―25― |
秋が突然、それこそ本人が言うところの「忍者」のように歩遊の目前に現れることが出来たのは、その物置に入口とは別の裏戸があったからだった。 「あの! 僕!」 「いいからいいから」 そうして秋は殆ど有無を言わせぬ勢いでその扉から歩遊を外へ押し出すと、そのまま手を取って歩き始めた。何と用意周到なことか、外に通じていたその扉の傍には既に歩遊の靴が置かれていて、恐らくはそれを持ってきたであろう張本人、犬のフォレストも尻尾を振って待ち構えていた。 しかし何処へ行こうというのか知らないが、歩遊がそれに付き合う義理はない。それどころではないのだ。 (何か変だ。俊ちゃんが…!) 無理やり手を引かれたまま、歩遊は必死に後ろを振り返った。 秋の家はどんどんと遠ざかってしまうが、そこから俊史が出てくる気配はない。そもそも閉じられたはずの扉が急に開いて、俊史がそこから外へ出たきり戻ってこなかったのは明らかにおかしい。幾らドアが開いたからと言って俊史が歩遊を置いて一人だけで帰るなど考えられないし、俊史が消えたのと同時に秋が現れたあのタイミングも不自然過ぎる。 それでも。 「秋さん!」 手を振り払ってすぐに秋の家へ戻りたいのに、歩遊は秋の拘束から逃れることが出来なかった。まるで何かに操られているようだ。ただ出来ることと言えば、せいぜい歩かされながらも何とか後ろを振り返り見ることだけ。 「何処に行くんですか!」 思い余って歩遊は叫んだ。秋は飄々としてまるで動じた風がないから、一見切羽詰まっている歩遊の方が「間違っている」ように見える。けれど、屋内でいきなり「迷子」になったことといい、意図せず俊史とバラバラに「された」ことと言い、俊史ほどでなくとも、さすがに歩遊もこの秋という人物に不審を抱かざるを得なかった。 加えて先刻は、歩遊にとっては全く不可解なことを言い出すし。 「僕、戻らないと!」 決してきつく掴まれているわけではない、けれど秋に捕まれたまま引っ張られる手はどうしても自由になれなかった。立ち止まりたいのにそれすらも叶わない。そんな二人の横についているフォレストは、歩遊の如何にも泣き出しそうな顔にどこかしら戸惑った様子で、うろうろと左右に蛇行しつつ並走している。その落ち着かない動きは「楽しいお散歩のはずなのに、どうしてそんなに嫌がっているの?」とでも言いたげだが、歩遊の方こそ「お前のご主人は一体何を考えているの?」と問い質したかった。 ――それなのに、思うような抵抗を示せない。逆らいたいのに、強く出られない。 もともと歩遊は誰かに表だって反抗する「習性」がなかった。 「歩遊のそういうところが好きなんだけど。でも、やっぱり心配にもなるよ」 すると突然、秋はそんなことを言った。 「え?」 言われたことよりも「歩遊」と呼び捨てにされたことに驚いた。それは呼び捨てられるのが嫌だからとか、知り合って間もないのにどうしてとか、そういう気持ちからではない。 まるであのシュウに話しかけられたような感じがしたから動揺したのだ。 「歩遊は俊史にもずっとそうだったんじゃないの」 そんな歩遊に構わず秋は続けた。 「歩遊はこれまで、本当は嫌だと思ったり、止めて欲しいと思ったことがたくさんあったのに、我慢していただけなんじゃないの。強く言えなくて流されてしまっただけなんじゃないの」 「な…そんなの、ないです!」 割ときっぱり否定した歩遊に秋は笑った。まるで信用していないらしい。 「本当に? でも、さっきも訊いたけど、あの子が勝手なことに変わりはないでしょう。いつでも自分の良いようにだけして。いつでも歩遊を好きにして。そのせいで歩遊はこれまでずっと独りだったんでしょう? これからもそうされるよ。それなのに本当に、歩遊は彼でいいの? ――歩遊は、俊史を選ぶの?」 「選ぶ?」 「そうだよ」 ふっと手が離されて、歩遊は目を見開いた。 途端、視界がぱっと広がる。 秋の家に至るまでの小道は比較的背の高い常緑樹が均等に植えられていたし、周囲に人家もなく、閑散としていた。