―53― 「オーナー。最近はもうため息つかなくなったんじゃないですか」 「……護、アンタも嫌なコだね。アタシのそんなとこばっか注目してたのかい」 「だって仕方ないでしょう。ここにコーヒーを飲みに来る度、寂しい寂しいって泣きつかれたら」 「何よ、アンタは寂しくなかったっての?」 「寂しいですよ」 「……そんな笑顔で言われてもねえ」 週のはじめの昼下がり。 今日もホテル「淦」の時間は穏やかに流れている。一歩外へ出れば騒がしい日常、日々の生活に追われ忙しなく生きている人々の群れが待ち構えているのだろうが、この空間にはそんな空気は入り込まない。あるのは静かな音楽に美味しいコーヒー。 そして指定席でくつろぐ藤堂オーナーの姿。 「今回はどんな事が書いてあったんですか」 久しぶりに完全休養を貰ったという町医者の護は、藤堂が右斜めに見える正面のカウンター席に腰を下ろし、自分も持参してきた封書の何枚かをひらひらさせながら口を切った。藤堂はそれを素早く認めながら「あんたが先に言いなさいよ」と、自分の手札は隠してしまう。 護はそんなオーナーの態度に苦笑しながらもふっとその優しい目元を緩めた。 「俺の方は相変わらずですよ。オーナーと違って『涼一が怒った事リスト』を送れなんて雪に無茶なリクエストはしませんからね。出掛けた先で撮った写真と、毎日楽しく過ごしてるって至って平和な内容です」 「だからね、雪也に何も言わないでいると、そういうつまんないお人よしな手紙が来ちゃうだけなんだから。細かくこれを書けあれを書けってした方がいいのよ。そう、そういう点では手紙に雪也の主観はない方がいいね。日々の、実際あった事柄だけを淡々と綴らせた方があのバカの動向が読めるわ」 「それって手紙なんですか?」 「アタシにはそういうのの方が重要なの!」 藤堂はフンと鼻を鳴らしながら、先刻さっと隠してしまった封書を護に向かって差し出した。すっとテーブルを滑ってやってきたその封書を護はうまい事手のひらで指し止め、ブルー地の上品な封筒に目を細めた。 それからおもむろに手紙を取り出した護は、ざっとそれに目を通した後、らしくもなく思い切り噴き出した。 オーナー藤堂はそんな護の態度に、途端口を尖らせ抗議の意を唱えた。 「ちょっと、これって笑い事じゃないでしょーが」 「ええ?」 未だくっくと小さく笑う護は自分の態度に不服そうなオーナーを横目でちらりとだけ見やった。 それから手にした便箋を軽く掲げ、「これで笑うなって言う方が無理でしょう」と言い返した。 「何で、何でよ。やっぱり雪也はあっちでも涼一のバカに良いように我がまま言われ放題で苦労しているじゃないの。雪也は優しいコだからあのバカの悪口は決して言わないけどね! こうやって涼一が怒った事を一個一個検証していくと、普段の奴の傍若無人ぶりが分かるってもんよ」 「そうですかねえ、俺は微笑ましくって好きですけど、こういうの」 「駄目ったら駄目! それに雪也も雪也よ。それ、その手紙。読んで分かる通り、涼一の怒った理由の9割はくだらん一方的なヤキモチでしょ。大体、何かにつけて浮気を疑う男なんてのは最低だわよ。それを雪也は『これは自分が悪かった』、『あれは自分がああいう風にすれば良かった』とか、そんな内容ばっかりで。感想なんかいらないってのに、いちいち付け加えてあのバカを庇ってんのよ」 「つまりはそれも雪也の惚気なんですよ」 「はあぁ? いーやっ、雪也は困ってるのよ。あの俺様我がまま自己中男にっ。だからそろそろアタシが助けに行ってやらないとまずいんじゃないかと思うのよね」 「本気ですか」 未だくすくすと笑っている護は、藤堂が真剣にそんな事を言っているとは微塵も思っていないらしい。 