―9―



  自分が怒られる番はいつなのかとびくびくしていた歩遊だが、意外や俊史はいつもの怒鳴り声をあげることはなかった。
「飯」
  それどころか自室に呼びに来た俊史は開口一番そう言ったかと思うと、すぐに踵を返して階下へ移動。歩遊が拍子抜けしながら自らも一階へ向かうと、そこにはもうキッチンテーブルにいつもの如く2人分の昼食がしっかと用意されていた。
  メニューは歩遊の好きなオムライスだ。ご丁寧に、サラダとコンソメスープもついている。
「あ、れ……?」
「何してんだ。早く座れよ」
  ボー然とその場に立ち尽くす歩遊に、俊史は再び静かな声でそう言った。やはり歩遊を怒る気はないらしい。
  けれど歩遊としてはそれで「ああ、良かった」と、ただおとなしく席に着く気にはなれない。折角鎮火している(?)怒りに火を注ぐような真似はしたくないが、このまま黙っている方が苦痛だ。歩遊は思い切って口を開いた。
「あの……耀君たち、は?」
「………」
  先に椅子に座った俊史がぎろりとした視線を向けてきたことで、歩遊は忽ちピンと背筋を伸ばし、臨戦態勢をとった。やはり地雷か、瞬時にそう思ったが、後悔はしない。耀や戸辺のことを問わぬまま昼食が喉を通るとは、とても思えなかったから。
「帰った」
  すると俊史は最初こそ歩遊を厳しく睨みつけたもののすぐにそう返し、後はがつりとスプーンを手に取った。そうしてそのまま済ました様子で、ガツガツと先に食事を取り始める。それはいささか乱暴な、というか自棄食いのような体ではあったが。
「あの」
  ここに姿が見えない以上、確かに2人は帰ったのだろう。しかし、歩遊が訊きたいのはそこではない。歩遊だけを二階へ上げて、俊史はあの2人に一体何を言ったのか。特に歩遊にしてみれば、俊史の「恋人」である戸辺はともかく、歩遊の「友人」という立場の耀には相当厳しく当たったのではないかと酷く気にかかる。
  確かに耀はあの「変なアニメ」を貸してきた張本人だが、歩遊の中で先ほど彼に感じていたような恨みがましい気持ちは既にすっかり消えていた。もともと歩遊は人に対して持続的にマイナス感情を抱くという事がない。出来ない、と言った方が正しいだろう。最初こそ酷いとか意地悪とか怖いとか。理不尽な真似をされると何らかぐじぐじとした想いを抱きながら泣きべそをかくのだが、少し時間が経つと「まあいい、何でもないことだ」と切り替えられる。歩遊は昔から実によく(俊史を中心に)いじめられてきたけれど、とことんまで残酷な目に遭ったという経験はないから、逆に一般人よりも根本で人を疑ったり嫌ったりしない素地を作れたのかもしれない。側には歩遊をいつでもべろべろに甘やかし、愛情を注いでくれた祖母もいたし。
  歩遊は基本、実に素直で穏やかな性格の持ち主なのである。
  だからこそ、自分の見えないところで自分が原因の諍いが起こっていたら嫌だ。
「耀君たちに、何言ったの?」
  歩遊は俊史に訊ねた。自分だけ知らんフリは出来なかった。
「耀君のこと、怒ったの?」
「座れよ」
  いつまで経っても食卓に着こうとしない歩遊に、俊史はぴしゃりと叩きつけるような声で言った。
「飯、冷めるだろうが。さっさと食べろ」
「でも……、耀君たちに――」
「煩ェな、何も言ってねーよ。あいつらもすぐ帰った」
「本当? だって――」
「歩遊。座れ」
「……っ」
  こう何度も繰り返されては、さすがに逆らえない。歩遊はぐっと詰まったものの大人しく目の前の席に腰をおろし、それから再び食事を再開している俊史をじっと見やった。しかしおとなしく待ってみても事態は好転しない。俊史が自分の言うことを聞かない相手に何も与えてくれない事は、長い付き合いの中で歩遊も重々承知していた。食事を取らないと永遠に教えてもらえないと悟り、歩遊は仕方なく自分もスプーンを手に取ると、ぼそぼそとゆっくりとではあったが、食事を口にし始めた。
