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確かに、秋の家はとても変わっていた。 通された吹き抜けのサンルームには四方八方に様々な植物がひしめいている。それは鉢植えのものもあれば、土や砂利、芝生が敷き詰められた箇所に直接植えられたものなど、色々だ。天井全体は遮光型の窓で、天気の良い今日のような日にはそのまま青い空が臨める。部屋の中央には小洒落た白い丸テーブルと椅子が置かれ、壁際には植物図鑑が整然と鎮座する小さな本棚があった。 実に奇妙な室内庭園だ。 壁紙自体淡い緑を配しているし、そもそもこの部屋に至るまでに歩いた廊下も同じような雰囲気でまとめられていて、さながら深い森を抜けた先にひょっこり現れた秘密の花園のようでもある。 しかもそこまで凝った造りながら、そこに窮屈さや圧迫感は全くなかった。 秋の家は圧倒的に広いのだ。 「お茶を持ってくるから。そこに座って待っていて」 秋は歩遊と俊史を白い席へ促した後、自分は犬のフォレストと共に一時その場から姿を消した。 歩遊はそれに畏まって頭を下げてから、改めて辺りをきょろきょろと見回した。 「凄いなぁ。ね、俊ちゃん、植物園みたいだね。こんな変わった家、初めて見た」 「というより、何で結局上がりこんでんだ…」 歩遊の背後で立ち尽くす俊史は憮然として呟いた。それは歩遊に向けて放ったというよりは、誘われるままこの様な「異世界」に入り込んでしまった自分自身に言ったもののようだ。 そんな戸惑いを見せる俊史をよそに、歩遊は自らも椅子には座らず辺りの散策を続けた。 「あ、何だろ、この赤い実。食べられるのかな? こっちも見たことない青い花! 本格的だね、こういうの、ガーデニングって言うんだよね? わざわざ土入れてさ、綺麗だなあ」 「こんなのが嬉しいのか、お前は」 やたらとはしゃぐ歩遊に俊史がふと開き直ったようになって顔を上げた。来てしまったものは仕方がないし、歩遊の喜ぶ顔が見られたことは単純に嬉しく感じたらしい、俊史はその予期せぬ収穫に少しだけ和らいだ態度を見せた。 それに歩遊もにこりと笑って元気良く頷く。 「うん、だって懐かしいよ。ほら、クローバーまである。昔、磯城山でよく摘んだよね。僕はこれで王冠とか作るのが好きだったんだけど、みんなには『女みたいなことしてる』ってバカにされちゃってさ」 「……バカにされた思い出をそんな楽しそうに話すなよ」 一瞬詰まりながら返す俊史に、歩遊は実に呑気に笑った。 「あ、そうだね。でも俊ちゃんは後から僕が作ったやつ貰ってくれたから。覚えてる?」 「忘れた」 歩遊は即答する俊史を残念そうに見やって「まあ、そうだよね」とすぐに自己完結したが、ふと思い立ったような様子で顔を上げた。 「でも何か……そういえば、凄く似てる」 「何が」 「ここ。磯城山に似てない? あの木もないし、勾配や、みんなで遊ぶ拠点にしていた大岩もないけど。雰囲気っていうかさ。何か似てる」 俊史はそれに何も応えようとしなかったが、歩遊は構わずに続けた。 「考えたら凄く不思議だよね。勿論、偶然なんだろうけど、秋さんの名前もその…一緒だし。秋さんはさ、あのシュ……シュウさんのわけ、ないのに」 「当たり前だろ。お前、何言ってんだ」 「うん」 歩遊はすぐに頷いたのだが、俊史は納得しなかった。歩遊の口からシュウの名前が出たことで明らかに気分を害したようだ。 「まだあんな訳分かんない時のこと考えているのか。無駄なんだよ。……もう忘れろ」 「そんな……でも――」 「シュウなんていない。あんなもの幻だ。お前が見た都合のいい夢」 「夢?」 