道こそ舗装されていたが、秋の家はどちらかというと森の中の一軒屋という風だったから、こうして引っ張られて歩いていた通りもどこか閉鎖的な雰囲気があったのだ。 「あ…?」 けれど今、ようやっと解放された視界の先に、これまでのその奥まった景色はない。 いつの間にか森を抜けて、歩遊と秋、それにフォレストは海の見える切り立った断崖にまで出ていた。 「う、わ……」 強く吹く風が突然顔に当たって歩遊は目を閉じた。秋は相変わらず平静としていて、再び歩遊に近づき顔を寄せると囁いた。 「ここなら邪魔者も来ないよ。だからもう一度、さっきの返事を聞いてもいい?」 「さっきの…?」 とにかく風が強い。天気は良いのだが、その冷たさも相俟って歩遊はまともに目を開けていられなかった。 それでも秋に迫られていることは気になった。何とか身体を逸らそうとしたが、先んじて再び手首を取られてしまう。 「俺の、告白の返事だよ。『俊史なんかやめて、俺と付き合わない?』って訊いたでしょ」 「さっき断りました!」 掴まれた手首を振り払おうとしながら歩遊はめいっぱいの声で拒絶した。 そうだ、あの暗がりの物置でも、俊史がいなくなったほんの僅かの間に、秋はそんなことを言い出して歩遊を仰天させた。勿論からかわれているとしか思えなかったから、歩遊はそう言われたすぐ直後に、冗談は止めて欲しいと突っぱねたのだ。 にも関わらず秋はそれを良しとせず、何を思ったのか歩遊を外に連れ出して、このような所で再度の告白を仕掛けてきた。 「俊史ならいないよ?」 しかも秋は尚歩遊を離さずにそう言った。 「ここなら、歩遊の怖い俊史はいないんだよ? 俺が鍵を外さない限り……あの子は出て来られない。ここへ来ることは出来ないんだよ。だから安心して、自分の思っていること言っていいんだよ?」 「ぼ……僕、思ったこと、言っています! 別に、俊ちゃんは!」 「関係ない?」 ふふと軽く笑った後、秋は歩遊の頭を小さな子どもをあやすようにさらりと撫でた。 その目はやはり、もう「ごく普通の大学生、秋」には見えなかった。 「それなら歩遊は俊史がいようがいまいが、きちんと自分の思っていることが言えるの?」 「あ、当た…」 「当たり前?」 「当たり前です!」 売り言葉に買い言葉のような勢いで歩遊は抵抗した。本心を堂々と言っている、というよりは、それはまさに「抵抗」だった。 心の奥底では、それがきっと「そうではない」ということが歩遊にも何となく分かっていた。 別に秋に指摘されるまでもない。これまで歩遊は、確かに俊史の顔色を窺って生きてきた。それは否定しようのない事実だ。俊史を怒らせたくなかった。俊史は怒ると怖い。俊史が好きだから俊史を怒らせたくないという自分と、単純に怒鳴る俊史が怖いから、仕方なく大人しくしていた自分がいる。それは似て非なるもので、けれど、どちらも歩遊の本心である。 歩遊は海が大好きで泳ぐことが大好きで、本当はスイミングスクールに通いたかったのに、俊史に何だかんだと言われて習うのを断念したことがある。 シュウと出会ったあの不思議な磯城山にも、本当は時々でいいから通いたい気持ちがあったのに諦めた。あれから自分を心配して一緒に帰ってくれる俊史が嬉しかったから。と同時に、そんな俊史を怒らせるのが嫌だったから。行きたい気持ちもあったのに、我慢していた。 友人である耀のことも。何度か耀に遊びに誘われて舞い上がるほど嬉しかった。これまでは歩遊単体を遊びに誘ってくれる友人などいなかった。いつも俊史を待つばかりで、「自分は足手まとい」と思っていたから、初めて出来た「俊史を介さない友人」に有頂天だった。だから勿論、どんどん遊びに行きたかった。出来れば自分からも耀を遊びに誘いたかった。 でも、俊史が駄目だというから。 その時の怒り具合が信じられない程に激しいから。 そんな俊史を振り切ってまで耀と遊びに行くのは歩遊には不可能だった。 歩遊にとって俊史は絶対だから。 歩遊は俊史が好きで、怖い。 とても、怖い。 「歩遊は我慢しているんじゃないの」 秋が再度訊いた。 