  それにちらと、俊史が視線をやった事にも気づかずに。
「美味しい……」
  こんな時でも俊史の作ったものは美味しかった。歩遊はそんな自分に心底呆れた。耀や(一応)戸辺を心配していたはずであるのに、俊史のオムライスをたった一口食べただけで笑顔すら零れそうになっている。全く自分勝手だ。俊史は歩遊の事なら何でもよく分かっている。微妙な柔らかさを保ったふわふわ卵も、中に入っている鶏肉や玉葱も、みんな歩遊の好物だ。少し多めに入れられたグリーンピースや人参は、子どもの頃こそあまり好きではなかったが、祖母にこうしてオムライスに混ぜてもらうようになってからは好きになった。俊史はその事もよく知っているから、自分でもこうして作るようになってからは同じ物を同じ分だけ入れてくれる。どんなに美味しいと評判の洋食屋でも決して食べられない、それは歩遊にとっての特別メニューだ。
「俊ちゃん、美味しい」
  だから歩遊は感謝の気持ちも込めてもう一度そう言った。思えば、冬休みに入ったというのに、父も母も一度として家に帰ってきていない。俊史の両親も似たり寄ったりのようだが、幾らもう高校生になったとはいえ、ここまで放置されればさすがに「何だよ」と思ったり、寂しがったりするのが普通だ。……が、歩遊はもう祖母が亡くなった頃のように、常に不在の両親を猛烈に恋しいとは思っていない。たとえ「御節も予約したし、年末年始は絶対帰ってくる」と言っていた母が、こんな直前になっても未だ音沙汰なしだとしても。「忙しいんだから仕方ない」と思える。
  側に俊史がいてくれるから。だからこそ、歩遊の精神もそうして安定していられるのだ。
  けれど、俊史はどうなのだろう。毎日毎日、それこそ一家の主夫のように、歩遊の為に三度三度の食事の支度。面倒ではないのだろうか。
「……DVDは持って帰らせた」
  その時、俊史がふっと急にそんな事を言った。
「えっ」
  思わず顔を上げると、既に自分の方の皿を空けていた俊史が、スプーンを置いて歩遊をじっと見やっていた。
「優が嫌がるお前に無理矢理観せようとしたって話も聞いた。ああいうのに耐性ないお前が、慌てふためく姿を見て面白がりたかったんだと。性格悪いだろ?」
「え……」
「優……戸辺だよ。あいつ、性格悪いだろ?」
「え、いや、その……」
  まさか俊史が戸辺に対してそんな風に言うとは露ほども思わず、歩遊は思わず目を白黒させた。
  戸辺の性格が悪いかと訊かれれば、それは素直に「そうだね」と頷きたいというのが正直なところである。強引に部屋に入られた時もそうだったけれど、戸辺はとても意地が悪かったし、焦る歩遊を見て明らかに楽しんでいた。きっと彼なりの「冗談」なのだろうが、面食らったのは間違いない。それに、少し怖かったし。
  それでも俊史が率先して「そう」言うとは思わない。何故って、これまで俊史は、歩遊の前では戸辺を誉める事しかしなかった。いつも歩遊と比べて、戸辺はお前と違って可愛いだの出来た奴だの、胸が苦しくなるくらい厭味な比較をしては、歩遊の反応を窺っていた。
「まぁ、新学期も当分先だしな。暫くはもう近づけさせないから安心しろ」
「え? 近づけ……?」
「学校始まるまで一切連絡してくるなって言っといた」
  唖然としている歩遊に、俊史は更に続けた。
「けど、それは太刀川のバカも同じだからな。お前も、あいつとは連絡取るなよ?」
「え」
「元々はあいつがおかしなもんお前に寄越してきたのが発端だろうが。何かごちゃごちゃ聞き苦しい言い訳していたけどな。お前だって迷惑だったんだろ?」
「……それは」
  確かに、びっくりしたけれど。何だか、おかしなアニメだったけれど。
  でも……と、口許でもごもごと呟いていたのが分かったのだろう、俊史は急にキッとした目になると、まごつく歩遊に厳しく吐き捨てた。
  リビングに放置されたままのボストンバッグを指し示しながら。
