こんなにも2人は



  その日の学校は「もうじき期末テストだから」とか、「それが終われば春休みだから」とか、そういうことでざわめいていたわけではなかった。ほんの数日前までは確かにそれらが話題の中心で、皆がそれぞれ危機感を持ったり浮かれたりしていたのだが、人は単純に新しいニュースがあればそちらに飛びつく。それが直接自分に関係のないことであっても、周りがそれによって落ち着かなくなれば、他の者も「何があったのか」と気にするものだ。
  だから校舎は新しいそのニュース―「美少女転校生」の話で持ちきりとなった。
「直接間近で見てびびった! 俺、リアル美女ナマで見たの、初めてかもしんねぇ!」
「ホントホント! めっちゃ綺麗で可愛いの!」
「綺麗と可愛いが両立してるってなに」
「つまりは、それくらいスゴイってことだよ!」
  教室でクラスメイト数名がそう興奮して話すのを、歩遊は何となく遠目に眺めながら、「例の転校生が来たのかな?」とそわそわした。もうじき今学期も終わろうという頃合いだが、先日から「転校生が来るらしい」話は、噂に疎い歩遊でも耳に入れ知っていた。このような時季外れに何故と思わないでもなかったが、人にはそれぞれ事情というものがあろうし、理由はどうあれ、これだけ「綺麗」「可愛い」と騒がれるならば、一体どれほどの美少女なのかと、普段、野次馬根性のない歩遊ですら「ちょっと見てみたい」と思う。
「アメリカから来たらしいぞ、その子」
  部活の片づけで遅れてやってきた太刀川耀が、クラスで盛り上がっている話題をすかさず拾い、その情報を伝えた。それで教室内は再びざわめき、初めに転校生を見たと騒いだ2名は「それを先に言え」と突っ込まれていたが、2人が言うには「髪が黒かったから外国人と思わなかった」とのことで、さらに周囲は、ならば目の色は、肌の色はと、美少女転校生の容姿の話題で盛り上がった。
「皆、新顔が好きだよなぁ」
  その輪の中にはハナから入る気がないらしい耀は、苦笑し呟きながら歩遊の席へやってきた。そうして「おはよう」と挨拶をかわした後、当然のように歩遊の前席に座る。その頻度があまりに多いせいか、最近その席の本来の主は率先して席を譲り、自身は朝から耀の席にいることが多い。
「けど別に転校生じゃないらしいぞ。もしこの学校が気に入ったら、4月から転入してくる可能性もないわけじゃないらしいけど」
「そんなことできるんだ?」
  歩遊が感心したように尋ねると、耀も曖昧に頷きながら先を続けた。
「何でも理事長の知り合いの子らしい。俺も顧問にちらっと聞いただけだから詳しくは知らないけど、その子の両親は向こうにいて、今回はショートステイみたいな感じで日本に来ていて、折角だから日本の学校も体験していったら、みたいなノリとか何とか。歳は俺らと同じで、授業は英語とか情報くらいしか出席しないけど、一応、瀬能のクラスに入るって」
「そうなんだぁ」
「だから瀬能と戸部が校長室呼ばれて行くの見たし」
「え?」
  歩遊がきょとんとすると、耀は当然だろうという風に天井を仰いだ。
「そういう子の相手させるなら、やっぱ優秀な生徒会役員の連中ってことだろ。何せ理事長の知り合いの子だし。気に障る想いさせたら駄目だろうし。しかもこれは顧問も及び腰だったけど、その子、日本語ぜんぜん駄目なんだって」
「エーッ! でもそんな可愛い子と瀬能君、戸部君が一緒に並んでいるところ、凄く見たい!」
「確かに! 目の保養! 何かいい!」
「つまりは、俺らが入り込む余地なんて全くないと」
「入り込めないだろ、最初から。どうせお前、英語喋れねーじゃん」
「お前だって無理だろ!」
  耀が歩遊へ向かってしていたはずの話を、クラスのほとんどが聞いていたらしい。耀の情報提供に再度盛り上がりを見せたクラスメイト達は、口々に早くその仮入学とやらの美少女を見たい、また彼女をエスコートするであろう生徒会面々の活躍が見たい、と色めきたった。
