―23―



  何度もキスをされて何度も抱かれて、おまけに卒業後は「ずっと二人で一緒に暮らす」などと言われた。
「はぁ……」
  気づかれないよう注意を払いながら小さく息をついて、歩遊はちらりと隣にいる俊史の顔を見つめた。
  俊史が目覚める様子はない。
  辺りの気配を察するにまだ夜も明けきっていない時刻。昼間に寝過ぎた上、ぐるぐると考えこみ過ぎたせいで、歩遊はちっとも眠れなかった。
(でも下手に起き上がったら、きっと俊ちゃんも起こしちゃうよな…)
  本当はベッドから出たいのだけれど、それも叶わない。
  何せ今の歩遊は俊史にがっちり抱きかかえられていて身動きが取れない。少しでも身じろげば寝覚めの良い俊史を起こしてしまう可能性は極めて高い。現に昨夜とて、そのせいで直後「とんでもない目」に遭ってしまったのだから。
(でも何で……俊ちゃんは、僕にこんなことするんだろ……)
  高校を卒業したら二人で部屋を借りて暮らすんだからなと言って、俊史は戸惑う歩遊に何度もキスを仕掛けて、その後も当然のようにこうして同じベッドに入って、当然のように歩遊を抱き込んで目を瞑った。
  これまでは俊史が歩遊の家に泊まる事はあっても、こんな風に一緒のベッドで眠ったりはしなかった。小学生の頃ならそういう事もしたかもしれないが、いずれにしろその時と今とでは、明らかにその意味合いが違う。
  俊史は歩遊が大人しく素直にしていれば、とても優しい。
  俊史は歩遊が他の人間と親しくしていなければ、信じられないくらい甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
  さすがにもう、おかしいと感じざるを得なかった。気づかざるを得ない。幾ら歩遊が俊史にとってそれなりに愛着のある「もの」だったとしても、俊史がこうまで歩遊に尽くし、触れ、歩遊に対して熱い眼差しを向けてくるのか、キスしてくるのか。それは歩遊がこれまで築いてきた解釈だけでは、どうしたって説明のつかない箇所が幾つもあった。
(でも、そんなの……そんなはずは、ないんだ……)
  それでも。
  この期に及んでも、歩遊はその「都合の良い考え」を何度も無理に掻き消して、心の底から震えた。
  もしも一度でも「そんなこと」を考えてしまったら。
  後でそれがやはりとんでもない勘違いだったと思い知らされた時、歩遊は二度と立ち直れないし、二度と自分を好きになれない。それが分かっていた。
  殆ど強迫観念に近いものではあるが、歩遊の心理の根底には長く鋭い棘のようなものが強固に突き刺さっている。
  歩遊は俊史を好きだが、俊史が同じように歩遊を好き――、などと。
  そんな事は決してありえない。
  そんな事を考えてはいけない。
(でも……なら、どうして、ずっと二人で暮らす、なんて言うんだ……)
  そもそも俊史はここに来た事も、「お前と二人だけになりたかったから」と言った。既にその時点で歩遊の気持ちの中には小さな嵐が巻き起こっていたのだが、それに敢えて蓋をし考えないようにしていたのも、その脅迫観念……棘のせいだ。
  だから耀が「瀬能はお前を好きなんだよ」と言った時も、大切な友人が助言してくれた事なのに、わざと忘れたフリをした。
  考えてはいけないから。

  勘違いするなよ、と。

  俊史は昔から折に触れ、歩遊に向かってそう言った。その言葉が歩遊の中に何度も木霊し、消える事がない。

  お前なんかに友だちが出来るわけないし、お前を好きになる奴なんかいるわけない。お前には何も出来ない、自惚れるな、勘違いするな。

