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  その夜、自宅の居間でテレビをつけながら、歩遊は1人宿題用の数学ノートを開いていた。いつもなら自室の勉強机でやるのだが、今日はどうしても集中出来ない。頭の中では子パンダのチケットと、それを持って行きながら「瀬能にはナイショな」と言った太刀川の笑顔がちらついていた。
  俊史と一緒に映画を観る事が叶わない今、太刀川と一緒に行ける事は歩遊とて単純に嬉しい。太刀川は歩遊にとって初めて出来た友達であり、とても大切な存在だ。これまでも部活で忙しいながら折を見て遊びの誘いを掛けてくれる太刀川とは、歩遊も一緒に何処かへ出かけたり、もっと互いの事を色々話し合ってみたいと思っていた。
  けれどそういう機会を得られそうになる度に、何故か突然現れる俊史に全て反故にされてしまい――。
「はあ…」
  誰もいない部屋の中で、テレビから零れ落ちる騒がしい音だけが虚しく響く。
  今日は俊史も生徒会の仕事が忙しいらしく食事も勝手にしろと言われているので、あからさま溜息をついても怒られる事はない。普段はそうして悩んだり落ち込んだり困ったりする度に、俊史が「イライラする」、「言いたい事があるならはっきりしろ」、「何でお前はそうなんだ」といちいち文句をつけてくるので、歩遊としても例え自宅であろうともうっかり悩んでいられなかった。
  ただ、歩遊も俊史が《愚図な幼馴染》を心配してそう言ってくれているのは分かるし、自分自身こんなに煮え切らない男ではいけないと自覚しているので、むしろ本当に溜息など止めなければとは思っている。
  けれど。
「はあ」
  それでも今この時、歩遊はそれを止める事が出来なかった。
  何にしろ、歩遊は俊史に隠し事をするのが苦手である。

《瀬能には絶対ナイショな》

  それは歩遊にとって時限爆弾を仕込まれたかのように恐ろしい枷だ。歩遊を捕らえ、そして怯えさせる呪いの言葉でもある。俊史に内緒事をするなど、大嫌いな数学の問題集を一冊仕上げろと言われるより無茶な話だ。何故って、これまでどんな事とて俊史には自分の考えを見抜かれてきたし、歩遊自体バカ正直なところがあるから、何か抱え込んでいると必ず顔に出てしまう。それで俊史に厳しく問い詰められたらそれでおしまい、ジ・エンド。結局は全ての事をゲロさせられるのは必定だった。
(いっその事、もうこの話が出なければいい)
  子パンダの姿を無理矢理頭の隅から消し去って、歩遊は見たくもないテレビ画面に視線をやった。どんなタイミングなのか、そのバラエティ番組では動物に関するクイズを出題していて、画面には広々としたサバンナが映し出されていた。そしてその木陰には、子パンダの映画でジャンピングキックされてしまうらしいホンモノの百獣の王が気持ち良さそうに寝そべっていた。
「ライオンか……」
  何となく口にした時、「それがどうした」と返されて、歩遊はそれを思い切り幻聴と捕らえて「別に」と答えた。
「別にって事はないだろ。つーか、何だよその態度。不貞腐れてんのか」
「え…ッ!?」
  あからさまむっとしたような声に初めてぎょっとして振り返ると、そこにはいつからやって来ていたのか、制服姿の俊史がいた。
「しゅ…俊ちゃん…?」
「お前にテレビ見ながら勉強するなんて器用な真似が出来んのかよ。初めて知った」
「あ…いや、これは…」
  慌ててぷつりとテレビの電源を消したものの、直後歩遊は一瞬にしてその行為を悔いた。
  こんな風にしんとした部屋の中で俊史と向かい合ったら、また無駄に挙動不審になって太刀川との約束を守れない。自分の「内緒」があっという間に俊史に「バレて」しまう。いや、そもそも俊史に隠し事などしたくないのだが…。
  ぐるぐると思考を巡らせている歩遊に、案の定俊史は不機嫌全開な顔で立ったまま見下ろしてくると、「何だよ」と世にも恐ろしい低い声を発した。
「お前、また何か隠してやがるな」
「えっ」
「分かるんだよ。お前の考えてる事なんて。すぐに」
  ハンとバカにするように冷ややかに唇だけで笑むと、しかし俊史はそれをすぐに問い質そうとはせず、黙って手にしていた袋を歩遊に突き出した。