「どうせあいつとも、新学期までは顔見る機会なんかねぇよ。明日から俺たち、ここを出るんだから」
「え」
「午前中はバタバタしてて全然準備できなかっただろ。ったく、支度しとけって言ったのに。それ食ったら、着替えとかちゃんと詰めろよ?」
「……っ」
  それは明日からの旅行の話だと歩遊にも容易に分かった。
  そして、もう分かっていた事ではあるけれど、改めて「ああ、やっぱり自分も一緒に行くんだ」とじわじわ実感する。
「じゃあ戸辺君は一緒に行かないの」
「……あ?」
  それでも咄嗟にそう口をついてしまったのは、結局それが一番の疑問で、最後の最後まで腹の下にズンと残ってモヤモヤとしていたものだったからだ。今の会話からして戸辺が行かないのはもう明白なのだけれど、それでも歩遊はそれを訊かずにやり過ごすという事ができなかった。
  遂に、はっきりと訊いてしまった。
「……あいつも行くと思ってたのか?」
  すると俊史はいやにくぐもった声でそう言った後、何かを悟ったようにふっと大きく溜息をついた。歩遊はそれに「やっぱりまずい事を言ったか」と内心で焦りつつも、ここまで来たら後戻りは出来ないからと、急くままに口をついた。
「うん。むしろ僕は行かないと思ってたから。その…俊ちゃんと戸辺君が、2人で行くもんだと……」
「あいつとは付き合ってない」
「………え?」
  突然言われた事の意味が分からなくて、歩遊は一瞬動きを止めた。
「優と付き合っているなんて全部嘘だ。あんな奴が恋人のわけあるかよ」
  けれど俊史は再度力強くそう繰り返し、これまで散々学校でも本当のように囁かれていた戸辺との恋人疑惑を真っ向から否定した。
  歩遊はあまりに驚いて声を出す事が出来なかった。
  そんな歩遊に構わず俊史は毒を吐き続ける。
「確かに、あいつはバカじゃないから……あぁ、ある意味では凄ェバカだけど。けどまぁ、話もすぐ通じるし、ダチとして付き合う分にはいいかもな。けど、恋人? 冗談じゃねえよ、あんな腹黒と、誰が! 気色悪い噂が流れててずっと迷惑してたんだ」
「でも、でも……」
「でもじゃねェよ。付き合ってねーよ、関係ねーんだよ、全く! あいつと俺は!」
「でも……」
  どうにも納得しかねるように「でも」を繰り返す歩遊に、俊史はぴくりとこめかみに怒筋を浮かび上がらせた……ように、見えた。
  それでも「ふうぅ…っ」と、何やらやたらと大きな深呼吸をした後、俊史は物覚えの悪い子どもに言い聞かせるような努めてゆっくりとした口調で繰り返した。
「俺は優と付き合ってなんかいない」
「恋人じゃ、ないの?」
「恋人じゃない」
「付き合って……」
「ねーよ! 当たり前だろ! 趣味じゃねーんだよ、あんな性悪!」
  吐き捨てるように俊史は言った後、ガタリと荒っぽく席を立った。歩遊がそれにびくんと肩を震わせると、俊史は再度苛立ったような顔を見せたものの、さっさとリビングへ向かい、歩遊のボストンバッグをさっと持ち上げた。
「俊ちゃん……?」
「お前はのろくてイライラするんだよ。俺が先に荷物詰めといてやるから、お前はそれ食ったら部屋に来い。いいな」
「………あの」
「俺と行くのはお前だ。別荘へは2人で行くんだよ。2人だけでだ!」
「……っ」
  はっきりと言われて、歩遊はひゅっと息を呑んだ。俊史はそんな歩遊の方を見ていなかったが、何故か仄かに赤面したようになりながら、そのままドタドタと乱暴な足取りで二階へ上がって行ってしまった。
  一人ダイニングに取り残された歩遊は、未だ皿に残ったオムライスを視界に入れたまま、けれど決してそれをまともには見ずに、ひたすら思考を混乱させていた。
  俊史と戸辺は付き合っていなかった。恋人同士ではなかった。
  信じられない。だって戸辺は「恋人の自分を差し置いて」と、歩遊ばかりが俊史を独り占めしている事を責めもした。……確かに、あまり本気で責めているようには見えなかったけれど。
「違うんだ……?」