言われたことに今度は歩遊が納得いかず、さっと抗議するような目を向けた。 「そうだよ!」 けれどそれがまた俊史の怒りの琴線に触れたようだ、いつもの怒声が降り注ぐ。 「当たり前だろ! あんな……いるわけないだろうが、普通に考えろよ、バカじゃないのか? あんな所にあんな……人間なんかいるわけないだろッ。シュウなんて奴は、全部お前だけが見た幻影なんだよ!」 「そん、そんなことないよ! だってシュウさんは――」 「いないんだよ! 一人でうじうじして、ダチの一人も出来ない孤独なお前が勝手に見た夢だ! お前は自分にだけ優しくしてくれる便利な存在が欲しかっただけだ!」 「そ……」 あまりの言いように歩遊は言葉を失ったが、それは夢中で怒鳴った俊史の方もそうだったらしい。さすがに言い過ぎたと思ったのかハッとして口を閉ざし、すぐさま決まりが悪そうに視線を逸らす。眉間にきつい皺を寄せたまま。 「夢じゃないよ……」 歩遊はそんな俊史を泣きそうな顔で見つめながら、それでも絞り出すように言った。 「だって、いたんだ、シュウさん。絶対。俊ちゃんだって会ったじゃないか」 「……俺は見ていない」 「嘘だよ。だっ……何で、今さらそんな風に言うの? 確かに……ほ、本当に不思議だったけど。シュウさん、確かに普通のひとみたいには思えなかったけど。でも、僕は」 「煩い! あんな奴のこと、大体、前から二度と口にするなって言っているだろ!」 「い……嫌だ!」 歩遊は恐る恐るながら、それでも表情を歪めたまま抵抗した。俊史がそれで更に殺気立った顔を見せたが、それでも引けなかった。 確かに歩遊はいつでも寂しかったけれど、だからといってありもしないものを創り出すような真似はしない。そもそもそんな芸当編み出せない。それに、今こうして俊史との距離を縮めることが出来たのとて、あのことがあったからこそだと思う。毎日磯城山へ行く歩遊を俊史が心配し、以降、二人で一緒にいる時間が増えた。 あの時のことがあったから。 「お待たせしました」 その時、気まずい空間をビリリと破るようにして秋の声が響いた。歩遊がびくりとして部屋の入口へ目をやると、秋は犬のフォレストを従えてにこにこしながら「ごめんね、用意に手間取って」と謝った。 そんな彼の両手には茶器ののった大きめの盆。そしてフォレストの口には青色の紙袋が咥えられていた。恐らくそれは秋が言っていた「美味しいクッキー」だろう。フォレストは嬉々としてその運搬係を買って出ているというわけだ。 俊史に背を向けて、歩遊はその場を取り繕うようなひきつった笑いを浮かべた。 「クッキーの他にも色々なお菓子があったから、どれを持ってこようか迷っちゃって。待ちくたびれたかな?」 「そんな。あの…ここ、凄いですね」 「そうでしょう? 自慢のジャングルだから」 「え? ジャングル?」 テーブルに茶器を並べる秋の傍へ寄って行きながら、歩遊はその言葉に驚いて目を丸くした。 秋は誇らしげに頷く。 「外が寒かったから、今はまだあまり感じないかな。ここの室温、結構高めに設定しているんで、暑がりの人なんかは『南国みたい』って言って、北のエリアに行きたがるんだ。でも、そっちは主に親父が使っているから、お客さん用はこのジャングルの南エリアを使うの」 「な…何ですか? その、北のエリアとか…」 「あ、ごめん。つまり、部屋毎に気温や湿度を調節して、それにあった植物をそれぞれ育てているわけ。ここは主に南方に生息している熱帯植物を中心に育てているから、南エリア。親が好んで住み着いているのは、寒い土地の植物がある北エリア」 「へ、へえ…?」 話しているうちに段々とくだけてきたのだろう、秋はすっかり敬語を解いて生き生きと周りの植物について話し始めた。