  歩遊はそんな「本来自分たちにはまるで関係ない」話にここまでテンションを上げる周囲の姿に自分まで楽しい気持ちとなり、先刻までの「ちょっと見てみたい」から「凄く見てみたい」に変わり、さらには校長に指名され、その子を任されることになったらしい俊史を「やっぱりスゴイ」と誇らしく思った。
  しかし単純に喜んでいた歩遊とは違い、俊史の方はどうもそんな呑気な気持ちではいられなかったらしい。
  昼食間際にメールで「昼行けなくなった」と連絡し、放課後は放課後で、歩遊の教室へちらりと顔を出してきた俊史は、実に暗い顔と声で「今日は先に帰ってろ」と命令した。
  歩遊はその俊史の顔つきで「機嫌が悪い」ことは一発で察したのだが、その時はそれとアメリカから来た少女のこととが結び付かず、「分かった」と素直に頷いた後、「アメリカの子、もうクラスにいるの? 学校案内とかした?」と最も興味のあったことを訊いた。
「まだちょっと挨拶した程度だ。案内はこの後…」
  俊史は気怠そうにそう答えた後、学校だけでなく、この辺りの街案内もして欲しいと頼まれたから今日は遅くなる…と、らしくもなくボソボソした口調で話した。
「英語で案内するの?」
「しかねーだろ…。相手、アメリカ人だし。日本は初めてらしいし」
「凄い! 俊ちゃ…、英語喋れたんだ、知らなかったよ! やっぱり何でもできるんだ!」
  本来ならば真っ先にすべきことは「俊史のご機嫌伺いをする」ことだったかもしれない。しかしこの時の歩遊は朝の時のテンション同様、「外国の少女にも優しくできる立場の俊史」が「スゴイ」という気持ちが勝り、目をキラキラさせて尊敬の念を向けた。
  ――…が、当の恋人はそれによりますます気持ちを降下させたようで、ただでさえ悪かった目つきが一層酷くなった。それに歩遊は気づかなかったが。
「その子、どんな子? 何でアメリカから日本の学校に来ようと思っているの?」
「……知らねェよ。それにそんなこと、お前に関係ないだろ」
「う、うん。そうだけど」
  あまりの雑な回答に歩遊は思わず口を閉じた。そしてこれによりようやく、そうだった、俊史は機嫌が悪いのだったと自省した。無論、それを分かっていて、それでも「少しくらいなら大丈夫だろう」と判断した上で訊いたのだが、どうやらダメだったらしい。しゅんとして黙り込むと、俊史はそんな歩遊を少しは憐れに思ったのか、気を取り直すように息を吐いた後は、「とにかくそういうことだから、お前は早く帰れ」と静かに言った。
「うん…。あ、でも図書室で勉強はしていくと思う。テスト勉強しなきゃ」
「やめろ。部活の休止期間入ったから、混んでいて集中できねェよ。家でやれ」
「え? あ、うん…」
  どこで勉強しようが当人の勝手である。しかし俊史に強く言い切られて、歩遊は促されるように頷いた。本当は図書室にいれば、少女に学校案内する俊史の姿を見られるかもしれない、そんな仄かな期待もあったのだが、それも許されないらしい。少し残念に思いながらも、歩遊は「今日の晩ご飯は気にしなくていいよ」と去り際の俊史に言い添えた。
「は?」
  すると俊史はぴたりと足を止め、今度こそ怒りに近い目で睨んできた。歩遊はそれに驚き、びくんと直立不動の格好になったが、ツカツカと戻ってくる俊史には首を竦めながらも必死に答えた。
「だ、だって、もしかしたら、そのアメリカの子や、生徒会の人たちとご飯食べるかもしれないでしょ? 街を案内するんなら…。だから、僕のことは気にしなくていいって…」
「お前はいいのかよ?」
「え?」
「俺がそうやって……あー、もういい!」
  しかし言いかけた俊史は何を思ったのか切り捨てるように後の言葉を放棄してしまい、再び踵を返すと自分の教室へ戻って行ってしまった。それにより歩遊はその場にぽつんと取り残されのだが、何やらまた俊史を怒らせたらしいことだけは分かって、自然、肩を落とした。
「歩遊ちゃん」
「わっ、びっくりした…!」
