―22―



  翌日の歩遊の体調は最悪だった。
「気持ち悪い……」
  身体中がぎしぎしと痛んでいる事は勿論、お腹は痛いし頭は痛いし、吐き気はするし。
  おまけにぞくぞくとした寒気までくるものだから、「最悪」以外に言葉が見つからない。ゼエゼエと息を吐き、歩遊は自分が一体どのくらいそうしているのかも分からないまま、ひたすらベッドの住人と化していた。
  俊史は食事や着替えを運ぶ為に時折顔を出したが、それ以外は基本的に階下にいて、何をやっているのか、歩遊に話しかけてくる事は殆どなかった。
「気持ち悪いよ……」
  体調が下降している時というのは、兎角心細くなりがちである。
  歩遊もその例にもれず、一人でいるのは辛いし不安だし、俊史には傍にいてもらいたいと思っていた。――…が、もしもすっかり遅れたであろう受験勉強でもしているようなら邪魔をしては悪いし、そもそも聞き分けのなかった昨夜を振り返るに、俊史は怒っているかもしれない思うと、なかなか「一緒にいて」とは言えず、歩遊は独り空しく喘ぎ続ける他なかった。
  昨夜は何度となく抱かれて、しかも歩遊は俊史からしつこいくらいにある言葉を口にするよう強要された。
  ある言葉。つまりは、歩遊の俊史に対する気持ちのことだ。
  もう俊ちゃんを好きとは言わない――。そう告げた歩遊に悪鬼の如く怒り狂った俊史は、まるで暴力のようなセックスを強いてきて、ひたすら「お前は俺のものなんだ」と呪文のように繰り返した。
  だから歩遊もそうだと頷き、自分は俊史のもので、俊史が好きなのだと言い続けた。俊史が言えと言うから、そうした。
  歩遊が俊史のものであるということと、歩遊が俊史を好きであるということは、歩遊の中では決して同義ではない。
  けれどいつ終えるとも知れぬ責苦の中で、歩遊は段々訳が分からなくなってしまった。俊史を好きだという気持ちよりも、俊史のものに「ならなければならない」気持ちがどんどん増していった。
  もっとも、それ自体は別に嫌な事ではない。
  俊史のことを好きだという事実が消えるわけでもないし、その大好きな俊史の「物」になるのだから、それはそれで全く構わないではないか。
  胸の奥に妙な違和感を残しながらも、行為の最中、歩遊はそういう「結論」を出すに至り、それ以降は随分と従順に抱かれた。俊史が乱暴だったせいで歩遊の身体は快感どころか痛みばかりで、セックスがちっとも良いものではない、むしろ怖いものだという認識を植え付けられて泣きもしたが、それでも俊史が黙れと言えば極力声を殺したし、俊史が足を開けと言えば、恥じらいながらも言う通り俊史の前に全てを晒した。
  歩遊は名実共に俊史のものになった。
  以前からも殆どそんなような意識はあったが、身体を繋げた事によってそれは強い確信となる。
  だからこそ、たかだか熱があるからと言って「一緒にいて欲しい」などという我がままは許されない。俊史が歩遊といたいと思った時だけ、歩遊は俊史の傍にいる事を許されるのだから。
「寒い……」
  温かい羽毛布団を頭からかぶっているような状態なのに、寒気は一向に引かない。それでいて顔は火のように熱かった。水を飲みたいと思ったが、起き上がって下まで行くのは億劫だ。俊史は何かあればメールで知らせればいいと歩遊の携帯を置いて行ってくれたけれど、それこそそんな「パシリ」のような真似はさせられない。
  それでも、持っているだけでも不安な心境は薄れるかもと、歩遊はベッド脇に置いておいた携帯に手を伸ばして、それを布団の中に引っ張り込んだ。
「あ……」
  消音にしていたせいで気づかなかったが、メールが届いていたらしい。チカチカと光る緑色のランプに目を見張り、歩遊は荒い息の中、急いで携帯を開いた。
  差出人は耀からだった。
「写真……」