あまりに楽しそうに語るので、熱心に聞かねば申し訳ないという程の熱弁ぷりだ。 「あ、ごめん。お茶の用意するね」 それでも一通り辺りの説明をし終えた後、秋ははたと気づいたようになって恥ずかしそうに笑った。それから急ぎテーブルへ戻って、彼は待ちくたびれたように座っていた犬のフォレストから菓子の入った袋を受け取る。 歩遊は傍でそれをじっと眺めていた。やはり顔は全然似ていない。言動も。 にも関わらず、秋が纏う空気に触れていると、何故か歩遊はどうしてもあのシュウを思わずにはおれなかった。 「俺、今はもう東京の大学に行っているから、ここのことは親に任せっきりだし、本当はこいつらのことも忘れるつもりでいたんだけど」 その秋が湯気の立つお茶を注ぎながら言った。 「やっぱり一度帰ってきちゃうと、どうしたってあの頃の愛着なんかを思い出すから、何だかんだ弄りたくなっちゃって困るよ。……その勢いで、こっちの仲間にも連絡すればいいのにね」 「あ……」 そういえば秋は海岸で会った時、親しいものと「ずっと一緒にいるのが嫌になって」故郷を飛び出たというような話をしていた。歩遊は秋にどこかシュウの面影を感じて狼狽していたからあまり真摯にその話を聞いていなかったが、当然のことながら、この秋は普通の人間。色々なしがらみがあって当然なのだ。 現実に引き戻されるような感覚を味わいながら、それでも歩遊はどこか困ったような、それでいて何かを慈しむような秋の優しい眼差しに自然吸いこまれた。もしかすると、ただでさえシュウを感じさせる彼がふっとこんな人間臭さを滲ませたからこそ、落胆もしつつ、より強い親近感を抱いたのかもしれない。 「はい、どうぞ」 そんな秋がもてなしてくれたアップルティーとクッキー、それに苺のロールケーキはとびきり美味しかった。 「凄い!」 まだ俊史が席についていないのに促されるままそれらを口にした歩遊は、あの蜂蜜を味わった時と同じかそれ以上の感動で目を潤ませた。 「美味し過ぎます! どっ…どこのお店で買ったんですか? この近く?」 「いや。うちで作ったものだけど」 秋は嬉しそうに答え、未だ自分たちとは少し離れた位置に立ち尽くしたままの俊史にも「どうぞ」と再度声を掛けた。 「あの、昨日の蜂蜜も凄く美味しかったんですけど、このケーキにもあれが使われているんですか?」 「ああ、もう味見してくれたんだ? 嬉しいなあ。うん、種類は違うけどね。サークルでお世話になっている養蜂家さん家で作ったやつだよ。このケーキに使っているのは普通のアカシアだけど、昨日あげたやつはパインとかココナツとか、色々な植物から採られた蜜だから珍しかったでしょ? ちょっとクセはあったかもしれないけど」 「僕、甘いもの凄く好きなんですけど、ああいう甘い味は初めてでした。それに、あれを食べたら何だか凄く身体が軽くなったって言うか、元気出た気がしたし」 実際あれのお陰で熱が引いたのではないかと思うほど、この日の歩遊の体調は著しいまでの快復を見せていた。 「気に入ってくれたんなら、東京帰った後もまたあげるよ」 「え?」 すると秋が突然そんな提案をした。 歩遊はその発言に喜ぶよりも先に驚いたのだが、秋の方は相変わらずマイペースでにこにこしている。 「歩遊君も東京なんだよね? こっちには遊びに来ているだけで」 「あ、はい…」 「それなら、これからも会えるでしょ?」 「え、あ、は……」 はいと言おうとしたところで、しかしこの時になって初めて俊史が声を挟んだ。 「東京って、どの辺りに住んでいるんですか」 秋に何度誘われてもテーブルに近づかなかった俊史は、そう言いながらようやくツカツカと傍に寄って来た。