眠る楽園(前編)

湯葉様 作



夜よりも暝い闇が足元に拡がり、俺を呑み込もうとしている。
やってみるがいい。お前には屈しない。





(1)

人の行動範囲はわりあい狭いものだと思う。
緋勇龍麻は行く先々で知っている顏に遭遇した。
もっとも東京に転校してきてから出会った仲間はこの一年でかなりの数だったから、寧ろそのせいかもしれない。
かといって偶然は期待すると叶わないもので、今日は一人で買い物をしたけれどまだ誰にも会わない。
真神学園を卒業してから仲間に出くわす機会は減っているから、当然とも言える。
既に親友と弟分の中国人少年は日本にない。
他の者も春からは皆それぞれの道を歩む。
現時点では連絡を取り合っているが、互いが働きかけなければ会えなくなっていくだろう。

だから、今から誰かの所へ顔を出そうか。
龍麻はそう考えていたところだった。
どうも人恋しくなっていたようである。
溢れる人波をよけて龍麻は路の脇で携帯を手にする。
その時、何気なく遠くに飛ばした目線が釘付けになった。
「あれは…」
群衆の中。
龍麻の視野を右から左へ、一人の男が横切っていく。

ダークブラウンの長い髪。
少しウェーブがかかっているせいか、歩くたびに揺れている。
表情は分からない。
男は真っ直ぐ前を見ていた。

「九角?」
彼を見て、唇が結んだ自分の発音に龍麻は驚愕した。
(コヅヌ…!?嘘だ。)
それは滅亡した姓である。
人違いだろうと思った。
だが近付いて確かめずにはいられなかった。
横断歩道を渡り龍麻が走っていくと男は振り返った。
まだ大分距離がある内から既に気付いたのか、立ち止まって自分を見ている。
「あっ」
龍麻は気配を消していたわけではない。
(けど人込みでこんなに早く俺に気付くなんて!)
彼だ。
疑念は数秒で確信に変わった。
辿り着いて少し距離を置き、彼の前に立った。
「あの…」
「…」
男は言葉を発しない。
かわりに鋭い視線が龍麻の全身を捉えた。
「あ、あのさっ…九角だろ?」
極度の緊張で思うように出ない声をも聞き取ったらしく、彼は僅かに瞳を凝らした。
正面で目が合うと龍麻はもう顏を外せなかった。
「どうしてあんたがここに居る?」
何で彼が生きているのだろう。
「あんたは俺が―――?」
龍麻はそこまで言って口をつぐんだ。

ぴん、と空気が張り詰めている。
彼の唇が動いた。
”お前は誰だ。”
読み取った時には腕を取られて捩じられていた。
「いて!」
「何故俺を知っている?」
低く抑えた声が耳元で響く。
「!?」
(俺を覚えてない。まさか、別人?)
しかしこの声も姿も、何より彼が持つ氣が自分の記憶に残るままだった。
彼はやはり九角に違いない、と考えている間に腕への負荷が急速に強まる。
「つ…!」
龍麻は顔を顰めた。
「答えろ、殺すぞ。」
九角の声には一片の容赦も無かった。
痛みに脂汗が滲む。
(く…)
混雑した歩道では自分たちの周りにだけ空間が出来ていた。
怖いのか関わりたくないのか、通り掛かる人々が二人を避けて通っている為だった。
「待っ………わかった。言うから手を離せよ。」
拘束を解かれ向き合う。
目の前には、燃えるような瞳があった。




(2)

今考えても分からない。
なぜ九角をここに連れ帰って来たのか。
彼は狭いのが珍しいのかアパートの一角、龍麻の部屋を無遠慮に眺めていた。
「コーヒー飲む?」
「…」
九角は無言で睨んでいる。
(話が先、か。)
小さく息を吐いて龍麻はソファに向かいあって座った。
「俺は緋勇龍麻。一週間前に真神学園を卒業した。」
「真神?」
「あんたとはその…」

”どうしてあんたがここに居る?あんたは俺が―――”
―――殺したのに。
あの時呑み込んだ言葉が頭に甦った。

「…知り合いだったんだよ。」
九角の眼光が一層鋭くなる。
彼はもちろんその先の解答、なぜ面識があるのか聞きたいのだ。
「俺に同じ問いを繰り返させるのか。」
「…九角は自分のこと覚えてるの?」
「何…」
「俺を忘れてるだけなのか、それとも自分のことまで…」
龍麻は後者だと予想していた。
「答える必要はねぇ。知ってることを言え。」
あっさりかわされて龍麻は苦く笑う。
「で、言わないと殺す?随分勝手だな。
まあいいさ。あんたは九角家の当主、あるいは当主代理だったと聞いてる。
名前は確か天童だったよな。俺はかつてあんたの………」