しかし当のオーナーの方はそんな常連客の態度に余計闘志を燃やしたのか、再度鼻息を荒くするとぐっと拳を握り締めて言った。 「本気も本気だよ。雪也があんなバカといつまでももつわけないんだからね。ていうか、もたせるつもりなら邪魔しなければっ」 「実は康久でもうさぎでも、勿論俺でもなく。オーナー、貴方が一番引きずってたわけですね」 「………悪い?」 「いえ」 護はゆっくりとかぶりを振った後、多少バツの悪い顔を閃かせたオーナーに微笑みかけた。 しかしその後すぐ、護は店内に入ろうかどうしようか悩んでいるような影に気づいてさっと視線を上げた。 それで藤堂も「ああ」と言って振り返った。 「友之」 オーナーがそう声を上げると、入り口付近でオロオロとしていた「友之」は、そろりとした足取りながら2人のいる店内にやって来た。黒髪に同じく漆黒の瞳を有した、繊細な顔立ちをした少年である。 その友之は口元を微かに動かした後、何かを求めるように2人の顔を交互に見やった。 「どうしたんだい、友之。お腹でも減ったかい」 「………」 オーナーの話しかけに友之は困ったような顔を見せた後、小さく首を横に振った。がっくりと落ちている肩が頼りない。そしてその翳った瞳はひどく儚げだった。 そう。 雪也たちの去った直後に入居してきたこの新しい「淦」の住人は、オーナーが今まで出会ってきた中でも特に言葉を発しない、内に篭るタイプの少年だった。 「ご飯とは違うのかい。そうかい、それじゃあ何だろうねえ。ここでアタシらとコーヒーとクッキーを楽しむってのはどうだい」 「オーナー、違うでしょう。友之、お兄さんだろ?」 「………」 オーナーの言葉に護が口を挟むようにしてそう言うと、友之の瞳がゆらりと揺れた。そうだと言っているようだ。護はにこりと笑った。 「お兄さんはここにいるオーナーにこき使われてるから忙しそうだね。さっきまでここにいたけど、銀行に行くって言ってたよ。その帰りに、夕飯の買い出しもしてくるって」 「………」 「こき使ってるたあ、人聞きが悪いわね」 「そうでしょう。折角の入居者が逃げてしまいますよ」 「逃げないわよ。可愛い弟には今休みが必要なんだってさ」 「光一郎君がそう言ってたんですか?」 「目がそう言ってた。だから当分いるよ。宿泊費がかさむだろうから、ここでバイトさせてあげてるわけでしょ。コウ君たら料理が美味過ぎてねえ、最近この店、夜の時間めちゃくちゃ混んでるのよ」 「商売繁盛なんですか」 「まあね」 藤堂はそう言った後、自分の横で所在なさ気に立っている友之をちらりと見た。それから黙って隣に座るよう、空いた椅子を手でバンバンと叩いた。 それで友之は大人しくそこに腰を下ろした。 「つまりは、そういうわけでしょう」 友之の姿を見つめながら護が言った。 「何がよ」 藤堂が不審な顔で問い返すと、敏い青年医師はさり気ない所作で既に冷めかけたコーヒーを口に運びながら楽しそうに言った。 「雪がいなくなって寂しいはずのオーナーがね。ため息をつかなくなった理由」 「ああん?」 「雪の所へ行くって、その間ここはどうなるんです? 貴女がいなくなったら友之が困りますよ。光一郎君だって来たばかりでホテルひとつ任されたら堪らないでしょう」 「……まあね」 満更でもないように答えるオーナーに護は微笑しながら続けた。 「これからもこのホテルには人が来ますよ。皆、貴女が必要なんです」 「あんたも?」 「勿論です」 「どうだかねぇ」 「オーナー」 冷めた口調で切り返された護は呆れたように藤堂を呼んだが、当の女(?)主人はもうそんな護の事は見ていなかった。