(6)



  鬼に関連すると思われる事件が、表立って東京の街を襲った。

  芝プール付近で行方不明者が続出し、さらにそこで異臭騒ぎが起きた時、如月は龍麻をはじめとする真神の5人と出会った。
「 1人じゃ危ないよ。一緒に行こう」
  そう言ってきた龍麻に「あの夜」の暗い影は見えなかった。
  仲間の中心に立ち、東京の悪鬼と立ち向かう、選ばれた者の精悍とした顔がそこにはあった。
  これが皆に見せる仮の姿なのだろうか。
  如月は何ともなしにそんなことを考え、それからそんな偽りの態度を見せる龍麻に苛立ちを感じた。 如月は龍麻らの誘いを断り、これは自分の仕事であること、だから君たちこそ余計な事に首をつっこまないでほしいことなどを素っ気無く伝えた。
  そういえば、龍麻とはあの霊園で出会ったことがあったな。
  そんな数日前のことがちらと脳裏をよぎったが、 如月はこれ以上龍麻のことを見ているのが嫌で、その場を去った。



  翌日。
  学校に行く気がせず、かといって店をやる気にもなれずに、如月は縁側に座ったままぼんやりと庭の桜を眺めていた。この木を見やっていると、嫌でもあの夜の龍麻の挙動が思い返された。
  そして、自らのことを省みてしまう。
  いつから、使命を護ることばかり考えるようになったのだろうかと如月は思う。
  おかしな話だ。
  自分は人間が嫌いで、この街にも別段愛着があるわけではない。それでも剣を振るい、異形と戦う。その事に疑問を感じたこともなかった。自分は 「何か」のためにこの《力》を使うのだと何故か頑なに感じていたから、そのために腕を磨くことにも、使命に従事することにも、抵抗はなかったのだ。
  それなのに、今になって何故か自分に戸惑っている。
  自分が何のために存在しているのか、分からなくなっている。
  何故だろうと思う。
「 緋勇龍麻……」
  そしてそれは多分、彼のせいなのだろうと如月は思った。
  龍麻に出会ってからの自分はどこかおかしい。何かを狂わされていると思う。龍麻は幼少の頃に自分の記憶をいじったと言っているが、たとえそうだとしても、この言い様のない心のざわつきは、明らかに自分自身の内から沸いてくるものだ。誰かに操作されたわけではないと思う。
「 …………」
  如月はふっと息を吐いてから、改めて目の前の木を見やった。
  その時。
「 翡翠…」
  龍麻がいた。
「 緋勇」
「 店、閉まっていたから」
「 こんな時間に。何か用かい」
  努めて驚きを表に出さないようにしながら、如月は不意に現れた龍麻の顔を見やった。
  学校に行く気はあったのだろうか、いつもの制服姿で、学校鞄も脇に抱えている。 裏口から回ってきたのだろう、最近表と庭以外の植木は放っておいているから、そこから来るのは難儀だったに違いない。 龍麻の肩にはそこでつけたらしい木の葉が数枚張り付いていた。
「 そこ、行ってもいい?」
  縁側に座る如月にはすぐに近寄らずに、龍麻は遠慮がちに如月にそう訊いてきた。そういうおどおどとした態度にまた不快になって、如月はつい険のある言い方をしてしまった。
「 近寄るなと言えばそうするのかい」
「 ………」
「 僕に会いに来たのだろう」
「 うん……」
「 だったら、そんな事いちいち訊くなよ」
「 ………ごめんなさい」
  龍麻はまたそんな謝り方をして、それからそろそろとした足取りで如月の元に近づいた。 隣に腰を下ろし、はあと息をつく。ふと視線をやると、首筋にほんのり汗をかいていた。 走ってきたのだろうかと思った。
「 翡翠」
  龍麻が言った。いい加減、「如月さん」はやめたのだろうかと何となく思っていると、龍麻はそんな如月の思いには気づかずに後を続けた。
「 俺たちの仲間になってくれない?」
「 ……それを言いに来たのか」
「 一緒に戦ってくれない?」
「 緋勇」
「 言いたい事は分かっているけど…でも俺たち…俺は、今回の件にしろ何にしろ、もう抜ける事なんてできないから。戦うことからは逃げられないから。翡翠の忠告は聞くことができないんだ。だからせめて―」
「 一緒に戦ってくれというのか」
「 傍にいてくれるだけでもいい」
  龍麻の言い様に、如月は思わず口をつぐんだ。先ほどからちっともこちらを見ようとしない龍麻は、やはりどこか苦しそうだった。
「 俺はみんなの前ではあんなだし…あの時はちゃんと言えなかったから。でも、翡翠に仲間になってほしいって気持ちは本当だから」
「 仲間」