  何度も何度も繰り返されて、それが歩遊の中の当たり前になった。そう、勘違いしてはいけないのだ。自分はそんな大層な人間ではない。俊史はそんな駄目な自分の面倒を見てくれているだけ。
  けれど。
(でも、それならどうして……どうして、あんなキスするんだ……。もう、頭がおかしくなる……)
  熱のせいで食欲を失った歩遊を心配してくれた俊史。
  お前は本当に甘い物が好きだよなと言って髪を梳いてくれた俊史。
  互いの家族の思い出話で一緒に笑いあった俊史。
  そして、ずっと一緒に暮らすんだからなと思いつめたような顔をして、キスをしてきた俊史。
「歩遊」
  不意に呼ばれて、歩遊はぎくりと身体を揺らした。俊史を起こさないようにしようと息も殺して、身体だってなるべく動かさないようにしていたのに。
  気づけば俊史はすっかり目を覚ましたようになっていて、向かい合う形で小さくなっている歩遊にすうっと目を窄めた。
「……どうした。ずっと起きていたのか」
「違う。ど……どうもしな……」
  けれど問われて初めて、歩遊は夜中にしてはあまりにぼやける視界に違和感を抱いた。
  それでも気づかずに「大丈夫」と応えると、俊史は急に眉間に皺を寄せ、歩遊の頬を指先で撫でた。
「あ……」
「なら、何で泣いてんだよ……」
「な、泣いてない……」
  咄嗟に否定したが、さすがに俊史に拭われた涙で自分でも気づいてしまった。混乱する感情をセーブ出来なかったのか、気づけば大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていて、俊史に気づかれた後はより一層それを堰き止められず、歩遊は「ひっ、ひ…」と、次第に嗚咽を激しくしていった。
「歩遊」
「何でもな…っ。な…でも、なっ、から…」
  泣けば泣くほどまずい状況になるとは分かっている事なのに、涙が止まらない。
  けれど歩遊は自分よりよほど困ったような苦しそうな顔をしている俊史こそ辛くて見ていられなくなり、堪らずぎゅっと抱き着いて「俊ちゃん」と呼んだ。
「分かんないけど、涙出た」
  そして顔が見えなくなったので、やっと正直にありのままを告げた。歩遊は俊史に嘘はつけない。
「俊ちゃん。好きだよ」
  俊史が迷惑だと分かっているのに、そう思う気持ちも止められない。甘えるように頭を擦りつけて歩遊は言った。
  何でもいい、俊史が自分をどう捉えていようと想っていようと、自分は俊史が好きなのだから。だから遊びでも冗談でも、あんなに痛くて怖くても。セックスする事だって、きっと平気だ。むしろそうしてもらっていたら、その時だけは俊史と一緒にいられる。
「好きだ…」
  そうだ、元々あの初めて抱かれた時から、そういう風に思って納得したはずだった。
  それなのに、俊史が突然「ずっと一緒に暮らす」などと言うものだから混乱した。俊史のせいだ。でも、この涙は俊史が悪いわけじゃない。
  歩遊は完全に情緒不安定だった。
  暗示が解ける。解けてしまう。
  幼い頃からずっと俊史自身に掛け続けられていた、歩遊を縛る何かが。
  今の歩遊にはそれがとてつもなく怖かった。
「好き…」
  だから歩遊はもう一度、自身に確かめるようにそう呟いて、そっと俊史の顔を見上げた。
  涙のせいでやはり視界はぼやけていたが、俊史が同じように自分を見つめている事が分かって少しだけほっとした。それで俊史の胸元を掴む手にきゅっと力を込めると、俊史がそんな歩遊の手を掴み返してそのまま顔を寄せてきた。
「んぅ…っ」
  深いキスが落ちてくる。一瞬ハッとしたが素直に受け入れた。それどころか必死に顔を上げ、歩遊は俊史の唇を追おうと自らも誘うように唇を開いた。