歩遊はどきんと胸を鳴らして嫌な予感を抱いたが、俊史はそんな歩遊を一瞥すらしない。ただ敵意剥き出しで秋を見据える。 けれど秋はそんな俊史に対しても態度を変えず、すぐに気さくな調子で自分が通っている大学や駅周辺のことを告げた。 秋の住んでいるというアパートは歩遊たちの家から随分と近かった。 「俺たちのこと、最初から知っていたんですか?」 しかしそれを知ると、俊史の声色はますます険悪になった。 「ええ? どうして?」 秋は冷静だ。少しだけ引き気味のような感はあったが、あわあわとし始めた歩遊とは比べるべくもない。それどころか俊史の仏頂面をどこか物珍しそうに眺めている。 「歩遊君とは、あの海岸で会ったのが初めてだけど」 「だったら何で東京だの何だの、こっちが住んでいる所のことまで知っているんだ。海岸じゃほんの一瞬顔を会わせただけのはずだろ。それなのにこんな馴れ馴れしく……あんた、一体何なんだよ」 最初こそ丁寧に話しかけていた俊史だったが、それが保ったのも一分ほどだ。歩遊はいよいよ焦って椅子から立とうと腰を浮かしかけたが、しかし秋がそれを目だけで軽く制した。 「別にいいよ」と、言外に告げられたのがはっきりと分かる。 『大丈夫』 (え…?) しかもその直後、まるで脳内に直接そう話しかけられた気がして、歩遊は自然力が抜け、すとんと椅子に座り直した。 「名前も。何で知ってる?」 一方、俊史にその「声」は届かなかったようだが、秋と歩遊が視線を交わらせたこと、歩遊が秋に見惚れるようにして動きを止めたことが分かると、もう爆発寸前だった。さらに凄むように前へ出て、大抵の人間ならその迫力だけで怯む程の眼光で睨みつける。 「俺と歩遊の名前だよ! 何で知っているんだ? 俺たちはお前に名乗ってなんかいない。怪し過ぎんだよ!」 「ちょっ…俊…!」 普段外面の良い俊史は、歩遊や戸部といった一部の者以外には当たりも良く、例え腹の立つことがあったとしてもこんな荒っぽい様子を見せることはない。冷静さを失うことが結果的に自分の立場を不利にすることを承知しているからだ。 それなのに今の俊史は完全に沸騰している。幾ら秋に不審を抱いているといっても、その失礼千万な態度はまさに極悪と言って良かった。 「名前は歩遊君から聞いたんだよ」 しかし秋はあっさりとそう答えた。そして歩遊に「ね?」などと同意を求める。 「え? あ……はい。たぶん」 だから歩遊も曖昧ながら頷いた。正直そんな覚えはなかったが、そうきっぱり言い切られると「そうだったかもしれない」と思えてくるから不思議だ。それに、もしここで「名乗っていません」などと言えば、俊史の怒りがさらに上昇することは分かり切っていた。 歩遊は素直に頷き、それから俊史の腕を遠慮がちに引っ張った。 「俊ちゃん、もういいじゃん」 「何がいいんだ。全然良くねえ」 「何でそんな……怒らないでよ」 「お前には怒ってねーよ!」 「そ、そういう問題じゃ…。俊ちゃん、どうして?」 「ヤキモチだよね」 すかさずそう口を挟んだ秋に、歩遊はぎょっとして口を閉ざした。俊史の手首は掴んだままだったが、窘めていた手はもう動かない。 「二人は仲がいいんだね」 秋が続けて言った。そうして完全に動きを止めてしまった二人を前に、ゆっくりとカップに口をつける。 「お正月に二人だけでこんな所まで旅行に来るくらいだし。俊史君は俺が歩遊君に笑いかけただけで怒り心頭だし。もしかして、ただの友だちじゃないとか? ――二人は、付き合っているとか?」 「つ」 歩遊がその言葉にあわと一文字だけ呟くと、それを掻き消すように俊史が声を被せた。 