ゆっくりと、近づく



「歩遊。もう大分遅れてる。早く行くぞ」
「うん……―あ!?」
  慌てて鍵を閉め俊史の後を追った先、ふと鼻先を掠めたそれに歩遊は思わず声をあげた。
「俊ちゃん、雪…!」
「ああ、降り始めちゃったな」
  俊史は鬱陶しそうにその白い空を見上げたけれど、歩遊は寒さのせいではない、嬉しさから、頬をぽうっと上気させた。
  待ちに待ったクリスマス・イブは、見事なホワイトクリスマスだ。
  今年は2学期の成績表も驚くくらいに上がっていたし、実はかなりの先取りで冬休み中の宿題も既に殆ど終わらせている。俊史はこの休み中は宿題どころではない、もっと難しい受験対策用の問題集をやらせると脅してきたけれど、歩遊にとってはそれすら楽しみの一つだった。大変な学校生活も一区切りついて、今日のクリスマスは勿論、年末年始もずっと俊史といられるのだ。
  おまけに今日は随分と顔を合わせていなかった両親とも会える。良い事尽くしだった。
「歩遊。寒いんだから、マフラーちゃんとしとけよ」
「うん」
  歩遊としてはサラサラと落ちてくる雪をこのまま身体いっぱい浴びながら歩きたいくらいだったが、俊史は当然そんな真似を許してはくれない。あらかじめ用意していた傘を早々差すよう言われて、既にぐるぐるに巻いたチェックの赤いマフラーも「もっときちんと巻け」と注意される。「普通の友人関係」だったら到底ありえない遣り取りが俊史と歩遊の間には存在していて、またそれを2人ともが疑問に思わない。
  だから今日も2人は俊史が少しだけ先導した形を取りながら一緒に歩く。
  今夜はいつも仕事仕事で全く姿を見せない歩遊の両親が「普段の罪滅ぼし」とでも言わんばかりに、歩遊と俊史の為にホテルの豪華ディナーを予約してくれていた。フランス料理のフルコース、おまけに歩遊の大好きなデザートも特別仕様で注文してあるという事だったから、歩遊はこの日を数日前からとても楽しみにしていた。
  久しぶりの両親と何を話そうか、その事もずっと考えていた。もう高校生だからさすがに両親不在の日常を寂しいとか心細いとかは思わないが、だからと言ってあの広い家に常に1人でいる事を「慣れた」とは言いたくない。最近では俊史が毎日夕食を共にしてくれるけれど、それでも時々は母親に母親らしく食事を振る舞ってもらいたいなんて事も思ってしまう。
  現にこういう日だって「外食」は当たり前なのだ。
「でも文句言ったら『罰当たり』って怒るだろうな…」
「…何か言ったか?」
  ちらと振り返って俊史が不審な顔をした。歩遊はそれに慌てて首を振り、「何でもない」と答えながら足を速め、俊史と肩を並べた。もう余計な事は考えまい。何せ豪華ディナーだ。素直に喜んでおけばいい。
「俊ちゃん、ホテルのディナーって言っても、テーブルマナーはそんなに煩くないよね?」
「お前、そんな事心配してんのか?」
「ちょっと」
「別にいいよ、気にしなくて。ミキさんだってどう考えても適当だろ?」
「うん」
「それより、ほら。雪、肩にかかってんぞ。ちゃんと傘差せって」
「うん」
  しきりに世話を焼きたがる俊史に歩遊は途惑いながらも必死に頷いた。大丈夫なのに、俊史は歩遊が着ているフードや肩先に掛かった粉雪を律儀に手ではたいたりしている。新品のそれだから気になるのかもしれないけれど、何だか余計に照れくさくなった。
  そもそもこの新品のコート。もこもこ白のダッフルなんて自分に似合うのだろうか。
  俊史がクリスマスプレゼントとして買ってくれたものだから、絶対に無碍には出来ないし、デザイン自体は本当に可愛く、且つカッコイイとも思うのだけれど。
「ねえ俊ちゃん」
「ん」
「このコートさ。高かった?」
「はぁ…? …んな事気にしなくていいんだよ」
「でも」
「お前が結局欲しい物言わないから俺が適当に考える羽目になったんだろ。何? お前、これ気に食わなかった?」
