―エピローグ―



涼一とは喧嘩したくない。それが当面の雪也にとって一番の願い事だった。
「涼一?」
けれどここ最近はその些細な想いも相手の不機嫌な態度によってかなりの危機に晒されている。今もそうだ、ガチャリというドアの開く音で雪也は慌てて玄関口へ駆け寄ったのだが、そこには思い切りぶすくれた表情の同居人…涼一の姿があった。今日は遅くなると聞いていたが、仕事が早く上がったのだろうか。
「お帰り、涼一」
インターホンを鳴らしてくれれば良いのにと思うが、きっと今は何を言っても聞いてくれない。実はこの不機嫌な顔はここ数日間ずっと続いていて、しかも困った事に今回はその相手の怒っている理由というのがちっとも分からないのだった。
一緒に暮らすようになってから既に一体何度目なのか、雪也は何かにつけ涼一のことを怒らせていた。
原因はその時々でいろいろだ。
外で何か仕事を見つけたいと言っては怒られ。
買い物が長引き帰りが遅くなってしまっては怒られ。
誰かに親切にしてもらえた事を報告しては怒られ。
護や藤堂、淦の仲間たちからの手紙を見つけてはふてくされ。

「雪也さんは何も悪くありませんよ」

涼一が淦に篭っていた頃、「いい加減に帰って来て下さい」と電話で泣きついたという仕事関係の部下などは、以前雪也にこっそりそう言って慰めてくれた事があった。基本的には外面の良い涼一だが、心を許している数人の部下には「あの素」を出して暴君である事が多いらしい。だからそういう面を知っている人間たちからすれば、彼が恋人である雪也を怒っている理由は紛れもなくただのヤキモチで、そして子どもの我がままだと自信を持って言い切れるようだった。
勿論その「暴君」にそんな事を言える者は唯の1人もいなかったわけだが。
「涼一、今日早かったね」
「………」
「まだ夕飯作ってる最中なんだよ。風呂は沸かしてあるから、そっちを先にしてもらっていい?」
「………」
黙って天井の高い開けたリビングに入る涼一。ネクタイを緩めながら、それでも依然その表情は険しいままだ。雪也はそんな涼一に少しだけ困ったようになりながらも、ドサリと乱暴に投げ捨てられたスーツを拾うと、それをした涼一の背中を眺めた。
たとえ誰が「貴方は悪くない」と言ってくれようとも、やっぱり自分にも非はあるのだと雪也は思う。
確かに涼一は怒りっぽいし、すぐに過剰なヤキモチをやくところがあるけれど、基本的にはとても優しいし良くしてくれる。何より楽しそうに笑いかけてくれる時の涼一が雪也は大好きだった。
だから涼一とは喧嘩したくないのだ。
いつでも笑っていてほしい。
「あのさ、俺、今日新しい料理に挑戦したんだ。新鮮な魚介類を分けてもらったから、今西の国で流行ってるっていう魚のスープを自分なりの味にして、貰った具も凄く贅沢に使ってみたんだよ」
「……シュリの店の親父」
「え?」
「お前に惚れてるもんな」
「………」
「何かっていうとお前に物持ってくるじゃん。ぜってえ下心がある」
「……おじさん、凄く良い人だけど」
「お前にだけだよ」
「………」
「ちっ」
軽く舌打ちして、涼一はそのままバスルームに消えてしまった。雪也はやがて流れてきたシャワーの音を聞きながら、ハアと大きくため息をついた。台所へ目をやると、火を止められてしんと静かになってしまった鍋が寂しそうにこちらを見ているような気がした。



