(3)



  あの時と同じように、雨が降っていた。
「 緋勇…?」
  最初は暗がりでよく分からなかった。黒い学生服は闇と同化し、あの夜と同じように、彼の漆黒の髪もその色と自然に溶け合っていた。

  如月は何故かその日、イライラしていた。

  別段何があったというわけではない。
  仕事が多かったのも事実。余計な来訪客もあった。学校では名ばかりの部長である自分に、部員たちがやたらとしつこくたまには部に顔を出してくれと迫ってきた。
  しかしそれもよくよく考えてみれば別段どうということはないし、そんな事でいちいち尖っていたのでは、この仕事も学生という身分も普通にはやっていけない。
  だからその日如月を不機嫌にさせたものは、特に何というわけではなかった。いつもと同じ日常だ。最近、やたらと感じるようになったそこここにある邪悪な氣に関しては、気がかりに思うこともあったけれど。
  感情が波打つなど、未熟な証拠だ。如月はそう思う。
  しかし腹の底の方からこみあげてくるむかつきは抑えようもなかった。全ての事柄がうっとおしく、邪魔に思えた。

  そんな時だった。知り合ったばかりの緋勇龍麻を見かけたのは。

「 緋勇?」
  彼だということは近づくにつれ確信に変わり、次に何故このような所に立ち尽くしているのかと疑問に思った。

  如月は夜も大分深まった時刻、ある霊園に来ていた。

  自分が住んでいる北区は勿論、龍麻が住んでいる場所とも大分離れた所だった。
  遊びに来たにしては遅すぎる時間だし、そもそもこのような所に彼1人というのは明らかにおかしい。 如月は自分のことを棚に上げて、龍麻を不審の目で見やった。
「 こんな時間にこんな所で何をしているんだい」
  如月は未だ背を向けたままの龍麻に訊ねた。如月が何度か名前を呼んでいるというのに、龍麻は振り返りもせず、ただその場に立ち尽くしていた。人通りが少ない辺鄙なこの場所で、龍麻の様子はどうにも気味の悪いものだった。
  それに加えて、この雨だ。夏が近いとはいえ、悪寒が走る。
「 緋勇」
  そしてもう一度如月が呼んだ時。
  龍麻はようやくゆらりと振り返った。流れるような静かな動作だった。
「 ………」
  龍麻は自分の背後に立つ如月を、何をも考えていないような無の瞳でじっと見つめた。ぱらぱらと降り注ぐ雨に濡れて、それでもやはり龍麻は動じない。あの夜と同じだと如月は思った。
  何だ。
  この顔は。
「 ……どうした」
  それでもあの時と違うのは、如月と龍麻はもう言葉を交わすだけの知人だということである。だからまさかこのまま立ち去るわけにもいかずに、如月は何の反応も示さない龍麻にもう一度問い掛けた。
「 傘もささずに……。何をしているんだ?」
「 ……………」
  彼は自分のことを認識しているのだろうか。漠然とした不安を抱きながら如月はそれでもただじっと龍麻の返答を待った。拒絶しているようではない。ただ、静かなだけだ。
  それでもなかなか口を開かない龍麻に、如月はふっとため息をついてから近寄ると、自分がさしている傘を龍麻の方にかざして言った。
「 何も言いたくないならいいさ。けど、いつまでもここにいる理由なんてないだろう」
「 ……………」
「 僕もないよ。今日はただ…ちょっと調べに来ただけだしね」
  何を調べにきたのかまでは言わなかった。 同じ《力》の持ち主同士とはいえ、鬼道衆―邪悪なる者たち―との戦いは、 飛水の血を持つ自分だけのものだ。やたらと他言するような類の話ではなかった。
  或いは彼は鬼たちの動きに気づいてこの場所まで探りに来ていたのかもしれないが。それでも言う必要はないだろうと如月は思った。
「 帰るんだろう?」
「 ……………」
「 こんな所にいつまでもいたら風邪を引くよ。途中までなら僕も」
「 ………翠」
「 え?」
「 翡翠」
  龍麻が言った。
「 翡翠」
「 ………何だい」
  やはりいつもの龍麻とは違う。 いや、「いつもの」などと言うほどには、如月は龍麻のことを知らない。それでも、少なくとも自分の店に通ってくる時の緋勇龍麻とは明らかに違うということだけは言えた。
「 ……ありがとう……」
  その時、龍麻が限りなく小さい声でそう言った…ような気がした。
「 ………?」
  訳も分からずに如月が眉をひそめると、龍麻はうつろながらも少しずつ瞳に光を宿し始め、それからゆっくりと視線を向けてきた。
  あの。
  儚げな瞳で。
  そして夢から覚めたような声を上げた。
「 ……如月さん」
  如月は何とも答えられずにただ龍麻の顔を見返した。