「ち、違うよ! 嬉しいよ! でも!」
  ちろりと歩遊は俊史の肩から提げている小さめのボストンバッグを眺めた。その中には歩遊が俊史にあげたクリスマスプレゼントが入っている。俊史も歩遊にはあれが欲しいとかこれを買えとか言ったリクエストを一切してこなかった為、思案した挙句、歩遊はある映画のDVDを購入した。確か以前に俊史が観たいと言っていたものだし、俊史が好きだという俳優が主演しているから、少なくとも「外れ」ではないだろうと思ったのだ。

(でも…凄く安くなってたし、こっちのコートの方が断然高そうだ)

  ただ、結果的に差がつきそうだという事はあらかじめ予想していた為、歩遊は「保険用」というかおまけで、実はもう1つプレゼントを用意していた。それを渡そうかどうしようかは先刻ぎりぎりまで悩んでいたのだが、早く出かけようと急かされて出しそびれた。渡せないまま自分が背負うリュックの中にそれをしまったが、どうしよう、渡すべきだろうか。今日は両親が取ってくれたホテルにそのまま宿泊できるからと、2人は所謂「お泊まりグッズ」を持っていたが、歩遊の俊史へのプレゼントはその一泊用の小さなリュックに容易に収まりきるほどの小さな物なのだ。

(やっぱりこんなのあげても…俊ちゃんはバカにするよな…)

「歩遊。電車来るから急ぐぞ」
「えっ」
  しかし物思いに耽っていたところ、俊史が不意に歩遊を呼んで足を速めた為、歩遊の思考はそこで完全に途切れた。空から舞い落ちる雪は更に大きな玉のようになり、しんしんと地上に降り注いできている。足を滑らせないように気をつけながら、歩遊は努めて急ぎ足で俊史の後を追った。





  歩遊の両親が待ち合わせ場所に選んだホテルのロビーは多くの人でごった返していた。
「さすがに混んでるな」
「う、うん…」
  都内でも有名なそのホテルはイブという事もあってただでさえ華美な雰囲気を更に際立たせるべく、あちこちに過度な装飾が施されていた。ただ、普段なら厭味に過ぎるのではないかと思われるそれも、中央に配された巨大なクリスマスツリーをはじめ、煌々と照りつけるシャンデリアの眩い光が全てを幻想的にし、多くの人を夢心地にしている。ましてや、今日という日を特別に感じて、最初からほろ酔い気分の人間たちには浮かれた気持ちこそすれ、これらの「ごった煮」も楽しいものに映っているようだ。
  けれど、歩遊は落ち着かなかった。
  元々人見知りが激しいし、人がたくさんいるような場所は苦手だ。勿論、ホテルの豪華料理それ自体は楽しみだけれど、こんなに着飾った人々の中で自分は妙に浮いているように思えるし、少しでも他に気を取られていたらあっという間に俊史の姿を見失いそうだ。
  最初こそあの大きなツリーを間近で観たいと思っていたが、正直今はもうどうでもいい。努めて俊史の傍にいてじっとしていようと意を決めた。
「歩遊。お前、緊張してんのか?」
  そんな歩遊の様子を逸早く察したのは俊史だ。歩遊は「え」と口許で問い返したものの、誤魔化すのも無理だと諦め、決まり悪そうに俯いた。
「うん…。だってさ、こんな所、場違いだよ」
「何がだよ。金払ってんだから、俺らだって立派な客だろ」
「俊ちゃんはサマになってるけどさ…」
  私服の俊史はいつも以上に大人っぽい。長身だからという事もあるけれど、こういう場でも堂々としてまるで臆する風がない。そういう俊史だから尊敬するのだけれど、何だか自分だけが置いていかれた気持ちになって、歩遊は珍しくぶすくれた顔を見せた。
「何いじけてんだよ」
  ただ、俊史は俊史でこのいつもと違う場所で気持ちが違っていたのかもしれない。
  普段ならいじいじとしたそんな歩遊に説教の一つもしそうなものなのに、苦笑したように優しい笑みを浮かべると、「なら部屋で待とうぜ」と言ってさっさとフロントへ向かって歩き出した。