「んっ…ふっ…」
  歩遊が積極的だと感じたのだろう、後頭部を支えるように抱えながら、俊史はくるりと自らの体勢を上にして、いよいよ本格的に歩遊の唇を貪り始めた。
  歩遊はそれで息を継ぐ間もなくなったが、俊史は構わずに歩遊の唇を食み、舌を絡め取った。
  と同時に、俊史はしきりと歩遊の身体をまさぐり、寝間着の中にも手を差し入れた。
「んっ…ぅ…っ、んっ…」
  口を塞がれているせいで声が出せない。けれど俊史の指先が胸の突起に触れて、歩遊はぴりと痺れて身体を揺らめかせた。昨夜のだるさはまだ残っている。もしもこのまま再び「あれ」が起こったら、歩遊は己の身体を保つ自信がなかった。
「んぁ…」
  それでも嫌だとか駄目だとか言えなかった。キスで封じられているからではなく、 俊史を拒絶したくなかったから。
「……俊ちゃ…」
  その時、やっと俊史の唇が離れた。閉じていた目をゆっくりと開き、歩遊は懇願するような目を俊史に向けた。それはこの行為を止めて欲しいという風にも、もっとして欲しいという風にも、どちらにも取れる眼差しだった。
  俊史はどこか熱っぽくぎらついた眼をして、そんな歩遊を黙って見下ろしていた。
  それからややあって、俊史は再び歩遊に触れるだけの口づけを落とした。
「んっ…」
「歩遊…」
  耳元に優しく囁かれて歩遊はぞくりと身体を震わせた。俊史の顔が見たくて頭に触れる。けれど俊史はそれを良しとせずにそのまま連続した軽いキスを四方に散らしながら、再度舌を寄せて歩遊の耳の中にそれを挿し込んだ。
「ひっ…」
  ぞくんと酷い快感が攻め上がって歩遊は足を動かした。瞬間、俊史が歩遊のパジャマズボンをずり下げた。あっと思ったが、そのまま股間に触れられて歩遊は息を呑み、もう抵抗出来ない、俊史に全部を持って行かれると観念した。
「今日は酷くしない…。お前を気持ち良くするだけだ…」
  すると俊史は囁くようにそう言って、歩遊の下着も脱がせた。歩遊はそれに「ひっ」と小さく鳴いたが、その後俊史は言った通り、本当に丁寧な所作で歩遊の性器を指に絡ませ、優しく追い上げていった。
「やっ…あっ、あん…」
  そうなると歩遊も嬌声以外の音を出せない。普段見る俊史の長い指先を思い出して泣きそうになるが、理性を保てる間は僅かだった。信じられないくらいに気持ちが良い。中心に熱が集まり、それが徐々に脳天にまで駆け上がって行くのが分かる。
「やっ……だ…だめっ」
  それでもその絶対的な快楽の中で、歩遊は自分だけが俊史にこんな風にされる事を決して良しとは思わなかった。
「俊ちゃんっ…」
「何だ……気持ち良く…ないか……?」
「ちが、あっ…やっ…出ちゃ…あっ、もう…!」
「いいぜ…全部出せよ…」
「だめっ…僕だけ…!」
  歩遊は俊史の肩を掴んで潤む目を向けた。
「俊ちゃんも……だっ……僕、僕だっ、…だめ…!」
「……俺はいい」
「やっ…あ、あぁッ」
  けれどそれでは、俊史の一方的な奉仕になってしまう。
  それは歩遊がこれまで築いてきた結論をまた大きく揺るがす事になる。あの恐ろしくも大それた考えがまた脳裏を過ぎってしまう。
  俊史は歩遊を好きではない。現に好きとは一度も言ってくれない。いつも苦しそうな顔で、苛立たしくも何事か言いたそうな顔をして、ただ一言「バカ」と歩遊を詰るだけだ。
  それなのに、今こんな風に優しくされるのは困るのだ。
「俊ちゃんも……して……」
  歩遊は涙で滲んた目を必死に向けながら、すっかり露わになった下半身を晒すように膝を立てた。
「歩遊…」
  俊史が驚いたように絶句した。けれど歩遊は恥ずかしさで顔を真っ赤にさせながら、さらに大きく足を開いた。
