊に対した。
「佳代さん、何だって」
「うん、進路どうするのかって訊かれたからさ。僕が行きたいと思っている学部の話をしたら、それなら、そういう研究をやっている大学をちゃんと探さないと駄目なんじゃないかって」
「お前、ちゃんと探したろ。二、三候補も出てるし……、それだけじゃまだ足りないって?」
「い、いや、そんな事は言ってないけど…。その、つまり、そういう勉強が出来る所を受けるんなら、必然的に俊ちゃんと全部おんなじ大学を受ける事にはならないんじゃないか、みたいな話…」
「……何だよ、それ」
  俊史のくぐもった声が怒っているように聞こえて歩遊は焦った。
「いやっ! つまり、僕は文系で俊ちゃんは理系でしょ? そ、それで、僕も、文系理系ある大学でお互いの受けたい学部がある所なんていっぱいあるって話したんだけど、やりたい専門のある大学は限られているんだから、全部を一緒にするのはどっちかが妥協する事になるんじゃないかって」
「……………」
「その……その、特に俊ちゃんが妥協しちゃったら困るって心配をしているんだと思う! お母さんは!」
  母を庇う為に歩遊はそこをわざと強調して言ったが、逆に俊史は不服そうに顔を上げた。
「妥協?」
  全く意味が分からないという顔だ。それから俊史は意味もなくホットカーペットの毛をぶちりと毟った。歩遊はその暴挙に「あっ」と思ったが、非難する声は上がらなかった。
「俺は妥協なんてしてない」
  やがて俊史はそう言った。
「お前に妥協させる気もない。目標は高い方がいいと思ったから、多少志望リストの中にお前のやりたい専攻がない大学も入れさせたけど、受験の時にお前が受けたくない大学だって言うなら、別に受けなくていい。あれは、単に今度の模試で書くところって意味で名前出しただけだ」
「う、うん。そうだよね。でも」
「何なんだ? 佳代さんの話ってそれだけか? つまりあの人は、俺とお前が同じ大学を受ける事に反対だって言いたいのか?」
「そ、そういうわけじゃないよ! その、一緒の大学に行くことで、どっちかが我慢するようなのは駄目ってだけで――」
「だから、俺は我慢なんかしてないし、お前にもさせない」
「うん……でも」
「まだ何かあるのかよ!」
  俊史は不機嫌全開だったが、歩遊はこの際だと思い、ここへ来る前からの懸念も口にする事にした。
「あ、あのさ…。俊ちゃんは、年明けの会長選挙で生徒会長になるんでしょ?」
「は……? ……何だそれ。そんな話、俺は知らない」
「でも」
「戸部が言ったのか。……全く、余計な事しか言わないな、あのバカ」
「そ、そんなこと…! そ、それで、もし生徒会長になれたら、きっと良い大学の指定校推薦だって取れるし、そしたら俊ちゃんは受験しなくてもいいのに、も、もし僕のせいで推薦を蹴るんなら――」
「何で指定校の方がいいみたいな話になるんだ。一般受験した方が好きな大学を好きなだけ受けられるんだから、そっちの方がいいに決まっているだろ。推薦なんていちいち取らなくても、俺は普通に受験して、どこでも好きな大学へ行けるんだ。それくらいの実力はある」
「そ、そうだよね。そう思う。でも」
「でも、何だ!」
  歩遊は俊史の怒鳴り声には慣れているが、だからと言ってそれが好きというわけでは勿論ない。
  だから今もいつもの如く怒られて萎縮したのだが、それでも自分の中にある至極もっともな疑問を押し隠す事は出来なかった。
「でも、もし俊ちゃんの行きたい大学が指定校推薦枠にあるなら、わざわざ2月まで延ばす必要ないじゃん…。うち、結構いろんな所の推薦来ているって言うし。受験勉強しなくていいんだよ? その分、俊ちゃんが1番したい勉強をたくさんした方が有意義だと思う」
  歩遊は多くの同級生が文句を言うように、受験勉強の中身が「全て無駄」だとは捉えていない。時々は「こんなにたくさん無理やり暗記して何になるんだろう」とも思うが、図書室で俊史を待つ日々で勉強の習慣を身に着け、知識を増やす喜びや達成感を味わう事が出来た。だから受験勉強も全くの苦痛ではない。まさに受験生の鑑といったところだが、だからと言って、既に自分たち一般生徒よりも遥か頭上に君臨する俊史が、わざわざ同じスタートラインに立って受験する必要はないように思われた。
「俊ちゃんはさ……将来、何になりたいの?」