  自分でも声に出してみて、けれど歩遊はやはり今イチその「事実」を受け入れられず、ぶるぶると頭を振った。「俄かには信じられない」――その想いがどうしても先に立つ。何せ半信半疑ながらも、約一年以上「きっとそうなんだろう」と思っていた事だ。大体にして、俊史はこれまでこの疑惑を一度も否定しなかった。学校でも、2人はいつもとても楽しそうに笑い合っていた。3人で登校する時も、俊史は戸辺とばかり話して、歩遊のことなどまるで無視していた。また戸辺は戸辺で、そんな歩遊に意地悪な笑いを浮かべ、さり気なく俊史にくっついたりもしていた。
  それなのに、どうして。
  何故、今になって急にそれが「全部嘘だった」などと言うのだろうか。
「あ……。もしかして、あのアニメみたいに……?」
  歩遊はハタと思いついて、声を上げた。そうだ、思えばあの「桜色プリンス」の王子も、途中で主人公のことを「あんな奴タイプじゃない」、「好きではない」と意地を張ったような事を言って、後から「やっぱり実は好きだったんだ。素直になれなかっただけだ」などと前言を翻していた。俊史もまさにそのパターンなのかもしれない。なるほど、それなら頷ける。やはり2人は付き合っていて、今は何かがあってぎくしゃくしてしまっているから俊史もついあんな事を口走ったが、本当は戸辺の事が好き。
  歩遊はそこまで考えて、ほうと溜息をついた。
  結局、俊史が耀の寄越したあの「男同士のエッチアニメ」にあそこまで嫌悪の表情を見せたのも、自分たち(俊史&戸辺)との事を歩遊に露骨に想像されるのを厭ったからかもしれない。
「そうだ……。その可能性が大だ。うん……」
  俊史が戸辺と付き合っていない、なんて。そう、そんなわけはないのだ!
  俊史は戸辺のことを歩遊と違って可愛いと言っていた。歩遊と違って頭がよくて気が利くとも言っていた。何もかもお前より戸辺の方が優れているといつでも誉めちぎっていたのだ。俊史は歩遊に、これまでずっとそう言ってきたのだ。
  歩遊のことを認めてくれた事など一度たりともないのに。
「でも、じゃあ、何で?」
  ソファの隅に置かれていたボストンバッグはもうそこにはない。今頃歩遊の部屋へ向かった俊史が勝手に荷造りをしているのだろう。俊史は明日からの旅行は歩遊と2人だけで行くと言った。戸辺とは新学期まで連絡も取らないと。
「分からない……」
  何だか泣きたい気持ちになり、歩遊はカランとスプーンを皿に置いた。何やら妙に情緒不安定になっている。俊史と戸辺が付き合っているかどうか、その事が物凄く気に掛かって仕方がなくなる。俊史が違うと言っているのだからそれをそのまま信じればいいのに、どうしてだかそれを頑なに「そんなわけがない」と否定したがっている自分がいる。訳が分からない。2人が付き合っていると認識している時は、俊史が遠くへ行ってしまうようで悲しかった。2人の仲睦まじい姿を学校で散々見せ付けられて、確かに胸を痛めていたのに。
  そのはずなのに。
「痛い……」
  今も胸がツキンと痛くて、歩遊はひゅうひゅうと大きく呼吸を繰り返しながら、ぎゅっと片手で胸を抑えた。きちんと食べきらないと俊史に怒られる。そうでなくても、歩遊だって俊史の美味しいご飯は全部食べたい。
  でも、何だか苦しいのだ。
  その時、家の電話が鳴った。
「わっ…」
  驚いたものの、あまりにけたたましい音に聞こえて、歩遊は却って俊敏に立ち上がり、すぐさま電話を取りに走った。「もしもし」と発した声が思わず上擦ってはいたが、勢い余って転ぶ事はなかった。歩遊は力強く受話器を握り、相手の声を待った。

『歩遊?』

  電話の主は母だった。歩遊は「ああ」と安堵し、無駄に傾いていた身体をしゃんとさせた。
「お母さん?」
『うん。元気だった? クリスマスからこっち、全然会えなくてごめんね。何か変わった事ない? ご飯食べてる?』
「うん。大丈夫」