「俊ちゃん……だって僕だけなんて…そんなのは嫌だ…」
「歩遊……」
「いや…? もう僕とは…、し…したく、ない…?」
  それならそれで、歩遊の中の結論は揺るがない。誘ったのに俊史がそれを断ったのなら、今は気分ではないという事だ。俊史の気紛れを証明できる。そう解釈して安心出来る。
「……バカっ」
  けれど俊史は歩遊のその誘いを蹴らなかった。それどころか、昨夜のような殺気立った病のような眼を向けて、むしゃぶりつくように歩遊の身体を蹂躙した。
「ひ…ッ……んぅ……!」
  既に迎えんとしていた身体をさらに割り開くようにして、俊史は己の昂ぶっていたそれを宛がい、歩遊の中心を一気に貫いた。
「んあッ…はっ…アァッ…!」
  あまりの衝撃に歩遊は喘いだ。しかも俊史はまるで容赦なく、一度自身を埋めた後もすぐにそれを引き抜き、さらに力強い勢いで己の凶器を打ち込んだ。
「――……っ」
  ひく、と喉がひくついて、歩遊は声を失った。
  それでも攻めは終わらない。それどころか俊史は衝撃で途端に萎えてしまった歩遊の小さな棒を片手で掴み、再びその熱を取り戻そうと激しく扱いてきた。
  体内と中心とを同時に追い立てられて、歩遊はゼエゼエと異常な息を吐いた。自分で望んだ事だけれど、あまりの淫行にやはり涙が滲んでしまう。
「しゅ…アァッ」
  呼びかけたが、俊史から声がかかる気配はなかった。ただ鬼気迫るような勢いでしきりと腰を進めてくるのと、荒い息遣いだけが耳に響く。そしてその重石が積まれるような鈍い振動が起こる度、歩遊の身体も機械的に揺れた。
「あっ、あっ…」
  ズン、ズン、と深く強く突いてくる俊史に歩遊は無機的な声を漏らした。
  苦しい。
  それでも、これは自分が望んだこと。
「俊……」
  そうして歩遊は従順に己が身体を差し出し続けながら、足の合間から見える俊史をそっと見つめやった。
「歩、遊…っ…」
  すると俊史も歩遊のその視線に気づいて、初めてまともな瞳を向けてきた。
「俊ちゃ……あっ、んっ……」
「歩遊……好きか……? 俺が好きか……?」
  俊史が確認するようにそう訊いてきた。歩遊は俊史のそのどこか心細そうな顔を心底不思議に思いつつ、はっと軽く息をつき、唇を戦慄かせた。
「好き…」
「……っ」
「好き、だよ…? あっ…ぼ…僕…あっ…俊ちゃん、が、好き…」
「歩――」
「俊ちゃん…」
  そうして歩遊が俊史を呼んだ瞬間。
「――……ッ!」
  俊史が中で達したのが分かった。
「…………っ」
  歩遊はその衝撃をまともに受けてきゅっと目を瞑り、その後徐々に身体から力を抜いて、強く掴んでいたシーツからもそっと手を離した。
  因みに歩遊自身は最後までいけなかった。俊史をイかせる事に満足すると、自分の方の熱は恐ろしい程の勢いで下がり、冷えてしまったのだ。
  それでも歩遊は満足だった。俊史が満足してくれたはずだと思ったから。










  俊史の抑えつつも酷く苛立った声を耳にし、歩遊はゆっくりと目を覚ました。
「煩ェな…。俺たちがどうしていようと、お前に関係あるのかよ…!」
  何だろう。
  段々と意識がはっきりとしてきて、歩遊は気だるい身体を無理に反転させ、俊史のいる方へと視線を向けた。
「……ああ。………ああ、そうだよ」
  俊史は歩遊には背を向けた格好で誰かと携帯で話していた。既にすっかりと着替えも済ませた状態だ。何時だろう、今度は時計に目をやろうと歩遊は視線をうろつかせたが、傍には携帯も何もなかった。そうだ、普段時間を確認するのに使うそれは俊史に取られたのだと思い出して、歩遊は諦めの胸中で再び俊史の背中を見つめた。