  文章と一緒に画像も1枚送られている。お好み焼きの写真だ。メール内容は至ってシンプルで、帰ってすぐに部活の皆で強豪校の試合を観に行ったこと、帰りに寄ったお好み焼き屋のブタ玉がとても美味しかったこと、歩遊にも食べさせたいから、三学期になったら一緒にこの店へ行こうということなどが書かれてあった。
  それから最後に、《歩遊は今何食べてる?》という質問と、にこやかな顔文字。耀のメールは最初から最後まで実にキラキラと明るいものに満ちていた。
  まるで別世界にいるようだ。耀を酷く遠くに感じた。
「返事……」
  それでもこれをそのままにしたら、歩遊はもう自分が耀のいる世界へは戻れない気がした。頭はぼうっとしていたが、歩遊は一つ一つ確かめるように耀へ返信メールを打った。
  昨夜は夕飯など食べていないし、今日も気づいた時には昼近くだったが、歩遊は俊史が持ってきてくれた食事に手をつけられなかった。一口食べただけで気分が悪くなってしまったのだ。果物やヨーグルトならどうかと言われたが、それも無理だと断った。そう言われて俊史は随分と気分を害したように見えたが、歩遊としてもどうしようもなかった。ベッドの上で吐くよりマシだと思ったのだ。
  しかしまさか耀にそんな話は出来ない。熱があって寝ていると書いただけでもきっと心配してしまうだろう。歩遊は元旦に来てくれた礼と、あの時心配してもらえて嬉しかったこと、自分は大丈夫だからとそこまで打ち、いや待て、別段何とも言われていないのに「大丈夫」と打つのは変かもしれないと思い直して手を止め、後に詰まってため息をついた。
「わ…!」
  そして実にタイミング悪く、歩遊が集中している時にその布団はめくられた。
「俊…っ…」
  寒くて堪らないのに布団を無理に剥がされた歩遊は、いつの間にか部屋へ来ていた俊史が不快な顔で自分を見下ろしているのを認めて、ぶるりと身体を震わせた。
「あっ!」
  しかもそうして固まっている間に、手の中にあった携帯はあっさりと奪い取られてしまう。
「あの、俊ちゃ…」
  歩遊は気怠い身体を無理に起こして、黙ったまま画面に目を落としている俊史へ焦ったように口を継いだ。
「あの――」
  けれどそんな声掛けも見事空を切り、歩遊の物であるはずのそれは俊史のジーンズの尻ポケットにさっとしまわれてしまう。
「もう持つな」
  そして呆気にとらている歩遊に俊史は言った。
「携帯、解約しろ。必要ない」
「――……」
  別段怒っている風ではない。けれど勿論、機嫌が良いわけでもなさそうだ。
  どうして良いか分からずに歩遊が黙り込んでいると、俊史は依然として無機的な顔のまま、不意に「出掛けてくる」と踵を返した。
  歩遊は急なそれに途端驚き、ハッとし目を瞬かせた。
「どっ、どこに…?」
  部屋の入口でぴたりと足を止めた俊史に歩遊は再度ベッドの外へ乗り出すようにして訊ねた。
「どこ、行くの?」
「靴がない」
「え?」
「お前の靴がないんだ。だから探してくる」
「靴…?」
  訳が分からず言われた事を反芻すると、俊史はここで初めて苛立った顔を見せ、チッと小さく舌打ちした。
「あの森に忘れてきた。靴ないと困るだろ。帰れないだろうが…」
「あ…」
  ようやく意味を呑み込めた。
  確かに歩遊はあの森で、服どころか靴まで脱がされて俊史に抱かれた。行為が終わった時に靴下しか身に着けていないというのは自覚していたが、帰りも俊史におぶってもらっていたから、靴の事など気にも留めなかった。というより、そんなことは考える余裕もなかった。
  きっとあの森に放置されたままだ。恥ずかしい、もし偶々あそこを通りがかった人でもいて、転がっているあの靴を見つけたら何と思うだろう。
  歩遊が熱のせいだけでなく赤面していると、俊史は「おとなしくしていろよ」と言い残し、部屋を出て行ってしまった。
  室内に再び静寂が戻り、歩遊ははっとため息を漏らした。
  靴の事を思いだした俊史は、それがないと帰れないだろうと言っていたけれど、やはり帰るのか。いつ帰るのだろう、何となくそう思った。