「え…? 俊ちゃん…?」
  途惑う歩遊にも構わず、俊史は早々に部屋の鍵を受け取ると、それを指先に掲げて見せつけるようにしてから「ここで待つの嫌なんだろ」と言った。
「でも…いいの? 先に部屋行っても」
「別にいいだろ。ミキさんの携帯に入れとくし。大体、あの人たちが時間通りにちゃんと待ち合わせ場所に来ると思うか?」
「……思わない」
「だから部屋取ってくれてたんだろうし。いいから行くぞ」
「うん」
  歩遊の両親の事なのに、歩遊以上に彼らに詳しいような口ぶり。しかし歩遊はそんな俊史に反論の一つも出せはしない。
  歩遊の両親は仕事に関してはきちんとしている(はずだ)が、その他の事は本当にズボラというか、関心の薄い人たちだった。だから子どもである歩遊との約束も平気で破るし、時間にもルーズだし、言っている事もその時と場合によってコロコロ変わった。その適当さは本来トロい歩遊でさえ「酷過ぎる」と思えるもので、几帳面な俊史にしたらきっと耐えられないレベルだろうと思われるのに、昔から不思議と3人の仲はとても良かった。元々両親は自分たちの代わりに歩遊を「育てて」くれている俊史に全幅の信頼を寄せているし、優秀なお隣の「俊ちゃん」の事は無条件で可愛がっているところがある。俊史もそんな歩遊の両親には実の親より懐いているし、それは歩遊にもとても喜ばしい事なのだけれど、少しだけ複雑な気持ちもする。
  だって彼らは息子の歩遊に連絡をせず、俊史にだけしてくる事も多々あったから。
「やっぱり少し遅れるってよ」
  部屋に着いた後、俊史が携帯を眺めながら笑って言った。
「そう…」
  歩遊は荷物を置いて傍のベッドに座ってから、それに頷いて答えた。遅れるなら自分に言ってくればいいのに。そんな恨めしい気持ちが少しだけ出てしまうが、一方でいつもの事だよなんて溜息交じりの諦めの気持ちが浮かんだりもする。
「……それにしても広いな」
「え? あ、うん」
  俊史が部屋の事を言ったのだと分かった。それで歩遊も頷き、改めて辺りを見回す。両親が奮発したその部屋は、スイートでこそないが、それに匹敵するような広さと豪華さを兼ね備えた一室だった。ツインルームなのに寝室と中央の広間以外にもう一つ部屋があるし、ミニバーもあるし、風呂にはジャグジーがついている。まだ夕刻だが、高層から眺める外下の景色は絶景だった。
「わぁ…船が見えるよ俊ちゃん!」
「当たり前だろ。海沿いのホテルなんだから」
  窓から外を覗いた歩遊の歓声に俊史は無感動だったが、歩遊にしてみたらそれは珍しい光景だった。元から内陸部の育ちで海とは無縁の生活をしているし、高い所は怖いけれど、こうして外を見る分には楽しい。ずっと見ていたいと思えるような景色だ。
「凄いね。ここ、高いよね、きっと」
「一泊10万くらいじゃねえ?」
「本当に!?」
  ぎょっとして歩遊が振り返ると、俊史は自分ももう一方のベッドに座りながら何ともないように肩を竦めた。
「ミキさんたち言ってた。偶にお前に出資してやんないと、親だってこと忘れられるかもしれないからって」
「えぇ…?」
「だから今日は何でも贅沢させてやるんだってさ。…明日もディズニーランド連れてくって行ってたぜ?」
「本当に? …でも別にいいのに。もう高校生だしさ、家族でそんなとこ、変じゃない?」
「別に…」
  俊史は興味がないという風に答えてから、ばたりと横になって両手を頭の下で組んで目を瞑った。歩遊はそんな俊史の姿に途端ドキリとしたものの、慌てて再び窓の外へ目をやりながら口を切った。
「しゅ…俊ちゃんも、行く…? 俊ちゃん行くなら…僕も…行きたいけど…」
「………行かないって言ったら?」
「えっ!? 行…っ。俊ちゃん行かないなら、僕も別に…」
  ディズニーランド自体は嫌いではないけれど。
  歩遊は目を瞑ったままの俊史をまた振り返り見てしみじみと答えた。
