(10)



  その紅い学生服の男は、幼い龍麻の前に悠然と立ちはだかっていた。
「 緋勇?」
  いつもならこの時間は店に顔を出すはずなのに一向に姿を見せない龍麻に、如月は胸騒ぎを感じていた。だからその日は初めて祖父に言われる前に龍麻を探しに家を出た。

  あの初めて出会った森まで彼を求めて行くと、果たして龍麻はそこにいた。


  紅い学生服の男と。後ろ姿なので顔は分からなかったが、たなびく髪も全身の氣も、如月にはその人物の姿が全て「赤」に見えた。
「 緋勇…その人は……」
  訊こうとして如月が数歩歩み寄ると、突如もの凄い突風が吹き荒び、視界が閉ざされた。身構えていなかったせいで身体が吹っ飛び、如月は傍の大木にしこたま頭をぶつけてしまった。
「 く…っ!」
  それでも何とか体勢を整えて目を開くと、振り返ってこちらを見据えている紅い男の姿が視界に入ってきた。
「 …………」
  男はまるで汚いものでも見るかのような蔑んだ瞳を閃かせ、如月に対し無言で「近づくな」と威圧してきた。
「 ……ッ!」
  びくりとして反射的に身体を男の視界から移動させると、紅い男は口の端を上げて微かに笑ったようだった。 そうして傍に茫然として立ち尽くす龍麻を振り返り、何事か囁くと――。

  男はそのまま、姿を消した。

「 ……何――」
  如月がはっとして何度か瞬きをすると、男の傍にいた龍麻がゆらりと体を動かして如月の方に視線を向けた。
「 緋――」
  しかしその視線は決して如月を見てはいなかった。
「 緋勇?」
  見えていないのか、と疑うほどだった。
  龍麻は熱に浮かされたような顔をしたまま、如月には目もくれずに森の奥へと消えて行こうとしていた。そんな龍麻を追いかけようとして、如月はふと足元を見て硬直した。
  血。
  はっとして視線を龍麻に戻すと、彼の小さな拳にはべたりと血糊がついており、そのすぐ傍には何かが溶けたような跡が見てとれた。
  龍麻が戦った後――力を出した後なのだということが分かった。
「 緋勇、どうしたんだ」
「 …………」
「 また異形に襲われたんだろう。さっきの奴は何者だい?」
  龍麻は答えない。ただ、何処かへ歩いて行こうとする。
「 龍麻!」
  如月が呼んだ。初めてだったかもしれない。こんな風に切羽詰まって彼を呼び止めたのは。
  ただ、どうしても行って欲しくなくて。





  如月がふと目を開くと、部屋はまだ暗く、ほんの一瞬うたた寝していただけなのだということが分かった。
「 ……最近こんな事ばかりだな」
  重い身体を起こして、如月はふうとため息をつくと額に手をやり、流れた汗を拭った。
  徐々に明敏になっていく過去の龍麻との記憶。
  あの時、自分は龍麻を呼び止めて、どうしたのだったか――。
  しかし如月がそれについて思いを馳せようとした時、不意に電話が鳴った。はっとして顔を上げ、反射的に立ち上がった如月は、何故か嫌な予感がして急いで電話の元へと走った。