「敵だった。」

迷った末龍麻は本当のことを言った。
どうしても嘘がつけなかった。
「今は、争う気はないよ。」
途端九角は冷笑した。
「フン。どうだか。」
「本当さ!でなきゃここに連れて来ない。」
「てめェの家が人を殺すには一番簡単だ。勝手が分かってるからな。」
「覚えてるんだ…生きるか死ぬかの世界で暮らしてたのは?」
「…」
「俺はもう、戦うのはナシにしたいんだ。」
龍麻は窓の外の夕闇を見つめた。
「あんた、行くあてあんの?」
「…さあな。」
九角はやや驚いたように見え、それを隠すように曖昧に答える。
やはり記憶は無いのだ、と龍麻は感じた。
「特にないならうちに居たらいい。こっち使えよ。」
自分のベッドを指差す龍麻。
「俺ソファで寝るわ。今シーツ替えるから…」
「信じろというのか、お前を。俺の寝首を掻かない保証があるとでも?」
「!」
九角の言葉は鋭く、龍麻の胸に痛みを与えた。
まるで信用されていない。
(敵ってばらしたんだ。仕方ないけど…。)
自分が話している男は九角天童。
かつて東京を滅ぼそうとした鬼道衆の頭領だった。
彼の心には読み取れない暗がりがあるのだろう。
龍麻は挫けたくないと思った。
「だったら俺を縛るなり押さえ込むなり好きにしてくれ。」
「お前…」
龍麻と九角、二人は暫く見つめ合う。
「…シャワー貸せ。」
やがてふい、と横を向くと九角は席を立った。
(はあ…緊張した。)
胸を撫で下ろす龍麻だった。





(3)

翌朝目が覚めてベッドを見るとその姿はなかった。
「九角…!」
「やっと起きたか。」
慌てて捜すと彼は冷蔵庫を覗いていた。
「あ…おはよ。」
「綺麗さっぱり何もねぇ。」
「わ、悪ぃ。」
(やべぇ、お腹空いて待ってたんだ。)
龍麻は焦った。
昨日色々あったせいで、尽きていた食糧品を買い忘れていたのである。
「えーと、そうだ食べに出よう、すぐ支度すっから。」

三十分後、二人は近くのカフェに居た。
店内はコーヒーとパンの香りが漂い、人々が遅い朝食を楽しんでいる。
龍麻達も小さいテーブルを挟み銘々が注文したものを食べていた。
甘いマフィンを頬張りながら龍麻が掠め見ると、九角のすっきりした輪郭が見えた。
今朝、長い髪を結って束ねたので昨日と全く印象が違う。
端正な顔立ちには多少なりとも睡眠で疲れが取れたのか、健全な精悍さがあった。
(隣の席のおねえさん、見とれてる…やっぱりな。)
「…何だ。」
視線に気付かれた。
「夜の内にあんたが居なくならなくて良かったなって。」
「の割に長々寝てなかったか。」
「う、明け方までは起きてたよ。」
実は遅くまで眠れなかった龍麻である。
「俺を見張ってた訳だ。」
「そういうんじゃねーって!」
「何でそうムキになる。」
「そりゃ、あんたにもう一度会えて嬉しかったから。」
「…」
九角は黙った。
龍麻にしてみれば正直な気持ちであるが、『敵』と言っておきながらの言葉に呆れているようだった。
「あんたと色んな話をしてみたかった。
どうして俺を覚えてないんだろうな。」
もし経緯が分かっていたら、こんな風に穏やかに話せるとも思えない。
けれど龍麻は寂しそうに言った。
「…一昨日、気が付いたら知らない女とホテルだった。」
九角は唐突に話し始めた。
「え?」
「事が済んでも離れないそいつを引き剥がして外へ出た。
俺の記憶はそこからしかない。」
「…っ」
鼓動が速くなった。
九角が自分について明かしている。
「聞かせろ。俺に関してお前が知っていることを。」
「俺が知る九角は…」
龍麻が口を開いたその時。
「九角!何故貴様が龍麻のそばに居る?」
目線の先、店の入り口には如月翡翠が立っていた。





(4)

「成程。見事に記憶が落ちているのですね。」
扇子を手にした御門晴明の声が響いた。
浜離宮は数多の桜が舞っていた。
だがいくら散っても満開を過ぎることはない。
ここは幻の離宮である。