「……何だよ、急に」
  ぼそりと返しながら俊史が上目使いで見やってきた。怒りは収まっているようだ。
  歩遊は安心して訊ねた。
「あんまり…そういうの、聞いたことなかったし。僕、いつも自分のことばかりでさ。俊ちゃんは僕のことを何でも知っているのに、僕は俊ちゃんのことを全然分かってないから」
「……分かりたいのか、お前」
「え…?」
  真剣なその口調に歩遊が動きを止めると、俊史はまくしたてるように続けた。
「俺のこと。分かりたいのかよ?」
「そ、そりゃあ……そうだよ」

  だって好きなのだから。当たり前だ。

  しかし俊史の方は歩遊のその解答に如何にも納得していないという風だった。
「俺の、将来の夢? それ、お前に何か関係あるのか?」
「関……俊ちゃん…?」
「知ってどうするんだ? 『へえ、そうなんだ、やっぱり俊ちゃんは凄いね』とか何とか。歯の浮くような世辞言って、俺を煽てて。……どうせ、それで終わりだろ」
「お、お世辞とか! 煽てるとか、な、何それ? そ、そんなこと、そんな風に思ってないよ!」
「……どうだか」
  嘲るように笑って視線を逸らす俊史に、歩遊はざっと蒼褪めて無意識に腰を浮かした。
  そして傍にいる俊史の肩先に触れかけて、何故かそれを躊躇い、手を止めた。
  するとそんな歩遊に俊史が鋭い眼差しで険のある声を上げた。
「将来の夢? そんなもの、ない」
  何も言えずにいる歩遊に俊史は構わず続けた。
「俺には、お前みたいに音楽とか動物とか、そんな好きなものもないし、やりたい仕事も別にない。昔からそうだ、何をしていてもすぐに飽きるんだ。面白くない。全部下らなくて、全部どうでも良くて、俺はいつでも……どうでも、良かった」
「そ、そんな……」
  歩遊がボー然としつつ何気なくそう呟くと、俊史はそれに過敏に反応した。
「何が『そんな』だ。がっかりか? お前が思っていたような“完璧な奴”じゃなくて失望した? ははっ…。俺は元からこういう奴だよ、知りたかったんだろ? 俺には何もない。行きたい大学? どうでもいいんだよ、そんなもん。理系? 誰が決めたんだ、そんなこと。俺は理系でも文系でもどっちでもいい。何だって良かった。そう思っていたら、担任や周りが勝手に理系だって決めつけて、何となくそうなった、それだけだ。だから、だから俺は、受ける所もお前と同――」
「………?」
  言いかけた言葉を俊史がぴたりと止めた事で、歩遊は眉をひそめながら微かに首をかしげた。
  けれどどうしたのかと問いかけようとした瞬間、ぐっと肩を掴まれ唇を塞がれた。
「んっ…」
  それは突然ぶつけてきたような酷く粗末な口づけだったが、角度を変えては何度も繰り返されるそれに、歩遊は驚きつつも殆ど抵抗の意を示せなかった。
「ん…ん……」
  ただ、不意打ちで戸惑いはあったが、嫌ではなかった。
  俊史の腕をがつんと掴んだのも咄嗟にそうしただけで、逆らうつもりがあったわけではない。だからただ唇を押し潰すだけの連続したキスに慣れた頃、歩遊は俊史からのそれをもっと従順に受け入れるつもりでゆっくりと唇を開いた。
「………っ」
  けれどその瞬間、口づけは止んだ。
  歩遊がそれに何故と思いながら目を開くと、目前の俊史はこれ以上ないほど苛立った顔をしていて、その様子のまま歩遊の身体を突き飛ばした。
「いっ…」
「くそっ!」
  そして俊史は激しく舌を打つと、痛みで顔を歪める歩遊に飛びかかり、両手を突き出して胸倉を掴んだ。今にも殴りかかりそうな勢いだった。本来ならふわふわとした歩遊のセーターが無理に捻じり上げられたせいで不自然な形になる。そうされた歩遊もあまりのことにボー然とし、押し倒された時の痛みを一瞬で忘れた。
「思わせぶりな態度取るんじゃねえよ!」
  しかし興奮気味の俊史はそんな歩遊をただ睨みつけた。普段は整った綺麗な顔が悔しそうに歪んでいる。歩遊はそんな俊史をまじまじと見つめた。
「そんな…そんなだから、お前はっ!」
「俊ちゃ…」
「煩い! お前はこんな風にキスさせて……いつでも俺の言うなりのくせに、いざって時になると拒否って………だったら、最初から言えばいいんだ! 嫌なら嫌って言えよ!」
「い、嫌じゃ……」
  キスは嫌じゃない。俊史とのキスは好きだ。歩遊は咄嗟にそう思った。