  その俊史は極力小さな声で話しているが、依然としてイライラしたような荒っぽい口調は消える事がない。
「あ!? ふざけんじゃねェよ、来んな! だから、週末までには戻るって言ってんだろうがっ。……ああ。……ああ、そんなこと分かってんだよっ。歩遊だって模試受けるって言ってんだ。だから、それまでには帰る」
(模試……)
  新学期が始まる前に予備校で新高三生を対象にした実力試験を受ける事は以前から二人で決めていた一つの目標だった。それの話をしているのだとはすぐに分かったが、しかし歩遊ははっきり言ってそんな事をもうすっかり忘れ切っていた。
(自信ない…。きっとぼろぼろだ……)
  たかが数日、されど数日。
  勉強とはかけ離れ過ぎている「異世界」から戻れない歩遊には、最早知っていて当然だった英単語も記憶の彼方だし、そもそも長時間問題を解くだけの集中力も失っていた。
  しかし確かに、昨日も俊史は家へ帰る話をしていた。だから「元の世界」へ帰る事は間違いないのだろう。耀や両親がいるあの日常へ。
  とても想像出来ないが。
「は? ……歩遊は今寝てる。大体、何で替わらないといけないんだよ。別に話す事なんかないだろ」
  そうこうしている間も、俊史はまだ電話で誰かと言い合いをしていた。俊史がこんな乱暴な話し方をする人物は限られている。学校関係で考えられるのは歩遊以外で言えば戸部と耀だけれど、帰ったばかりの耀が例え冗談でもこちらへ来るような話をするとは思えない。
  とすると戸部なのかとも思うが、それもどうにも違う風に思える。
「貴史おじさん……?」
  だから学校以外で思い当ったその人の名を口にすると、俊史がハッとしたようになって振り返ってきた。それから歩遊に渋面を作りつつも黙って頷く。本当に貴史らしい。そして俊史はそんな実の父親に向かって、「とにかくもう切るぞ」と荒っぽく言い捨てた。
  そうして本当に通話を切って、バタリと携帯を閉じてしまう。
「おじさんなの? どうしたの?」
  歩遊が訊ねると俊史は如何にも不快だという風にかぶりを振った。
「別にどうもしない…。全然連絡寄越さないから何してるんだってごちゃごちゃ言ってきただけだ。いつも放置のくせによ……お前が絡むと途端煩くなるんだ、あいつは」
「あ…でも。心配だったのかも」
「心配? 何が心配なんだ? 俺とお前が二人でいるなんて、いつもの事だろ」
「う、うん…」
  刺々しい俊史に歩遊は内心猛烈に焦ったが、何とか上体を起こすと面と向かった。
「そうだけど。うちのお母さんも連絡がないからって心配して来たでしょ…。だ、だから貴史おじさんもそうだったのかもって…」
「いいんだよ、あんなの。俺は親なんて思ってねえし」
「……俊ちゃん」
「血の繋がりがあって書類上でそうだったとしても、俺は親と思っていない。うぜーんだよ」
「おじさんのこと、嫌いなの」
「は? 当たり前だろ? 今さら何言ってんだ」
  俊史は憮然としてそう言い、もうこれ以上話したくないとばかりにくるりと踵を返した。
  確かに俊史の父親嫌いは昔から過剰なほどであった。瀬能家で唯一の紅一点である母親の真理恵などは、「同族嫌悪かしらね」などと言って軽く流していたが、常に傍で二人の喧嘩を見ていた歩遊はその度ハラハラして胸を痛めた。
  歩遊は俊史のことは勿論、優しい貴史のことも大好きだから、そんな二人がギスギスするのはどうしたって悲しい気持ちになる。
「……もういいだろ。あんな奴の話でお前と気まずくなりたくない」
  歩遊の様子に、今度は俊史が居た堪れない顔をした。
「俺たちには関係ない奴のことだ。お前が余計なこと考えたり、煩わされる必要はない」
