子パンダ物語



  クジ運の悪い歩遊が「子パンダ物語」の映画鑑賞券を2枚当てた。
「え…ええ?」
  正直、「是非欲しい!当てたい!」と思って出した懸賞ではない。
  先だって学校帰りのファストフード店で貰ったアンケートハガキに何気なく答えただけで、実際それをして何が当たるのかも歩遊は知らなかった。元々そういう類のものをマメに出す方ではないし、その時は本当に単なる気紛れか、そうでなければ余程暇だったか…いずれにしろ、「当選おめでとうございます」の封書を受け取っても、最初は一体何の事かと訝った程なのだ。
  ただ何にしろ、「抽選に当たった」事に悪い気持ちはしない。
「タイトルからして動物ものだよね、これ」
  テレビなどでも宣伝を一度として目にした事のない作品だったが、チケットに印刷された子パンダの写真は如何にも愛らしく、歩遊は自然頬を緩ませた。ペットを飼った経験はないし、両親が仕事人間のせいで動物園などへも学校の遠足くらいにしか行った事はなかったが、逆にだからこそ歩遊は動物が好きだったし、興味もあった。
(俊ちゃん、一緒に行ってくれるかな…?)
  2人で映画に行くなど小学校の頃以来だ。しかもそれすら互いの両親が外の喫茶店で待っているところでの「2人きり」だったから、最初から最後まで2人で観に行ったという事は1度もない。
  意識し始めると途端ドキドキと胸が高鳴ってきて、歩遊はチケットを持つ手にも意図せず力を込めてしまった。
  どうやって誘おう?うまく言えるだろうか?
  俊史は動物ものの映画なんてと最初はバカにするに決まっているから、そこを何とか付き添って欲しいと頼まなければならない。
「さり気なく…あんま無理強いしないような感じで言おう…」
  しつこくして嫌われるのは避けたいから、俊史が迷惑そうにしたらすぐに引く。
  色々なパターンを想定しつつ、歩遊は夕飯時に現れるだろう俊史をじりじりとした想いで待った。こんな風に俊史に何かを持ちかける自分が珍しい事も自覚していたから、余計に緊張し、またわくわくと楽しい気持ちもしていた。





  しかし、事態は歩遊の予期せぬ方向へと進んだ。
「歩遊。お前、『子パンダ物語』って映画知ってるか」
「えっ…」
  いきなり俊史の方からその話題を持ち出してきたものだから、歩遊は向かい合っていた食卓でびくりとし、箸で掴んでいた煮豆をぽろりと取り落としてしまった。
  それがコロコロとテーブルの上を転がるのを俊史が眉をひそめて見つめる。
「何びびってんだよ。そんな凄い事訊いたか? っていうか、ちゃんと拾っとけ。行儀悪ィな」
「うん…っ。ご、ごめん」
  慌ててその豆を拾い、空いた皿の隅に置いたものの、歩遊はとにかく「子パンダ」の事が気になって仕方がない。あたふたとしながら、「それがどうしたの」とすぐ訊いた。
「お前、知ってんの。この映画」
「う、うん。どんな話かは知らないけど、テ…テレビの、宣伝で…」
  何故かすぐに「今日の幸運」について話せず、歩遊はそう言って誤魔化した。
  ただ俊史もそれを不審に思う理由もなく、何となく頷いてからつまらなそうに後を続けた。
「あらすじ聞く限りじゃ、びっくりする程くだらねえ話だぞ。子どものパンダが、ある日突然親パンダから崖下へ突き落とされて? 過酷なジャングルで色んな動物とバトって、最後百獣の王になるまでの感動ストーリーなんだと」
「へ…へえ…? それを実写で?」
「勿論戦闘シーンとかは無駄なCGで誤魔化してるらしいけどな…。ちらっと宣伝映像見たけど…ホントにアホ。たぶん10分後には寝る」
  そうして俊史は「絶対時間の無駄」、「こんなものを観たいと言う奴の気が知れない」とさんざ悪態を垂れた。
「………」
  歩遊は何も言えなくなってしまった。
  こんな展開で「実はその映画のチケット2枚持ってるんだ。一緒に行ってくれない?」なんて言おうものなら、またお前は一体何の嫌がらせだと怒鳴られてしまうに違いない。怒られる事に慣れてはいるけれど、そうと分かって俊史を余分に苛立たせる趣味は、歩遊とて持ち合わせていないのだ。