  その電話の主は、龍麻が敵に斬られて重症だと如月に告げた。





「 ――おう、如月。来たか」
  教えてもらった病院―桜ヶ丘病院…一見産婦人科だが―に如月が辿り着いた時、既に待合室には大勢の仲間たちが心配そうな面持ちでその場に群がっていた。
  如月に声をかけた醍醐はやはりそんな仲間たち同様ひどく憔悴した顔をしていたが、努めて冷静な風を装い、来たばかりの如月に事の次第を告げた。
「 一応峠は越えたようだ。今は絶対安静で面会謝絶だがな」
「 ……敵に?」
「 俺たちがついていながら…本当に一瞬のことだった」
  醍醐は苦渋の顔をし、それからちらと大勢から離れた場所でじっと病室の方だけを見つめている親友―蓬莱寺京一―を見やった。如月もそちらに視線をやり、ずきりと痛む胸をぐっと抑えた。
「 ……辛いのはみんな同じだが、あいつは特にな……」
  醍醐は自分と同じ方向に視線をやった如月にぽつりとつぶやいてから、珍しく深いため息をついた。それから、さらに数歩離れていた美里や桜井に声をかけに行く。
「 もう遅いし、お前たちは一旦帰った方がいい」
「 何言ってるんだよ、醍醐クン! ひーちゃんが目を覚ますまでいるよッ!」
  桜井が顔面蒼白、今にも泣き出しそうな声で珍しく荒々しい抗議の言葉を吐いた。美里は完全に醍醐を無視し、少し離れた位置へと移動する。醍醐はそれで再びため息をつき、如月を振り返ってから今度は声をかけることなく待合室から離れて行った。
  誰もが。
  皆一様に深刻な顔をしてその場にいた。
  ただ、どうすることもできずに。
「 ――お前たち、そんな所でたむろっているんじゃないよ」
「 先生!!」
  その時、龍麻のいる病室から巨体の女医が現れて、ひどく迷惑そうな顔つきでドスの利いた声を出してきた。普段ならそれで大抵の者が退くと言うのに、今日ばかりは皆がそんな女医に群がって、一様に龍麻の病状を聞きたがった。
  女医―岩山―は、そんな彼らを面倒臭いと言わんばかりの態度で「邪魔だ、散りな!」と叫んだのだが、やがて大きなため息と共に低い声を出した。
「 命は拾ってやったと言っただろ。ったく、奴は並大抵の事じゃ倒れやしないね。ある意味、化け物だよ」
  如月が女医の最後の台詞に敏感に身体を揺らしたが、他の者は特にそれで反応した様子はなかった。龍麻が無事だという事実だけに安堵していたのだろう。
  女医は続けた。
「 けど、面会謝絶には変わりないからね。こんな大勢で病院の中をうろつかれても困るんだよ。さあ、今日のところは帰った帰った!」
「 そんな先生! 泊まっちゃ駄目ですか!? ボクたち、ひーちゃんの傍にいてあげたいんです!!」
  桜井が執拗に迫り、他の者も懇願するような目を向けたが、岩山はびくともしなかった。蝿でも追い払うように更にぶんぶんと腕を奮い、 「いいから帰りな!!」と怒鳴りちらすだけだ。
  それで大抵の者は諦めて、仕方なく待合室から下がって行ったのだが。
「 …………」
「 何だい、お前。帰れと言っただろ。聞こえなかったのかい」
  未だ同じ場所に立ち尽くしていた如月に、岩山が胡散臭そうな目で見やってきた。如月が無言で岩山を見やると、無敵の女医は細い目を一層細くして、身体がびりりと震えるような凄みの利いた声を出した。
「 ……テコでも動かないって顔だねェ」
「 …………」
「 あっちの馬鹿もそんな感じだ」
  その岩山の声と目線で如月がはっとすると、いつの間にか龍麻の病室のすぐ前に京一がじっと立ち尽くしてそのドアを見つめていた。
  如月の中で、またひどく黒い感情が湧き立った。
「 ………あたしはいい男には甘いがね」
  その時、岩山がぽつりと言った。
「 タダで何かしてやるほどお人よしでもないんでね。いいから、今夜はお帰り。あの小猿も追い出してやらにゃ」
「 ……先生」
「 おや、喋れるのかい。何だい」
  如月がやっとの思いで言葉を出すと、岩山は興味深い顔を閃かせ少しだけ笑った。
「 ここにいさせて下さい」
「 ……何だ、ありきたりの台詞だね」
  岩山は途端にがっくりしたような顔をして、片手をひらひらさせて再度「帰れ」と繰り返した。
「 駄目だと言ったら駄目だよ。アンタだけが奴を心配しているとでも思っているのかい? みんなアンタと同じ想いなのを我慢して引き下がってるんだ。勿論、大切な緋勇の回復のためにね。一人だけ駄々をこねるんじゃあないよ」
「 彼の心配などしていません」
「 ………何?」
  如月の台詞に、岩山は一層怪訝な顔をした。
「 ……僕はここにいなければならないんです」
「 あン……?」
「 ………」
  如月は無意識のうちにそんな言葉を吐き、後は沈黙して前方にいる京一の姿を見やった。
  ただ、真っ直ぐひたむきに、親友の身を案じる剣聖。
  自分と彼は違う。
  けれど、本当は――。
「 ……分からないね」
  岩山は如月のどことなく決意を秘めた眼を見やりながら、ふんと鼻を鳴らした。それから再び病室の方へと目を見やり、何を思い立ったのか、どすどすと足を踏み鳴らしてドアの前にいる京一を呼んだ。
「 京一」
「 ……出てけっつっても無駄だぞ」
  京一が岩山の方を見ずに一言言った。岩山はそんな京一の様子をひどく楽しそうな目で見やった後、あっさりと返した。
「 ンな事は言いやしないよ。会わせてやるから、来な」
「 ……本当か?」
「 ああ…。だから、来な」
  岩山はそう言った後、ほんの一瞬だけ如月の顔を見やった。如月がはっとして岩山の方を見返すと、巨体の女医の方は、後はただ京一を顎だけで誘い、病院の奥の通路へと向かって行った。不審の声を上げる京一だったが、「龍麻に会わせる」と言った岩山の言葉を信じてついていく。
  今なら。
  如月は何の気紛れか、自分と龍麻との時間を作ってくれた女医に感謝しつつ、足早に病室に向かった。