「………」
「ホットケーキ焼いてやるから。下りてきて顔洗え」
「え……あ」
  歩遊の返事を待たず、そうして俊史は先に階下へ行ってしまった。どうやら着替えていただけではない、俊史は歩遊が眠っている間に昨日予告していたホットケーキを作る気で、買い物も済ませてきたようだ。
  どうしてそんなにしてくれる。
  歩遊の中でまた小さな渦がぐるぐると回り出す。胸の鼓動が早くなった。
「あ……?」
  けれどその時、窓にこつんと何かが当たった音がして、歩遊はぎくりとしながらも咄嗟に立ち上がってそちらへ寄った。
  すると、眼下に見慣れた影が一つ。すぐに茂みに隠れてしまって一瞬しか見えなかったけれど、あれは。
  ふさふさの尻尾。
「あ…」
  もう一度よく見ようと瞬きしてから目を凝らすと、歩遊のその視界に今度ははっきりと映った。裏手の茂みがガサリと動いて、「彼」が今度は歩遊にその姿を見せつけるようにして現れたのだ。
「あの犬…!」
  秋の犬だ。
  黒のレトリーバーは歩遊が窓から自分を見下ろしている事に気づいているらしい。ハッハと舌を出しながらまるで笑っているような顔で歩遊を見上げ、激しく尻尾を振っている。
  しかも犬は暫くすると再び茂みへ消え、また戻ってきたかと思うと新たに咥えてきた「それ」を嬉々として歩遊に見せびらかした。
「ま、また…!」
  それは誰の物とも分からぬスニーカーだった。きっとまたどこからか余所の家の物を拝借してきたに違いない。
  何とも気がかりで歩遊は急いで階下へ向かい、靴をつっかけて外に出た。俊史が勢いよく外へ出る歩遊に驚いたような声を上げたが、敢えて立ち止まらなかった。
  不思議なことに、この時の歩遊は先刻まで感じていた身体の痛みも、そして寒さも。まるで感じず、ただ何かに突き動かされるように犬の姿を求めて走る事が出来た。
「いた!」
「ワン!」
  犬は自らの足元にスニーカーを置いた状態で、行儀よく座っていた。歩遊が目の前に現れて嬉しそうに一声吠えたが、近づいてこようとはしない。慌てて後を追ってきた俊史が「何なんだよ!?」と歩遊に訊く。歩遊は急いで振り返った。
「俊ちゃん、この犬なんだよ。僕の靴、持って行ったの」
「あ? こいつが……」
  俊史は実に胡散臭そうに犬を睨みつけたが、犬は俊史のそんな眼光も構う風なく、新たに現れた人間だと、気前良く尻尾と一緒に愛想も振りまくって見せた。
  勿論、現在の俊史がそんな犬の姿に心を動かされるわけもないのだが。
「……ったく、飼い犬はきっちり繋いでおけってんだ。行くぞ、歩遊」
「で、でもさ」
「放っておけ。そのうち帰るだろ。餌だの何だのあげると、悪い癖がつくんだぞ」
「ち、違うよ。そうじゃなくて……靴…」
「靴?」
「そこにあるでしょ? この犬、また靴持ってきちゃったんだよ。余所の家のかもしれない」
  歩遊が必死にそう言うのに、俊史は訳が分からないと言う風に眉をひそめた。
「だから何だってんだ。俺らに何の関係もないだろ?」
「秋さんに教えてあげようよ…。多分、気にすると思うし…」
「はぁ? ………けどそいつん家なんか知らないだろ」
「わ、分かるよ! ほら」
  あの時「隠さなければ」とすぐにズボンにしまったのに、愚かにも歩遊はすぐにあのメモを取り出して俊史に渡した。
  どうしてか、どうしてもそうしなければならない気がして。
「……何だこれ」
  しかし案の定、俊史の機嫌はそれのせいで更に更に急降下だ。メモを見た途端、みるみる険しい顔になり、善意で靴を届けたいとする歩遊をいつもの勢いで怒鳴りつける。
「お前、こんなのいつ貰った!」