「だったら何なんだ? あんたに何か関係あるか?」 「否定しないの?」 秋が探るようにそう訊いた。 歩遊はドキドキと心臓の鼓動を速めながらそっと俊史を見上げたが、俊史はそんな歩遊には視線をやらず、ただ秋を睨みつけていた。 そしてやがて、きっぱりと言った。 「ああ、そうだよ。――…歩遊は俺のだ」 しかも俊史は秋がそれに対して言葉を返す前にさっと歩遊の手を取り、「帰るぞ」と続けた。 「――……っ」 歩遊はそれに対して何も言えず、秋もまたそんな二人を特に引き止めることはなく、犬のフォレストだけが「もう帰るの?」とばかりに寝そべっていた身体をのそりと起こした。 それでも勿論、俊史は構わない。振り返ることなく猛烈な勢いで歩遊を引っ張り、サンルームを後にする。 「しゅっ…俊ちゃん、待って」 引きずられるようにして歩かされるものだから堪らない。歩遊は廊下を暫く行ったところでようやく責めるような声を上げた。背中しか見えない俊史に不安を覚える。何も言わず静かに座っていた秋の姿も気になった。だからちらりと背後を振り返ったのだが、そんな歩遊の行為がまた俊史の怒りに火をつけた。 「急げよ! さっさと出るぞ、こんな所!」 「あっ、痛! で、でも…!」 「でもじゃねえよ! 俺に逆らうのか!」 「……っ」 俊史からそんな風に強く言われて歩遊が逆らえるわけがない。大人しく口を噤むと、俊史は再び前を向き、足取り荒く出口へ向けて歩き出した。 歩遊はそんな俊史の背中を必死に追いながら、俊史が先刻発した台詞を頭の中で反芻した。 「わっ!?」 けれどその思考も長くは続かなかった。 出口に到達したはずの俊史がその扉を開けた途端、急に足を止めるものだから、歩遊は勢い余ってその背中へもろに追突した。 「ど、どうしたの…? ――あ!」 鼻を押さえながら問いかけた歩遊は、しかし俊史が立ちすくんだ理由をすぐに理解した。……目の前の景色を認識できたというだけで、どうしてそこが「そう」なのかは分からないままだが。 「ど……何で?」 外に出るはずだったそこは、薄暗い物置。 古ぼけた棚には蜂蜜の入った瓶が並んでいる。 植物を植える為のプランターや小さな鉢もそこら中無秩序に置かれてある、そこは埃っぽい部屋だった。小さな窓が一つだけ慰み程度についているが、埃で汚れているせいか光が遮断されていて視界が悪い。部屋自体は割に広かったが、その雑然とした、そして突如として出現したかのような閉鎖空間に、歩遊はごくりと息を呑んだ。 「ま、真っ直ぐ、来たよね?」 「………」 俊史は答えない。更に一歩二歩と部屋の中に踏み込んで辺りを見回しているが、歩遊同様、明らかに狼狽していた。 確かに秋の家は広大だが、だからと言って帰りに迷うほどではない。それに、案内されたサンルームから玄関まではほぼ一直線上に繋がっていたはずなのだ。幾ら俊史が激昂して冷静ではなかったからと言って、たかだか日本の一般家屋で「迷子」になるなど、通常では考えられない。 「あれ…?」 しかし歩遊はその異常事態に一度は怯えた風を見せたものの、俊史の手を握り直した後は割と冷静になったのか、辺りを見回してあることに気が付いた。 というよりも、感じた。 ここと似た場所をよく知っている。 「戻るぞ」 けれどそれが何処だったかと考え込もうとしたところを俊史に引っ張られた。これ以上奥へは行くなという意思表示だ。 「……開かねえ」 「え?」 ところが戻ろうとしたその二人にさらなる災厄が襲った。 「開かねえ。扉が。くそ、ふざけた真似しやがって!」 どんと扉を強く叩き、俊史はいよいよ頭にきたように怒鳴り声を上げた。