  耀のメールを見た時も思ったけれど、何とも現実味がない。家に戻ることは再びあの生活が戻ることを意味していると思うのだが、歩遊は自分たちがまた今まで通りの「日常」を送れるとはどうしても考えられなかった。大した事はない、「あれ」は俊史にとっては何という事もない遊びなのだからと何度言い聞かせても、当然のことながら歩遊にとっての昨夜の「あれ」は、ちっとも些細な問題ではないのだった。
  けれど俊史はもう日常回帰に想いを馳せて、歩遊の靴の事など考えている。
  何だろうこのギャップは、と。歩遊は力の抜ける思いがした。

  ちり、りん。

「え……?」
  その時、階下で鈴の音が鳴った。
  あまりに耳に心地よく鳴り響いたそれは、ただの来訪者を告げるベルとしてはどこか異彩なものを感じた。
  ちりりん。
「ん…」
  怠いし、熱はあるし、身体はキシキシとした痛みを訴えている。誰が来たかは知らないが、本来ならば当然の如く居留守を使うところである。何より歩遊は寝間着姿のままだし、この土地には俊史以外に知り合いもいない。無視すべきだ。きっといつもなら起き上がれずにそのままにしていた。
  それでも歩遊は何故か必死に身体を起こし、よたよたとした足取りながらも壁に寄り添いながら階下へ向かい、乱れた髪の毛もそのままに「はい」とか細い声をドアの向こうの誰かに投げかけた。そうしなければならない気がした。
「香月です」
  するととても澄んだ綺麗な声がはっきりとそう応えてきた。
「……え?」
  一瞬誰だか分からずに歩遊が言い淀むと、扉の外にいる人物はすぐに歩遊の戸惑いが分かったようで、どこか笑みを含んだ様子で付け足した。
「秋です。香月秋。海岸で会いましたよね」
「あ…ああ……」
  シュウ、さん。
  咄嗟にあの砂浜で立ち尽くしていた青年とシュウの面影とが浮かんで、歩遊は急いで扉を開けた。
「どうも」
  青年はやはり決してあの「シュウ」ではなかったが、何故か懐かしい空気を纏ってそこにいた。にこりと笑んだその顔はあの時にも感じた気安いものだ。
「あ……?」
  しかも来訪者はその秋だけではなかった。
  じいっとした痛いほどの視線を感じてそちらへ目を落とすと、そこには秋があの時にも連れていた犬がいた。黒のレトリーバーだ。しかも、ばたばたと大きな尻尾を振りながら、犬は何やら正方形の紙袋を口に咥え、歩遊の事をつぶらな瞳で見上げていたのだ。
「あ、あの…?」
「実は、うちの犬が」
「あ!」
  しかもよくよく見ると、犬がぶら提げていた紙袋の中には歩遊の靴が入っていた。
「こ、これ、僕の靴…!」
「あぁ、やっぱりそうでしたか。本当にごめんなさい」
  秋は心底申し訳なさそうな様子で頭を下げた。
「きちんと繋いでいたつもりだったんですけど、こいつ、いつも知らない間に脱走していて。昨日は何処へ行っていたのかと思ったら、小屋の中にこれがあったものですから。もう片方のも、こいつが案内した森の中で見つけました。……で、この近くの家と言ったら、こちらかなと思いまして」
「そ、そうですか……」
  急激にあの時の記憶が蘇ってきて、歩遊は秋の声がまともに聞こえなくなるくらいに顔を赤くしてしまった。
  何故って、この犬は確かにあの時いた。あの場面を見られた。もしかしたら気のせいか、幻かとも思っていたけれど、間違いない。どこかで見た犬だとは思っていたけれど、秋の犬だったのだ。しかもあの時この犬は一旦引き返したようだったのに、まさか放置したままだった靴を持って帰っていようとは。
  森の中で俊史としていた事を秋にまで知られてしまったような気がして、歩遊はいてもたってもいられなくなった。
「あの、これお詫びです。つまらないものですが」