「は……はちみつ、貰った時だよ……。良かったら遊びに来てって……」
「歩遊……」
「だから、俊ちゃんも一緒に来て!」
「は?」
「一緒に行こう。秋さんの所」
「冗談じゃねえ、何で――」
「一緒に行ってくれなきゃ、一人で行くよ!」
  歩遊は強い口調でそう言い切った。
  俊史が驚きで暫し固まるのも構わずに、歩遊は揺るぎない意志でもって俊史の腕を掴んだ。どうしてそこまでするのか、頭の片隅ではそう思いながらも。
「持って行ってあげよう。わざわざあんなに美味しい蜂蜜くれた人だし。この犬だって、きっと僕たちの事が心配だからうちに来るんだよ」
「ふ……ざけん、な。何で犬が……」
「だってあの時……見てたんだ」
「は?」
  言おうかどうしようか迷った末、それでも歩遊は俯きながら告白した。
「この犬……僕たちが森でしてたこと……見てた。見てたんだ」
「な……」
「秋さんがあそこにいたかは分からない。でも、何か僕たちのことを知ってるようだったし…。気になるし。俊ちゃんは、いつも僕が誰かと関わろうとすると怒る。貴史おじさんのことだってそうだよ、耀君のことも。どうしてって……思う。俊ちゃんは僕を好きじゃないのに」
「…………」
「でも、ホットケーキ作ってくれたり……優しいし。僕、頭がおかしくなりそうだ」
「……歩遊」
「だから、秋さんの所に行きたい。今」
  歩遊は自分で話しながら、ようやく自分でも自身の気持ちを理解した。
  秋はあのシュウではない。そんな事は分かっている。
  でも、あの俊史との初めての時にこの犬がいたことや、秋が蜂蜜を持ってきたこと。
  俊史との間がぎくしゃくしている時に、歩遊の胸がこうまで痛い時に、こうして秋の犬が再び現れたことも。
  そこには何か意味があるような気がした。
「一緒に行って」
  何より、歩遊は俊史のことを知りたかった。分かりたかった。
  だから我が侭だと思っても、頼まずにはおれなかった。
  ただ黙っているのはもう駄目だとも思ったのだ。
「……何でお前は」
  そんな歩遊に俊史は何事か言いかけたが、どうしたことか不意に口を閉ざしてツカツカと犬に歩み寄ると、如何にも腹立たしいといった様子で傍にあったスニーカーをさっと拾った。
「俊ちゃん…?」
  そして俊史は言った。
「靴、届けるだけだぞ。……お前のお人よしには呆れる」
「あ…ありがとう」
  歩遊が顔を明るくしてぱっと笑うと、俊史は手に持っていたメモをぐしゃりと握り潰しながら、ふいとそっぽを向いた。





  自宅の呼び鈴を鳴らすと、秋はすぐに玄関口から顔を出した。
「ああ、いらっしゃい。歩遊君と……俊史君?」
  そうして彼は驚く2人には一切構わず、背後に控えていた犬に気づくと呆れたように肩を竦め、「フォレスト。お前なぁ…」と呟いた。
「あの、この犬がまた靴を…」
「いや、すみません」
  袋に入った靴を差し出す歩遊に秋はすぐに謝って、憮然としている俊史にもふにゃりとした笑顔を向けた。
  それからドアを大きく開け広げ、歩遊たちに家の奥を見せるようにして「良かったらあがっていって下さい」と気さくに誘ってきた。
「あ……」
  緑。
  指し示された視界には真っ先にその鮮明な色が飛びこんできた。それが何かもはっきりと分からないまま、歩遊は思わず息を呑んだ。何だか懐かしい感じがしたのだ。
  秋はそんな歩遊に優しく微笑みかけると涼やかな声で言った。
「美味しいお茶とクッキーがあるんです。それにうちって……結構面白いですよ」



To be continued…




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