(5)
「 よぉーっす! これ買ってくれ!!」
あの明るい声が聞こえ、店の引き戸が開けられる。あの夜から数日が経っていた。
「 …………いらっしゃい」
「 おっ! ようやく客をもてなす言葉を言ったな! やっとお前も俺みたいな常連を敬う気になったか」
「 今日も君1人かい」
「 ん? ああ、そうだぜ。何つっても、1人で運べば売値の5割は俺のモンだからな!」
「 ………緋勇は」
「 あん?」
「 元気かい」
「 龍麻か? そりゃまあ、普通に元気だと思うけど?」
「 …………」
何やら考え込むような素振りをする如月に、京一は不審な顔を見せつつも、背中に背負っていた荷を下ろしながら何気なく言ってきた。
「 ……そういやアイツも俺がここに来た次の日は、必ずお前の事訊くな」
如月が黙って京一の方を見ると、相手の方も何やら探るような目を向けてきていた。
「 まあ…大した事じゃねェけどな。お前が元気だったかとか、そんなようなこと」
「 …………」
「 お前らって仲いいのか?」
「 いや」
これにはきっぱりと答えて、如月は目の前の古物の鑑定を開始した。京一は傍にあった木造の椅子に腰を下ろすと、辺りを眺めながら口を動かし続けた。
「 まあ、俺はどうでもいいけどさ。けど、もし喧嘩かなんかしてんだったら、お前から折れてやってくれよな」
「 ……どういう意味だ」
これは聞き捨てならないとばかりに、如月は動かしかけていた手を止めた。これに対し、京一は如月の方は見ずにあっさりと答えた。
「 別に深い意味はねェよ。 けど俺、最近…あいつのこと、ちょっと分かってきたっていうかな」
「 分かってきた?」
「 俺よ、 あいつが転校してきたばっかの時、 あいつの強さとか、まあ、気のいいとことか? いい奴だなって思う反面で、どっかでアイツのこと、胡散臭ェなとかって思ってたんだよ。おっと、これ醍醐とか他の連中には内緒だぜ? あいつらは最初っから、まあ龍麻に入れ込んでたからな」
「 ……それで?」
「 ん? いや、 まあだから最初は俺は結構アイツのこと遠目で見ていたっていうかな。…けど、最近じゃ、俺のその最初の勘はちょっと違ったなって思うわけよ」
「 …………」
「 アイツ、結構可愛いよな」
「 ……君はそういう趣味があったのか」
「 バカ、違ェよ!」
如月の素っ気無い台詞に京一は慌てて唾を飛ばして否定した。 しかし頬はほんのりと赤くなっている。満更でもないのだろう。それは自分もそうだから勿論顔には出さなかったが、気持ちは分かった。
「 まあうまく言えねェけどよ。アイツは俺らにない《力》がある分、俺らが持っていて当たり前のモンは、どうやら持ってないってだけなんだよな」
「 ………?」
如月が京一の言った言葉をうまく噛み砕けずに顔をしかめると、言った当人の方も戸惑った顔をちらとだけ見せた。
「 だからうまく言えねェって言ってんだろ!? お前、 俺に分かりやすい説明を求めるなよ!? ……けどまあ、つまりは、そういう事なんだよ」
「 …分からないな」
「 俺も」
京一はハハハと軽く笑ってから、 いやにさっぱりとした顔を閃かせて、傍にあった陶磁器を何気なく手に取った。
「 けどよ、龍麻はいい奴だぜ! これだけは間違いねェ。ちょっと変わっているけどな、まあ大目に見てやろうぜ!」
「 いつも大目に見られているのは君のような気もするが」
「 うっ! お前ってホント、厭味な野郎だなァ」
京一が苦虫を噛み潰したような顔をして恨めしそうに出した言葉を、如月はただ無表情に眺めていた。しかし、この常連客に対して初めて好意らしきものを抱けたことは間違いなかった。
そんな感情が自分にあること自体、如月には驚きだったのだが。
如月が目を覚ました時、隣にいた龍麻はまだ眠っていた。
穏やかな寝息を立てている。
龍麻を起こさないように上体を起こし、如月は部屋の外へと視線をやった。
まだ暗い。夜は明けていないのだろう。
「 翡翠……」
そんなまだ闇のいる空間の中で、不意に声がかけられた。如月の目覚めた気配で起きてしまったらしい龍麻が、ぼんやりとした視線のまま声を出したのだった。
「 起こしてしまったかい」
「 ううん……」
龍麻は言いながらぎゅっと如月の服の裾を掴んだ。
何処へも行かないでくれという意思表示。
如月はまだ部屋を出る気はなかったから、
龍麻に引き止められるまでもなかったのだが、それでもこう心細そうな顔を見せられれば、多少なりとも心が揺れた。
「 もう少し眠るといいよ」
「 うん……」
「 僕はここにいるから」
だからだろうか。そんな言葉が口から出た。
「 本当…?」
如月の優しい台詞を意外に思ったのだろう、
龍麻はやや安堵したような声を出し、ようやく微かに笑んできた。