「 よーっす! これ買ってくれ!!」
  ――それから数日後。
  いい加減慣れてきてはいたのだが、如月は振り返りもせずにその元気すぎる声の主に、冷たい声を投げつけた。
「 君も相当がめついな」
  最近頻繁に起こる奇怪な殺人事件が起きる度、如月は神経がぴりぴりする自分を感じていた。不穏な空気がこの東京の街を覆うほどに、自分の《力》も高まっていく。しかし単独で動くにはあまりにも危険な相手ということから、如月は無為に時を過ごしているような自分に対し、徐々に苛立ちを強めていたのだ。
  だからかもしれない。底抜けに明るい彼が来ると不快な気持ちになった。
  しかし当たられた方はたまらない。仮にも客なのだ。いくら同年代の人間とはいえ、無礼な店主の態度を許容する気にはとてもなれない。八つ当たりされた客―蓬莱寺京一―は、半ば怒鳴るように声を荒げた。
「 お前な! 毎回毎回態度がひどくなっていってねえか!? 普通はこんな常連客、来る毎に優しく丁寧に応対していくものだぞ! なのにお前のその失礼極まりない接客態度は―」
「 で? 今日は何を買ってくれって?」
「 ……無視かよ」
  額に怒筋を浮かべながら、しかし京一は客のくせに負けたようになり、諦めて背にしてきた風呂敷包みを店の中にどばっと広げた。 がちゃがちゃと雑然とした音が響き、ごつごつした正体不明の物がたくさん辺りに散らばった。
  それで如月は再び不快な表情を露にした。

「 ……これを背負って電車に乗ってきたのかい」
「 ああ!」
「 よくもまあ……」
「 お前の話なんか聞きたくないね! いいから早く鑑定してくれよ。これ、どれくらいで買ってくれんだ?」
  わくわくしたように言う京一にあからさまにため息をついてみせてから、如月は粗雑に扱われた品を一つ一つ丁寧に見ていった。
「 ……またこれか。君は追儺の面が好きだな」
  重なりあった古ぼけた面が幾つも現れ、如月は馬鹿にしたように京一に言った。しかし京一の方は如月のそういった態度に慣れてしまったのか、それとも何も感じなかったのか、得意満面の笑みで返す。
「 別に狙って獲ってるわけじゃねェよ。たまたまだな。それに、アイテム獲るのうまいのは緋勇だな」
  龍麻の名前が出たことで如月は思わず動きを止めた。京一はそんな如月の様子には気づかずに続けた。
「 まあ俺も結構アイテム獲りには熱心だけどな。戦いがしんどくなるとそれどこじゃなくなるし。けどアイツはすげェ冷静だよ。平気な顔して戦っているしな」
  京一は自分たちの《力》の話を如月にしたことはないくせに、すっかり失念しているのか、旧校舎での戦闘を当たり前のように話していた。 如月も別に問いただしたりはしないのだが。
「………これは」
  如月は手にしていた面をじっと見つめてから、つぶやくように声を出した。
「 ん、何だ?」
  それで京一も傍に寄ってその面に顔を近づけた。
「 何だ、これがどうかしたか?」
「 ……血が」
「 血? あっ、ホントだ! くっそーまた傷モンかよォ! しまったなあ、誰だよ汚したのー!」
「 君じゃないのかい」
「 俺は気をつけて戦ってっからな! それにしても誰の血だ? あの化け物のかー? 誰も怪我してなかったしなァ。血ってみんな赤いモンなんだな」
「 …………」
  面にこびりついたその血は、赤というよりは少々どす黒くなっていた。 しかしそれを眺めながら、如月は何とも形容し難い厭な気分に捕らわれていた。

  異形の血も赤いのか。

  あまり考えたことはなかった。毎日のように旧校舎とやらに潜って戦闘を重ねている彼らほどではないにしろ、如月もこの世ならざるものと戦う機会は子供の頃より多かった。その度に意味もなく襲い掛かってくるその化け物たちを、如月は一刀両断のもとに叩き斬ってきた。その際吹き出ただろう血の色など、如月は覚えていない。
  迷いなどなかった。
  邪悪なるものは滅ぼすまで。それが自分に与えられた使命だと思っているから。
「 …………」
  しかし如月は京一が持ってきた面に付着した血を見たことによって、ひどく不快になる自分を自覚していた。 
  厭な痕だった。
  そんな風に考える自分がいることが信じられなかったのだが。