  こうして俊史から何度となくキスされるようになってから、それを「おかしなこと」、「普通の幼馴染同士ならしないこと」と、心のどこかで認識はしていた。けれど、歩遊はそれを俊史にどうしてと訊ねたりはせず、いつでもされるがままだった。それ以上に事が進むと、例えばクリスマスの夜の時などは怖くてどうしたら良いか分からず混乱もしたが、あれだって困って怯えていたら俊史の方から止めてくれた。
  そう、歩遊は「俊史には戸部がいるのに」と不安になっても、あの大晦日の夜以外まともに拒絶したことなどない。特にキスは本当に大好きだと、とっくに知っていた。気持ちに気づいたのは最近でも、俊史からのキスが堪らなく幸せになれるものだと身体はとうに知っていたのだ。そもそもあの大晦日の時とて、歩遊は嫌だから逆らったわけではない、ぎりぎりのところで良心が痛んだだけだ。戸部と付き合っている俊史に不実な真似はさせられないから。歩遊にとって俊史は完璧な存在。母の佳代がどう言おうと、俊史本人が自分をどう否定しようとも、歩遊の中ではそうなのだ。だから長年培ってきたその憧憬の念が俊史の身体を押しのけた。ただそれだけ。
  でも今は、それら全ての感情が吹き飛んでしまうくらいに。

「俊ちゃんが好きだ」

  怒りの色を向ける相手に、歩遊は泣きそうな顔でそう告げた。
「俊ちゃんのことが好きだから、俊ちゃんからキ……キスしてもらって、嫌なわけ、ないよ。ぼ、僕は、ぼぼ僕は、僕は、俊ちゃんが好き。好き、だから」
「……………お前のそれは……それは、違う……」
  すると俊史は暫しの沈黙の後、酷く掠れた声でそう言った。歩遊がそう言われた事に眉をひそめると、俊史は更に自分こそが険しい表情を作って、歩遊の胸倉を掴んでいた手を乱暴に放した。
「いっ…」
  それがあまりに急で荒っぽいものだったせいで、歩遊はまた床にしこたま頭をぶつけた。運の悪いことに、それは一昨日たんこぶが出来た箇所だったから、カーペットの上とはいえ鈍い痛みが走った。
「そう言ったって、どうせお前は……」
  けれどこの時の俊史はあの時のように「大丈夫か」と歩遊を心配する言葉を掛けてはくれなかった。
「お前はどうせ……。お前が俺を好きなんてことは分かってる。昔からそうだもんな、お前はいつだって俺の後ろをくっついて歩いて…お前には俺しかいなかったから。俺がそうしたから。だからお前は俺を……俺を好きになるしかない…。それしか選択肢がないから」
「何……? 分か、分かんないよ、俊ちゃん…。僕、本当に俊ちゃんのことが……」
「煩い!」
  パニックになりかけながら歩遊が必死に俊史の言葉を追おうとすると、俊史は一括してそれを制した。
「そん……そんなわけ、ないんだよッ! お前が俺を好きなのは……ただの幼馴染としてだろッ!」
「違うよ! だって僕、思ったんだ! 僕、俊ちゃんのこと――」
「煩い! 信、信じられないんだよ、お前が何を言おうと!」
「そっ…」
「分かってないんだよ、お前は! お前は……俺を、分かってない…!」
  悲鳴のようにそう叫ぶ俊史に歩遊は唖然としてしまった。
  どうして。きちんと言ったのに。誠心誠意、心から告白したつもりだったのに、どうして伝わらないのだろう。歩遊はほとんど固まった体勢のまま目を大きく見開いて、自分よりも余程狼狽している俊史を見つめた。
  俊史は、「お前は俺を分かっていない」と言う。それはそうかもしれないと歩遊も思う。
  けれど、だったらこれから分かればいいだけの話だし、その事と俊史が歩遊の気持ちを信じられず、ここまで激しく拒絶する理由は分からない。何も結びつかない。
  俊史が何に対して激昂しているのか分からない。
  分からない。
「……あっ」
  しかし歩遊が困惑したまま、なまじ泣きそうな顔で俊史を見つめ続けたせいだろう。
  俊史は自分こそが居た堪れないという風に突然立ち上がり、そのまま外へ飛び出して行ってしまった。
「俊ちゃん!?」
  しかし歩遊もそれに仰天はしたものの、反射的に飛び上がって自分も慌てて玄関を出た。今ここで独りにされたくはない。一昨日の夜も取り残されて本当に惨めな気持ちになった。でもあの夜と今とでは明らかに違う、俊史を拒絶などしていないし、「好きだ」とまで言ったのだ。告白したのだ。
