(4)



「 君は僕のことを忘れる」
  彼はそう言ってぽろりと涙をこぼした。
「 忘れちゃうよ」
「 何故」
  如月は他人の涙が嫌いだったから、ひどくつっけんどんにそう訊いた。如月は彼のことが嫌いではなかったが、好きでもなかったように思う。いつも自分の背に隠れておどおどしていた。他の者にはない《力》があるくせに、何故こんなに自信がないのか。その態度にイライラした。
  そんな彼と初めて出会ったのは、一体いつのことだったろうか。
「 翡翠は僕のことが嫌いだから…」
  泣きながらそう言った彼。漆黒の髪が風に揺れた。長い前髪で顔がよく見えない。
「 だから…僕が遠くへ行っちゃったら、君は僕のことを忘れる」
「 遠く?」
「 行くんだ…。引越しちゃうんだ」
「 ……そう」
「 翡翠…」
  彼は無感動な表情のままの如月を寂しそうに見つめた。
  ああ、こんな目をしていたのか。
  知り合ってそれほど経っていないからというのもあるが、それでも、彼の顔をまともに見たのはこの時が初めてだった。
  何かというと自分のところに来た彼は、しかし真っ直ぐにこちらを見てくることがなかった。だからかもしれない。彼こそ自分のことが嫌いなんだと思った。
  だから自分も好きにはなれないと思った。
「 翡翠…。もしまた出会ったら…僕がこの街に戻ってきたら、その時は思い出して。そして―」
「 ………」
  何だ? 自分は何と言った? この時、彼に何と?

  そうだ。彼の名前を呼んだんだ。ああ、それなのにどうしてだろう。彼の名前を自分は忘れてしまった。

「 翡翠、そして――」
  それでも戸惑う「今」の如月に構わず、「夢」の中の「彼」は泣きながら言った。
「 僕のことを呼び止めて」





  目覚めた時、如月は珍しく汗をかいていた。
「 …………」
  気分が悪かった。昔のことを夢に見ていたようだが、意識がはっきりしてくるにつれ、その内容は薄れていく。それでもぼんやりとする頭の中で、大切な何かを忘れていることだけは確かだと思った。
  名前。名前を。
「 ………っ!?」
  その時、店の方で物音が聞こえた。
  正確に言えば、店の表戸の所だ。誰かが乱暴に引き戸を叩いている。呼んでいる。
「 誰だ…こんな時間に」
  ちらりと時計を見て、如月は一気に現実に引き戻されたような気分になった。午前2時だ。酔っ払いか、それとも。
  如月は未だはっきりとしない身体を無理にすっと立たせると、真っ直ぐに音のする店の方へと向かっていった。
「 開けて…開けて……」
  近づくにつれて、声も聞こえてきた。切羽詰ったそれではないが、懇願するような哀しい声だった。 如月はそれを耳に入れた途端、先刻夢から覚めた時のような胸苦しさを覚えた。それでも足は止めずに、すぐに店の中へ入り、引き戸に近づく。
「 開けて……翡翠……」
  相手は如月がやって来たことに気づいていないようだ。どんどんと扉を叩くのを止めない。如月は今にも壊れてしまいそうな戸の前に立つと、外にいる相手に声をかけた。
「 今、開ける」
「 ……………」
  凛とした声がよく通ったのだろう。相手はぴたりと動きを止めた。
「 何をしているんだ。君は……」
  如月は戸を開けて、相手の顔を見る前にそう言った。しかし、目の前に立つその人間の表情を見た途端、絶句した。
「 緋――」
「 翡翠……」
  つぶやくように如月の名前を呼んだ相手―龍麻―は、 その後すぐに身体の均衡を失くし、地面に崩れ落ちそうになった。しかしそれは咄嗟にそんな龍麻を支えた如月によって阻止された。
「 緋、緋勇、一体…!?」
  龍麻の身体は血で濡れていた。
「 どうした、しっかりしろ…っ!」
  反応はなかった。くたりと身体の力を失くしたまま、龍麻はただ如月に抱きすくめられていた。
  額から、耳から首から腕から――。 とにかくありとあらゆるところに龍麻は血をつけ、すっかり生気を失くしていた。異形にやられたのだろうかと瞬時に思った如月だったが、龍麻を抱え直そうとして、彼についた血が目に入り、また声を失う。
  これは。
  彼の血ではない。
「 翡…翠……」
  龍麻は気を失ったわけではないようだった。 如月を目にしたことで力が抜けたのだろう。のろのろと瞳を開き、何とか自らに力を込めようとする。
「 無理をするな」
「 大丈夫……これは……」
「 大丈夫なようには見えないよ。とにかく掴まれ。中で休むといい」
「 これは…俺の血じゃない……」
  龍麻はどこを見ているのか、目線を曖昧にしたままそう言った。
「 だから俺は―」
「 いいから中へ入れ。何があったのかは後で聞く。今は――」
  言いかけて如月はまた後の言葉を言うことができなかった。
  突然。
  龍麻が如月の方を見たと思うや否や、不意に自らの唇を如月のそれにあわせてきたのだ。
「 ………っ!」
  勿論、そんな事が起きるとは予想していなかった如月は、もろにそれを受け止めてしまい、そうして目を見開いたまま相手の事を見やった。
  龍麻は目を閉じていて。
「 ……………」
  無意識だったのだろうか。唇を離した途端、相手はハッとしたようになって俯いた。
「 ご…ごめん…なさい…」
  そして、また泣き出しそうな顔になった。