歩遊はそれにびくりとして思わず手を離したが、俊史の方も室内の明かりを灯す為か壁際を伝いさっと離れて行ってしまったので、二人は一瞬、互いの距離感も計れない暗闇に落ち込んだ。 勿論それに焦ったのは歩遊の方だ。もともと暗闇はあまり好きではない。 「ちょ、俊ちゃ…がっ!」 慌てて後を追おうとした歩遊は、見事足をもつれさせてその場に思い切り転倒した。辺りが鉢やら何やらに支配されていて足場が少なかったせいだ。情けない声が咄嗟に漏れて痛みに目を潤ませると、不意ににゅうっと手が伸びてきて歩遊は俊史に引き寄せられた。 「あっ…」 「バカ、何してんだ。大丈夫か?」 「う、うん。だって、俊ちゃんが…」 「電気のスイッチ探してたんだよ。……俺はここにいるだろ」 「うん」 それでも心細くて歩遊がきゅっと抱き着くと、俊史はあからさま驚いたように身体をびくんと震わせた。歩遊を抱きしめ返してきたのはそれから数秒程経ってからだ。 「他に出口がないか探してみる。……お前はそっちに座ってろ」 やがて俊史は歩遊の髪にそっとキスをしてからそう言った。先刻まで酷かった怒りが、今はもう大分引いている。 「ドアが開かないって何で? 何で秋さん、こんな…」 「知るか。……とにかく、そこでじっとしてろ」 「うん……」 扉があった方角から離され、歩遊は俊史に引っ張られるまま障害物の比較的少ない奥の壁際に座らされた。動くなと言われればそうするまでだ。 だから歩遊は俊史が暗闇の中で入口以外に抜けられる場所がないか、棚の隙間や荷物がぎゅうぎゅうに置かれた所などを探っている間、その影だけを黙って追った。 追い続けて、やがて歩遊は「あ」と声を上げた。 「何、だよ、急に」 当然、俊史はそれに驚いたようになって身体を上げ、振り向いた。 「思い出した」 歩遊は遠目からそんな俊史を見やりながら、戸惑いがちに告げた。 「思い出したんだ。ここ、どこかに似ているなって思っていたんだけど。あのさ、ここは、磯城山の麓にあったバラックの家だ」 「は…?」 俊史は一瞬怪訝な顔をしたものの、はたと思い出したようになってしんと黙りこくった。 それで歩遊も俊史が同意したのだと思って急いで続ける。 「ね、似ているよね? 昔さ、磯城山でよく遊んでいた頃に見つけた秘密基地。秘密基地って言っても、多分誰かが住んでいた場所だったのかもしれないけど。色々変な物が置いてあって、暗くて怖いんだけど、面白くてさ。あそこに漫画やお菓子を持って行って遊んだりしたでしょ」 「……忘れた」 「嘘! あそこはよく行ったじゃん。秘密基地はさ、他にも磯城山に色々作ったけど、バラックの家が一番面白かった。変な無線機みたいなのもあったし」 「あそこは地元の高校生なんかも入り浸っていたらしいからな…。後でそいつらと鉢合わせした奴が、『ここは俺らの場所なんだから二度と近づくな』って散々脅されて、だからそれ以来あそこに行くのは止めたんだ」 「そうなんだ? 何だ、やっぱり俊ちゃんだって覚えてたじゃん!」 そのツッコミに俊史は珍しくバツの悪い顔をしたが、昔の思い出が堰を切ったように溢れ出てきた歩遊はそれに気づかなかった。妙に急いた気持になった。自分でも面白いように過去の映像がぽんぽんと浮かび上がってきたのだ。 「そうかぁ。だから突然、僕があっちに行こうとした時、俊ちゃん凄く怒ったんだ? 前はしょっちゅう行っていたのにさ、ある日いきなり『お前あそこに行くな、行ったら殴る』なんて言ったでしょ? だから僕はてっきり、いつもの仲間外れになっちゃったのかなって思ったよ」 「仲…っ」 歩遊当人に全く悪気はないのだが、昔のいじめをストレートに指摘された俊史はあからさま言い淀んでたじろいだ。 