  しかし落ち込む時間は然程もなかった。いつの間にか背後に戸部が立っており、外面のにこにこした愛想笑いと共に歩遊を見つめていたのだ。恐らく俊史が歩遊に言いかけてやめたのも戸部に気づいたせいだろうが、当然、歩遊の方はそんなことには想いが至らない。
「な、なに…?」
  未だどきどきした胸を押さえながら、歩遊はこの見た目は「とても可愛い」が中身は「とても恐ろしい」戸部優を恐る恐る見やった。
「君はもう見たの、うちの仮転校生」
「え? ううん、見てないけど…」
「まぁそうだろうね。今日はちらっと顔見せしに来ただけで、殆どの生徒はまだ彼女を目撃していない。それを、鈍くさくってロクに周りも見やしない、周りどころか長年の付き合いである幼馴染のことすら見えていない歩遊ちゃんなんかが率先して目撃したなんてこと、あるわけないもんね」
「……………」
  いちいち毒がある戸部である。歩遊が思わず冷や汗をたらしながら黙っていると、戸部はぐいと顔を近づけ、「あのさぁ」と言った。
「俊も言いかけていたけど。歩遊ちゃんはさ、いいの?」
「な、何が…」
「俊が今回の接待役を任されたこと」
  戸部の言いように歩遊はぱちくりと目を瞬かせた。
「せったい…? そ、そりゃ学校案内してあげたり、日本のいろいろなこと教えてあげてって頼まれたんだから、言いようによってはそうかもしれないけど…。でも、誰にでもできることじゃないし」
「はーん。だから、そんな大役を任された俊ちゃんはやっぱりスゴイ!って?」
「……………」
  まさにその通りだが、それの何が悪いのだろうか。歩遊がだんまりを決め込みながら居心地の悪さを感じていると、戸部はさらに顔を近づけてふっと息を吹きかけてきた。恐らくその行為に意味などないだろう、単なる嫌がらせとしか言いようがない。
「ちょっ…」
  相変わらず可愛い顔だけれど、やることなすこと全てが怖い。迫られただけでも委縮してしまうのに、こんな意味不明なことまでされて。しかも今はじっと見つめられている。歩遊は戸部に見られているというだけでいつも心臓をきゅっと掴まれたような気持ちになる。
  それなのに戸部は容赦なく、言葉まで鋭い。
「それでキミは、俊ちゃんがその美少女転校生とくっつく未来は想像しないの」
「え?」
「あの子は俊のタイプだと思うなぁ」
「タイプ?」
  戸部の言っていることが分からず、歩遊は眉をひそめた。
  戸部は続ける。
「第一あの子、ただでさえ美人で近寄りがたい雰囲気漂わせているのに、日本語駄目らしいから、うちの学校の連中なんかはますます遠巻きに眺めるだけでしょ。でもさ、そういう状況って当人にしてみたら孤独じゃない、慣れない異国で。そんな中、俊ちゃんだけが彼女に優しくしてあげたらどうなる? 相手はそりゃ嬉しいし、フツーに惚れるでしょ。そしたら俊ちゃんだって悪い気はしないし、俊ちゃん自身も普段孤独な男だから、お互い孤独者同士で意気投合して付き合おうかってことにならないとも言い切れない」
「……そんなこと」
「あるわけない? そんなの分かんないじゃん、俊ちゃんだって男だよ? 美人な子が目の前に現れてさ、ずっと一緒に過ごしていたら、グラっとくることもあるんじゃないの。何せ今の恋人は、キスは許しても身体は許してくれないわけだし?」
「な…ッ」
  ぎょっとして歩遊が反射的に距離を取ると、戸部はにやりと意地の悪い目を向けながら、「あー、やっぱり、最近全然ヤらせてないでしょ」などと宣った。
  それから大袈裟にため息などついて見せる。
「年明けから俊がいろいろと不安定だからさぁ、歩遊ちゃんとヤれなくてストレス溜めてんのかなって思っていたわけよ。あいつはカマかけても乗ってこないから分かりにくいけど、歩遊ちゃんの呑気な様子見るに、ヤッてないんだろうなってのは分かるし。お前さ、ぶっちゃけふざけんなよ? いつもとは言わないけど、偶にはヤらせてやれっての、さすがのあいつも可哀想だろ?」