  龍麻は、白い空間の中で横たわっていた。


「 …………」
  顔は綺麗だ。傷など見当たらない。しかし布団から覗く首筋から肩にかけて、白い包帯が巻かれているのが見える。肩先から斬られたことが容易に見て取れた。
  刀傷。
  ちりちりと痛む頭を抑えながら、如月は一歩、また一歩と龍麻に歩み寄った。
「 ……翡翠」
  すると、龍麻はすぐに目を開いて如月を呼んだ。
「 龍麻……」
  驚いてただ名前を呼ぶと、相手はふっと目を細めてから震える腕をゆっくりと如月の方へと差し出した。
「 龍麻……ッ」
  如月はすぐにそんな龍麻の傍に歩みより、その手を取った。
  そして刹那――。
「 すまない……」
  そんな台詞が飛び出していた。
「 龍麻。君を護れなかった…」
「 翡翠……」
  龍麻は如月の言葉に悲しそうな目を向け、ただ名前を呼んだ。
  しばらく2人は沈黙し、ただお互いに握った手の感触だけを確かめあっていた。
「 翡翠」
  けれど、それが幾刻か続いた後、龍麻がようやく息を吐き出してから言った。
「 もう……解放してあげる」
  それは実に澄んだ美しい声だった。
  如月が顔を上げると、龍麻はもう一度静かに笑んで唇を動かした。
「 翡翠を自由にしてあげる。俺から、解放してあげる」
「 何を言っているんだ……?」
「 言葉の通り……」
  龍麻はそう言ったきり、目をつむった。そうして自分の手を握っていた如月の手をさり気なく振り解くと、ぱたりとベッドにそれを落とした。
「 龍麻……?」
  如月が呼びかけても、龍麻は応えない。ただ、死んだように目をつむり、動かない。
「 龍麻」
  もう一度呼んだ。龍麻は動かない。応えなかった。
「 龍麻!」
  声を荒げると、自分のそれが、身体が震えているのが分かった。
  抑えようとしても感情が溢れ出してきて――。
「 ………翡翠」
  それでようやく龍麻が声を返してきた。目はつむったままだったが、龍麻は言った。
「 俺はもうすぐ、全部を出せる。 自分の全部を出して自分の全部を消して戦う時が来る。迫ってる…。だからもう、翡翠はいらない」
「 ………!」
「 その時は独りだから。誰も来れない。来ることはできない。あの人と、あの人が選んだ器だけが俺と対峙する」
「 あの人……」
  不意に紅い男が如月の脳裏に浮かんだ。それを敏感に感じとったのか、龍麻はすっと目を見開いて如月を見やった。ただその瞳には何も映し出されていないようだった。
「 本当は怖かったんだ。自分の力を出すこと。自分以上の力を外に出すこと。だから俺のお守をしなきゃならない翡翠を利用して、甘えて、随分我がまま言ったけど…もう最後だから。その時はどうせ独りだから」
「 ……嘘だ」
「 独りで行くから」
「 嘘をつくな。君は――」
「 本当だよ。翡翠の役目はもう終わったから」
「 ふざけるな! 僕は、君を…!」
  如月は初めてここで激昂し、龍麻をぎっと睨みつけると絞り出すような声で気持ちを告げた。
「 僕は君を護ることも――」
  1度声を詰まらせ、それでも如月は押し殺すような声で言った。
「 君を愛することも…できていない…ッ!」
「 ………」
「 まだ何一つ…できてやしないんだ…!」
「 ありがとう、翡翠……」
「 何故……礼なんか言うんだ……」
「 俺……ずっと、翡翠のこと苦しめてたね……」
「 龍――」