夕食が終わって後片付けをしている時も、涼一は雪也には知らん顔で1人ソファで本を読んでいた。いつもなら一緒に手伝うと言って楽しい話を聞かせてくれたりするのに、不機嫌な夜はいつもこうだ。雪也は手を動かしながらもちらちらと背後の涼一を見やり、いい加減聞かなければと、水音に紛れるのを良い事に思い切って声を出した。
「なあ…涼一」
皿を洗っているのだから背中を見せていても許される。それがラクだから声が出せた。
「今回は何で怒ってるの?」
「……何が」
声が返ってきた。雪也は嬉しくなって立て続けに声を発した。
「何がじゃないよ。ずっと口きいてくれないし。折角早く帰ってきてくれてるのに、こんな不機嫌な態度ばっかりじゃ…」
「息が詰まる?」
「え…」
「俺と別れたい?」
「な…んでそんな事言うんだよ…」
もしやそう思っているのは涼一の方なのだろうか。どきりと不安な気持ちがして、雪也は思わず水道の蛇口を閉めた。一気に静まり返る空間に余計鼓動が早くなりながらも、雪也はさっと振り返るとそのままの勢いで涼一のいる場所にまで歩み寄った。
「……何でそんな事言うんだよ」
もう一度訊く。
「………」
すると涼一はぱたんと本を閉じるとさっと顔を上げ、ひどく真面目な顔をして雪也の事を見据えてきた。
「涼一…?」
「……雪が、言ったんだ」
「言ったって…何を?」
唐突に発せられたその台詞の意味が分からず、雪也は首を捻った。すると涼一は一瞬悲壮な目をすると、ぐいと雪也の手首を掴み、強引に自分の方へ引き寄せた。
「わ…っ」
いきなり無理に引き寄せられたせいで、雪也は不自然な体勢のまま涼一の身体の上に押しかかってしまった。痛くなかっただろうか、その思いが先行して慌てて身体を起こそうとすると、涼一ががばりと背中に両腕を回してそんな雪也を拘束してきた。
「りょっ…」
「逃げるな」
「そ、そんなんじゃないよ、涼一が…っ」
苦しいだろうと思ってと言おうとしたが、顔を上げた瞬間唇を合わせられた。
「ん…っ」
何度も強く押し当てられて、強引に唇を割られて舌を入れられる。ねっとりと絡みつくようなそれに呼吸を奪われて反射的に逃げの体勢を取ろうとしたが、それによってそのキスは余計に激しさを増した。
「ふ、ん、んぅっ…」
「……っ」
背中に回されていた涼一の手が雪也の腕をぎゅっと掴んだ。痛みに眉を寄せると、涼一はそんな雪也よりも余程辛そうな顔を見せた。
「……はぁっ」
ようやっと唇を離された雪也は、しかしそんな涼一の顔をぼんやりと見つめた後、ああやっぱり悪いのは自分だったのだなと何となく思った。
こんなに愛してくれる涼一を悲しませている自分がきっと悪いのだ。
「ごめん…」
だから謝ると、涼一はますます表情を曇らせ、そして雪也の唇を指の腹でぐいと拭った。
「りょぅ…?」
「雪は、いっつも謝ってばっかりだ」
涼一が言った。
「俺は雪が好きで好きで、どんどん好きになってるから、そのせいでいつも雪を苦しめてる。あいつと喋った、誰それと仲良くしたって、そんなんでいちいち頭きてる俺、ぜってえ頭悪いだろ。っていうか、頭おかしいんだよ!」
「あ、あの…?」
「なのに雪はいつも自分が悪いって顔で俺に謝る! それがむかつく!」
「………」
「しかも夢でも俺に謝ってた!」
「は…?」
1度口にしてしまうと後は一気に吐き出そうという気になるのか、涼一は堰を切ったように話し出した。
「だから寝言だよ! しかもよりにもよって俺が雪の寝顔にこっそりキスしてる時に謝った! ごめん涼一って! 何がごめんなんだ、ごめんはこっちだっての!」
「………」
「雪の身体に負担かかってるっての知ってるのに、アホみたいにサカッてる俺にさ、雪はいつでも付き合ってくれるだろ! でも、さすがにあの日は我慢しようって無理やり抑えて寝てたんだ! けど我慢できなくなってキスしたら…そしたら雪、俺にごめんって!」
「……だから?」
「だからっ! 何かカーッときちまったんだ! 猛烈に、どうしようもなく自分に頭きたんだ! 雪、何か苦悶してたしさ! その顔見てたら何か…すげえ、責められてるって気がしたんだよ!」
「………」
「何黙ってんだよ! 何か言えよ!」
「いや…その、何というか…」
「何だよ!?」
これが俗に言う「逆ギレ」というやつなのではないだろうか、雪也はそんな事をぼんやりと思いながら、それでも自分の腕をぎゅっと掴んで話さない涼一の熱に心では猛烈に赤面していた。
こんな感情をこんな自分にぶつけてくれる涼一。
こんな人が自分を愛していると言ってくれる。
それこそ、毎日。
「涼一」
「俺はお前と別れる気なんかないからな!」
「涼一って」
「俺から逃げようとしたらただじゃおかない。絶対に逃げられないように、雪のこと―!」
「涼一!」
「ぐっ…!?」
興奮している涼一の口を両手で押さえ、雪也は思い切り苦い笑いを浮かべてその先を制した。
「ちゃんと言うから聞いてよ」
雪也は言ってから、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ごめん」が駄目なら、もうこれしかないだろう。あまり言葉を知らない自分だけれど、きっとこれから何回も言えばきっと伝わる。それにきっと温かくなる。
だって自分はこんなに涼一が好きなのだから。
「これからこれが口癖になるように繰り返すから」
雪也はきっぱりとした口調でそう言って、それから涼一の目元にそっと自分からのキスをした。
「ゆ……」
「涼一」
そうして驚きぽかんとしている恋人に、雪也は精一杯の笑顔で言った。


「…ありがとう」


この愛しい人と喧嘩なんかできない。たぶん、一生。






…長い間のお付き合い、ありがとうございました。
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