  けれど、そう考えてすっかり諦めモードでいるところへ、俊史はまた突然思ってもいない言葉を投げてきた。
「―っていう、凄ェつまんなそうな話だけど。歩遊が観たいって言うなら、連れてってやってもいい」
「……え?」
  何を言われたのだろうと歩遊が驚き顔を上げると、俊史は相変わらず憮然とした表情のまま続けた。
「戸辺の奴が、それどうしても観に行きたいって言うんだよ。動物モノの映画は殆ど網羅してるとか言って、例え前評判がどんな駄作って言われてても、自分の目で確かめるまでは納得いかないとかって」
「戸辺君が…」
  俊史の口から出たその人物の名を何となく自らも口にし、歩遊は暫し黙りこくった。
  天国から地獄とはまさにこの事だと思った。
  言われた直後は、「俊史は自分の動物好きを察して、《嫌だけど付き合ってやる》と言ってくれてるんだ」と、喜びで心臓もドキンと跳ね上がった。……けれどもそれは大いなる思い違いの恥ずかしい勘違いで、実際は戸辺の為。歩遊はおまけだ。
  それでも俊史が歩遊を気に掛け誘ってきている事は間違いないのだろうから、それだけでも十分嬉しがるべきなのだろうが……だが、しかし。
「ぼ、僕はいいよ…」
  俯いたまま歩遊は答えた。
  何が悲しくて俊史と戸辺の2人きりの中に入っていかなくてはならないのか。それこそ、2人の仲睦まじい姿を始終見せ付けられて辛い想いをするのは目に見えている。
  そんな想いは学校の中だけで十分なのだ。
「興味ねーのかよ。お前、動物モノ好きだろ」
  しかし俊史は歩遊の返答に案の定むっとしたようで、「折角気ィ利かせて誘ってやってんのに、何だよ」とぶすくれた声を出した。
「だ、だって…」
  けれど歩遊にしてみれば、俊史こそ「何なんだ」と思わずにはいられない。俊史にとっては戸辺は親友―…或いは、巷の噂を信じるならば「恋人」でも、歩遊にとって彼は同じクラスにもなった事がない、知り合いでも何でもない赤の他人なのだ。まともに会話をした事もないのに、ただでさえ人見知りなのに、そんな状況で映画など楽しめるわけがないではないか。
  絶対に嫌だ。
「ぼ、僕…一緒に行っても、何も話せないし…」
  ぼそぼそと自信なさ気にそう付け加えると、俊史は相変わらず不機嫌な様子でフンと鼻を鳴らした。
「そんなの分かってる。だから?」
「だ、だから……って?」
「それと映画行かないって言うのと何の関係がある? 観たくねえのかよ?」
「え、映画は……観たい、けど」
  既にあのチケットに写ったミニパンダには歩遊も一目惚れだ。しかもその作品の概要を聞かされた今となっては、単にパンダが可愛いというだけでなく、「苦難を乗り越えた熱血苦労パンダ」にも見えてきて、より一層の愛着が沸いている。
  だから、映画には行きたい。
  けれど、俊史「達」とは行きたくない。
  それが歩遊の偽らざる本音だった。
「観たいなら黙ってついてくりゃいいんだよ。別にお前に気の利いたトークなんか期待してねえし」
「で、でも僕……」
「ウジウジすんな。いらつく」
  ぴしゃりと吐き捨てて俊史はジロリと厳しく睨み据えた。
「別にお前一人が口きかなかったとしても誰も気にしねーよ。その場に何人もいるんだから」
「え…?」
  言われた事の意味が分からず歩遊が怪訝な顔をすると、俊史はその人数を思い浮かべるかのように一瞬天井を仰いだ。
「俺と戸辺と、あと生徒会の連中とそのダチとかも4〜5人来るから。そのダチ連中とかってのは大方戸辺狙いだろうから、お前なんかがくっついて来たところで何も気にしないだろうし」
「そんな大勢で行くんだ…?」
  てっきり俊史と戸辺2人きりのデートかと思った。
  反射的にその想いを口にしそうになったものの、歩遊は慌てて首をぶるぶると振って誤魔化すように白米を口に詰め込んだ。