子どもの頃から俊史は歩遊を大勢との遊びの輪に入れようとはしなかった。時折気紛れで一緒に連れて行くことはあったが、歩遊はそこで大抵からかいの対象にされるだけだったし、何をしてものろまだから皆から疎まれ、邪険にされた。仲間内のリーダー的存在である俊史が率先してそういう態度を取るから、余計に迫害された。 それでも歩遊は俊史についていきたがったし、仲間外れの時も、彼らが遊びの拠点にしている磯城山やその周辺で一人遊びをして、帰りに俊史が迎えに来てくれるのをじっと待った。 「懐かしいな。バラックの家にいた頃もね、こうやって一人で俊ちゃんを待っていたことあるよ」 聞く者が聞けば悲惨な過去である。 しかし歩遊は一人はしゃいでそう言った。ただ単に記憶の波が押し寄せ続けていることに興奮していたのかもしれないが。 「あそこもこんな風にちょっと薄暗かったから、夕方頃一人でいるのは怖いこともあったけどね。でも、秘密基地ってだけでわくわくしたし。それに俊ちゃんは絶対に迎えにきてくれるって分かっていたから、だから待つのも平気だったよ」 俊史は何も言わない。 「あ……」 さすがに話し過ぎたかと歩遊はすぐさま反省したが、それでもこの暗闇があったからこそ、歩遊は少しだけ大胆になっていた。 だから先刻のことを訊ねる勇気も沸いた。今のこの気分なら、勢いでいけるとも思った。 「俊ちゃん、その……。あの、話は変わるんだけどさ…その…、さっきの話って、その、本当?」 俊史に問いかけながら歩遊は尚自分が先に言葉を続けた。 「その、僕たちがつ…付き合っている、っていうの…」 歩遊は俊史のものだ。それは間違いない。歩遊自身そう思っているし、俊史も先刻そう言った。 けれど秋に向けて放ったあの時のその回答は、今まで何度も繰り返し確認されてきた「お前は俺のものだろう」というそれと同じ台詞のはずなのに、歩遊には全く違うもののように聞こえたのだ。 しかも秋の「二人は付き合っているのか」という問いに対し、俊史ははっきりと肯定した。 「歩遊」 その俊史が歩遊の傍に寄って来た。そうしておもむろに歩遊の隣に座り、立てた片膝に手を乗せて、やがて言った。 「磯城山で…」 「え?」 「遊びの拠点を色々作り過ぎたせいで、帰りに置き去りにしたお前を探すのはいつも骨だった。俺はバラックの家も他の秘密基地も全然好きじゃなかった。お前は気に入っていたみたいだけどな」 「そう…なんだ?」 「大体、あそこは俺たち以外の奴らも皆知っている遊び場だっただろ。だから待ち合わせ場所をあの木の根元に決めたんだ。あそこは他の秘密基地と違って他の奴らにはあまり知られていなかったし」 「そう……なの? でも、あそこは一番大きくて目印にもなるからって」 「少なくともバラックの家よりは人気もなかっただろ。お前をあそこで待たせるって決めてから、余計そことは離れた場所で遊んだしな。……それで俺はやっと安心出来た。あそこならお前を独りにさせておける」 きっぱりと言って、俊史はようやく歩遊を見つめた。 「俺はお前を独りきりにさせておきたかったんだ。ずっと、誰も近づかせたくなかった」 「そん……」 「そんなのは、酷いよな」 俊史は歩遊の言葉を先取りし、自嘲するように笑った。 「俺は最低最悪の奴だ。お前と違って俺は何も持ってない。だからお前が俺を本当の意味で好きになることなんて絶対ないと思ったし……今も思ってる。だから俺は、いつもむかついていた。お前が俺以外の誰かと関わる度に……むかついた」 「俊……」 「お前が、行かなくなったはずの磯城山で誰かと会っているって聞いた時、猛烈に腹が立った。お前は独りで家に帰って、独りであの家にいて、俺を待っているはずだったのに。