  混乱していた最中、母親のキビキビとした声は歩遊の胸にすっとしたそよ風を通してくれた。徐々に落ち着いてきて、歩遊は「大丈夫だよ」と笑って言えた。
『お昼、何食べてるの?』
「オムライス。俊ちゃんが」
『俊ちゃん、来てるの? 今いる?』
「うん。あ、今はちょっと二階にいるけど」 
  替わる?と訊くと、母は何故かすぐに『いいよ』と断り、『あんたに掛けたんだから』と早口で言った。珍しいなと思った。いつも母は歩遊に何か用事があっても、最初に俊史に言う事が多い。先だってのクリスマスディナーの時とて、待ち合わせ時間やら場所やら、息子の歩遊にではなく、母は俊史に連絡を取っていたのだから。
  そんな母がいやに真面目な声で言った。
『歩遊。あんた、明日から俊ちゃんと、俊ちゃんの叔父さんが持ってる別荘へ行くって?』
「え? あ、うん……」
  そういえば家を空けるなら両親にその事を言わねばならなかった。そんな当たり前の事に今さらながら気づいた歩遊だが、もっとも歩遊とて自分が行く事を認識してなかったのだから仕方がない。それにどうやら、俊史がとっくに知らせていたらしい。
『だから、本当はお正月に帰ってきた時、訊こうと思ってたんだけどね』
  すると母がどこか声のトーンを変えて言った。

『歩遊はさ。俊ちゃんのことを好きなの?』

「え?」
  母が唐突に言った事に歩遊は間の抜けた声で返した。受話器の向こうでは微かに溜息が聞こえる。母が呆れたのが分かった。
『俊ちゃんのことが好きなのかって訊いてんの』
「そりゃあ……好きだよ。当たり前じゃん」
  それが何?と訊こうとすると、電話の向こうで父の声が聞こえた。母に何か窘めるような事を言っていて、それに母が「だって」と不満そうに唇を尖らせているであろう事が分かる。歩遊は首をかしげながら「どうしたの?」と訊いた。
  けれど母の返答を訊く前に受話器はすっと歩遊の手から取り上げられた。
「あっ」
  気付くとすぐ側に俊史が立っていて、何を思ったのか歩遊から受話器を取り上げて、それをそのまま自分の耳に当ててしまう。歩遊は咄嗟に「どうして」とそれを取り返そうとしたのだけれど、すぐさま俊史がいつもの明るい優等生然とした声で「こんにちは、おばさん」などと歩遊の母と会話を始めてしまったので、間に入る事が出来なかった。
  そうして俊史は暫く何やら楽しげに歩遊の母との会話を続け、結局最後まで歩遊にそれを返す事なく、そのまま電話を切ってしまった。
「お母さん、何だって?」
  側でずっとそれを眺めているしかなかった歩遊は、俊史が受話器を置いた途端、忽ち不機嫌オーラになるその変わり身の早さに圧倒されながら何とか踏ん張って訊いてみた。
「気をつけて行ってこいって。……あとは、お前が毎日連絡しろって」
「僕が?」
「俺は親父の方に電話しろとさ。誰がするかよ、あんな奴に」
「あ……俊ちゃんは、おじさんにちゃんと言った? 明日から出掛けること」
「俺が言う前に叔父貴が言ったみたいだな。何かごちゃごちゃ言ってたけど……あんな奴の事はどうだっていいんだよ」
  そう言うと俊史はじろりと上から下まで歩遊を嘗め回すように見やった後、ちらりとダイニングの方へと目をやった。そうして未だ歩遊が食事を済ませていない事に素早く気づくと、「さっさと食え」と言ってまた上へ行ってしまう。
  歩遊はそんな俊史に何も言う事が出来なかった。





  夜になって、そんなどこかぎこちない歩遊たちの元に、意外な人物が訪れた。
「本当にごめんなさい」
  それは耀の姉で、驚く歩遊や憮然とする俊史の前で、彼女は心底申し訳ないというような顔をして頭を下げた。
「いい年して悪ふざけが過ぎました。本当に。あの、弟の名誉の為にこれだけは信じて欲しいんですけど、あれは私が勝手に紛れ込ませたものなんですよ。あの子、あのアニメがどんな内容だったかなんて全然知らなかったんですから」
「そうなんですか」