  血を洗い流させるために風呂場へと追いやった如月は、汚れた龍麻の制服を見つめながら先刻のことを思い出していた。
  一体、彼は何なんだ。
  恐らくは龍麻自身も分かっていないのだろうが、彼の精神は、そして自我は、ひどく不安定で危うげだった。
  しかし。
  それに相反するようなあの絶対的な《力》は。

  彼の《力》は一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と言う風に、日に日にその強さを増している。それは恐ろしいほどのスピードだった。 もしかするとその速度に、本人の意思がついていけないのかもしれなかった。
  がたり。
「 ………!」
  その時、縁側に続く廊下の方で物音が聞こえた。龍麻が風呂から上がったのだろうかと如月は顔を上げる。しかし、龍麻が如月がいるであろう居間に来る気配は一向になかった。
「 緋勇……?」
  如月は思わず相手の名前を呼び、立ち上がった。





  渡り廊下を歩き、龍麻を探す。いない。姿が見えない。しかし風呂場にはもう龍麻の姿はなかった。 自分が貸した着流し姿で家に帰るとも思えない。如月は1人きりの邸内をこの時初めて広いと感じた。
「 緋勇、何処だ?」
  思わず先刻よりも大きな声を出していた。胸騒ぎがする。何か良くないことが起きる前触れのような気がした。
「 緋勇!」
「 ここ………」
「 !!」
  声がしたのは、庭にある桜の木のすぐ傍でだった。龍麻はだらしなく着た和装姿に裸足で、大木の陰からちらと如月の方を伺っていた。
「 緋勇…何をやっているんだ」
「 ごめん…」
「 謝られても困る。何をやっているのかと訊いているんだ」
「 何処へ行っても…ついてくる」
「 何だって?」
  龍麻の顔は木の陰と、何より夜の闇の中に溶け込んでよくは見えない。しかし声で彼が泣いていることは分かった。
「 何がついてくるって?」
「 俺…俺、もう嫌だ……」
  龍麻は混乱しているようだった。如月は努めて冷静を装い、そうして大木の背後に隠れようとする龍麻に手を差し伸べた。
「 ……いいからこちらへ来ないか」
「 駄目……」
「 緋勇…」
「 翡翠に……翡翠に嫌われる」
「 何を……」
「 俺……普通の人じゃないから」
  泣いている。涙は見えない。けれど泣いているのは分かる。もしかすると彼は目に見えて涙は流していないのかもしれない。それでも、この時の如月には龍麻の涙が見えたような気がした。
  如月は思わず自分も裸足のまま庭に下りた。
  それに対し、龍麻は怯えたように言った。

「 駄目…来たら、駄目だ……」
「 だったら君がこっちへ来い」
「 …………」
「 ここへ来たのは君だ。僕に会いに来たんだろう」
「 …………」
「 何があったんだ。 いいから、そこから出て来ないか。いつまでもそうしているわけにはいかないだろう」
  如月は自分ではそのつもりはなかったのだが、恐らくそう言った声はとても冷たいもので、聞く方を間違いなく怯えさせた。龍麻の見えている方の肩がびくりと揺れるのが如月には見えた。そして、そろそろと姿を現してくるのも。
「 …………」
  その龍麻の見えなかった方の片手には。
  見たこともない、魔物が握られていた。形は獣に近い。元の姿は分からないにしろ、そこから想像するに龍麻が掴んでいるのは頭部から胴体にかけたところだと分かった。今にもちぎれそうな首の根を龍麻は掴み、最早ただの肉片に成り下がろうとしている胴からは、そこからはみ出た何かがもぞもぞと動いていた。
「 緋勇………」
「 知らない知らない……」
  龍麻はそう言った後、しかし未だ自分の手の中でぴくぴくと動きもがくそれをゆっくりと眺めた。そして、ただ茫然とする如月の目の前でそれをそのまま握り潰した。

