―6―



  翌日、多少不機嫌ながらも俊史はいつものように朝食を作りに現れ、冬休みだからと寝坊を決め込もうとしていた歩遊の事もきっちり叩き起こしてきた。
「飯食ったら出掛ける」
  そんな俊史の言葉は、いつでも何かが足りないように歩遊は思う。
  目の前のスクランブルエッグをフォークでつつく寸前、歩遊はぴたりと動きを止めて、そうぶっきらぼうに言った俊史を見つめやった。

  えーと、その「出掛ける」は、誰が? 俊ちゃんだけ? それとも、僕も?

「あ、あのさ…」
「昼までには帰る。ここ片付けとけ。こんくらいの量なら洗っておけるだろ。皿、割るなよ?」
「あ、あぁ、うんっ」

  何だ、俊ちゃんだけか。

  歩遊は「訊かなくて良かった」と安堵しながら、再び朝食を取るべく、あたふたと手を動かし始めた。
「歩遊」
  そんな歩遊を俊史はじっと観察していたようだ。そして自分はあまり食事に手をつけていない状態で、暫し逡巡した後、ようやくといった風に唇を開く。
「ちゃんと準備しておけよ」
「へっ…?」
  たまたま卵を口に入れた直後だったから、歩遊は行儀悪くフォークを咥えたまま返答したのだが、俊史はそれを意に介さぬように視線を逸らし、「鞄はそこだ」と顎だけで歩遊の背後を指し示した。
「鞄…?」
  歩遊がそれに促されるようにしてくるりと振り返ると、いつの間に奥から引っ張り出されてきたのか、視線の先―リビングのソファには、歩遊のボストンバッグが無造作に置かれていた。
「明日は大晦日だろ」
  そうして俊史は叩きつけるようにそう言うと勢い込んで立ち上がり、自分の分の皿やコップをシンクにまで運ぶと、そのまま外へ出て行ってしまった。
  歩遊はその間、あまりにもポカンと呆けていた為、一言も声を発する事が出来なかった。
「明日は大晦日…?」
  それくらいは分かる。クリスマス以降、確かに休みが続いてボケているところもあるが、さすがにこれくらいの休暇で日付感覚が衰える事はない。それに、大晦日からいつまでかは分からないが、俊史が戸辺と旅行で留守にする事は知っていたから、否が応にも、独りきりの年末年始に想いを馳せ、気持ちが暗くなる事も多かった。
  昨日は大騒ぎでそれどころではなかったが。
「鞄……」

  ――で、どうして自分のバッグがそこにある?

  歩遊は改めて席に向き直り、齧りかけのトーストを口に入れてもそもそとやりながらぼうと考え、やがて……ハタと目を見開き、再度ガバリと振り返った。
「えっ……ご、ごぼっ!?」
  勢いがつき過ぎて思わず齧りかけのトーストを外に噴き出してしまったが、幸いそれを見ている人間は誰もいない。歩遊は傍にあったティッシュで慌てて近辺を拭いてから、ガタリと椅子を蹴って鞄のあるソファにまで駆け寄った。
  歩遊のこのボストンバッグは、旅行用の物だ。それも、先日のクリスマスの時のような一泊用の物ではなくて、割と長期の。
「え、ええ…?」
  両親が不在で長い間旅行する事もとんとなかったわけだが、それでもお気に入りのバッグには違いない。特に、この夏などは田舎の祖父の所へ行こうと思って一度出した物でもあるから、間違えようがない。そう、これは歩遊の、長期旅行用の、ボストンバッグ。
「大晦日……? 出掛けるって……ええぇーっ!?」
  独りしかいない部屋なのに、まるでボケ漫才のように歩遊は仰天して大声をあげた。

  もしかしなくとも、俊史は大晦日の旅行に自分を連れて行くと言っているのだろうか?