  嫌な言葉だ。

  如月はひどく冷めた気持ちでそう思い、それから自然に出てしまったため息に戸惑った。
  龍麻のことを気にしているのは確かなのに、何故かそんな彼の誘いに抵抗する気持ちがある。「仲間」という言葉に縛られて他の連中と一括りにされるのが嫌なのだろうかとも一瞬考えたが、どうもそれとも違うような気が如月にはした。
「 駄目…かな」
「 ………」
「 でも今回の水の事件……」
  龍麻は相変わらず如月の視線から逃れるように下を向きつつ、しかし薄く笑いながら声を発した。
「 もう以前から兆候はあったよね。 翡翠もそれを知ってたからこそ、あの霊園の辺りを調べていたんだろうし。 だから俺、 昨日翡翠と芝プールで会った時、ようやく言えるって思って嬉しかった」
「 言える? 何を?」
「 だから…俺たちの仲間になってってこと」
「 ああ」
  かみ合わない会話だった。多分自分のせいだろうと如月は思う。
「 水の事件なら翡翠は必ず出てきてくれるだろうと思ったし、そうしたら一緒にいられるって思ったし……」
「 何故来なかったんだい」
「 え…?」
「 あれ以来」
  如月は龍麻の誘いは完全に無視して、いきなり違う話を振った。
  そうか、自分はこの事が気になっていたのかと自身でもこの時気がついて。
「 また来ていいかと訊いた割には、ちっとも来なかったじゃないか。僕は結局、あの夜の君は気まぐれで僕のところに来たのかと思っていた」
「 そんな事…っ」
  如月に言い様に驚いたようになって、龍麻はこの時初めて如月の方を直視してきた。ああやはり綺麗な瞳だと如月は思った。
「 僕はどうしたんだろうな。 自分でも訳が分からないよ。ただ、僕は君のことが理解できないとひどくイライラするんだ。あの夜の君はとても弱くて、乱れていて。僕がいないと駄目なのかと思っていた。けれど昨日の君は…仲間に囲まれて、その中心でとても光っていた。別に僕一人いなくても君は平気なのじゃないか」
「 違う、そんな事ないよっ」
「 仲間…? 冗談じゃない……」
  つぶやくようにそう答えた如月に龍麻はびくりと肩を揺らし、それからひどく傷ついたような目を向けて再び俯いた。涙をこらえているのが分かった。
  どうして彼にはこんな意地悪をしてしまうのだろうかと如月は思う。

  そういえば。

  以前の自分も、この緋勇龍麻には意地の悪い子供だったような気がする。
  忘れていた過去がほんの一握り呼び覚まされて、如月ははっとした。





「 翡翠、待ってよ」
「 ……………」
  背後の声を無視して自分はどんどん歩を進めているのに、後をついてくる人物は、別段気分を害した風もなく、息を荒げながらもにこにこと笑っていた。
「 翡翠ってば」
「 ……うるさいな。何でついてくるんだ」
「 翡翠のこと好きなんだもん」
「 僕は嫌いだよ」
  素っ気無く言って、相変わらず歩き続けたけれど、その台詞で相手が押し黙り、悲しそうな氣をこちらに向けてくるのを如月は感じてため息をついた。
  いつも自分に厳しい祖父だったのに、ある日勝手に家にまでついてきた龍麻を見ると、一言「一緒にいてやれ」とだけ言った。
  それがなければもっと冷たく突き放してやったのに。何故祖父がこの得体の知れない相手と自分を近づけるのか、如月には理解できなかった。
「 僕は好きだもん」
  その時そんな声がやはり後ろから聞こえて、如月は歩を止めた。
  初めて出会った森の中で、周囲にはチチチと鳴く鳥の声くらいしか聞こえない。人の気配はなかった。じりじりと照りつける昼の熱気が2人を刺し貫いていた。
「 僕は翡翠が好きなんだ」
「 うるさい。僕は嫌いだと言っただろう」
「 一緒にいてよ」
「 嫌だ」
「 どうして」
「 君を見ているとムカムカするんだ」
「 どうして」
「 分からない」
「 どうして」
「 うるさい! 訊いてばかりいるな!」
「 ……翡翠」
「 気安く呼ぶな!」
「 …………」
  如月に怒鳴り声に、終いには龍麻は微かに泣き声をもらし、その場にしゃがみこんでしまった。女の子のようだ、と如月は思い、そんな龍麻に益々不愉快になった。
  友達なんかいらない。
  一緒にいる人間なんて邪魔なだけだ。
  自分には大事な使命があるから。この東京を護ることと、それから――。
「 …………」