  しかしそんな歩遊には一切構わず、秋は自分が持っていた紙袋も歩遊に差し出した。歩遊がぎくとして思わず後退した事に居を突かれたようではあったが、すぐに笑顔になると「本当に大した物じゃないんですけど」と繰り返した。
「はちみつです。俺、大学のサークルで養蜂関係やっていて。色々な植物から採った蜂蜜を食べ比べしたり、それを使って作ったお菓子やジャムなんかを、森林保護関連のイベントに参加して販売したりするんです」
「へ、へえ……」
  秋は実にマイペースにそんな話をしたが、歩遊は未だまともに彼の話を聞く体勢になかった。ただひたすら「どうしよう」という想いがあるだけだ。ある意味、お陰で身体がだるい事も忘れた。
  そんな歩遊に構わず秋はまだ続けた。
「これ、もしも気に入ったら、是非うちに遊びに来て下さい。実家に持ち帰ったのがまだ結構あるし。俺の家もこの近くなんですよ」
「え?」
「こっちじゃ何もする事ないし、正直退屈なんです。歩遊君が一緒に遊んでくれたら、嬉しいかな」
「は?」
「少しは助けてあげられるかもしれないし」
「……!」
「それじゃ」
  歩遊が何も答えられないでいるうちに、しかし秋はそれだけ言い残すと、犬を連れて帰って行った。
「……………」
  寝間着姿のままドアを開けたせいで寒いと感じたのは、それから数十秒後のことだ。
「何…?」
  ぞくりと背筋に寒いものが走って、歩遊は慌てて扉を閉めた。
  手の中には、森の中に置き去りにした自分の靴と、秋がくれたはちみつの瓶が2本。
「あ」
  しかもそのはちみつの入った袋には一枚のメモがあって、歩遊が殆ど反射的にそれを取って見ると、そこには秋の自宅を示す地図が実に簡素に、けれどとても分かりやすく描かれてあった。
「何で…」
  歩遊はそのメモをボー然として暫し見やった後、直後誰もいないのにきょろきょろと辺りを見回してすぐにそれをズボンのポケットにしまった。どうしてだか、すぐに隠さなければならないと思った。
「そういえば…」
  そしてふと、ある事に疑問が沸く。
「僕……あの人に、自分の名前なんか言ったかな……」





  俊史が帰ってきたのは、それから割とすぐだった。
  俊史は玄関に歩遊の靴があることとテーブルの上に蜂蜜の瓶があったことに憮然とした様子を見せたが、特には何も言わなかった。もしかしたら秋がここへ来たことでまた不機嫌になるかもしれないと怯えていた歩遊は、それで大分拍子抜けした。
「まだ食欲ないのか」
  その俊史は、夕暮れ時になっても一向にまともな食事を取れない歩遊に力なく言った。怒る気力もないのかもしれない。俊史が本当に心配してくれているというのが分かったので、歩遊も申し訳なくて何とか無理な笑顔を作った。
「でも、熱は下がったよ。もう大丈夫だと思う」
「食欲ないのに、大丈夫なわけあるかよ。熱が下がったのだって薬のせいで、一時的なものだろ。油断してないで寝ろ」
「うん、でも…」
  リビングで開きっぱなしになっている俊史のテキストをちらりと見て歩遊は言い淀んだ。勿論、こんな絶不調時に勉強したいなどとは思わないけれど、日中ずっと横になっていたせいか眠れそうにはなかったし、またあそこで独りベッドの中にいると余計な事を考えそうで怖かった。
  それなら俊史の傍にいたい。
「寝過ぎたから眠れない」
  とはいえ、そのまま「俊史といたいから」とは言えず、歩遊はごにょごにょと気まずそうにそれだけを言った。
「無理でも横になって目ェ瞑ってればそのうち眠れる。だらだら起きていたらまた熱が上がるだろ」
「もう平気だよ」
「じゃあ飯食えるのかよ」
「うっ……。うん……」
「食えないだろ?」
「いやっ、食べられるよ! ちょっとなら……」
  吐きそうな想いをしてまで少し食事を取るのと、孤独な想いをしてベッドで横になるのと。究極の選択だったが、歩遊は前者を採用した。それに、食べる方を選べば俊史も安心するかもしれない、そういう思いもあった。