「俊史のせいで幸せじゃないんじゃないの」 「違う」 歩遊はすぐに答えた。秋に掴まれている方の手を動かすのは諦めた。どうあがいてもびくともしない。 「違います…」 だから歩遊は掴まれていない方の手を動かし、それで秋からの拘束から逃れようとぐっと手首を掴み返した。自分に力がないことは分かっている。でもこれ以上、俊史のことを酷く言われるのは嫌だった。 確かに歩遊は俊史が怖いけれど……、好きだから。 とても、好きだから。 「僕が弱いことと俊ちゃんは、関係ないです」 だから歩遊は秋の目を真っ直ぐに見てそう言った。 「僕が物をはっきり言えないのは僕の問題で、それは俊ちゃんのせいじゃないです」 それはつい先だって母親の佳代とも確認し合えたことだ。何でも俊史のせいにするのは間違っている。だってそれは違うから。 「でも、俊史が歩遊をそういう性格にしちゃったんじゃないの。俊史だってそれは認めている」 それなのに歩遊の発言を受け、秋はまるで動じる風もなく返した。歩遊がそう答えることなど最初からお見通しで、もう次の言葉を用意しているかのような素早さだった。 だから歩遊はそれでまた少しだけ怯む思いもしたが、それでも自分もすぐに口を継いだ。 「違います。俊ちゃんがそう言っていたって…それは違う。関係ないです」 「俊史と離れたくないの?」 ただでさえ近かった秋の顔が更にぬうっと近づいた。歩遊はその眼光に一瞬臆したが、ここで退いてはいけないと堪えて唇を噛み、そのままこくりと頷いた。 俊史と離れたくないかって、そんなことは当たり前だ。 「怖いのに?」 声に出していないのに秋がそう訊いた。だから歩遊はまた黙って頷いた。 「じゃあ……」 すると秋はにこりと笑ってからやっと手を離した。 けれども直後、酷く意地悪なことを訊いた。 「もし俊史が歩遊から離れたいって言ったら……歩遊はどうするの?」 「え」 「もうお前のことなんか嫌いだから、どこかへ消えてしまえと言ってきたら?」 「ぼ、僕……」 その時、これまでで一番強い風がびゅっと吹いて、歩遊はぶるりと身体を震わせた。それで折角開いていた目もそこで思わず瞑ってしまう。 (僕は……) ただ視界が遮断されたことで秋の追及から僅かでも逃れ、静かな思考の闇に包まれたのは幸運だった。それは時間にすればほんの数秒のものだったのだけれど、問われたことを反芻するには十分だった。 もしも俊史に何処かへ行ってしまえと言われたら? (嫌だ……) 答えは単純明快だった。 これがほんの少し前の歩遊だったら、「来るべき日が来たな」と、むしろ納得して距離を取れた。それが出来たであろうと思う。もともと俊史が戸部と付き合っているという噂を聞いた時とて、歩遊は率直に「寂しい」とは思ったが、二人を優秀で人気者同士のお似合いカップルだという風に認めてもいた。だから彼らが一緒に帰る時も「自分はいない方が良いだろう」と、率先して身を引こうとしたことが幾度もある。当然だから。俊史みたいな凄い人間と自分とでは釣り合わないという思いが強かったから。 (でも今は……) 俊史を好きだと自覚している。俊史にもその想いはきちんと告げた。いきなり身体を繋がされたことはショックだったし、正直あれが「良いもの」だとは未だ思えていないのだけれど、それでも俊史を受け入れられたのは、俊史が自分にとって何にも代えがたい大切な存在、愛しい人なのだと強く実感することが出来たからだ。俊史は歩遊のその気持ちに「好き」とか「愛している」とかいった言葉で返してはくれなかったが、それでも傍にいろと触れてはくれたし、キスもくれたし、それに。 そう、この際、俊史の想いは歩遊には関係がない。 もしも傍に………が、いないのなら――。 《 俺なんか、意味ないんだよ! 》 その時、突然耳に響き渡ったその大声と台詞に、歩遊は弾かれたように顔を上げた。気づかず息を止めていたようで、歩遊は急に胸の苦しさを感じ、ぎゅっと胸元を押さえた。 「俊ちゃん……」 けれどそれよりも、今頭の中に直接聞こえてきたかのような声の主は、確かに俊史だった。