  歩遊が驚いたように繰り返すと、日向と名乗る耀の姉はがしがしと困ったように頭髪を掻き毟りながら「はい」と頷いた。その仕草はどことなく耀と似ていた。
「えっとその……以前から、耀に歩遊君のお話聞かせてもらっていて。先日耀が歩遊君に見せるんだなんて言って用意していたビデオを見て、それならこれも見せたら?……なぁんて、つい、調子に乗ってしまって……」
「はあ……」
  変わったお姉さんだ。歩遊の真っ正直な感想はそれだった。
  姉や妹など兄弟のいない歩遊にとって、耀がこの日向の話をする事を歩遊はとても不思議に思いながら聞いていた。よくは分からないけれど、きっと平均より仲が良い姉弟だと思う。だって普通なら、弟がアダルトビデオを見ていると聞いて、「じゃあこれも見せなよ」なんて自分が持っているエッチなビデオを寄越したりするだろうか? しかも見た事もない弟の友人に向けて。
  しかも。しかもしかも、あんな男同士のビデオを。
「あの、これお詫びです」
  そう言って日向が歩遊に渡してきたのは、以前にも耀と美味しいよねと盛り上がった洋菓子店が出している、クッキーの詰め合わせだった。
「弟はすっかり落ち込んでしまって、歩遊君に嫌われたんじゃないかって不貞寝してます。私にも大激怒で」
「えっ…。あの、全然、怒ってなんかいないですから!」
  日向のがっくりときたような態度に、歩遊も慌てて口をついだ。耀も落ち込んでいると聞いて、いてもたってもいられなくなる。
「本当ですか? でも携帯でもお話できないって言っていたので、きっと私のせいで怒って着信拒否にでもしてるのかなって」
「あ、えっと」
  ちらりと隣に立つ俊史を見上げて歩遊は困惑した。
  携帯電話は俊史に取り上げられて今現在歩遊の手元にはない。耀のことは気になっていたから歩遊も連絡したかったのだが、俊史が頑として渡してくれないのだ。だから歩遊も連絡の取りようがなかった。
  その間に耀が連絡をしてくれていたのか。
「こいつの携帯、壊れてんですよ」
 しれっとそう言ったのは俊史だった。ぎょっとする歩遊をよそに、俊史は更に涼しい顔で新学期までは連絡も取れないと思うけど、本人もこう言っているし、そんなに気にしないでも大丈夫ですよと、実に人の良い発言をしていた。
  しかし表向きだろうが何だろうが、俊史のそれに日向は心底安心したようになり、耀にもそう伝えておくと言って去って行った。
「変な女」
  日向が帰ると、俊史は途端毒舌になってそう言った。
「女のくせにあんなビデオ見て、何なんだ? 戸辺が観てたってのも十分気色悪いと思ったけど……どいつもこいつも、変な人間ばっかだな!」
「や、優しそうなお姉さんだよ…? それに、耀君の為にわざわざうちまで来てくれて」
  却って申し訳ないと思ったくらいだと歩遊は言いたかったが、またぎろりと睨まれてしまったので、仕方なくその後の言葉は喉の奥にしまった。
  本当は耀にすぐさま連絡したいのだが、やはりそれは許されそうもない。
「携帯……いつ返してくれるの?」
  それでも気になって歩遊がそっと訊ねると、俊史はふんと鼻を鳴らしてしらばっくれた。
「壊れたって言っただろ」
「う、嘘でしょ?」
「そう思うのか?」
「えっ……」
「俺の言う事が信じられないのかよ?」
「……ううん」
  俊史にそう言われればもう首を横に振るしかない。……本当のところは、俊史の言葉何もかもに疑心暗鬼状態の歩遊なのだが。
「分かったよ……」
  それでも最終的に、俊史は歩遊の「絶対」だから。
  歩遊はしょぼしょぼとした顔でそう言った後、「ごめん」と小さく謝った。
「……明日は早いんだから、もう風呂入って寝ろ」
  すると俊史はそんな歩遊にそれだけを言うと、後はふいとそっぽを向いて先にリビングへ戻ってしまった。
  けれど歩遊はその後も暫く玄関前に佇み、俯いていた。



To be continued…




戻る10へ