  しかし歩遊が明らか無理をしてそう言っているのは俊史にもバレバレである。くっきりと刻まれた眉間の皺がちっとも解けない。俊史は暫し気まずそうにしている歩遊を凝視した後、やがて小さくため息をついた。
  そして何を思ったのか、俊史は不意にテーブルに置いてあった蜂蜜の瓶をがっつりと手に取った。
「俊ちゃん…?」
  驚いて問いかける歩遊には何も応えず、俊史はキッチンに立って冷蔵庫を開けると、そこからりんごを取り出して皮を剥き、またすぐに戻ってきて、透明の器に入れたそれを「食え」とぞんざいに言って歩遊に差し出した。
「あ…、蜂蜜もかけたの?」
「お前、好きだろ」
「うん」
  りんごだけでも十分甘味のありそうなものだが、歩遊はこういった「これでもか」と甘くする食べ方が大好きだった。「知らない人」である秋から貰った物だから、もしかしたら折角の蜂蜜も捨てられてしまうのではと危惧していたが、俊史もそこまで堅物ではなかったらしい。
  歩遊はフォークを手に取り、金色の蜜がのったりんごの一欠けをそっと口に運んだ。
「……わ」
  瞬間、歩遊は大きな目をより一層大きく見開いた。傍にいた俊史も歩遊のそのリアクションに驚いたような顔をする。
「美味いのか?」
「物凄く美味しいよ! 凄過ぎる!」
  興奮したようにそう声をあげる歩遊に俊史も興味を注がれたようだ。普段は甘過ぎる物は嫌いだと言っているけれど、自分も歩遊の手からフォークを取ってそれを口に放り込む。
「ね? 美味しいでしょ? 何だろ、普通の蜂蜜と違う! 甘いけどあっさりしていて、果物みたいだ!」
「それ、りんごの味じゃねえの?」
「違うって! りんごもそうだけど…この蜂蜜が凄いんだよ!」
「熱あんのに、そんなはしゃぐなよ」
  俊史は喜びで自然と声が上ずった歩遊にやや引き気味だったが、今日まで双方地の底まで沈んだような重苦しい雰囲気を背負っていたから、急に明るくなった歩遊には俊史も少しだけ嬉しそうな顔を見せた。実際、これによって二人を取り巻く空気が和らいだのは間違いなかった。
「お前、本当に甘い物好きな」
  苦いものを混じらせながらも俊史は笑みを落として、感動で目を輝かせる歩遊の髪を撫でた。
  歩遊も、俊史がそうやって笑ってくれたことに余計気持ちを上昇させて、夢中で蜂蜜りんごを頬張った。あれほど何も受け付けないと思っていた身体が貪欲なまでに食べ物を求めている。急に空腹を感じた。
「どうせ全部お前のもんなんだから、ゆっくり食べろよ」
「うん」
「……明日はホットケーキ作ってやるな」
  しかも俊史がふと思いついたようにそんな提案までするものだから、歩遊のテンションはまたこれ以上ないくらいに上がった。
「ホットケーキ!?」
「好きだろ?」
「うん! 凄いっ。こ、この蜂蜜掛けたらさ、きっと凄く美味しいよ! 凄い、楽しみ!」
「今は無理だぞ。材料ないし」
「うん、大丈夫! 今夜はこれで十分!」
  にこにこして歩遊は答えた。俊史が優しい。ホットケーキも最高だけれど、何よりもそんな事を言ってくれる俊史が嬉しい。これ以上の喜びがあるだろうかという勢いだ。
「俊ちゃんのホットケーキってさ、あのパッケージのみたいに厚みがあって美味しいんだよね。何であんなの作れるの?」
「別に、普通だろ」
「そんな事ないよ。お母さんが作ったやつは凄く平べったいし。はは…お母さんの場合は、それ以前に凄く焦げ付いてて、ホットケーキって感じすらしないんだけど」
「あの人、料理なんかしないもんな」
「うん、年に数える程だけだもんね。あ、でもさ、前に凄くやる気になった事があって、その時は無理やり俊ちゃんもおじさんたちも呼ばれて、かなり迷惑だったよね」
  一日中、ずっと黙っていたせいだろうか。歩遊は急にお喋りになって、次々とそんな事をまくしたてた。俊史と普通に会話している、その事実にも堪らなく気分が高揚した。
「それで食べた瞬間さ、みんなで一斉に凄い顔して」
「かなり不味かったからな」