「 サンキュー! じゃあ、またな!」
  如月の元に大量の古物を売りさばいたことで懐も温かくなったのだろう、不敵な赤髪の剣士は意気揚揚と帰って行った。その底抜けに明るい背中を見ながら、彼は何を思って剣を振るっているのだろうかと如月はふと思った。
  そうして、そのすぐ後。
「 こんにちは…」
  彼が来た。
  如月が無言で見返すと、彼は困ったような声を出した。
「 あの、蓬莱寺は…?」
  京一と同じ真神の生徒・緋勇龍麻はおずおずとした様子で、自分を見つめる如月の視線から逃れるように、狭い店内のあちこちへ目をやった。
「 帰ったよ」
  如月は素っ気なくそれだけを言い、ようやく龍麻から目を逸らした。
「 あ、すれ違い……」
「 そのようだね」
  如月は先刻までくだらない思考に身を委ねていた自分を振り払うように、また緋勇龍麻という人物から離れるように、京一が置いていった品を一つ一つすくいあげてはその埃を払い始めた。
「 あ、何か手伝いましょうか」
  けれど当の龍麻はそう言いながら如月の元に歩み寄り、そうして傍にしゃがみこむと、恐らくは自分でも多く奪取したであろう古物類に目をやった。
「 しょっちゅうこんな物持ってきて、迷惑じゃないですか?」
  品物に目をやりながらそう訊く龍麻に、如月は実に冷たく答えた。
「 そう思うなら少しは遠慮したらどうだい」
「 ……すみません」
「 別に君を責めているわけじゃないよ。ただ、ほとんど毎日潜る必要はないだろう。危険な場所なんだから」
「 あ……そういう意味で」
  龍麻は如月が自分たちの心配をしてくれたのかと理解して、嬉しそうに笑んだ。如月はその笑顔に面食らい、慌てて龍麻にやっていた視線を横へ逸らした。
  しかし龍麻が如月と同様品物に手を触れようとしたので、思わずきっとなって制した。
「 君は触らないでくれ」
「 あ……」
  言われて龍麻は焦って手を引っ込めた。
  それから恐る恐る如月の顔を伺い見る。

「 ごめんなさい」
「 いいよ。それより、その言葉遣い」
「 あっ…」
  しまったというようになり、龍麻はごまかすようにまた笑った。
  如月はそんな龍麻を見るにつけ、むかつく自分の気持ちをどうすることもできず、つい乱暴に言ってしまった。
「 君は僕と話すと緊張するのかい」
「 え?」
「 いつもそんな風に堅くなるだろう」
「 あ…いえ、そういうわけじゃ…」
「 あの蓬莱寺君には普通に喋っているじゃないか。僕も彼と同じ3年だよ。もちろん君もだ」
「 ……分かって…いるん、だけど」
「 けど? けど何だ? 君って人は本当に分からない人だな」
「 そう…かな」
  きつく言われたからか、自分を理解されないと思ったからか、龍麻は沈んだような声を出した。
  如月はそれでも止められずに続けた。
「 君は何を怯えているんだ? 僕が怖いのかい?」
「 そ、そんなまさか――」
「 でもこうやって店で会う時はそうしておどおどしているくせに、何故違う場所で見かける君は―」
  言いかけて如月は口をつぐんだ。 あの夜のことを話していいのだろうかと咄嗟に思ったのである。
  何故口にしてはいけないかもしれないなどと思ったのかは分からないのだが。
「 何?」
  しかし龍麻は急に如月が言葉をなくしたことで、不審の声を上げた。
  如月は龍麻を見据えて言った。
「 ……あの晩のことだよ。君だって覚えているだろう」
「 霊園でのこと…?」
「 そうだよ。君の様子、どう見てもおかしかった」
「 うん……」
「 覚えているのかい、あの夜のこと」
「 もちろん」
  龍麻は何故か如月から目を逸らして、しかしはっきりとそう言った。
  如月はそんな龍麻から今度は目を離せなくなって訊いた。
「 じゃあ訊くけどね。何故君はあんな所に1人で雨の中ぼうっと突っ立っていたんだい。僕が声をかけても上の空だった」
「 ……如月は何であそこに?」
「 ……ちょっと気になることがあってね」
「 きっと同じ理由だね」
  龍麻はそう言ってから、驚く如月には構わずに言った。
「 俺、どうも変になっちゃうみたいなんだ。……戦った後は」
「 戦った後?」
「 戦っている時もかな……」
「 どういうことだ?」
  如月が訊くと、龍麻は情けないような笑みを浮かべてから掠れた声で言った。
「 とりあえず…目に見えたものは全部消したくなるっていうか」
「 …………」
「 だから……落ち着くまで目をつむるんだ」
「 …………」
「 心の目をね………」
  龍麻は言ってから、如月が手にしていた血のついた面を手に取った。 その際龍麻の手が如月のそれに軽く触れた。冷たい感触がした。
「 だから…傍に如月がいることは分かっていたんだけど…。声、出せなかったんだ。ごめん」
「 ………」
「 ねえ……」
  黙りこむ如月に、しかし龍麻はまたおかしな態度になってきて、何かに酔ったような声を出した。手にした仮面を見やりながら言った。
「 これ……この血」
「 ………」
  龍麻は恐ろしく澄んだ声で言った。
「 俺が殺したやつの血だ」
「 そうなのか」
  如月がやっと声を出してそう言うと、龍麻は静かに頷いた。
「 綺麗だよね」
  そうして龍麻はふっと笑み、試すような目を如月に向けた。



To be continued…



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