「別に…本当は、ホテルで豪華ディナーだってさ…。どうでもいいんだ。家でみんなで寛いでいた方が楽だしさ。お母さんたちもそんな事でお金使わなくてもいいのにって思うよ」
「ふうん…」
「そ、それに…。僕は、俊ちゃんと一緒にいられればそれでいいから…」
  それは心からの気持ちだったので歩遊は素直に答えた。最近は本当に俊史の事をまともに見ているだけで心臓の鼓動が早くなるし、息も苦しくなるのだけれど。そしてそれがどうしてそうなるのかも分からないのだけれど。
  それでも、歩遊は俊史と一緒にいる事は好きだと思っているので、その気持ちだけはきちんと伝えたいと思った。
「お前さ」
  すると俊史が閉じていた目を開いて歩遊を見つめてきた。
「毎年こうして一緒にいる事をどう思ってんだ?」
「え?」
  突然訊かれたその質問の意図が分からず、歩遊はきょとんとして目を瞬かせた。
「どうって…?」
「一緒にいられればいいって、本当に…簡単に言うよな、お前は。でも、いつまでこうしていられると思う」
「え…」
「俺たち、いつまでこうして毎年…こういうイベントの時、一緒にいられると思うんだ?」
「いつまで…?」
  そんな事。
  咄嗟にそれだけが頭に浮かんで、歩遊は直後蒼白になった。
  あまり…というか、考えたくなくて避けていた究極の質問だ。俊史といつまでこうして一緒にいられるのか。高校に入って戸辺という存在が俊史の前に現れて。2人は付き合っているという噂まで流れて、徐々に歩遊は「俊史に依存している自分」を何とかしなければと思い始めた。けれども俊史の傍は安全だし、安心だ。ずっとそうしてきた分、突然「離れろ」と言われたら、きっと途方に暮れて自分は完全に道筋を失ってしまう。それが分かる。
  だから歩遊はなるべく考えないようにしていた。俊史がいつか自分の元から離れて、どこか遠くへ行ってしまう事。
  お互いが別々の道を歩む事を。
「……分からない」
  だから歩遊は正直にそう答えた。「俊史と離れたくない、ずっと一緒にいたい」…などという我がままを言う気はない。むしろそんな発言は口が裂けても言えないと思う。
  けれども、たとえば「高校を卒業するまで」などと言う具体的な話もしたくない。俊史は同じ大学を受けろと言ってくれているけれど、現実問題としてそれはかなり難しい。今は勉強も頑張っているが、その実現はまだまだ遠い夢物語なのだ。
「分からないって何だよ。じゃあお前の希望は?」
「え」
  けれど俊史は歩遊を逃がす気はないようだった。不意に上体を起こすと厳しい目をして歩遊を睨み据え、「答えろよ」と凄んでくる。
「分からないなら分からないなりに答え方ってもんがあるだろ。お前はいつまで俺と一緒にいたいと思ってる? いられると思ってるんだ?」
「ぼ、僕…?」
「そうだよ。お前の気持ちだよ」
「そん、そんなの…」
  「ずっと一緒にいたい」とは、言えない。それは我がままだ。
  かといって、「別に一緒じゃなくていい」という嘘もつけない。
  困った。
「……う」
  もごもごと口の中で声にならない声だけが響き、歩遊は案の定短気な俊史を苛立たせた。
「ったく、はっきりしない奴だな!」
「…っ。ごめん!」
  だからいつもの如く歩遊は謝り、小さくなってしゅんと項垂れた。傍に俊史が近づいてくる気配だけは分かったけれど、動けない。ただ背中を丸めて首を竦めていると、俊史が「バカ」と言って後頭部ごと掬い取るように歩遊の頭を引き寄せて自分の胸にかき抱いてきた。
「しゅ…俊ちゃん…?」
「こういう日くらい、気の利いたこと言えないのかよ」
「こういう日…?」
「言えよ」
「え?」
「だから。言えっての」
「な…何を……んっ!」
  本当に分からなくて顔を上げた途端、それを予測していたかのように俊史の唇が下りてきた。それをもろに受け留めた歩遊は俊史の口づけに翻弄されたまま、ぐっと反射的に相手の腕を掴んだ。