「 龍麻!!」


  その時、京一がだっと病室に入ってきて、そのまま傍に駆け寄ってきた。ちらとだけ如月をねめつけたが、すぐに切羽詰まったような声を出す。
「 大丈夫かよ、龍麻! バカ野郎! 心配かけやがって…!」
「 京一…ごめんな」
「 馬鹿! 謝るのは俺だ! くっそう、お前をこんなにした奴、俺は絶対許さねえ!!」
「 うん……」
  京一の台詞に龍麻は嬉しそうに微笑んだ。如月は自分の中のどうしようもない苛立ちと焦りを隠すことができなくなり、ただもうその場から逃げ出すしかなかった。
「 おい、如月!」
  その時、背後で京一が声をかけた。
  病室を出て、廊下を歩き始めた如月に、京一がすぐに出てきて後を追ってくる。
「 待てよ、如月!」
「 離してくれ」
「 待てって言ってんだろうが!」
「 何の用だ!!」
  思わず怒鳴って振り返ると、京一はちっとも動じない顔をしてから、如月のことを真っ直ぐに見据え、きっぱりと言った。
「 ……テメエに用なんかねェよ」
  如月の感情的な声に、逆に京一は冷静になったようだった。しかし明らかに不快になっているその顔には、如月に対していいようのない怒りが示されていた。
「 けど、龍麻のこと考えたら、お前に勝手にいなくなられたら困るんだよ」
「 ……僕は何処にも行かない」
  そうだ。
  龍麻の傍から離れる気などない。龍麻が自分を拒絶しようと、自分は龍麻の傍にいる。



  それが自分の……意思だからだ。


「 龍麻の言葉など関係ない。僕は彼と共にいる」
「 ……何だ」
  すると京一はやっと殺気だった目を緩め、やや小馬鹿にするような瞳で如月を見やった。
「 なら、俺らと同じじゃねェか」





  いつの間にか、外は雨だった。
  まだ夜明けは遠いのか。時間は分からなかったが、如月は何かに誘われるように夜の街を彷徨った。
  そして如月は、ふと気づくと龍麻が斬られたという中央公園へと足を向けていた。
「 ………」
  しんとした冷えた空気の中、如月はただ静かに時を刻んでいる空間に身を潜めた。闇雲に歩き、暗い道を一歩一歩進んでいく。
  すると、その前方にぼうっとした光が垣間見えた。
「 ……?」
  近づきながら目を凝らすと、その先は確か花壇とベンチが並ぶ景色が見えるはずなのに、ただ一つのものしかなく。
  ただ独りの姿しか映し出されてはいなかった。
「 貴様………」
「 ………」
  そこにはあの、幼少の頃に出会った紅い学生服の男が立っていた。
「 ………」
  男は闇の中で、ただじっと自分に近づいてくる如月を見やっているだけだった。そこには感情の色はなく、ただその場に在るというだけで、彼に対峙している如月自身の存在感すら希薄になってしまうような感があった。
  以前に見た姿とまるで変化のないその男は、如月が己の目の前に立つと、ゆっくりと口を開いた。
「 つまらん……」
  頬の筋肉も動いていない。口は開いたが、音声は何処か遠くから流れてきているかのような違和感。ひょっとするとこの男は今自分の目の前にはいないのかもしれない。如月は心内だけで密かにそう思った。
  男はそんな如月には構わず続けた。
「 こんなものが……奴の欲しいものか。これだけか」
「 龍麻を―」
「 呼ぶな。お前などが呼んで良い相手ではない」
  男は如月の台詞をかき消して、ここで初めて気分を害したような眼をちらと見せた。
  それからすらりと手にしていた刀を抜く。