歩遊は焦って辺りを見回した。――と、いつの間にやら秋の姿がない。フォレストもいない。歩遊はその場に一人きりで、ただ絶えず吹き荒ぶ風に身体を晒されたまま膝をついて座っていた。 何が何やら分からなかった。 「歩遊!」 「あ…っ」 それでも今度こそはっきりと響いたその俊史の声に、歩遊は反射的に立ち上がった。声のした方に顔を向けると、俊史が物凄い勢いで駆けてくる。ああやっぱりあの声は俊史のものだった、俊史が来てくれたのだ、そう思った。 「歩遊!」 「俊ちゃん…」 ボー然とその姿を見つめながら、歩遊は呼吸を忘れていたせいで起きた胸の痛みを忘れた。俊史がいる、それだけでもう安心だった。 やっぱりだ。やっぱり、俊史はこうしていつでも来てくれる。必ず迎えに来てくれるから。 「歩遊! お前、大丈夫か!?」 「俊ちゃんは……?」 「お前が大丈夫かって訊いてんだよ!」 歩遊も心配だったから問い返したのだが、俊史はきちんと答えない歩遊を頭ごなしに叱りつけ、がくがくと肩を揺さぶった。 「う……」 歩遊はそれで夢から覚めたような気持ちで何度か瞬きしてみせた。俊史のあまりに蒼褪めた顔が物珍しくて、思わずまじまじと見つめたりもした。 それによって俊史の怒りはますます助長されたわけだが。 「目ェ覚ませ、バカ! おま、お前…っ。まさかあいつに何かされたりしてないだろうな!? それにどこか、怪我とか…っ」 「あ…、大丈夫。怪我なんかしてるわけない…」 確かに強引に外に連れ出されたし、秋は何だか様子がおかしかった。少し怖いと思ったのも事実だ。……けれど基本的に彼は歩遊に俊史のことを訊いてきただけ。ただ話をしただけだ。 「でも秋さん…何か急に、いなくなっちゃって……」 「あんな奴の名前呼ぶな!」 俊史はどこかヒステリックにそう叫んだ後、警戒心丸出しの様子で辺りを見回し、まるで外敵から身を守るように歩遊を懐にぎゅっと抱き込んだ。 それで歩遊も同じように開けた視界をぐるりと見渡したが、やはり何処をどう見ても、秋も犬のフォレストも見当たらない。その場にはいなかった。 「俊ちゃん、どこ行ってたの…?」 暫くして、俊史に抱かれたことで安心した歩遊は顔を上げてそう訊いた。 「あの時…ドアが開いてから急にいなくなるから……」 「あいつに拉致られた」 「え?」 言われたことにぎょっとして歩遊がびくんと身体を揺らすと、俊史は大丈夫だという風に再度腕に力を込めた後、素早く首を振った。 「平気だ。というより……ああ、何か分かんねェけど、ごちゃごちゃむかつく事言ってきやがってよ! くそっ!」 「俊……あの、秋さんと、いたの?」 歩遊の問いに俊史は憮然としながらも頷いた。 「ああ…けどあの野郎、途中で急にいなくなったんだ。それできっとお前の所に行ったんだろうと思ったら、案の定あの物置にお前がいないだろ。それで、開いていた裏口の戸から後を追った」 「秋さんが……俊ちゃんと一緒だったわけ、ないんだけど……」 「あ? 何でだ?」 「だって僕もずっと秋さんとい…い、あの……ううん。なんっ…何でも、ない…」 「は? 何だよ…」 俊史は何か言いかけたものの、どこか蒼白な歩遊の顔色を窺い見る為に身体を屈めて視線を合わせてきた。歩遊は俊史が急に間近に来たことで今さら胸がどきんとした。俊史の顔など見慣れているし、第一今は俊史と目が合ったことに照れている場合ではない。 自分たちの身に、どう考えてもおかしなことが起きたのだ。 「……帰るぞ」 けれど同じように感じているはずの俊史が、歩遊が何かを言い出す前にそう言った。 「え?」 当然歩遊はそれに戸惑ったのだが、俊史はもう振り返らない。おもむろに歩遊の手を掴むと、そのままずんずん速足で歩き始める。恐らくは秋のことを口にするのも腹立たしいのだろう、歩遊にももう考えなくて良いと身体全身で訴えているのが分かった。 「俊ちゃん、秋さんは……」 それでも歩遊がその名を口にすると、俊史は案の定「やめろ!」と投げやりな物言いでその先を遮ろうとした。 「余計なこと考えるな。つまんない事も言うなよ。