「ふっ…ん」
「………歩遊」
  確かめるように何度か重ねられた唇がふっと離された瞬間、それをした俊史がそっと甘い声で囁いた。それに思い切り反応を返した歩遊は、ぴくんと身体を震わせて恐る恐る俊史を見上げた。まだ俊史の唇が凄く近くにあって、吐息も歩遊の鼻先にかかる程だ。それを意識して急に顔が熱くなると、俊史はそれを嗜めるようにちろりと歩遊の唇を舌で舐め上げてきた。
「んっ…」
  キスより淫猥なそれに歩遊がますます目元を赤くすると、俊史はそれでようやく微かに笑った。
「歩遊」
「あっ…」
  そうして途惑う歩遊をよそにそのままベッドに押し倒すと、俊史は歩遊の首筋にも噛み付くようなキスをし、おもむろに歩遊のセーターの中に片手をするりと差し入れた。
「ひゃっ」
「…色気のない声出すな。萎えるだろうが…」
「だ、だって…っ。俊ちゃ…!」
  キスはいいけれど、それ以上の事は怖い。
  忽ち危険信号が鳴り出した歩遊は、全身をばたつかせながら俊史の拘束から逃れようともがいた。このまま大人しくしていたら何か恐ろしい事が起こる。とんでもない事が起こる気がして、歩遊は例えそれをしているのが俊史でも大人しくしている気持ちがなくなった。
「やっ…嫌だ、俊ちゃんっ」
「……っ。何で嫌なんだ?」
  ピリピリしたような俊史の声に歩遊はぎくりとして忽ち凍りつく。これ以上は怖いけれど、俊史に反抗するのもとんでもなく恐ろしい。逃げ道を塞がれた気持ちになり、歩遊はわなわなと唇を震わせながら必死に上に覆いかぶさっている俊史の顔を見つめた。
「こ…怖い」
「俺が?」
「ち、ち、違……」
「違うならいいだろう」
  俊史が呆れたような顔をして不意にちゅっと歩遊の震える唇にキスをしてきた。歩遊はそれであっという間にまた顔中を赤くし、じんじんと熱くなり出した下半身を意識して足をじたつかせた。
「で、でも…どうしたの、俊ちゃん…」
「……何が」
「何で、急に……」
  以前、俊史の父親が帰った直後にこんな事をされた時も、俊史は唐突だったように思う。あの時も何かに急いたように俊史は歩遊を押し倒して歩遊に触れた。歩遊の涙を見て以降はあんな風に強引に「あそこ」に触れてくる事もなくなったけれど。
「急じゃねえよ…」
  その時、俊史が不意にそう呟き、歩遊の頬をさらりと撫でた。
「え…?」
  歩遊がそれに驚いて目を見開くと、俊史はそんな歩遊をどこか思いつめたように見つめ返しながら苦しそうに息を吐いた。
「今日は朝から自分抑えるのに必死だった。ここまで我慢してやった。太刀川のバカはお前を遊びに誘おうとするし、お前は俺の買ってやったコート嬉しそうに着て…おまけに雪まで降りやがるし…」
「うん…?」
  ぶつぶつと独り言のレベルで呟く俊史の言葉の意味が歩遊には分からない。半ばぽかんとした気持ちでその動く唇だけを見つめていると、やがて痺れを切らせた向こうがまたそんな歩遊に吸い付くような口づけをしてきた。
「んんっ」
「……お前な」
  そうして俊史は俊史で歩遊にそんな粘着質なキスをして、自ら濡れた唇を手の甲で拭うと、半ば自棄になったような目をしてからハアと溜息をついた。
「これだけしたら…普通は分かるだろうが…」
「え…?」
「何回もキスしてるだろうが、俺たちはッ!」
「う、うんっ」
  突然恫喝されたので歩遊も併せて大声で返事をしたものの、本当はちっとも分かってはいなかった。俊史にキスをされるとドキドキして身体が熱くなって、嬉しい。でもだから俊史が「何かを気づけ」と言ってきても、それは分からない。俊史の気持ちも分からない。
  歩遊は俊史の事をとても大切に思っていて大好きだと認識もしているけれど、それはあまりに当たり前の事過ぎて、俊史が求めている「その場所」には思考が行き着かないのだ。
「……もういい」