龍麻と九角は大木の下に居る。
二人を挟んでやや距離を置いた所には仲間が対面していた。
朝から数時間後。
緊急の招集でよく集まったものだ、と龍麻は思う。
「さてこれから如何したものか。九角…さん、貴方はどうしたいと?」
「…」
九角は答えないで花弁の降る様を見ている。
「答えて貰おう、九角。場合によっては再び刃を交える事になる。」
如月は九角を睨んでいた。
先ほど出会ってから彼は警戒心を隠していない。
「如月!」
「彼は油断できない。思い出すんだ龍麻、彼がこの東京に、人々に何をしたかを。」
「しかし彼にはその記憶が無い。」
腕を組んで別の木に寄りかかっていた壬生の言葉に、龍麻は少しほっとした。
「ああ、九角だって自分でどうしていいか分からないんだ。まず説明をして…」
「それから監視下に置くのが良いだろうね。」
「壬生、俺が言ってるのはそういう意味じゃない!」
頭痛を覚えた。壬生は援護の立場ではないようだった。
他の仲間はやり取りをはらはらしながら見ている。

肝心の本人は落ちてきた花を掴み取ってからようやく皆の方を向いたが、発せられたのは吐き捨てるような言葉だった。
「どいつもこいつもくだらねェな。」
「何だと?」
「俺の行く先は俺が決める。」
言って九角はその場から姿を消した。
「九角!?待って俺もっ…」
「駄目だ龍麻!」
龍麻は如月に強く腕を引かれる。
「離してくれ、見失う!」
「追ってどうするの?」
「まさか彼と組む君でもないだろうっ…。」
冷静な壬生、焦燥した如月に龍麻は唇を噛んだ。
「あいつが何をした、か。じゃあ俺は?俺こそ九角を殺してる。」
「龍麻…」
「甦ったあいつをまた殺す?九角は東京を壊す為に甦ったんじゃない筈だ。」
「では何の為に。」
「まだ分からないよ。如月、壬生、皆も、少し時間をくれないか。俺は九角を信じてみたいんだ。」
「馬鹿な、根拠がない。」
「根拠?信じるから結果が生まれるってこともあるだろ?ごめん、俺行くよ。」
そう言って龍麻も浜離宮から消えた。
「正気か、結界を勝手に出るなんて!」
叫ぶ如月は青くなっていた。
「芙蓉、龍麻を導いてやりなさい。」
「龍麻様はあの者の氣を伝って元の世界に戻ったようです。」
あるじの言葉を受け、花の名前を冠した式神が告げる。
「そうですか、ならば良いが。
しかしあの男…自力で結界を抜けるとは。」
九角は浜離宮と現実の世界を繋ぐ、無限の迷宮のような空間を易々とくぐり抜けたことになる。
御門は眉間を堅くした。





「九角!」
後ろ姿を見つけて呼び止める。
夢中で飛び出したものの危険なのは知っていた。
無事に帰ってその姿が視野にかかると龍麻は嬉しい、と思ってしまった。
現実の世界は既に夕刻。
彼は立ち止まって遠くを見ていた。
「…」
「良かった、追い付いて…ごめんな、九角。
皆まだ戸惑ってるけど、今日は顔合わせみたいなもんだから…」
九角はあまり聞いていないようだった。
かわりに彼の思案は微かな呟きとなって表れた。
「…俺はこの街で一体―――」
「九角…」
「喉が乾いた。」
「え?」
「何処か案内しろ。」
九角は振り向き、龍麻に促した。





(5)

龍麻はそっと息をついた。
以前友人に連れられて来たことはあるが、この店は自分には背伸びした場所なのである。
九角は広いフロアを見据え、黙って窮屈な椅子に掛けている。
恐らく彼の方は慣れているのだと龍麻は思った。
「来ないね、次の。」
二人とも一つ目のグラスは既に空いていた。
「…」
九角は頷く代わりのようにグラスを持ち上げ、氷の音を立てた。
「俺貰ってくるわ。」
龍麻は席を離れた。

一人になって間もなく、九角は無意識にポケットを探った。
煙草が無い。
確かホテルに置いてきてそのままなのである。
龍麻に会ってから入手していないのだからある筈もない。
「ちっ…」
九角は舌打ちした。
ヒップホップのリズムに乗った無意味な言葉の羅列が癇に障る。
今まで落ち着いた様子だった彼は苛付いていた。

「さっきの子、ちょっと綺麗ね。」
いつの間にか側に女が立っていた。
「優しそうだし、ああいうのが彼だといいだろうな。」
「…」
「あなたは冷たそうね?」
「フン…」
中身の無い会話をしながら女はその実目が誘っていた。
女と九角、どちらからともなく身を寄せる。
特別な言葉は要らなかった。
視線が絡む。目で誘う。それだけで関係は成立する。
九角の体はそういった夜の過ごし方を覚えていた。
指が女の腰に触れる。

「九角?」
声の方に顏を向けると、丁度戻ってきた龍麻が見ていた。
「お待たせ。」
ゆっくり近付き、テーブルにカクテルを置く。
「あとこれ。」
同時に龍麻は何かを九角の手に乗せた。
見ればアパートの鍵である。
「何だ?」
「俺先に帰ってるから。じゃ、な。」
龍麻は微笑んでいた。
「待て。」
九角は女から体を離し、立ち上がった。
「俺も行く。」
「えっ」
「ちょ、ちょっとォ…」
後ろから女の不満げな声が上がったが、九角は振り返らなかった。