  それなのに、俊史を怒らせたまま離れていたくなんてない。
「俊ちゃん、待ってよ!」
  すぐに身体が反応したお陰で、歩遊は石階段から逸れて横合いに広がる森の中へ走って行く俊史の後ろ姿をすぐに発見する事が出来た。自分も慌ててその茂みへと身を投じる。冬だから然程深い茂みではないが、それでも木々の乱立するそこは、子ども時代ならば良い探検やかくれんぼの遊び場にもなっただろうが、今は視界不明瞭で追走するのには厄介な地形だ。
「俊ちゃん!」
  歩遊はまた叫んだ。そして、ほんのついさっきまでの幸せな時間が次々と頭に浮かび、胸がツキンと痛んだ。
  キスされて告白するまでは、あんなに優しかったのに。手だって繋いで歩いた。俊史はおやつをくれて、勉強も見てくれて。
  それなのに。
「俊ちゃっ、ハッ、ハアッ……ま、待っ……!」
「……ッ! ついてくんな!」
  俊史が初めて振り返り、後を追ってくる歩遊へ向けて怒鳴り声を上げた。まさか歩遊が追いかけてくるとは思わなかったのか、その姿を認めて一瞬大きく目を見開きもして。
「嫌だよ! ど、どこ、行くのっ!」
「どこだっていいだろうが! ついてくるなっ!」
「嫌だぁっ!」
「こっ……こんの、バカッ!」
  俊史は思い切りそう叫んだ歩遊に明らか戸惑った顔を見せたが、自分もますます興奮気味に声を荒げて、更に駆け足で歩遊を撒こうとした。森は案外奥行があり、その殆どが細い若木ではあるものの、要所要所に太い幹のあるものもあって、2人の身体を交互に隠す。
「待って、待ってよ、俊ちゃん!」
  そうなると歩遊はますます不安になって、情けない声を上げた。
  昔もよくこんな事があったなと思う。
「好きなんだよ、俊ちゃん…!」
  反応も遅い、足も遅い。何につけてもトロイ歩遊は、いつでも遊びの仲間たちからはじかれた。俊史も大勢といる時はあからさま歩遊を邪険にし、わざと速く走って何度もその姿を晦ませた。
  歩遊はその度、必死になって俊史の後を追った。俊史を探した。
  選択肢がない。確かにそうかもしれない。歩遊には俊史しかいなかった。俊史に見捨てられたら友だちと呼べる仲間は誰もいない。俊史という命綱が切れたら歩遊は孤独になる。それは嫌だった。
  けれど。
「確かに……確かに、はあっ…俊ちゃんの後ばっかりついて歩いて……そればっかりで…。ハッ…でもそれは僕が、情けない、奴だったから…! 俊……僕は、俊ちゃん、に迷惑、かけて…。僕のせ、せいで……ハア…ッ」
  走りながら歩遊はぶつぶつと言葉を紡いだ。恐らく前方の俊史の所にまで声は届いていないだろう。
  それでも言わずにはおれなかった。
「僕のせいで、俊ちゃんは、きっと遊びたい時に自由に遊べなかった…! 足、引っ張ってた……。俊ちゃんは、何だ、かんだで、最後には、僕を……ハア……あの、あの時だって……ぐっ!」
  喋りながら走るせいで余計に息が苦しくなる。素早い俊史の姿を見失わないようにするのでも大変なのに、無理に声を出していたせいで歩遊は身体の均衡を崩し、そのまま太い幹の根に足を取られて転倒した。
  受け身も取りきれないまま顔面から転んだものだから、かなり派手な音が辺りに響いた。
「歩遊!?」
  それに俊史が気づいて足を止め、振り返った。倒れた歩遊にそれは見えていなかったが。
「お………一昨日……」
  その歩遊は転んだ状態のまま対面する形となった地面の土を右手でぎゅっと握りこみ、尚、絞り出すように続けた。
「海岸で俊ちゃんが……僕を探してくれているのを見た時、思ったんだ…。俊ちゃんは怒っても、最後にはいつも絶対迎えに来てくれる…。昔から。僕が疲れて追いかけるのをやめても、それでも俊ちゃんは、最後には絶対傍に来てくれる…」
  磯城山のあの大好きな木の傍で眠りこけてしまうと、目覚めた時にはいつも俊史がいて、「こんな所で寝るな」と怒りながらも、帰るぞと手を差し出してきた。歩遊はそれに安心して、やっぱり俊史は優しいと思った。
「そういうの……やっぱり、俊ちゃんにばっかり頼ってるし、甘えている……分かっているけど。でもあの時、僕はもう俊ちゃんから離れるのは無理だって思った。迷惑だって分かっていても、困らせてばっかりでも、でも好きなんだ。俊ちゃんが好きだ。だから…だから、ごめん。でも……」
  ふと気配を感じてそっと顔を上げると、俊史の靴先が見えた。