「そんな…」
  けれど、そう考えれば合点が行く。歩遊を買い物へ連れ出した俊史は、何かと言うとお前は寒がりだからとか何とか、温かい生地の服を選んだり、ご丁寧にも、もう既に幾つか持っている帽子やマフラーを買い込んだり。家に引きこもって勉強三昧の休みなら、何もあんなに外出を意識した物を揃える必要はない。
  この東京よりは、親戚の別荘の方が海風も強いし、寒いに決まっている。つまりはそれを想定しての、あのフル装備だったのだ。
「まさか…」
  大体、俊史は自分の物は然程買っていなかった。殆どが歩遊の為だ。あの買い物は、元から旅行する歩遊の為のものだった、そう考えるのが自然だ。
「じゃ、じゃあ戸辺君は…?」
  歩遊の疑問はそこに尽きる。嫌だ、冗談じゃない。真っ先に思ったのはそれだった。俊史と戸辺の旅行に自分が入る? 考えただけで身震いがした。戸辺は歩遊に対して常にどこか意地悪だし、3人でいる時はいつだってあの2人だけの空気になり、歩遊は完全な除け者だ。第一、恋人同士の旅行に、幾ら「面倒を見なくてはいけない幼馴染」だからと言って、俊史が歩遊を連れて行かなくてはならない道理はない。戸辺の立場で考えるなら、とんでもない愚行だろう。
「駄目だ駄目だ! しゅ、俊ちゃんは、一体何を考えて…!?」
  けれど。
  はたと動きを止め、歩遊は再び考え込むように眉をひそめた。殆ど百面相だ。

  もし……もしも。戸辺が旅行に参加しないのならば?

「き、昨日、喧嘩してたみたいだしな……」
  よくよく思い返すと、俊史は「戸部と一緒に行く」とは一言も言っていない。歩遊と行くとも言っていないが……。やはり、俊史はいつだって言葉が足りないのだ。
「な、何なんだよ…」
  今すぐ俊史に電話しようか。咄嗟に携帯を思って歩遊は2階を見上げた。しかし、訊くとしても何と訊けば良いのか? あんな風に当然のような顔をして「ちゃんと準備しておけ」と言った俊史。更に更に、あれだけの買い物までしてくれた俊史に、今さら「ところで、僕も一緒に行くの?」などと今さら訊いても良いものだろうか。いや駄目だ、絶対に訊けない。つまりは、昨日の俊史の怒りはそういう事なのだ。
「ふう…」
  そこまで考えて、いよいよ自分が一緒に行く事だけはどうやら間違いないと結論を下し、歩遊は一旦息を吐いた。
  そうなると次の問題は、果たしてこの旅行には戸辺が一緒に行くのか?という事だ。
「でも…戸辺君に訊くのは嫌だしな…」
  第一、 そんな事を気軽に訊ける間柄ではない。学校ではどうしても接触する機会も多いが、まともな会話だってそれほどした事はないし、休みに入ってしまえば本当に全く接点のない相手だ。そもそも携帯の番号だってメールアドレスだって知らない。
  戸辺に訊くというのはなしだろう。

  ピンポン、ピンポーン。

「え?」
  その時だった。
  まるでそうする歩遊の行為を「正解です!」とでも言わんばかりに、玄関のチャイムが軽快な音を奏でた。

  ピンポンピンポンピンポーン!!

「な、何!?」
  しかもそのチャイムは歩遊が1度目に反応する間も与えず、急かすように第二陣の音を響かせた。どうやら来訪者はかなりのせっかちらしい。
「い、今出ます…!」
  だから歩遊はモニターで相手を確認する事もせずにだっと駆け出し、そのまま玄関のドアを開けた。このご時世、来訪者が誰かも確かめずに無防備にドアを開けるなんて、とんだ無用心だと、俊史が見ていたらまたこっぴどく叱っていたに違いない。
「どうも」
「あ……」
  しかも、相手が相手だ。ここに俊史がいたのなら、きっと居留守を使っていたであろう相手。
「戸辺君……?」
「あい」
  にっこりと可愛らしく返事をして首をかしげたのは、まさしく戸辺優、その人だった。
  俊史の親友にして、「恋人」と噂の高い、学園のアイドル的存在である。





「ごめんねえ、いきなり訪ねたりして。お構いなくねえ」
  いやに間延びしたような口調で戸辺は言い、緊張でガチガチになりながらキッチンでジュースを淹れる歩遊にニヤニヤとした笑みを向けた。
  見られている歩遊の頭には、「何で?」しかない。
  何故戸辺が自分の家に来るのか。そうして、まるで親しい友人同士のようにリビングのソファで寛ぎ、「歩遊ちゃん、僕、ジュースが飲みたいな」などとおねだりしてくる。「お構いなく」とか言っておいて、全く矛盾している。
「どうぞ…」
  それでも逆らい難いものを感じて、歩遊はそろそろと歩み寄り、戸辺にオレンジジュースの入ったグラスを渡した。
「どうも。朝早くからさぁ、全く参ったよ。僕、朝に凄く弱いんだよね。……ん、程よく酸っぱくて美味し。果汁100%?」
「多分…」
「そうなんだぁ。僕も100%ジュース好きなんだよ。気が合うねえ、歩遊ちゃん」