「な、何…何…」
「あーはは、真っ赤になっちゃったねぇ、可愛い。でも所詮、男の子の『可愛い』なんてさ、今回のあの子を見たら霞むと思ったね、俺も。この俺レベルでも負けると思ったからね。だから歩遊ちゃんも、のんびり構えていちゃ駄目なわけよ」
  ぺらぺらとよく動く戸部の唇を、歩遊はただ唖然として見つめた。
  そうこうしている間にも戸部は勢いを止めない。
「大体、歩遊ちゃんは何だかんだで、俊に甘え過ぎだと思うよ。付き合ってんでしょ? だったら、俊のこともっとちゃんと見てやれって。その点では今回のことはいい機会っていうか、偶に離れて、別の人に親切にする俊ちゃんを眺めるのも良い薬とは思うけど」
  歩遊のキャパはもう追いつかない。勿論、戸部はそんなことを承知で話しているのだろうが、あくまでも表情は無機質で口調も淡々としている。いつもの挑発めいた意地悪な顔や悪戯っぽい笑みはすでにない。案外本気で話しているのかもしれなかった。
  その戸部は最後にもう一度とばかり歩遊に顔を寄せ、囁くような小声でこそりと言った。
「あんまり油断しているとさ、俊をいつか誰かにとられちゃうよ?」
  それは嫌でしょ?と。戸部は自分と然程背丈の変わらない歩遊の頭をぽんぽんと叩き、そのまま鼻歌交じりで行ってしまった。歩遊はその場で暫しボー然と固まってしまい、戸部にはロクに言葉を返せなかったが、自分が言われたことはいつまでも耳にこびりついて離れなかった。
  俊史に言われたこともあり、また戸部のせいで学校に残る気持ちも消え失せて、歩遊は独り、とぼとぼと夕暮れ時の通学路を俯きながら歩いた。
  歩遊は単純に、俊史がアメリカからショートステイに来たという少女に親切にしてあげることをただ「凄い」と思いこそすれ、それが自分たちの付き合いに関わることになるなどとは微塵も考えなかった。その子が、クラスメイトらが大騒ぎするほどの美人で、或いは可愛い子で? だからと言って、俊史がその子を好きになるとか、その子が俊史を好きになるとか。そういった色恋の方面への想像は全くというほどわかなかったのだ。
  何故だろうと思う。歩遊はすっかり日の落ちが早い、夕暮れ時の商店街を通り過ぎながらぼんやりと考えた。以前は俊史が戸部と付き合っているという噂が流れて、そのことに胸の痛みを感じたことはあるし、俊史とこれから先は一緒にいられないかもしれないと想像して落ち込んだこともある。けれど、ここ最近はめっきりそのような不安は感じていなかった。曲がりなりにも「付き合う」ことになったからというのもあるし、互いの両親にはそれを反対されているものの、俊史からは折に触れ卒業後は一緒に暮らす話をされていたせいもあるだろう。俊史はこの先も共にいてくれる。その実感があったから、歩遊は、大学を同じ所にはできないだろうといった進路関係に心配の種を持っていても、実質的に俊史と別れるといったことには何ら危機感を抱いてはいなかったのだ。
  しかし戸部の言う通りではないか。歩遊はその可能性を考えて一気に腹の底にズンとした重しを置かれた気分になった。これから先、俊史が誰か素敵な人と巡り合い、その人を好きになり、歩遊から去る可能性。或いは、これは今に始まったことではないけれど、素敵な女の子たちが俊史を好きになって積極的にアプローチをかけてくる可能性。どのようなシチュエーションであれ、今後自分たちの関係に何か影響があることがないとは言い切れない。そんなことは、当たり前のことなのだ。
  ましてや、確かに。
  歩遊は「あれ以来」、俊史からの「誘い」に一度たりとも応えたことがない。あの別荘から帰還した冬休み明けは特に俊史からの求めが多く、それに対して歩遊は「現実世界に戻った」感が抜けず、自分でも驚くほど拒絶反応が強くて、何度も俊史を怒らせていた。さらに俊史の父らが頻繁に家へ帰ってくるようになったこともあり、そうしたことは一度たりとも行われず、いつしか俊史も無理に迫ってくることがなくなった。