  徐々にもっと視界を上へ向けると、今度は俊史が立ち尽くしているのがはっきりと視界に映った。
  歩遊はそれに自嘲するようなどこか悲嘆するような笑みを浮かべながらも、ぐっと土を握りしめながらきっぱりと告げた。
「好きだよ。僕は、俊ちゃんが好きだ」
「………お前を」
  すると俊史が恐ろしく低い声で言った。
「俺はお前を自分の好きにすることしか考えてない」
「俊ちゃん……?」
  のそりと上体を起こす歩遊の前に、俊史もゆっくりと屈みこんだ。手を差し出し、歩遊を助け起こして服についた泥を払いながら、しかし俊史は尚暗い表情のまま続けた。
「最低だ。早く気づいてお前が言えと命令したのは俺なのに、俺はお前の言葉を信用しきれない…。当たり前だ……全部俺が蒔いた種だから。俺がお前をそういう風に仕向けた……いざこうなってみると、そうとしか思えない。……自分で自分のしたことに首を締められるなんて、本当に笑っちまう」
「俊ちゃん…? 何言っているの? ぼ、僕、好きって、言ってる!」
「分かってる」
  悲壮な顔で自分の手をぎゅっと握りしめてきた歩遊に、俊史はふっと苦笑して頷いた。
  けれど歩遊は俊史が本当に分かっていると思えない。訳の分からない事を呟かれて、ここまで告白したのに、未だ「返事」もくれようとしない。
  歩遊は焦れたように半ば身体を乗り出しながら言った。
「じゃあ俊ちゃんは? その、俊ちゃんは……僕のことを……」
「…………」
「だ、駄目なら駄目だってはっきり言って欲しいし! 僕は戸部君のこと知っているのに、構わないで自分の勝手した。そういうの、むかつくって言うなら怒って欲しいし!」
「歩遊」
  戸部の名前が歩遊の口から出たせいだろうか、俊史はさっと眉をひそめて握られた手を自分も片方の手で覆い被せるようにきゅっとすると、窘めるような口調を発した。
「歩遊。俺が好きか? 本当に?」
「好…好きだよっ。僕は、好き! 俊ちゃんが!」
「…………」
「本当だよ! 嘘ついてない! 僕は、本気で――」
  言いかけたとことに俊史の顔が近づいてきて、歩遊は咄嗟に黙りこんだ。
「んっ……」
  キスしてもらえると分かった。実際俊史の寄せられた唇はすぐに優しく歩遊のそれにやってきて、最初は遠慮がちに、やがて徐々に深くなりながら何度となく行われた。
  その間、俊史は片方の手こそ歩遊の頬へと移したが、もう片方は依然として互いに握りあったままにしていた。
「ふ、ん、ん……」
  だから歩遊もその手をぎゅうときつく握りしめながら、でも今度こそ決して逆らっている風に思われないようにと従順に、むしろもっととねだるように俊史の唇と自身のそれを重ね合わせた。
「……はぁっ」
  それでもあまりに長いその口づけに、やっと唇が離された時には瞳も潤んでいたし、苦しそうな息も零れ落ちてしまった。歩遊はそれをしまったと思ったが、「嫌じゃない」という意思を示す為に俊史をじっと見つめて決して視線を逸らさなかった。
「歩遊」
  すると俊史がそんな歩遊の髪の毛をそっと撫でながら名前を呼び、もう一度軽い口づけをしてから言った。
「俺が好きか?」
「うん」
  歩遊はすぐに頷いた。俊史がそれに反応してきゅっと再び手を握り直してくれたのが分かったので、歩遊もまた応えるようにその手に力を込めた。
「歩遊」
  すると俊史は目元を微かに赤らめながら聞こえるかどうか位の小さなかすれ声で、けれど厳とした雰囲気を発しながら言った。
「なら……大人しくしてろ。今から俺のすることに絶対逆らうな。いいな」
  それは弱々しくもあったが、いつもの命令調でもあった。
「……? うん」
  それが何か分からずに歩遊は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに返事をした。命令調と言っても俊史の力ないその様子が却って心配なくらいだったし、それをどうにかしたくて必死だった。
  だから俊史が歩遊の相槌へ褒美のようなキスをくれた時は、そうしてもらえた事がただただ嬉しくて、小さくニコリと微笑んだ。



To be continued…




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