  如月は威圧されているわけでもないのに、何故か自分に向かってこようとする相手に対処しようとしなかった。
 すると、そんな如月の態度が意表をつかれたものだったのか、男は剣を握る力を緩め、再び興味の色を失くしたようになって淡白な声を出した。

「 ……余計な感情は不用だと……教えられて育たなかったか」
  男はそれから「奴も同じだ」、とこちらはうわ言のように言った。
「 それをくだらぬ……斯くもくだらぬモノに眼を留めるとはな」
「 …………」


『 何で、俺ばっかり…ッ! 』


  その時、背後で龍麻の声がした。
「 龍麻……?」
  ぎくりとして咄嗟に振り返ったが、そこに彼の姿はなかった。確かに声がしたはずだと思ったのに、背後にはいつの間にか自分が来た道も消えて、ただ漆黒の闇が広がるのみだった。
「 同じ場所にはいないだろう」
  男が嘲笑するように言った。
「 声が聞こえたとしても、姿が見えたとしても、お前に本当のあれを掴むことなどできぬ。お前たちは元々が違う場所に立つ人間。……世界が違うのだ」
「 ……貴様は同じだと言うのか」
「 俺だけだ」
  男は勝ち誇ったようにそう言い…しかし剣を如月に向けて振り下ろそうとはせずに、何処か遠い所を眺めるようにして目を細めた。


『 俺ばかり、こんな……! 』


  龍麻の声が再度聞こえた。
  いる。ここにいる。
  しかし如月には彼の姿を見ることができなかった。
「 龍――」
  呼ぼうとして、しかし如月は口を閉ざした。
「 ………!?」


『 ――…ッ!』


  次の瞬間、不意にすぐ近く―それこそ、5.6メートルほど先だ―に、龍麻の姿が見えた。ところが、そんな傍にいるはずの龍麻は必死に何事かを叫んでいるようなのに、今度は声が聞こえないのだ。
  そして気づくとあの紅い男がそんな龍麻の目の前に移動してして。
  男は殺気だった眼をしたまま龍麻に剣を向けていた。
「 ………ッ!!」
  驚きのあまり声を失った如月だったが、例え叫んだとしても前方の2人にその声は届かないだろうことは瞬時に察した。
  龍麻とあの男にしか入り込めない場所。
  自分には決して届かない場所。
  そこにあの2人はいるのだと思った。

  龍麻の声は聞こえるのに、姿が見えない。
  龍麻の姿は見えるのに、声が聞こえない。

  如月はただその場にいることしかできない自分の無力さを感じ、ぐっと唇を噛んだ。
  ただ彼の傍に、ただ彼のために願うことしかできないのか。


『 こんな世界なんか、どうでもいい 』


  すると不意に龍麻の声が降りてきた。如月がはっとして前方に見える龍麻を凝視すると、その言葉を発したらしい龍麻は唇の端を少しだけ上げて、皮肉な笑みを男に見せていた。
「 誰が死のうと、俺には関係ない!」
「 ならば、何故戦う」
「 みんな壊れてしまえばいい…!」
  男の問いに直接は答えず、龍麻は荒んだ表情でそうつぶやき、男に向かって攻撃を始めた。男はそれを何なくかわしながら、しかし嬉しそうな眼をして龍麻に向かい、手にしていた刀を振り下ろした。
「 今のお前にこの俺が倒せると思うのか」
「 俺は、本当はお前との戦いだってどうだっていいんだ…ッ」
  拳を奮いながらも龍麻は言った。苦しそうだった。それなのに龍麻は男に向ける 《力》を決して緩めはしなかった。