  ぐちゃり。

  陰惨な音が静寂な夜の中で響き、赤い血が方々に飛び散った。
「 ……………」
  すると龍麻はぶるぶると震えていた手を徐々に沈めていき、やがてすっかり静かになると、手に残っていた異形の骸をぼとりと地面に落とした。
「 緋勇」
  如月が呼ぶと、龍麻は視線はその骸に向けたまま言った。
「 こいつらは何処へ行ってもついてきて、俺に殺される」
「 …………」
「 俺は悪くない。俺は悪くないよね」
  龍麻はそこでようやく顔を上げて如月を見つめた。哀しいのか嬉しいのか分からないような顔をしていた。そして手についた赤い血を見て、今度ははっきりと。
  笑った。
「 でも、本当の化け物は俺だ……」
「 何を…言っている」
  正直、如月はかける言葉を見つけられずにいた。 頭がおかしいのかもしれない。 真剣にそう思っていたから。
  そんな如月の思いに気づいているのかいないのか、龍麻は構わずに続けた。
「 こいつらの血ですら赤いのに、俺の血は……」
「 !? な、何をしているんだっ!!」
  如月は思わず声を荒げて龍麻に駆け寄った。
  龍麻はつぶやきながら、自らの手首をもう片方の手でいきなり切りつけたのだ。素早い手刀だった。如月の止める間もなかった。
「 ほら…俺の血は……」
  それは闇夜の中ですらくっきりと分かる鮮血だった。
「 黒い……」
「 緋勇……」
  しかし龍麻は自分の血を「黒い」と言い、近づいた如月にふらりともたれかかった。
「 怖いでしょう、俺のこと」
  如月は龍麻の言う事を無視し、今ではくたりと力の抜けたような相手を抱え込むようにして家の中へと連れ戻した。そうして縁側で呆けたように座りこむ龍麻に、部屋から持ってきた布で傷の応急処置を施す。龍麻はそんな如月の様子を焦点の定まらない目でじっと見つめていた。
「 バカなことをするな」
  一通り傷の手当てが済んだ後、如月はやっとの思いでそれだけを言えた。何故か龍麻の顔は見れず、血のこびりついた細い腕を見つめる。
「 君が何を苦しんでいるのか僕には分からない。だが、自分を傷つけてどうする。それでどうなると言うんだ」
「 …………」
「 突出した《力》があれば異形の物たちが近づくことも多いだろう。それによって君が自らの《力》を行使し、奴らを撲滅させたところで君を責める者などいない。さっき君も言っていたが、君は悪くない」
「 ……翡翠は」
  龍麻は如月も見ている自らの腕に視線をやり、言った。
「 翡翠はそうやって剣を振るってきた?」
「 …………」
「 向こうが襲ってきたんだからって…あいつらはこの世界にいてはならないものなんだからって…迷いなく斬り捨ててきた?」
「 ……ああ」
「 俺も」
「 …………」
「 そう思われて、斬り捨てられてきた」
  龍麻の言葉に如月は一瞬反応を取るのが遅れた。
「 何を……」
「 俺だって異形の存在だよ。この世界の人たちから見たら…普通じゃないよ。普通じゃ、ない」
「 だから何を言っているんだ」
「 翡翠だって俺を普通の人間と思ってない」
  龍麻は不快な表情を見せる如月に対し、自らも不快な態度を露にしてそう言った。責めるような口調ではない。けれどそれはひどく悲痛で必死に何かを求めていて。如月の胸に何かを突き立てるのには十分な言い様だった。
「 俺のこと頭おかしいと思っているだろ? どっか壊れているって思っているだろ? みんなそうだよ。俺が本当のこと言ったり本当の部分見せると、みんな俺のことおかしいって思うんだ。だから、だから俺は」

  普段は、ただ笑っているだけ。

「 ……………」
「 でもそんなのは、本当の俺じゃない」
  龍麻はそれだけをまくしたてるように一気に言ってから、情けないような笑みをちらと見せた。それからゆっくりと腕についた自分と異形の血糊を見つめ、如月に視線をやった。
「 俺のことなんか……見たくもないでしょ」
「 ………」
「 触りたくもないでしょ」
「 ………そんな事はないよ」
  やっと出た言葉だったが、実際その台詞に嘘はなかった。
  彼のことを。
  抱きしめてやりたいと如月はこの時思っていたから。
「 ねえ……」
  龍麻は急に甘えるような声を出してから、ゆらりと目の前に座る如月に近づき、そっと自らの両腕を伸ばした。 そして、 実に緩慢な所作で如月の首に己の両腕を回して抱きついた。如月はされるがままになっていた。
「 お願い……が、ある」
  龍麻は言った。
「 俺のこと……抱いて」
「 …………」
「 俺に触って」
  ふと気づくと龍麻の身体は小刻みに震えていた。拒絶されることへの恐怖。怯え。それが全身からありありと浮かび上がっていた。


『 翡翠、待って!』


  そういえば、あの時――。
  如月は不意に昔のことを思い出す。


『 僕も行く! 僕も一緒に行きたい!』


  あれはいつの頃だったろう。すぐに自分の元からはいなくなってしまったが、少しの間だけ、いつもいつも後ろからついてくる影があった。
  自分のことを大好きだと言って笑っていた。
  だが、自分は笑い返しもしなかったし、好きなどという言葉も発しなかった。感情を表に出すことは愚かなことだと祖父には言われていたし、そもそも如月はその相手のことを―。

  好きでも嫌いでも――。

「 龍麻……」
  如月は思わず声に出して、自分にすがりつく相手の名前を呼んでいた。そしてゆっくりと彼の背中に手を回した。
「 君は……僕と会っていた?」
  龍麻は答えなかった。しかし、如月に抱きつく腕には力が込められた。



To be continued…



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