  何なんだこの人の馴れ馴れしさは……。

  歩遊は傍で立ち尽くしたまま、ただ困惑していた。
  確かに最近では、こんな風に話しかけられる事も多かった。以前は俊史の横で黙って厭味な笑みを向けてくるだけだったのに、思うに「子パンダ物語」の映画チケットを強奪されたあたりから、戸辺は事あるごとにこうして歩遊に親しげな、けれどどこか毒のある態度で接するようになった。
  どう好意的に見積もっても、戸辺が仲良くしようと思ってこんな風に近づいてきているとは思えないのだが……。
「ありがと。美味しかった」
  一気にジュースを飲み干した戸辺は、ぐいと歩遊に空のコップを返すと「んっ」と両腕を上げてぐいぐいと伸びをした。本当に気だるそうだ。朝は弱いと言っていた。それならば、どうしてそんな眠い想いをしてまでここへやって来たのだろうかと思う。
「俊がようやくキミから離れたからね。チャンスは今しかないと思ったわけだ」
「えっ…?」
  ドキリとして、歩遊は手にしたコップを取り落としそうになった。どうして考えている事が分かったのだろう、怖くなって歩遊があからさま怯えた目を向けると、戸辺はどこか楽しそうに大きな目をすうっと細め、くふりとほくそ笑んで見せた。
「可愛いなあ、歩遊ちゃん。キミ、本当に可愛かったんだね。最初はよく分からなかったけど……この頃はもう、何か凄いフェロモン出まくり」
「え…」
「俊もねえ、これじゃ目が離せないわけだねえ。ちょっと隙作るとあのサッカーバカがちょっかい掛けにきちゃうわけでしょ? この間もキミんちいきなり来たんだって? 俊が俺らと会ってたほんのちょっとの間に」
「う、うん…?」
  急に「僕」が「俺」に変わった事に違和感を抱きながら、それでも歩遊は完全にびびっていてその場から身動きが取れなかった。
  そんな歩遊に構わず、戸辺はソファにもたれかかると両手を頭の後ろで組んで大袈裟に溜息をついてみせた。
「でも困るんだなぁ、あんまりキミとばっかりいちゃつかれても。確かに俊はさ、自分の仕事は滞りなくこなしてくれたけど、生徒会の仕事ってチームプレイなわけよ。分かる? 歩遊ちゃん。ウチのガッコって結構自由でしょう。だからその分、生徒会のお仕事って凄い大変なんだけど、次期生徒会長様にこれだけサボられると、年内に早々決めときたい議案だってたまりにたまっちゃうわけだ」
「えっ、俊ちゃ…いや、瀬能君って、次期生徒会長なの?」
  違うところで歩遊が驚き目を丸くすると、そのリアクションに戸辺も意表をつかれたようで、がくりと体勢を崩しながら視線を上げてきた。
  それから、ゆっくりと緩やかに可笑しそうな笑みを浮かべ、「そうだよ」と頷く。
「そりゃあそうでしょ。学年1位の首席君だし。おまけにあの顔で、周りには君に見せてるみたいな怖い面なんて億尾にも出さない。優しい人格者さんで通ってるんだよ。もう受験で引退してる3年生に成り代わって実質今の生徒会支えてるのだって俊だしね。年明けの会長選挙なんてやる必要もないんじゃない?」
「そうなんだぁ…。凄いなぁ…」
  戸辺がここにいる違和感よりも、俊史が学校中の皆から尊敬され信頼されて、全校生徒の代表である会長に選出されるという話が、歩遊を堪らなく誇らしい気持ちにさせた。俊史の名誉が自分の事のように嬉しい。やっぱり俊史は凄いのだと、どうしようもなく胸が躍る。
「でも、本人は乗り気じゃないんだけどね」
「えっ…何で?」
  不意に戸辺の言葉で現実に引き戻されたようになり、歩遊はハッとしすかさず訊いた。戸辺はそんな歩遊の反応を物珍しげに眺めながら、「だってえ」とまた間延びした言い方に戻って人差し指をくるくると回してみせた。
「あの人、もうこれ以上忙しくなりたくないんだって。何てったって3年は大学受験控えてるしねえ、やたらと行事の多いあの学校の生徒会長なんて、推薦でも考えてない限りやるだけ無駄っしょ」
「推薦! あ、でもそうだよ、推薦で大学決めちゃえば…」
  けれど歩遊の言葉を、戸辺はニヤリと酷薄な笑みと共に否定した。
「駄目っしょ。だってあの人、君と同じ大学行かなくちゃって頑なに思ってるから」
「え……」