  ハアと俊史が再度深いため息をついた。歩遊はそれで自分が何かとんでもない事をしでかしてしまったと感じ、咄嗟に瞳を潤ませたのだが―…。
  今日はクリスマスイブだし、折角の豪華ディナーだし、家族団欒で俊史とも一緒だし。
「あ、あの…俊ちゃん…」
  だから台無しにしたくない。歩遊は焦って、上に押しかかられたままのきつい格好ながら、ベッドに置いていたリュックを片手で手繰り寄せながら必死に言った。
「あの…俊ちゃんに、プレゼント…」
「は…? 何だよいきなり…大体…」
  プレゼントなら家で貰っただろと言う俊史に、けれど歩遊はただただ焦りながらリュックから「それ」を取り出し、くいと俊史に突き出した。
「な…」
「あの…これ、あの映画の、黒うさぎの新しいタイプのストラップ。ぬいぐるみになってるんだよ。可愛いでしょ?」
「はぁ…?」
「ぼ、僕…っ。自分のも買ったんだっ。俊ちゃんに貰ったのと一緒につけてるんだけど…。その、気に入ってから俊ちゃんにも同じのお返ししようと思ったら、違うバージョンのが売っててさ」
「……お前は俺がこういう物を喜ぶとでも思ってんのか?」
  胸に押し付けられたうさぎのぬいぐるみストラップを俊史は酷く冷めた目で見やった。片手でぎゅうと残酷に掴まれたウサギは、憐れにも今すぐもぺたんと潰れて平たくなってしまいそうだった。
「で、でも…昔は、よくお揃いの買ったし」
  ただ歩遊は負けじとそう言い返した。俊史の上からプレッシャーは物凄い。それでも未だ熱を帯びた身体を振り切る為に言葉は出さねばならなかった。
  それに、「いつまで一緒にいられる」の答えは出せずとも。
「あのさ…。今年は俊ちゃんと観たあの映画が1番良かったから」
「……だから?」
「だ、だから…忘れたくなかったんだ。俊ちゃんにも覚えておいてもらいたかったから」
「……だから?」
「だ…だから…その…い、要らないなら僕が2つつけるから別に…」
「一度人にやったもん、取り返そうとすんじゃねえ」
  歩遊の伸ばした手をかわして黒うさぎを高いところに掲げると、俊史は依然として怒ったような顔をした。ただ歩遊にウサギを返す気はないのか、しっかと手にしたままそれを放そうとはしなかった。
「歩遊」
  そうして俊史は再度顔を近づけると歩遊の鼻先をぺろりと舐め、驚く歩遊には構わず呆れたような目を向けた。
「忘れるわけないだろ」
「え?」
「お前とどこへ行ったかなんて、物なんかなくたって忘れないんだよ。全部覚えてる」
「俊ちゃん……?」
「だから今日の事だって俺は忘れない」
  俊史はきっぱりと言った後、ようやく歩遊から離れ、歩遊の腕を掴むと自分と同じように上体を起こさせた。そうして歩遊がされるがまま俊史と並んでベッドに座る格好を取ると、俊史はふいと視線を逸らしたままふっとまた嘆息した。
  そして言った。
「歩遊。お前も、もうちょっと俺の事ちゃんと考えろ」
「……え」
「ちゃんと考えろ」
「………」
  考えてない事はないはずだ。むしろ歩遊にとって俊史はいつも身近で、いつも意識している存在なのに。
  けれど俊史には今の歩遊が物足りない、何も分かっていないと言いた気だ。
「俊ちゃん…?」
  呼びかけたけれど、俊史はもう応えなかった。
  ただ歩遊の手を一度だけぎゅっと握ると、後は振りきるように立ち上がり、いつの間にか手にした携帯を片手に「ミキさんたち下にいるってよ」と言って先に外へ行く支度をし始めた。
  だから歩遊ももうその先を問い返す事は出来ずにただ俊史のその背中を眺めやった。

  俊史はもう離れたはずなのに身体が熱い。そして心臓の鼓動も早鐘を打ったままだった。
  俊史に握られた掌が今もまだその温もりを欲するように、歩遊の気持ちを熱くさせていた。
  外はヒヤリとする白い粉雪を次々と地上へ降らせているというのに、歩遊の周りだけがまるで南国のように熱かった。



 

後編へ…