「そう! びっくりしたよ、普通あそこまで不味くならないよねー? それで、貴史おじさんだけお母さんに監視されちゃって、最後まで食べさせられてさ。おじさん、あの後三日間くらい胃薬飲んだって言ってたよね?」
「あぁ、あれはざまあみろって感じで面白かったな」
「そんな…。まぁでも、真理恵おばさんは凄く料理上手だし、あんな美味しいのしょっちゅう食べてたら、うちのお母さんのは、おじさんもきつかっただろうなあ」
「あいつは仕事先じゃ料理なんかしないぞ。どうせ外食だろ。家でも手抜きばっかだし……つーか、最近全然顔見ないけどな」
「そうなんだ。僕も最近会ってないなあ」
  明るく元気な俊史の父と、控えめながら何でもこなす俊史の綺麗な母。二人には歩遊も我が子のように可愛がられているので大好きな存在である。歩遊の両親同様、仕事人間の彼らとは最近殆ど顔を合わせていないが、話をしていたら急に会いたい気持ちになった。
  だからこんな風に穏やかに思い出話を咲かせられた事も相俟って、歩遊は弾んだ調子で俊史に言った。
「今度さ、もし前もっておじさん達が帰ってくる日が分かったら教えてね。久しぶりに会いたいし」
「歩遊」
「何?」
「高校卒業したら、家、出ような」
「……え?」
  けれど突然俊史にそう言われて、歩遊は驚いて動きを止めた。
「家を?」
  それからぱちぱちと瞬きをした後、目の前の俊史をまじまじを見つめる。酷く真剣な眼差しの俊史の表情に、途端、緩めていた気持ちがきゅっと引き締まり、どきんと心臓が高鳴った。
「俊ちゃん…?」
「あそこにいるのは高校までだ。その後は、俺たちがどこの大学に決まろうと、家は出る。どこかに部屋借りて、そこで暮らす」
「部屋、借りるの…? ど……」
  どうして、と。
  言おうとした瞬間、おもむろに抱きしめられて歩遊は言葉を失った。しかも最初こそ軽く抱き寄せられただけのそれは俊史の胸の中にすっぽりと閉じ込められた後は徐々に強くなり、痛い程になる。
「しゅ…」
  堪らず声を上げると、俊史はくぐもった声ながらも尚強い口調で繰り返した。
「いいな? 覚えておけよ、家は出る。二人で暮らす。……ずっとだ」
「え」
  驚いて僅かにもがき、俊史を見ようと歩遊は何とか顔を上げた。
  俊史に冗談を言っている様子はない。真摯なその表情に再び心臓の音が早くなった。
  元々、あの家にいたって二人で暮らしているようなものだ。寝る時は俊史も自宅へ帰るけれど、食事も風呂も歩遊の自宅で済ます事が多くなった。
  それなのに、二人暮らし?
  大学も、現時点で受けようと考えている所はどこも自宅から通える範囲にある。無理に部屋を借りて自活する必要はないように思う。経済的にも負担が生じる。
  それなのに、二人暮らし?
  しかも。
「ずっと…?」
  歩遊は言われた中で一番気になった言葉を出して俊史に訊いた。
「ずっと、二人で…?」
  それって、一体どういう意味だ。分からなかった。歩遊は俊史の「もの」だけれど、何だかおかしい。その言葉の意味するところを歩遊はまだ掴み切れない。
「そうだ」
  けれど俊史は未だ困惑したような歩遊を前にそう言って、それからゆっくりと唇を近づけた。
「あ…」
  歩遊は咄嗟に目を瞑った。俊史の唇はすぐにやってきて、緊張で少しだけ震えた歩遊のそれにそっと触れ、やがて深く重ねられた。
「ん……」
  俊史の口づけはとても丁寧で優しいものだった。
  しかも歩遊が大好きだと思う俊史のキスの中でも、それは今までにないほど温かくて安心するもので。
  だから歩遊はその後、何度となく繰り返してくる俊史のキスに素直に大人しく従った。
  未だ言われた事の意味に戸惑いと疑問を抱きながら。



To be continued…




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