「……これ?」
「夕飯まだなんだろ、どうせ」
  そのビニール袋の中には駅近くにあるファストフード店の紙袋が入っていた。まさに歩遊が子パンダの鑑賞券を当てた店だ。紙袋からは仄か美味しそうなハンバーガーの匂いが漂ってきている。まだ温かかった。
「いいの?」
「おばさんから時々金貰ってる。定期的にお前に餌やってくれってさ」
「エ、エサ………」
  多分それは俊史の厭味ではなく、我が母が本当に言った台詞なんだろうとすぐに分かった。己の息子よりも俊史に絶対の信頼を寄せている仕事人間の母親は、自分が滅多に家に帰れない代わりに、こうして「頼れるお隣さん・俊ちゃん」に歩遊の面倒を頼んでいるのだ。事によると母が俊史に電話をする回数は、息子である歩遊にするそれよりも多いのではないかと思わせた。
「………」
  結局のところ、俊史がこうして歩遊をやたらと構ったり身内のように叱り飛ばしてきたりするのも「そのせい」なのだ。本当は戸辺や仲間達との付き合いを深めたいと思っているはずなのに、歩遊がいつまでも独りで「うじうじ」としているから、俊史も歩遊の母親に「金銭込みで頼まれている」手前、断れない。
  そういう事なのだろう。
「……ありがと」
  今夜は来ないと思っていた俊史が来てくれたという喜びもあっという間に飛散して、歩遊は項垂れながら、けれど小さく礼を言った。実際夕飯はまだ食べておらず、いささか空腹だった。
  悲しい時でも腹は空くものなのだなと自嘲気味に笑いたくなる。
「映画。明日行く事になった」
  台所へ一人自分の飲み物を出しに行った俊史が居間にいる歩遊に言った。
  それに「えっ」となりながら顔を上げると、俊史はお茶の入ったコップを手にしたまま、そんな歩遊をちらりと横目で見やってきた。
「今、今度の体育祭の準備で色々忙しいからな。それが終わってから駅前のシアター向かうとしたら、夜の一番最後の時間になっちまうけど。まあ、あんなもん観るのに、わざわざ休みの日に行かなくて済んで助かったってとこか」
「ふ、ふうん……」
  明日の、夜の時間で、駅前のシアター。
  そんな情報をこちらに与えてきて、何だろう、俊史は実は太刀川と自分の約束を既に知っているのだろうか―…。咄嗟にそう勘繰って歩遊の心臓は飛び上がらんばかりにドキンとした。
「期待しても無駄だぜ。お前は連れてかねーからな」
  けれど次に発せられた言葉はそれで、歩遊が再び驚きで顔を上げると、俊史はフンと試すような笑みを浮かべて意地悪く言った。
「こんな事わざわざ教えたから、また誘ってもらえると思ったか? お前は連れていかねーって言ったろ。ただ、明日はホントに飯やりに来れねーからって意味で言っただけだよ。勘違いすんなよな」
「あ……」
「わざとらしく動物モノのテレビなんか見やがってよ。俺は誘ってやったんだからな。それをお前がうだうだとしてすぐに行くって答えないのが悪いんだ。独りでカップラーメンでも啜ってろ」
「あ、あの…」
「何だよ? 今さら連れてって欲しいなんて言っても無駄だからな!」
「そ、そんなんじゃ…」
  別にそういうつもりではないのだが。
  けれど慌てて首を横に振る歩遊に、俊史は「連れて行かない」と散々言ったのは自分だというのに、あからさま気分を害したように眉を吊り上げた。恐らくは歩遊があっさりと引き下がるものだから予想が外れたのだろう。ぎりと唇を噛んだ俊史は、ほんの一瞬だけ何事か言おうとしたものの、すぐにキッと顔を改めて歩遊を睨み吐き捨てるように言った。
「本当は行きたいくせによ…! お前がこういうのが好きだってのは、俺が一番分かってんだよ! それなのに、何意地張ってやがんだ!」
  ドタドタと荒い足取りで去って行く俊史は、また昨日と同じように言う事だけ言って、そのまま自宅へと帰って行ってしまった。
  歩遊にとっては幸か不幸か、俊史は「歩遊が何か隠し事をしている」と察知していたにも関わらず、怒りでそれを問い詰める事を失念したようだった。
「と、とにかく…」
  ごくりと唾を飲み込んで歩遊ははあと息を吐いた。