「推薦で先に大学決めちゃったら、指定校なんて専願なんだから、一般受験は出来ないでしょ? 君に同じ大学受けさせたとしても…君がそこ落ちちゃったらどうする? 同じ大学行けなくなるでしょ。だから、あの人は推薦なんか絶対受けないよ」
「な、何で…そんなの。勿体無いよっ」
  確かに俊史には「俺と同じ大学に行くんだからな」と強く言われていた。だからここ最近は本当に一生懸命勉強もさせられていたし、歩遊もそのつもりで成績を上げるべく努力していた。
  けれど、だからと言ってそれはあくまでも「希望」であり、歩遊とて「そうなったら嬉しいな」とは思っていても、絶対のものだとは思っていない。実際、優秀な俊史と同じ大学へ行くなど、現時点では夢のまた夢なのだ。
  それなのに、そんな歩遊に付き合って俊史までもが同じ一般受験をして歩遊に併せるなどとんでもない。そんな必要はないし、理由もない。
「そんなの駄目だよ……」
「と、言ってもねえ。あの人も頑固だから」
「と、戸辺君はっ」
「ん?」
  思わず声をあげた歩遊に戸辺はきょとんとした可愛らしい顔を向けて首をかしげた。
  歩遊はそんな相手を必死に見やりながら、もうこの際だと思い切って言葉を切った。
「俊ちゃ…瀬能君と、同じ大学に行くんでしょう?」
「えー? どうだろ。それに僕が一緒じゃ、歩遊ちゃんは嫌じゃない?」
「な、何で僕が……そんなの、戸辺君の方が……。だ、だって…2人は……」
「2人は?」
  どもる歩遊に戸辺は鋭く聞き返してきた。途端ぐっと詰まった歩遊だが、それでも何とか声を出せた。
「だって2人……付き合ってるん……だよね……?」
「――で?」
「えっ…。いや…だから…その、大学も同じ所に一緒に行くのかなって…。そしたら、むしろ邪魔なのは僕の方で……」
「……そうだねえ、邪魔だね」
  きっぱりと言う戸辺に歩遊はどきんとして俯けていた顔を思わず上げた。ばちりと戸辺と目が合う。あんなにニコニコしていた戸辺が今はすっかり無表情になっていて、俊史が怒っている時のように怖いと感じた。綺麗な顔が表情を消すと例外なく迫力あるものになるらしい。
「で、真面目に邪魔って言ったらどうなるの? 身を引いてくれるの? 俊から離れてくれるわけ? こんだけ一緒にいたのに、たかだか2年前にひょっこり現れた僕に俊を取られちゃってもさ。君は平気なんだ? それでいいの?」
「と、取るとか取られるとか…っ。おかしいよ」
「何で」
「そういう問題じゃないっ」
  歩遊と戸辺とではそもそもの立場が違うと言いたかったわけだが、戸辺はそんな歩遊の意を正確に汲み取りながらも、「嫌なものを見た」とでも言うような顔でちっと軽く舌打ちをした。
  そしてそれきり、ぷいとそっぽを向いて暫し何も言わない。
「……っ」
  歩遊はそれだけで震える想いだったわけだが、「結局貴方は何をしにここへ来たのですか」という事だけは訊ねねばなるまいと、ごくりと唾を飲み込み、「あの」と声を出す。
  けれど歩遊は無意識のうちにそれとは全く違う質問を投げ掛けていた。
「戸辺君って……明日から、出かける?」
「………は?」
  眉をひそめてこちらを向いてきた戸辺に、歩遊は思わずかあっと赤面した。何をいきなりこんな事を口走ってしまったのだろう。すぐに後悔したけれど、出した言葉を今さら引っ込める事も出来ない。
  戸辺の返答は1時間にも1日にも感じられた。
「あのさ」
  そして当の戸辺は、やはり歩遊の葛藤になどまるで構う風もなく、実にマイペースだった。
「僕、思うんだけどさ。これまでは控えていたけど、やっぱり歩遊ちゃんと僕は親交を深めなくちゃいけないと思うんだ。だから、今日は俊が帰ってくるお昼までは一緒に遊ぼう」
「……え?」

  それより僕の質問の答えは……。

  歩遊はそればかりが頭を占めていて、戸辺の言葉の意味がイマイチ分からなかった。
  ただ、「とりあえず歩遊ちゃんの部屋へ移動しよう」と勝手に二階へ向かい始めた戸辺にはようやく慌てて、「掃除してないから駄目だよっ」と止めながら必死に後を追った。
  勿論、「俊史以上に王様気質」の戸辺は、そんな歩遊の言う事など微塵も聞いてくれなかったのだけれど。



To be continued…




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