夢だ。気のせいだ。どうでもいい、もう忘れろ」 「む、無理だよ。どうでもいいわけないし…」 「考えるなって言ってんだよ!」 まるで心霊現象にでも遭遇して、それを無理やり掻き消そうとしているかのようだ。普段俊史はちっとも怖がりでないだけに、その様子は歩遊でさえ相当に珍しく映った。 ただ、歩遊も俊史の気持ちは何となく分かる気がした。磯城山での「不思議体験」も、恐怖ではなかったけれどおかしな事には違いなかったし、誰かに話したとしても作り話だとか幻覚で片付けられるのは目に見えていた。「言っても無駄」、それならついでに「考えるのも無駄」という結論。シュウの存在を否定したいわけでは決してない、けれど俊史が彼に固執するのは危険だと感じる気持ちも、歩遊は意識の底の方ではきちんと分かっているつもりだった。 それに別の意味でも、確かに色々考える事に意味はなかった。例えば秋という普通の青年であるはずの彼がちょっとした変わり者だったとしても、或いは本当にあの「シュウ」だったとしても、歩遊にとって大切なのは彼の正体ではなく、彼が誘導してくれたことによって導き出せた「答え」の方だったから。 そして、恐らくは俊史も秋から同じことを訊かれ、答えている。うやむやにしたくないのはむしろそれだった。 「俊ちゃんは秋さんと何を話したの?」 だからもう止めろと言われたのに歩遊は訊いた。あの時の「声」が確かに本物だったのだと確信したかった。 「僕と離れた後……色々訊かれたって言ったでしょ。何を訊かれたの?」 「は…? …何だっていいだろ」 「何だっていいなら教えてよ」 「忘れた」 けれど俊史は一刀両断の下に斬り捨てた。歩遊は手を引かれながらそんな俊史の頑とした背中を見つめたが、負けじと自分から話すことにした。どうしても今起きたことを、自分が導き出した答えを、あの時確かに聞こえた声を、このままなかったことにしたくなかった。 「僕は秋さんに、もし俊ちゃんが僕のことなんか嫌いだから、もうどこかへ消えてしまえって言ってきたら…、そしたらどうするのかって、訊かれたんだ」 「……っ」 ぴたりと俊史が足を止めた。 ぎくりとした様子で振り返ったその顔は、心なしか青さを通り越し白くなっているように見える。 それでも歩遊を握る手の力は弱まっていない。 だから歩遊は逸る気持ちを必死に抑えながら、努めて静かに続けた。 「僕は、ちゃんと声に出しては答えられなかったけど、頭ではちゃんと出せた。その答え」 「……何だよ」 「僕は――」 「やっぱり言わなくていい」 「えっ!?」 自分でも違和感なほど素っ頓狂な声が上がってしまったが、歩遊は容赦のない俊史のその返答に思いきり口を開けたまま唖然とした。 「ちょっ…!」 しかも俊史は先刻よりも数倍イラ立ったような顔立ちで踵を返すと、再び歩遊の手を引いて歩き始めた。非力な歩遊はそれに引きずられて歩かざるを得なかったが、何も言わず、けれど強く自分の手首を掴んで先を行こうとする俊史の背中をボー然と、しかし一時も目を離せずに見つめた。 ざわざわと胸が騒ぐ。そこに湧き上がる感情にはどこかしら痛みも伴っていたし、若干の怒りも混じっていたのだけれど、逆に言わせてもらえなかったことで、歩遊は先ほど頭の中に直接響いてきたあの声が、やはり俊史のものであると確信した。 自分は口にしていない。でもあの時、確かに聞こえた。 意味がないと、あの声は言っていた。 「僕も、俊ちゃんがいなきゃ意味ない」 だから俊史の背中に向かって歩遊は言った。 「僕なんて意味ない。俊ちゃんがいなきゃ意味ない」 俊史は何も答えなかった。こちらを見ようともしない。ただ歩き続ける。 「俊ちゃん」 そんな俊史に歩遊はもう一度きっぱりと言った。 「俊ちゃんがいるなって言ってもいるよ。強引にいるよ。僕が自分で選んでいる。一緒にいたい」 俊史が何と言おうと関係ないから。 「俊ちゃんと一緒にいたい」 「バカなことばっか言ってんじゃねえよ」 するとようやく俊史がそう言った。歩くそのペースはまるで緩むことがなく、歩遊を掴む痛いくらいの力もそのままだ。 