「耀君に言わなくちゃ…。明日だけは、絶対に観に行くのやめようって」





  そして翌日。
  太刀川は今日の天気のように実に晴れ晴れとした爽やかな顔で歩遊の席に近づくと、開口一番びしりと親指を立てて言った。
「歩遊〜。映画さ、今日に決定! 駅前シアターでラストの時間のやつな!」
「駄目だよ!!」
「うおっ!?」
  いつもはどもったりオドオドと小さい声しか出さない歩遊が大声でそう即答するものだから、太刀川はもとより、周囲にいたクラスメイトまで皆一様に驚いた顔を向けた。
「あ…」
  それで歩遊もしまったと思い、慌てて浮かしかけていた腰を再び椅子に落としたのだけれど、太刀川は苦笑しながら「何だよ歩遊―びびらせるなよー」とぽりぽりと顎先を掻き、首を捻った。
「歩遊のデカイ声って初めて聞いた。けど、お前って美声なあ。今度カラオケ一緒に行かねえ?」
「じょ、冗談言ってる場合じゃないよ…」
「いや、全然冗談じゃねーけど。あ、映画の後行ってもいいぜ? 俺、安くて空いてるトコ知ってんだ!」
「そ、それより、映画なんだけど、駄目…! 絶対駄目だよ今日だけは」
「何で」
  またしても歩遊の前の席に座るクラスメイトを押し退け、太刀川は自らがその椅子にどっかりと座りこんだ。椅子の背に両肘を乗せて思い切りリラックスしている太刀川は、青褪める歩遊の顔とは実に対照的だ。
  歩遊はそんな友人と自分とのギャップを我ながら滑稽だと意外や冷静に客観視しながら、ぶるぶると頑なに首を振った。
「そ、その時間、俊ちゃ…瀬能君たちも行くんだ。映画。だから、鉢合わせしちゃうから」
「知ってるけど」
「………え?」
  あまりにあっさり答えられたので歩遊はすぐに反応が出来なかった。
  ぽかんとして口を開けたままでいると、太刀川はとても優しい目をしてそんな歩遊を見つめていた。その真っ直ぐな視線は歩遊には何だか眩しくて、とてもじっと見つめ返せるものではなかったのだけれど。
  それに、それよりも何よりも、今は太刀川の発言自体が問題だ。
「耀君、今、何て言ったの?」
「ん? 知ってるって言ったの。瀬能達生徒会のメンバーが仕事終わらせた後、子パンダ観に行くって言ってんだろ? 駅前のシアターで。ラスト時間で。まあ、あそこが一番近いしな、うちらが映画行くなら、大体はあそこだよな」
「………何で」
「歩遊。俺、情報集めておくって言ったろ? 昨日の夜さ、色々電話とかしてあいつらがその時間に行くって知ったから、だからそこにしようって思った」
「だ、だから、何で?」
「何で? それこそ、何で?」
  太刀川はニヤリとどこか酷薄な笑みを漏らしたが、あまりに歩遊の顔が蒼白だったからか、すぐにパッといつもの害のない顔に戻ると「何てなッ」とおちゃらけて見せた。
「悪い悪い。まあ、歩遊がそうやって驚くのも分かるけどさ。普通なら、あいつらと同じ時に行く必要ないよな。つか、俺がヤだよ。また歩遊といるとこ瀬能に見つかったら何だかんだ言われて、歩遊掻っ攫われるだけだろうし? あいつ、マジで意味分かんねえ」
「よ、耀君…?」
「でも、むかついたからさ」
「え?」
  怪訝な顔をすると、太刀川はそんな歩遊の頭をがっつりと掴んでグラグラと乱暴に揺らした。
「わ、わ?」
  それに当然歩遊が困惑した声を漏らすと、太刀川はここで初めて怒ったような顔をして言った。
「なあ、歩遊。昨日何で歩遊がさ、あのチケット見つめながらがっくりしてたか、俺分かった。ホントはやっぱり、あのチケット使って瀬能と2人で行きたかったんだろ?」
  歩遊が何かを言おうとする前に太刀川は続けた。
「で。偶然なのか何なのかは知らないけど、歩遊は瀬能と行きたかったのに、瀬能は生徒会の奴らと行こうとしてるんだろ? でもあれ、別に生徒会の面子オンリーの集いってわけじゃなさそうだし。同じ映画行くなら、歩遊の事だって誘えばいいじゃんか。なあ? あいつ、何で歩遊の事は連れてかねえの?」
「ち、違う。瀬能君はちゃんと誘ってくれた!」
  太刀川が誤解していると思い、歩遊は慌てて口を切った。
「なのに…僕がグズグズしてたから瀬能君が怒っちゃって、それで」