自分の真横にいる友之を慈しむような目で眺め、ああどうしてこのコはここへ来たのだろうかと考える。 温かい昼下がり。 淦は相変わらずなのだ。1人去り、2人去り、皆が去った後、また新たな客が入る。 そして今日も。 「こんにちはー!」 「ん…?」 カランとドアの鈴の音が軽快に鳴った。 護と藤堂、それに友之が一斉にそちらの方へ視線をやる。そこには野球帽を目深にかぶった背の高い青年がニコニコとして立っていた。 「ここって疲れた人を癒してくれるホテルなんだって?」 凛とした眼と自信に満ちた口元。整った顔立ちを有したその青年は、しかしその話し振りから見た目よりも幼い印象を3人に与えた。 「今日からお世話になります、香坂数馬デス! 数馬でいいよ?」 「……泊まる所間違えてないかい」 一拍後にオーナー藤堂がそう言うと、「数馬」と名乗った青年はあははと豪快に笑った後首を振った。 「間違えてないって。ここ、ホテル《淦》でしょ? 合言葉は、『ビーナスの背中、見せてくれ』。ちゃーんと知ってるんだからね、ここで休ませて下さいなっ」 「あいにく部屋がいっぱいでねえ」 「え〜! 何それ! ボクみたいなこのホテルに絶対必要な人を断って、そこにいる健康そうなお兄さんとか、お母さんコみたいな少年はいいの!? それって不公平じゃないですか?」 「……何かアンタの話しぶりを聞いてるだけでイライラしてきたよ。悪いがうちに、アンタに貸す部屋はないね」 「ちょっとお」 「オーナー、俺は帰りますね」 「護」 席を立った護に藤堂はあからさまにむっとした顔を見せた。護がこの面倒そうな客から逃げようとしているのがあまりに明らかだったので、淦の経営者は自分という立場も忘れ、何やら恨めしい気持ちになってしまったらしい。 「帰るなら、ついでにそのヘンなのも一緒に店から出してよ」 「あ〜、ヘンなのってボクの事? ひどいオーナーだなぁ。あ、でもお兄さんはこの部屋借りてる人じゃなかったんだね」 「うん、俺は違うよ。部屋は空いてるんじゃない?」 「ここここら護!!」 親切に数馬にそんな事を言う護に藤堂が慌てる。 それに対し、当然の事ながら数馬はぱっと明るい顔をして指を鳴らした。 「やった、良かった〜。わざわざ遠い国から来た甲斐がありましたよ。それじゃ、荷物運ばなくちゃね。ねえそこのキミ、そうそうキミだよ黒髪のキミ。ボクの荷物運ぶの手伝って。ついでに部屋にも案内して。もう長旅で疲れちゃってさあ、とりあえず休みたいかな」 「こらガキ! 勝手に話を進めるな…って、友之も素直に荷物運ぼうとしなくてい……って、護!」 「何ですか」 「帰ろうとすんなって、だから!」 「オーナー」 突然騒がしくなった淦に藤堂はやたらと慌てていたが、既にドアの前にまで来ていた護の方は至って静かだった。いつもの微笑を湛え、護は新しい住人たちの背中を見やりながら藤堂になだめるような声で言った。 「ね、だから言ったでしょう?」 「……何よ」 ぴたりと動きを止める藤堂に護は先刻の言葉を繰り返した。 「だから。皆、貴女が必要なんです」 ふと、護は雪也が初めて藤堂と共に自分の元へやってきた日の事を思い出した。 あの顔が、悲しみに満ちたあの瞳が、今は遠い地でとても晴れやかに輝いている。光っている。 きっと幸せに笑っている。 そう思えば、この埃臭い小さな街もまんざらでもないではないか。 「それじゃ、オーナー」 だから護は、自分は喧騒とした外の世界へと踵を返した。 「また来ます」 その間もこのホテルは、変わらずここにいてくれる。 |
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