  歩遊はそれに安堵こそすれ、不安や疑問を抱いたことが一切なかった。そういえばバレンタインデーの時あたりに俊史から「付き合っている自覚があったのか」などと言われたことがあったが、それについてすら、歩遊はあまり深く考えることをしなかった。多分、というよりも間違いなく、歩遊は逃避していたのだ。その手のことを考えるのは怖かった。ただでさえ初めての時は急で恐ろしかったから。
(それに……)
  その時のことがちらりと脳裏を過って、歩遊は慌てて首を振った。やはり思い出すのは嫌だ、率直にそう思った。俊史が優しくしてくれた記憶も確かにあるのに、そしてあそこでの出来事があったから、まがりなりにも「恋人同士」という関係になったのに。
  歩遊はあの時のことに無理やり蓋をして、それから気を紛らわすように速足で自宅へ帰った。
  その晩、俊史からは夕方に一度メールがあり、そこには、やはり仮転校生と生徒会の面々とで食事をとることになったから早く帰れない、だからと言って適当に済ませるな、弁当でも何でも買ってちゃんと食べろよと保護者のような文面が綴られていた。俊史の命令は絶対である。本当はカップラーメンでも良かったのだが、歩遊は素直にコンビニへ行って弁当を買い、独りで静かな食事をとった。この日は俊史の父らも帰れないとのことで、思えば俊史も誰もいない食卓は久しぶりだった。
  ただ、俊史が歩遊の家へ来ないということはなかった。もう日付も変わるだろうという0時に差し掛かる遅い時間に、俊史は歩遊の家へやって来た。
  もともと就寝が早い歩遊はそんな時間はとっくにベッドの中だったが、眠りに落ちるまで俊史のことを考えていたせいか、階下の玄関が開く音で割とすぐに意識は覚醒した。身体がそれに追いつかなかったので階段を上がってくる音を聞いても起き上がれはしなかったが、足音だけで俊史だとはすぐ分かった。まだ2月の下旬で寒い季節だ。毛布と布団にくるまったままの歩遊に、その足音の主・俊史は、歩遊の部屋の前までやってくると一度ぴたりと止まり、それからそっとドアを開けてきた。
「ん…」
  寝返りを打って確認しようとしたが、入って来た相手―勿論俊史だ―は、歩遊がそうする前にベッドへ潜り込んできて、後ろから抱きついてきた。がっちり掴まれたせいで振り返ることが出来ず、歩遊はただモゾモゾと身じろいだが、俊史はそれすら許さないと言わんばかりにより強く抱きしめてきて、自らの鼻先を歩遊の背につけた。
「俊ちゃん…?」
  くぐもった声で呼ぶと、俊史は「ああ」と同じくこもったような小声だけを返してきた。探るように自分を抱える俊史の腕へ手を向けると、それを察した俊史がサッと歩遊のその両手を握りしめてきた。
「……お帰り」
  ああ、やっぱりこの手は俊史だ。もう分かっていたことだが、まだ顔を見られていなかったので、ここで本当にほっとした。そもそも、こんな風に夜中にやってきて勝手に歩遊のベッドへ入りこんでくる俊史は珍しい。ほとんどの夜を一緒に居間で過ごしても、眠る時は別々だから。今日は夜の時間を過ごせなかった分、こうして会いに来てくれたのかと思うと、ぽっと嬉しい気持ちになった。
「俊ちゃん…」
  ただ、嬉しくなって、それから歩遊は段々とドキドキしてきた。俊史に目立った動きはない、ともすればこのまま眠ってしまいそうではあるけれど、こうして身体を密着させられると嫌でも意識してしまう。戸部に言われたことも大きく影響していた。
「俊ちゃん…今、帰ったの?」
  何か話さなければ。そう思い、歩遊は俊史に握られた手に自分も力を込めてから声をかけた。
「ああ」
  俊史はまた鈍い返事を返したが、歩遊の手には反応を返し、今度は歩遊の手の甲をなぞるように指先を動かした。
「遅かったね。皆でどこへ行ったの」
「別に、そこらへんウロウロと。くだらねぇよ。こんな街、大して見所もないだろ…」
「…そう? じゃあご飯は?」