けれど俊史は耳元や首筋を仄かに赤くしながら、ようやく自らもぽつりとだけ発した。歩遊の顔は見ないまま。 「くだらないこと……ごちゃごちゃ言うな」 「どうして。だって大事なことだよ」 「俺にはどうでもいい。お前の気持ちなんか関係ない。お前が何て言おうが……もし、お前が俺から逃げたいって言ったところで……どうせ俺はお前を傍に置くんだ……」 「……僕、逃げたいなんて、そんなこと言うわけないよ」 「煩い」 「全然逆だよ。変だよ。僕は今、一緒にいたいって言ったんだよ」 「煩い。お前の気持ちなんかどうでもいい」 「どっ…どうでも、よくないよ……」 「俺にはどうでもいい。お前の気持ちなんか……」 「そんな…!」 あまりの言いように歩遊は鼻白んだ。それでも、これまでに俊史がくれた言動を支えにどうにか踏みとどまり、ぎゅっと足を止めると歩遊は強引に俊史の手を引っ張った。自然、それで俊史の足も止まる。 「さっき、僕がいなきゃ意味ないって言ってくれたの?」 「あ…?」 「秋さんに訊かれて、そう答えてくれたの」 「……あいつの名前なんか出すなって言っただろ」 「俊ちゃんが好きだ」 振り切るように歩遊がそう言うと、俊史は意表を突かれたようになって肩先をぴくりと動かした。 それでも未だ顔を逸らしたままの俊史に歩遊は焦れた。 「好きだよ」 「しつこいぞ、歩遊」 「だって……」 俊史が信じてくれないからと言おうとして、けれど歩遊は途中で口を噤んだ。 結局歩遊がどう言おうが、俊史は「関係ない」と言うのだろう、そう感じた。 歩遊が俊史の気持ちに関係なく俊史の傍にいたいと言うのと同様、俊史も己自身の問題で、歩遊が向けてくる俊史への「好き」は、自分が歩遊に抱いている「気持ち」とは違うのだと言い張るのだ。 「……もう行くぞ」 すっかり諦めたようになって静かになった歩遊に俊史がそう言った。歩遊は答える気が起きなくて項垂れたままその場に立ち尽くしていたが、今度はそんな歩遊に俊史が焦れて歩遊の手を再び掴み直した。 「帰るって言っているだろ」 そうして腹立たしそうに歩遊を引っ張る。 歩遊はされるがまま歩かされた。 暫く歩き続けて、二人は別荘へ通じる海岸線へ出た。穏やかな天気だが、風が強いせいか辺りに人の気配はない。波も多少荒いようだ。そのさざ波を意味もなく眺めながら、歩遊は俊史に手を引かれたまま無機的に歩き続けた。 それでも胸の中のざわつきは酷くなる一方で、無性に叫び出したいような、暴れまくりたいような、そんな普段は決して沸き起こらない衝動に駆られてどうしようもなくなった。歩遊は基本的に「大人しい」が服を着て歩いているような存在だから、これまで何らか不条理なことが起きたり悲しいことがあったとしても、無闇に叫んだり暴れたりなどしたことがない。そんなことをしても俊史に無駄に怒られるのが分かっているし、そもそも歩遊自身、余計な波風が立つことを好まない。特に俊史を怒らせるのは最悪の行為だ。 それなのに、そこまで分かっていて尚、歩遊は今、とにかく無茶苦茶に暴れたくて仕方がないと思っていた。俊史に怒られたくないのに、がむしゃらに身体を動かして声を張り上げて、それからもう一度俊史に「好きだ」と言いたかった。 第一、ここは海岸だ。それをするには絶好の場所ではないか。 「海に入りたい」 思わず、と言った風にそんな言葉が出た。勿論、俊史は歩遊のそんな突拍子もない台詞はまともに取らず、「何言ってんだ…」と呟くように返すだけだった。 「水被りたいんだ。思いっきり」 それでも諦めずに再度そう言ってみると、今度は俊史も不審な顔をして振り返った。それはあからさま「いきなりそんなことを言い出すなんて頭がおかしいんじゃないか」という顔だったが、それによって歩遊は余計に胸がざわめいて、いよいよ掴まれた手を強引に、それこそこれまでに出したこともない程の力でめいっぱい振り払った。 「な…」 歩遊にそんな「拒絶」をされたことがない俊史は、これに当然絶句した。