ヒトだろうが、そうじゃない何物だろうが関係ない、お前が惹かれる存在なんか全部掻き消したくなる。当たり前だ、俺は、お前を、」 言いかけて、けれど俊史は初めてそこで歩遊が自分にじっとした視線を向けてきていることに気づき、はっと唇を閉ざした。歩遊は期待するような目を向けていたから嫌がられたのかと思いすぐに目を逸らしたのだが、暫しの沈黙の後、俊史は思い直したように再び言葉を紡いだ。 「お前と同じじゃない」 それで歩遊も再び俊史を見やった。互いの視線が交錯した。 「俺のこの気持ちは……本当の俺を知らないで俺を好きだなんて言うお前なんかとは、全然違う。俺はお前みたいに簡単に、これまでのこの気持ちを……口に出来ない」 「……何でそんなこと言うの」 「煩い。これ以上はもう言わない」 俊史は横暴にそう言って、けれど歩遊の手をぎゅっと握った。 そして言った。 「それでも、お前はこれからも俺の傍にいるんだ」 俊史の歩遊を握る手の力はとても強かった。歩遊は額にじりと汗を掻き、今はもう横を向いてしまった俊史を見つめた。胸が痛い。俊史の気持ちが自分の中にも流れ込んでくるのを感じた。 その時、ぎいと微かな音がして、入口のドアが少しだけ開いた。 歩遊たちは同時にハッとしたが、身体を動かしたのは俊史の方が先だった。「ふざけやがって」と口走りながら俊史は歩遊の手を離すとさっと立ち上がり、すぐさまドアへ向かってその扉を開けた。歩遊も慌ててその後に続こうと腰を浮かし、けれど瞬間、ぐいと肩を掴まれて絶句した。 「な……」 「しっ」 肩を掴んだ相手は秋だった。 どうやって、否、いつの間にこんな近くにまで来られたのか。まるっきり突然現れたかのような秋の姿に、歩遊は「静かに」と窘められるまでもなく声を失い、その場で固まった。 「ふふっ。忍者?」 その秋は歩遊の疑問を正確に察知したようだ。ふざけたようにそんなことを言い、彼は忍が術を唱えるように両手を組んだ格好まで取ってにこやかに笑った。 唖然とした歩遊は直後焦ったように扉の方を見たが、何故か開け放たれたドアの近くに俊史の姿はなくなっていた。 「え? 俊…っ」 「大丈夫、大丈夫。多分、そこら辺にいるから」 すると秋は落ち着かせるように耳元でそう囁いた後、歩遊の手を取って自分と一緒に歩遊のことも立ち上がらせた。 そうして歩遊の服から埃を払うような仕草を何度か取った後、「どうしてかな?」と訊いた。 「え?」 「あんな勝手な彼氏でいいの?」 「な、何……」 「好きとも言ってくれない。ただ一言告げるだけじゃないか。でも頑なにそれを拒んで、ただ君に傍にいろって、それだけ。歩遊君は彼の物じゃないでしょう。それなのにあんな風に束縛して。これからもそれがずっと続くんだよ。それでも、君はいいのかな?」 「そん、そんなこと…! あ、あの、僕、帰ります」 秋は優しく訊いているのだが、歩遊は何だか不安になった。秋が怖いというのとは違う。むしろ秋の空気はやはりあの磯城山でいつも歩遊を温め慰めてくれたシュウと同じもので――。 ただ、今は急に姿の見えなくなった俊史が心配だった。 「歩遊君」 けれど秋はしきりと扉の方へ目をやる歩遊の肩を軽く叩き、もう一度自分の方に向き直させると、あの凛と響く声で呼んだ。 歩遊はそれに反射的に応えた。 優しい眼差しを湛えるその瞳に吸い寄せられる。 「ねえ」 その秋は歩遊に対して静かに、そして穏やかに言った。 「歩遊君。俊史なんかやめて……俺と、付き合わない?」 |
To be continued… |
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