「んん…? ……何だかよく分かんねーけど」
  まあお前らがよく分からないのは前からだな、と、太刀川はサラリとさり気ない毒を放ち、それからぽんぽんと歩遊の頭を叩いた。
「ともかくさ。瀬能が歩遊と行かないってんなら、歩遊は俺と行ってもいいわけだ? だから、どうせなら堂々とあいつの見てる前で行ってやろかなって思ったわけ。駄目?」
「だ、駄目って言うか」
「あいつ、怒ると思う?」
「う、うん」
  歩遊が素直に頷くと、太刀川はまた不思議そうな顔をして首をかしげた後、ゆっくりと笑った。
「じゃあさ、一応歩遊にも自覚はあるんだ。あいつが歩遊を好きって事」
「………え?」
  ぱちぱちと瞬きする以外、全ての動きを止めてしまった歩遊に、太刀川は呆れたように肩を竦めた。
「だって歩遊は、自分が俺と映画行ってるトコ瀬能に見つかったら、瀬能は怒るって思うんだろ?  それって、つまりはヤキモチ焼かれるの分かってるって事じゃん?」
「え? ええ…? ち、違うよ? 何それ? ヤヤ、ヤキモチ?? それは違う。それは、そんな事はない!」
「何キョドってんだよ、もう」
  あはははとまた軽い笑声を立てて、太刀川は寝かせていた肘を立てるとおもむろに頬杖をついた。
「ホントに気づいてないの歩遊? 嘘だろ? あんなん、見てりゃ分かるじゃん。俺が歩遊にちょっかい出すと烈火の如く怒ってさあ。俺も最初は何なんだコイツとしか思ってなかったし、歩遊確かにトロ臭いとこあっからさ。それであいつ、腐れ縁とかで詰ってるのかと思ってたけど。お前とよくよく付き合ってきゃあ、あっちが異常だってのは明らかに分かるよな」
「よ、よ、耀君……」
「歩遊。どもり過ぎ」
  何だかなあと苦笑して太刀川は小さく喉の奥だけでくっと笑ったが、その顔はいつものただの元気少年ではなく、どこか大人びた表情をしていた。
「なのに、あいつ歩遊に冷た過ぎるし。だから今回の事も、何か歩遊だけ仲間外れっぽくなってるの、俺はスゲーむかつくし。だから、俺と一緒に行けばいいじゃん。あいつらに見せつけてやればいいじゃん。歩遊は独りじゃねーぞって」
「え…?」
「歩遊には俺がついてっからさ」
「……耀君」
「な? 歩遊。俺と2人で行こうぜ」
「耀チャン、それさ。相羽の事、口説いてんの?」
  その時、大人しく太刀川に席を譲っていた歩遊の前席の生徒が呆れたように2人の会話に入ってきた。何も聞いていないように見せかけて、実はちゃっかりと歩遊たちの話に耳を傾けていたらしい。普段は歩遊に親しく話しかけてくるような生徒ではないが、余程2人の話が興味深かったのか、その生徒は歩遊の方にも気安い笑顔を向けてきた。
「相羽、お前あんまり大人しくコイツの話聞かない方がいいぜ? 聞いてるこっちが恥ずかしくなってくるよ」
「じゃ、聞いてんじゃねえっての。お前、どっか行けよ。俺が歩遊と話してんだから」
「あの瀬能俊史に、まともにたて突こうなんてのは、お前だけだなあ」
  そう言って依然くっくと笑いながら離れていくクラスメイトを歩遊はぽかんとした面持ちで見送ったのだが、真正面でわざとらしく咳き込む太刀川にハッとした時には、その視界一杯にはその初めての友人の度アップが映っていた。
「あのなあ、歩遊」
「う、うん?」
「別に口説いちゃいないけど。けど、俺が歩遊の事が気になるのはホントだよ」
「耀君?」
「何ていうの? 雨がザーザーめっちゃくちゃに降りまくってる中、みかん箱の中にちっこい捨て犬とかいたらさ、お前はどうするよ? そいつには飼い主がいんのに、飼い主はそいつがキュンキュン啼いて自分呼ぶのが面白いからって、放置してんの。俺ならその飼い主が見てる前でその犬抱っこしてお持ち帰りするな!」
「そ、それは……僕もそうすると思うよ」
「その飼い主が慌てて出てきて、『それは俺のだ!』って怒っても?」
「だって…その犬が可哀想じゃん…」
  歩遊がまともにそう答えると、太刀川はどこか複雑そうな、苦々しい顔をした後、「まあ、そうだろ」とだけ答えてそっぽを向いた。
  そうして、その後は歩遊がどう説得しようと試みても、「とにかく今日は映画に行くぞ」と言って譲らなかった。



 

後編へ…