けれど歩遊の胸のざわめきは一向に萎えず、自由になったことによって箍が外れたかのようにダッと海へ向かって走り出し、そのままばしゃばしゃと波打ち際を蹴って奥へ奥へと進んでいった。 俊史にしてみれば訳が分からない。歩遊がねじの飛んだ玩具のようにまるで考えられない方向へ突如として突っ走ってしまったのだから。一瞬何が起きたのかも把握できないほどに俊史は唖然としたが、それでもはたと気づいた時にはもうその声は上がっていた。 「歩遊ッ!!」 一方の歩遊も夢中だ。俊史の怒鳴り声も予想していたものだから、足を止めるブレーキにはなり得ない。構わずに、まるで俊史から逃れるようにもっともっとと海の中へと突っ込んで行って、既に下半身をずぶ濡れにしながら、それでも厭わずに波をかいくぐり、すぐに接近してきた俊史へも海水をかけて抵抗した。 「こっ……やめろバカ!」 「放っといてよ!」 「なっ…何言ってんだ! やめろって!」 歩遊自身、実際何がしたいのかよく分からなかった。ただ俊史に黙って手を引かれて別荘に帰るのは嫌だと、それだけは分かっていた。だから歩遊は俊史に無茶苦茶な「反逆」を試みた。必死だったが、いざやってみるとそんな自分がバカらしくもあって、思わず間の抜けた笑みが頬を引きつらせた。ヤケクソだ。それでも俊史に捕まりたくはないと、歩遊はひたすら一生懸命海水を掬ってはそれを俊史に向かって投げかけ、波に煽られながらも足を動かし、水を漕いだ。 「バカ野郎!」 けれどそんなささやかな反旗の烽火も結局は殆ど一瞬のうちに消されてしまった。あっという間に捕まり、歩遊は俊史から海水を掛けていた腕をがつりと取られた。 「来い! 今何月だと思ってんだ、バカ!」 「嫌だ!」 「いっ……嫌だじゃねえ! いいから、早く来い!」 「だって! 俊ちゃんが!」 「煩ェ! もうお前喋るな! 大体お前、病み上がりのくせにッ!」 「もう熱なんかないよ!」 「煩い! いいから来い!」 「嫌だあっ!」 「歩遊!!」 「いっ…!」 嫌だと言うのにぐいぐいと引っ張られ、歩遊は俊史に投げ捨てられるようにして砂浜へ放られた。乱暴なそれにもろにドサリと倒れ込んだが、痛みはない。それに実際悲惨なのは俊史の方だった。歩遊が濡れたのはほぼ胸から下だけだが、俊史は歩遊に水を掛けられたせいで全身がぐっしょりだ。唇も白くなり、がちがちと歯を震わせてもいる。 それでも歩遊はそうして傍に立ち尽くしている俊史を見ても、もうあまり怖いとは思わなかった。むしろ何やら泣き出しそうな俊史の顔を見てしまうと、それが何故なのかと思うのと同時に、先刻まで散々ざわついていた胸の苛立ちはなりを潜め、忽ちじくとした仄かな痛みに変わってしまう。 「何考えてんだ…」 半ばボー然としたような声が響いて、歩遊はぴくりと肩先を揺らした。 「何バカなことしてんだ。いきなり」 「俊ちゃんが無視したから」 「してないだろ…別に……」 「したじゃないかっ。僕、好きだって言ってるのに……関係ないって。僕の気持ちを無視したじゃないか。だから――」 「だから海に飛び込むのか? お前、意味分かんねえよ」 「僕だって分かんないよ……」 「は!?」 「でも」 ぶすくれた気持ちを抱きながら歩遊は何か言いかけ、しかし一旦口を噤んだ。 それからぎゅっと傍の白砂を一つ握る。更にぎゅうぎゅうと握り込んで、わざと俊史から視線を逸らして、歩遊は「でも、嫌なんだ」と独りごちた。 「何が嫌なんだよ」 俊史が訊いた。歩遊は尚砂をかき集め、今度は両手で傍の砂を懐へ抱え込むようにしながら小さな砂山を作り始めた。何かしていなければ落ち着かなかった。 「ただ俊ちゃんの言いなりになるのは、駄目だから」 子どもの頃、こうして公園の砂場でもよくトンネルつきの砂の小山を作ったものだ。そんなことを思い出しながら、歩遊はその呑気な手つきとは裏腹に俊史へ頑とした言葉を発した。 「僕がちゃんとしないと、俊ちゃんが皆から責められる。俊ちゃんも自分を責める。そんなのは嫌だ…」 言いながら尚必死に砂をかき集めていると、不意に影が被って俊史が目の前に座り込んだ。