  俊史は歩遊に戸辺との「噂」を否定しないくせに、歩遊が戸辺について勘繰ったり気を遣うような発言をすると途端怒り出す。帰りを一緒にする事とて、「戸辺君と帰らなくていいの」と一言呟いただけでその日一晩不機嫌になるし、学校以外でも歩遊が戸辺の事で遠慮して何処かへ行こうとするだけで「お前は大人しくここにいろ!」と強い口調で叱ったりするのだ。
  それにしても。
(余裕だなあ…)
  歩遊は俊史の顔をまじまじと見やりながら率直にそう思った。
  戸辺が学園内外で持て囃されるアイドルだとは歩遊もよくよく知るところではあるが、俊史は戸辺がそういったファン連中から絶えずアタックを掛けられても、別段ヤキモチを妬いたり焦ったりといった姿を見せない。普通だったら恋人が他の人間にちょっかいを出されたり、あまつさえ告白などされたらいてもたってもいられないのではないかと思う。実際、歩遊とて俊史が戸辺と仲良くしているところを見せつけられるのはとても辛いのだから。
  けれど俊史は戸辺に対して絶対の信頼があるのか、それとも自分に対して自信があるのか…恐らくはその両方だろうが、とにかく戸辺に対してはとても大らかで、この映画にしたって「ライバル」になるかもしれない連中がついて来る事も良しとしている。
「歩遊。何見てんだよ」
  俊史がそんな事をぼんやり考えている歩遊に遂に声を掛けた。依然としてイライラとした雰囲気が伝わってくる。歩遊がなかなか答えないので焦れているのだろう。
「映画観たいんだろ。なら一緒に来いよ」
「でも……」
「何だよ、別に気ィ遣う必要ないって言ってんだろ。映画館なんて黙って座ってりゃいいもんだろーが。そりゃ、帰りに飯くらい食ってくかもしれねーけど、そんなのは出ないで帰ればいいだろ?」
  歩遊がなかなか頷かないから俊史の口調も大層荒っぽい。歩遊としても折角俊史が誘ってくれているし、それに俊史と戸辺の「デート」というわけではないみたいだし、行けるものなら行きたいという気もするのだが。
  2枚のチケットはどうしようと思う。
  大勢で行くのに、自分と俊史だけタダ券を使うというのも何だか気が引ける。
  それならチケットを誰かにあげて、自分は俊史達と行く…?
「……もういい」
「え」
  けれど歩遊が結論を出せずにぐるぐると考えていると、遂に俊史がそう言って席を立った。
「んなに行きたくねーなら、もういい。お前なんか二度と誘ってやんねえ」
「俊…っ」
「ったく、お前のその態度。ほんっとムカムカするな! 何が気に入らないのか知らねえけど、そんなんだからお前にはダチの一人も満足にできねーんだよ!」
「……!」
  俊史のきつい言い様に今さらながらズキンと傷つき、歩遊は顔をさっと青褪めさせた。
  もしかすると俊史はいつも独りの自分を気遣って映画の話を持ち出してくれたのだろうか。あの生徒会の面々と仲良くするなど考えた事もなかったけれど、俊史としては自分の近しい仲間たちだから、まずはそういった人々と接する機会を作ってやろうとでも考えたのかもしれない。
  折角の俊史の好意を無にしてしまった。
「あ…あの、あの、俊ちゃん…っ」
「もう遅ェよ。観たいなら独りで行け、バカ」
「………」
  ガチャガチャと乱暴な手つきで食器を流しに置くと、俊史はそのまま荒い足取りで隣の自宅へ帰って行ってしまった。いつもなら一緒に片づけをしてくれるのに。風呂に入っていったり、暫くリビングで寛いでいく事もある。宿題を見てくれる事とて―。
「怒っちゃった……」
  その全ての幸せな時間を失って、歩遊は心底落ち込んだ。なかなかうまく口を出せない不器用な自分を思い切り殴りつけてやりたいという衝動に駆られながら、歩遊は当てもなく皿の隅に置いた小さな煮豆を意味もなくじっと見つめやった。





「はあ…」
  翌日の学校。
  休み時間の間も歩遊は俊史の言う「うじうじ」とした面持ちで2枚のチケットをじっと眺めやっていた。
  可愛い子パンダ。熱血子パンダ。
  チケットを当てた時よりもパンダへの想いは募っていたが、ただそれよりも今は俊史の機嫌を損ねた事こそが落ち込みの原因であり、映画へ行こうという気持ち自体はすっかりしょぼくれて消えていた。