その瞳を見て、如月は龍麻のことを綺麗な顔だなと素直に思った。
このほんの数時間前、突然如月の元にやってきた龍麻は、明らかに常軌を逸していた。
異形の血を畏れ、同時に欲してもいるような掴み所のない眼をしていた。
そして自分に対しても、 愛しいという感情と憎らしいという感情二つを有しているように、如月には感じられた。
「 抱いて……」
そう言ってきたのは、龍麻だった。
触れてほしい、と。
如月に頼んできたのだ。確かに、幼少の頃に出会った少年―龍麻―は、当時も如月のことを慕っていたように思う。そして、臆面もなく如月のことを大好きだと言っていた。
あの時のことを思うと、 その言葉も今の自分を求めてのことなのだろうと如月は思った。
しかし。
「 俺のことなんか…抱きたくない?」
そう言ってきた龍麻の哀しそうな顔は、 しかしそれだけを含んだ眼では決してなかった。
「 翡翠は俺に触れたくない?」
「 …………」
自分に縋ってくるその声は、どことなく黒いものがあるような気が、如月にはしたのだ。
如月は龍麻の身体を離した。
「 ……っ!」
驚く龍麻の顔が視界に飛び込んでくる。けれど如月は眉一つ動かさず冷淡に言い放った。
「 僕は君のことが分からない」
「 翡翠……」
「 君は綺麗だと思うよ。正直、抱いてもいいと思う。でも、それを本当に君が望んでいるのか、僕には分からない」
「 俺は…っ」
「 君は僕のことが好きなのか?」
「 …………」
「 寂しさを紛らわすだけなら、他を当たってくれないかな」
「 違う……」
「 もし僕だけだというのなら……」
「 …………」
「 尚更、そんな風に自分を安売りするような台詞はやめてくれ。僕はそういうのが好きじゃないんだ」
「 ……ごめんなさい」
「 謝られるのも好きじゃない」
「 ごめんなさい…」
「 ……僕の言っていることが分からないのか」
泣き出しそうになる龍麻に、それでも如月はただ不快な気持ちになるばかりだった。
「 分かる……」
「 …じゃあもう謝るのはなしだ。いいね」
「 はい……」
その瞬間、ぽろりと涙を流した龍麻に、如月の心は尚も苛立った。
それでも、 そのまま龍麻を帰すことができなかった如月は、結局自分を頼ってきた相手と布団を並べて眠ることになってしまった。
「 翡…如月、さん…。今、何時ですか?」
「 ……四時だな」
如月は柱にかかっている古時計に目をやってから、
ゆっくりと上体を起こした龍麻に目をやった。
「 翡翠でいいよ」
「 え…?」
「 以前は、そう呼んでいたんだろう」
「 ………覚えてないんでしょう?」
「 悪いが、あまり記憶に残っていないな」
自分でもどうしてこんな口の利き方しかできないのだろうと如月は不思議で仕方なかった。
「 …………」
「 君が東京にいたのはどのくらいの間だったんだい」
「 ……1ヶ月くらい、かな…」
「 親の都合か何かかい」
「 ……ううん」
否定はしたものの、 龍麻はそれ以上のことを語ろうとしなかった。
恐らく龍麻の能力に関することで何かが起きたのだろうと察し、如月はそれ以上問うことをやめた。
如月は布団から抜け出すと襖を開け、庭の見える縁側へと移動した。
龍麻があの桜の木の陰で異形を潰したのは、
ほんのつい数時間前のことであるのに、今この庭にはそんな形跡は微塵も残っていない。
この世にあらざるものの、消失。
だから消えた後、こんな風に跡も残らないのだろうか。
「 如月さん……」
ふと気づくと、 龍麻も如月のすぐ背後に来ていて、
遠慮するように少し離れた所に座ってきた。
「 何…考えてるんですか?」
「 …………」
「 あっ…言いたくないなら…いいですけど」
「 その話し方」
「 あっ…」
何度も如月からやめろと言われているのに、 それでもつい敬語になってしまう龍麻は、再び諌められて心底困ったような顔をした。それで如月もそれ以上相手を責めることをやめた。代わりに違うことを口にしてみる。
「 君は何を考えているんだ?」
「 え……?」
如月はちらとだけ龍麻の方を見て、それから再び視線を目の前の桜へ移動させた。
「 僕のこと?」
「 そう…です」
素直にそう応えてきた龍麻に、如月は再び胸の中に靄がかかるのを感じた。
自分の何を考えているというのだろうか。
自身ですら、この存在のあやふやさに戸惑うことが多いのに。
「 ……僕は、生まれた時からずっとここにいた。でも、 一体『ここ』って何処なんだろうな?」
自分でも何を言っているのだろう、そう思ったが、如月は言葉を止めることができなかった。
「 使命とか宿星とか…。普段あまり考えたことはなかったな。それがなかった場合の自分とか」
「 …………」