歩遊はハッとして目を見開いたが、俊史はそんな歩遊を見ておらず、何を思ったのか自らも同じように周囲の砂をかき出し、山を作って固め始めた。 「俊ちゃん…?」 小さく呼ぶと、俊史は「早くやれよ」と歩遊を急かして、山をどんどん高くしていった。 「これ作ったら帰るぞ。トンネルは?」 「え」 「トンネルは作るのか?」 「あ、うん…。穴、開ける」 「じゃあ、お前はそっち側からやれよ。俺はこっちから貫通させるから」 「う、うん」 ひとしきり堅くて頑丈な小山を作ると、俊史は自分の側から小さな穴を開けて、山が崩れないように気を配りながら歩遊の方へと貫通させる穴を掘り始めた。 それで歩遊も自分の方の穴を開けてそろそろと砂をかき出して行く。そう、昔のあの思い出にもこんなシーンはよくあった。俊史は昔から子どもらしくない子どもで、砂場遊びなんてとよくバカにしていたけれど、歩遊がどうしてもというと、逆に自分の方がムキになっていやに凝った造りの「トンネル山」を作ったりした。 あの時も歩遊はよく穴を掘り過ぎて山を崩し、しょっちゅう俊史を怒らせた。 「最後のところが難しいんだよね」 「お前が慎重にやらないからすぐ崩れるんだろ。いつもそうだよ。お前、考えないから」 「そんなことないよ! あ…!」 「ほら、みろ」 けれど歩遊が俊史のからかいにムキになった瞬間、砂山はやっぱり歩遊の突っ込んだ手のせいでざっと無残に崩れてしまった。 「あぁ…あとちょっとだったのに」 それでも穴の中で俊史の掘っていた手と繋がった。砂の中でその俊史の手を感じて、歩遊は残念に思いながらも、恐る恐るその指先にそっと触れてみた。 すると俊史もそれに呼応するように歩遊の手を取った。その振動でいよいよ砂山は原型も留めないただの砂に戻ってしまったのだが、二人は不意に目を合わせて、それから気まずそうに同時視線を逸らした。 それでもどちらも、触れ合った手は離さなかった。 「俊ちゃんの手、凄く冷たいね」 歩遊がそう言ってみると、俊史は「お前のせいだろ」と憮然とした。 「いきなり、何なんだよ。めちゃくちゃ海水浴びたし」 「うん…」 「お前は、訳分かんないんだよ」 「うん」 「うん、じゃないだろ。……何いじけてんだ」 「だって俊ちゃんが酷いからだよ。僕の気持ちなんて関係ないって」 「しつこい。大体、俺が酷いのなんていつものことだろ」 俊史の実に偉そうなその発言に、歩遊は冗談ではなくがくりと身体が傾いた。 「な、何それ? そんなの、無茶苦茶だよ」 「そうだよ、俺は無茶苦茶だよ。そんなの、いつもだろ」 「そん…そんなの!」 「お前のこととなると、俺はいつだって無茶苦茶だ」 「え」 「無茶苦茶なんだよ」 「俊ちゃん……」 それは怒ったように言われたものだったけれど、歩遊はまじまじとそんな俊史を見やり、それからどっと脱力した。 次いで、自然と気が抜けたような笑みがちらりと唇に上る。 「何だよ」 すると俊史はそれに戸惑ったような顔を見せたものの、ちらちらと歩遊を窺い見ながら自らも少しだけ口元を緩めた。 「俊ちゃん…」 それが何だかとても愛しくて、やっぱり好きだと思って、歩遊は思わず俊史の方へそろりと顔を寄せた。 「……歩遊」 すると俊史も同じようにしてきて、歩遊の額にこつんと自らのそれを当てた。すぐ間近に互いの息遣いを感じる。歩遊がそっと俊史を見やると、俊史もそれに応じるように歩遊を見つめた。 擦り合わせた額は、本来とても冷たいはずなのに凄く温かい。 「ふっ…」 それが嬉しくて歩遊が笑うと、俊史は「バカ」と言いながら、自分も少しだけ笑ってみせた。 そうして「歩遊」と呼び、俊史はやっぱり「偉そうに」言ったのだった。 「ずっと一緒だからな」 それは実に横柄な言い様だった。 「うん」 けれど歩遊はすぐに頷いた。加えて、砂中にある俊史の手を更に強くきゅっと掴み、もう一度自分自身の言葉でも「俊ちゃんといる」と答え、破顔した。 |
……and |
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