「お前はちゃんと食べたのか」
  逆に訊き返されて歩遊は意表をつかれた。もっと俊史たちのことを聞きたいのに。そうは思ったが、「うん」と応えた後は素直に返した。そうしなければ会話が進まないことを歩遊はもう分かっている。俊史とはそういう人なのだ。
「お弁当食べたよ。季節の彩弁当っていう期間限定のやつ。美味しかった」
「あの小さいやつ? そんなんで足りたのか」
「うん、平気だよ。あ、あとさ、昨日俊ちゃんが買ってきてくれていたアップルパイも食べちゃった」
「そっか」
  きゅっと改めて抱きしめられ、歩遊は驚き身体を跳ねさせた。背中が熱い。俊史の唇が当たっているからだとは分かっているが、この体勢は解かれるどころかより強くなっていると感じた。
「俊ちゃんは? 何食べたの?」
  何となく沈黙が嫌で歩遊は必死に言葉を出した。すると俊史も今度は仕方なくという風に、戸部の知り合いがやっているというフレンチレストランへ行ったと答えてくれた。
「へえ〜凄い。美味しかった?」
「別に…とにかく疲れた。相手も迷惑そうだったしな」
「え?」
  歩遊が驚き目を開くと、俊史は依然として歩遊に縋りついたままくぐもった声で続けた。
「戸部たちがテンション高いから相手するの疲れたんだろ。慣れている俺だって疲れるんだから、初めての奴なら尚さらきつかったかもな…」
「そう、なんだ…?」
  戸部をはじめ生徒会の人たちにしてみれば、わざわざ外国からやってきた女の子をもてなそうと一生懸命だったろうに、俊史をはじめ肝心の少女が「迷惑そう」とは、意外な話だった。本来であれば生徒会の人々は歩遊たち「一般生」から見ると雲の上の人というイメージが強く、実際、学力も運動も平均以上で優秀な者たちの集まりである。だからこそ、皆が何とかお近づきになりたいと思うし、中でも戸部などは親衛隊のようなものもあるらしいのに、その戸部が「接待」しても喜ばない人がいたとは。歩遊は不思議な気持ちで後ろにいる俊史の気配を探った。
「でも折角案内したのに、それじゃ残念だったね…。その子も、戸部君たちも、どっちも」
「戸部たちの方は勝手に楽しんでいた感あるけどな。カラオケだのボーリングだのってあちこち動き回ってよ、ふざけんなって…」
「そ、そっかぁ…」
  カラオケもボーリングも歩遊からしてみたらとても行ってみたい。俊史が許してくれないから行ったことはないけれど。俊史は騒がしい所が好きではないのだ。だから、「僕はいいと思うけどなぁ」などという本心は決して言えない、この雰囲気でその本心を出せるほど歩遊も空気が読めない人間ではない。
「俊ちゃんも疲れちゃうよね、それだと」
「……まぁな」
  歩遊の労わりの言葉が嬉しかったのか、俊史は素直に返して、また歩遊を抱く腕に力を込めた。それが礼のような返しに思えて歩遊も胸が温かくなり、そっと訊いてみた。
「俊ちゃん、明日は休みだけど何か用ある? その子の案内って明日もある?」
「何で」
「あ、あのね、僕、明日は本屋行こうと思っているから。俊ちゃんに貰った問題集も三巡して答え覚えちゃったし、新しいの買おうと思って。だから、もし良かったら俊ちゃんも…」
「分かった」
「用ない? 大丈夫?」
「別にない。俺も本屋行きたいと思ってたから丁度いい」
「本当? 良かった、俊ちゃんは何買いたいの」
「何でもいいだろ…もう寝ろよ」
「あ、うん…。ごめん、疲れているのに」
「おやすみ」
「おっ…おやすみ」
  俊史がこんな風に夜の挨拶をするのは珍しかった。いつも大体歩遊が先におやすみを言って、俊史はそれに「ああ」とか「夜更かしするなよ」などと言って自宅へ帰っていくだけだから。もしかすると本気で疲れていて、やや寝ぼけているのかもしれない。そんな失礼なことを歩遊はちらりと考えて、しかし後はゆっくりと目を閉じた。弾みで約束できたことだが、明日の休みには俊史と一緒に出掛けられると思うと、とても嬉しかった。




中編へ…