店を出ると龍麻は躊躇いがちに九角に尋ねた。
「…来ちゃって良かったの?」
「お前がそう泣きそうな顏をするからだろ。」
先程、龍麻の笑顔は震えていた。
「何言って…泣くかよ!俺は男だ。」
かっと赤くなる龍麻。
「ああ、そうだな…」
九角はここで始めて微笑み、それから急に真顔になった。
「龍麻。てめェは今から俺のものだ。」
言葉の直後、龍麻は彼に引き寄せられて口付けを受ける。
突然だった。
「こづ…んっ」
抵抗は出来なかった。しようと思わなかったから。





(6)

朝になったら興ざめするだろうな、と思っていた。
男を抱いたことなど、起き抜けの自分を見たら九角は後悔するに違いないと。
だが龍麻は目が覚めてすぐに九角に乗られていた。
「あ、や…っ」
息が苦しい。
痛みを引き摺る体はまた快楽をも覚えていて容易に反応しそうになる。
それをぎゅっと体を縮こまらせて押し止めていたら、九角が焦れたように窘めた。
「もっと脚開け。」
「んなこと言ったって…」
龍麻は日の光が差し込む部屋で体を晒すのが恥ずかしかった。
「深く入らせろよ、お前の中に。」
「!」
九角の言葉に心臓が跳ねて思わず動きを止めた瞬間、奥に進まれた。
「ア…アアッ…!天童っ…」
やがて彼の動きに自分の感覚が全て支配され、龍麻は果てた。

怠くて体を起こせない。
それでも心地よい疲労だった。
(九角は引かなかったってことだよな?)
「良かった…」
「フーン、そんなに良かったか。」
知らず出た独り言に反応されてしまった。
「!あ、いやそのっ。」

「………よ、良かった…です…」
龍麻は結局しどろもどろ、真っ赤になって答えた。
しばらく可笑しそうに笑っていた九角は立ち上がって服を着る。
「九角?」
「朝飯食いに行くぞ。」
「も、もうちょっとしてからにしねぇ?」
(まだ起き上がれないっての…)
「ならもう一回お前を食」「い、行くよ、行きます。支度させて頂きます!!」
九角の言葉を力いっぱい遮って龍麻は飛び起きたのだった。

「ごちそうさま。」
龍麻は何だかんだ言って空腹が満たされると元気になる自分が不思議に思う。
「まあ、いいか。美味しかったし。」
「龍麻」
「な、何?」
彼の声で名前を呼ばれるとそれだけで鼓動が速くなる。
「先行ってろ。煙草買ってく。」
「ん、OK。」
「帰ったら話を聞かせて貰う。」
「あ…分かった―――いつまでも引っ張る訳にいかないもんな。」
昨夜龍麻は事情を話さなかった。
九角も聞かず、ただ龍麻の体を求めた。
二人が二人とも避けていたがこのままでは立ち行かないのも理解していた。
「じゃ、後で。」
笑顔で龍麻は歩いていった。





(7)

自分に真っ直ぐ近付いてくる者がある。
九角は煙草をしまいながらそれとなく身構えた。
「御屋形様、九角様。」
「てめェは…」
「は、鬼道衆が一人として御屋形様にお仕えしていた者です。」
深く頭を下げる男。
見た目は洋装、ごく普通である。
「我ら鬼道衆、御屋形様が無事に転生されたこと、皆心より喜んでおります。」
声は小さいがはっきりして、熱っぽい感悦の口調だった。
「転生…俺は一度死んだのか。」
はいと男は頷いた。
途端それまであった堰が切れたように記憶が押し寄せる。

俺は鬼道衆を統べる者。
龍麻達と戦って―――
お前が言った『あんたは俺が』の先に続くのはやはり―――

急速に考えている九角に男の低い囁きが聞こえた。
「御屋形様、どうか我らが至願をお果たし下さい。菩薩眼の娘を手中に入れて東京を滅ぼして下さい。
そして緋勇龍麻と奴等の仲間を殺し復讐を遂げましょう。」
「!」
九角は驚いて男の顏を見つめた。
彼の暗い瞳は表面でかろうじて光を反射しているだけで深くは見通せない。
かつて自分を取り巻いた者達がしていた、澱んだ目。
「俺は――――」
口の中が乾いて体温が下がった。
九角はその身を冷たい血が巡っていく気がした。
言葉が出て来ない。
「では、明日お迎えにあがります。」
男は返事を待たずに話を締めくくり、去った。

歩みを再開しても体が浮遊するようだった。
今起こった出来事の実感が湧かない。
一つだけ言えるのは、自分は全てを思い出したということだった。



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