『 俺自身だって―― 』


  男に斬られる。
  如月がそう思った瞬間、龍麻が再び唇を動かした。今度は声は聞こえない。しかし如月にはその唇の形で龍麻の言った台詞を捉えることができた。

  キエテシマエバイイ――

「 いらない。俺なんか、いらないんだ…!」
 瞬間、龍麻の心の叫びが聞こえたような気がした。
「 龍麻ッ!!」
  如月はたまらず声を張り上げた。
  すると。

  それは本当に一瞬の出来事だったが。

「 翡……翠………?」

  龍麻がこちらを見たような気が、如月にはした。





  ふと目を覚ますと、如月は龍麻が眠る病室にいた。
「 ……翡翠」
  いつの間に眠ってしまったのだろうか。
  龍麻を見舞って、つい先刻まで早く帰ろうと思っていたはずなのに。いつまでもその場にいては龍麻の怪我に響く。そう考えていたはずなのに、知らぬ間に龍麻のベッド脇で如月は眠りを貪ってしまったようだ。

「 翡翠……」
  呼ばれた。
  はっとして瞼を開くと、傍にはベッドに横たわったままの龍麻がいた。じっとこちらを見つめている。如月は未だはっきりしない意識の中で、しかし慌てて声を出した。
「 ……すまない、眠ってしまったようだ」
「 ううん」
  龍麻は首を横に振り、「いてくれるだけで嬉しいから」と言わんばかりの顔で少しだけ笑ってみせた。
「 みんなは……?」
「 先生が無理やり帰してたって、翡翠がさっき言ってたじゃない? 京一はさっきちらっと顔見せたけど」
「 え……? すまない、どうしたんだろうな、僕は」
  記憶が曖昧だ。
  何をどうしてここにいることになったのか、今いち覚えていない。

  しかし龍麻はそんな如月には構わずに言った。
「 呼んでくれて……ありがとう」
「 え?」
「 翡翠が俺を……こっちに戻してくれた」
「 ……龍麻?」
「 …………」
  龍麻は答えない。ただ静かな目をしていた。今まで見てきたどの顔とも違う、新しい龍麻の一面のような気が如月にはした。
  それがどんな顔だろうが、如月には構わなかったのだが。
「 ……どこまでが夢なんだろうか」
「 何を見てた?」
「 君がいたよ。僕たちはお互い同じ所にいるのに、決して同じ所に立ってはいないんだ」
「 …………」
「 でも僕が――」
「 翡翠の声、俺にはちゃんと聞こえたよ」
「 ………ああ、僕にも君が見えた」
「 夢じゃないよ」
  龍麻は言い、それから自嘲するような笑みを見せて言った。
「 翡翠…。この戦いが終わったら――」
「 え……」
「 俺はね……何処か遠くへ行こうと思うんだ」
「 龍麻……?」
「 でも翡翠はここにいてね」
「 ………」
  龍麻はそう言ったきり、口をつぐんだ。そして。
  今度は本当に泣き出しそうな顔をして、けれど言葉ははっきりと。
「 愛しているから。ずっと、翡翠だけ」
  そう、言った。
「 …………龍麻。僕もだよ」
  それで如月は全てを忘れて、自らもはっきりと返した。
「 僕も君を愛してる」
「 知ってた……」
  龍麻はここでようやく笑って、すっと片手を差し出すと。
  如月が握ってくれたその手に力をこめて、目をつむった。
  如月はそんな龍麻を見つめ、そっと自らの唇を龍麻のそれに重ねた。

「 愛してる、龍麻」
  龍麻はもう答えなかったけれど、それでも構わないと如月は思った。





『 ねえ、翡翠』


  森の奥で珍しく2人、穏やかに遊んでいる時に龍麻が言った。


『 僕、何もかも分からなくなることがあっても』


  龍麻は笑っていた。もしかすると泣いていたのかもしれないが、それでも如月には笑顔を向けて。


『 この気持ちは変わらない。絶対消えないから』


  だから僕を。
  だから僕を、いつの日にか呼び止めてね。
  そしたら僕は、きっと僕でいられるから。

  僕のままでいたいと、思えるから。



<完>



9へ



■後記…湯葉様に奉げた如主でございます。すごく曖昧な終わり方をしてしまって、消化不良の方も多いと思います。でも今のこの2人にはここまでが限界なのかなと。気持ちを伝え合えただけでもかなりハッピーなのではと思ったり(どこが)。ここまで読んで下さった皆さん、どうもありがとうございました。