「 僕はそんないい加減な人間なんだよ。普段の自分を省みることもない。ただ、ここに在るだけなんだ。そんな僕の何を、君は考えるっていうんだい?」
「 ……俺が」
龍麻は如月の問いに対して、意外に早く声を出した。
「 俺が初めて自分の《力》に気づいたのは…如月さんに出会った時なんです」
「 ……え?」
如月が驚いて龍麻を見ると、龍麻は寂しそうな顔をしてこちらを見やっていた。
「 それまでは俺だって考えたことなかった。自分のこと…。人が見えないものが見えることとか。人ができないことができることとか。誰にも見せたことがなかったし、大体俺はいつも1人だったから、そんな自分の異質性に気づく機会がなかった」
「 …………」
「 でもある日、家の近くの森にいた時、如月さんがやってきて……ひどく驚いた顔で俺を見たんです。そして俺に、貴方は言った。『お前、人間か』って」
「 僕が…?」
その台詞に如月は面食らった。
ひどい言葉だと思った。
「 言われて当然です」
龍麻は如月の気持ちを読んだのだろう、先取りして言葉をついだ。
「 俺が人間に見えなかったのも道理です。だって俺はそこで人を殺していたんだから」
「 な……っ」
龍麻は平然とした顔をしていた。如月は声を失い、ただ横に座る龍麻を見つめた。
「 殺していたんです。さっき異形のモノを倒したように…同じように殺していたんです。だって俺のことを狙ってきたんだ」
「 ……刺客が」
「 異形だとか人間だとか、関係なかった。俺を殺そうとしたから、殺したんだ。
…でも、貴方は」
龍麻は表情こそ変えなかったが、やはりどことなく苦しそうにはっと息を吐き出した。それから言葉一つ一つ探るように、ゆっくりと唇を動かした。
「 そりゃ、驚きますよね。 小さい子供が森で人殺ししているんだから。血まみれで。それでも平然としていて。 如月さんが僕のこと人間に思えなかったのも、だから当然なんです」
「 それで……」
「 え?」
「 君は僕を殺そうとは…しなかったのかい?」
「 ……何で?」
龍麻は不思議そうな顔を如月の方に向けた。その相手の反応に、如月もより一層不可解な顔をして見せた。
「 何でじゃないだろう。僕は君の敵ではなかったのか? その時の僕は君を人間と思ってなかったんだろう?」
もしそうなら、たとえ幼い頃だとはいえ、自分は剣を振るったはず。龍麻の敵になっていたはずだ。
「 どうなんだ」
「 確かに貴方は僕を奇異の目で見ていたけど……」
龍麻は少しだけ迷ったような顔をしてから、やはり寂しそうな顔になって微笑した。
「 でもその後、僕の傷を舐めてくれたから」
「 ………何?」
「 傷ついた僕のことを労わってくれたから。あんなの、初めてだった」
「 …………」
覚えがなかった。
たとえば、 無関係の力のない人間が異形か何かに襲われてケガをしていれば、それは自分だとて助けるだろう。 当然のことだ。自分は確かに使命のためなら多少の血が流れることも厭わないような冷酷な人間だが、だからといって傷ついた人間をそのままにしておくほど薄情でもないと思っている。
しかし、もし龍麻が言うように、幼い頃の自分が人殺しの現場を目撃して、あまつさえ人外のような《力》を手にしている少年を前にして敵意まで露にしているのに。
その後に傷の手当てをしてやるなどということがあるのだろうか。
「 異形でも……」
龍麻が思案している風の如月に言った。
「 異形でも、泣いているものには手は出さないって」
「 ………」
「 如月さんは、そう言って俺に優しくしてくれた」
「 ……分からない。思い出せない」
「 うん……」
龍麻はうっすらと笑んで、俯いた。
「 何故だ? 君のような人間と出会っていれば、たとえ短期間だろうが、幼少の頃だろうが、僕が忘れるわけがない。何故僕の記憶の中で君はこんなに曖昧で―」
謎なんだ。
「 俺……如月さんに嫌われたくなくて……」
龍麻は言って、それから本当にゆったりとした動作で如月の肩に自らをもたげかけた。
「 嫌われたくなくて……きっと貴方の記憶をいじったんだ……」
「 …………」
「 覚えはないけどね……」
「 緋勇……」
「 だって俺は……人を殺していたから。さっき言ったでしょう? 貴方に見られた。貴方は俺のこと軽蔑してた」
「 …………」
「 それが耐えられなかったから」
龍麻の声は消え入るように小さく、そしてやはり泣いているように如月には思えた。
そして陽が昇ってからすぐに、龍麻は如月の家から出て行った。
「 また来ていいですか」
そう訊いてから去っていった龍麻は、しかしそれからしばらく、如月の所へやって来ることはなかった。
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