  パンダには悪いが、このチケットは誰かに貰ってもらおう。これは自分への罰なのだ。
「あー、それ、『子パンダ物語』の前売りチケじゃん! すげえ!」
「え?」
  その時、恐らくは大分前からシュンとした歩遊には気づいていたのだろう、仲間達の輪からようやく抜け出てこられたという感のある太刀川が席に近づいてきて、手元のチケットを指し示した。
「いいなあ歩遊! それどうしたんだよ?」
「耀君…この映画の事知ってるの?」
  歩遊が半ば驚きの面持ちでそう聞き返すと、クラスで唯一歩遊に気さくに声を掛けてくる元気少年は、当然のように前の席の人間を押し退けて自分がそこへ座ると、「うんうん」と当然という風に頷き笑った。
「知ってるに決まってんじゃん! すっげー面白そうだよなあ、それ! わはは、もう前宣見ただけで大爆笑! パンダがさー、ライオンとかにジャンピングキックとかするんだぜ! 燃えるよなあ!」
「は、はあ…?」
「あれって動物愛護団体とか文句言わねえのかな? まあ、あからさまCGだから、そんな変なギャクタイとかはしてないと思うけどさー。けど、くだらねーよな! あはははは!」
「う、うん。そうだね」
  太刀川はいつでも底抜けに明るい。その笑い声を聞いているだけでこちらもぱっと胸が晴れるような想いがして、歩遊は自分もようやっとニコリとして微笑んだ。
「な、歩遊! それどうしたんだよ? 誰かと行くの?」
「あ…ううん、違う…」
「そうなの? 瀬能とは行かねえの?」
「えっ…」
  歩遊がびくんとして肩を揺らすと、太刀川はそれには気づかないのか、それともフリなのか、何という事もない顔をしてまた笑った。
「あいつと行かないなら俺と行こうぜ! 俺もそれ観たいと思ってたんだよー。あ、そのチケット使っちゃ駄目なら、俺は自分の分は自分でちゃんと払うし」
「あ、違うよ。これ…誰のものでもない。懸賞で当たったやつで…」
「えー、そうなんだ! 歩遊、クジ運いいんだ?」
「そ、そんな事ないよ。たまたま。こ、この映画の事も全然知らなかったし…」
「ふうん?」
  喋りながらもどんどん語尾が小さく弱々しくなっていく歩遊をまじまじと見つめながら、太刀川は何事か言いた気な雰囲気を漂わせたが、結局は何も言わなかった。
  そしてしん、と妙な沈黙が幾らか続いた後、いつでも優しい人気者は不意にまたあの明るいオーラを惜しげもなく振りまくと、ニカッと歩遊に白い歯を見せた。
「俺さ、部活あるから午後の早い時間とかは行けないんだ。週末も大会近いからずっと練習だし。だからナイトシアターとかどうよ? 俺、時間調べておくからさ」
「え…? で、でも…」
「あー、そんで!」
「!?」
  太刀川はびしりと歩遊の鼻先に向かってついと人差し指を押し付けてきた。
  それによって歩遊の鼻は見事にむにゅりと潰されたのだが、歩遊がそれに文句を言う前に太刀川はどこか悪戯小僧のような目を閃かせて言った。
「この事、瀬能には絶対ナイショな!」
「へ…? あ、ちょっ…耀君、指…っ」
「いいから聞け。お前なー、少しは学習しろよ? 俺とどっか遊びに行こうって約束して、お前一体何回それあいつに潰されてるか数えた事あっか? だから、この事は絶対言うな。俺、あいつの行動も調べておくからさ。ハハッ! 何かすっげー楽しくなってきたあ!」
「ちょっ…耀君…?」
「それともこのチケットの事。あいつ、知ってんの?」
「し、知らないけど…」
「よしゃ! じゃあ、それ俺に預けておけ」
「あ」
  歩遊がオタオタとしている間に、その2枚のチケットは太刀川の手に渡り、まさにタイミングが良いのか悪いのか、そこで始業のチャイムが鳴った。
「行こうな、2人で。子パンダ」
  席に戻りながら太刀川がニッと笑いチケットをひらひらとさせるのを歩遊はただ唖然として見送った。
  ゆらりと揺れる薄い紙片の中で、凛々しい子パンダもニヤリと笑っているように見えた。




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