  何だろう。何かあったような気がするが、思い出せない。

「 ……僕は翡翠が好きなんだ」
  龍麻は泣きながら繰り返した。
「 一緒にいてよ。僕のこと見てて」
「 何で僕に」
「 だって翡翠は――」

  そこで如月の記憶は再び途絶えた。





「 翡翠?」
  呼ばれてはっとすると、 横に座る龍麻が不審な顔をしてこちらを見やっていた。 如月は慌ててそんな龍麻に目をやり、それから急に自分らしくもなくぼうっとしてしまったことが恥ずかしくてやや赤面した。
「 ……本当に、君といると自分が分からなくなる……」
「 …………」
「 以前も君は、僕に一緒にいてくれと言ったんだったな」
「 思い出したの?」
「 ほんの一部だよ。僕は君のこと、泣かしていた」
「 何回もだよ」
  龍麻は少しだけ笑い、それからわざと如月から視線を逸らした。如月にはそれがありがたかった。
「 翡翠は俺のこと嫌いだったから、 しつこくつきまとっていた俺に、本当に迷惑そうだった。でもやめられなくて」
「 どうして」
「 ……一緒にいてもらうと安心したから」
「 冷たくされるのにかい」
「 冷たくないよ。翡翠は優しいよ」
「 …………」
「 俺…まだ、翡翠のこと好きだから」
「 …………」
「 でも、やっぱり怖くて。だから来れなかったんだ」
「 ………?」
「 本当はずっとここにいたい。でも、それはできない。 俺またいつ変わるか分からないから」
「 ……どういう事だい?」
「 またいつ自分がなくなるか分からないから」
  龍麻は言ってから、寂しそうに笑った。やはり泣いているようだと思った。
「 俺も分からないよ。 翡翠といると自分が分からなくなる。みんなといる時は『こういう自分でいればいい』って分かっているから、それを演じればいい。けど翡翠といる時はどういう風な態度をとればいいのか分からない。どうすれば『自然』に振舞えるのか、分からない」
「 …………」
「 何でかな…俺には、自分ってものがないのかもしれない」
「 …………」
「 それでも、こんなに翡翠が好きだよ」
「 緋勇……」
「 ごめん…こんなこと言って」
  龍麻は言ってから、不意に立ち上がると如月に背を向けたまま言った。
「 明日、多分またみんなとあの事件現場の捜索に行くよ。良かったら…一緒に来て」
「 …………」
「 待っているから」
「 緋勇」
  去ろうとする龍麻を。
  この時、如月は呼び止めていた。咄嗟の行動で、自分でも訳が分からなかった。けれど如月は自分の元から離れようとする龍麻の手首を掴み、引き止めていた。
「 翡翠……?」
「 あ……」
  引き止めて何を言おうとしているのだろうか。自分でも分からなかったが、 如月はただ強く龍麻のことを掴み、そして自分の方を向かせていた。
  そして。
「 ……今日はここにいないか」
「 え…?」
  何を言っているのだろうか。心の内ではひどく狼狽していたが、止められなかった。
「 …………」
  その先の言葉を見つけられずにいると、龍麻が戸惑いながら自分の方に近づいてきて恐る恐るという風に訊いてきた。
「 いいの…?」
「 …………」
「 ここにいても…。翡翠の傍にいても?」
「 ………ああ」
「 本当に?」
「 ……どうしてか分からないが、君にこのまま帰ってほしくないと思った」
「 …………」
「 君のことを知りたいと思っているのかもしれない」
  自分でそう言いながら、そうだったのかと如月は思った。
  多分、自分は興味を抱いているのだ。この緋勇龍麻という青年に。苛立たしい気持ちも、恐らくはそんな自分に戸惑っているせいなのだろう。
  そう気づいたら、少しだけ楽になった。
「 俺……」
  その時、龍麻がつぶやきながら、掴まれていない方の手をそっと如月の手にやってきて。
「 嬉しい……。すごく、嬉しい」
  そして如月のすぐ傍にまで来ると、再び横に腰を下ろし、じっと視線を向けてきた。 如月はそんな龍麻のことを見つめ返しながら、無意識のうちに相手の頬に触れ。
  唇をよせた。
「 ……翡翠」
  龍麻の声を聞きながら如月はそのまま自らの唇を相手のそれに重ねた。
  何故そんな事をしたいと思ったのか未だ分からずに。
「 …………」
  龍麻はとても静かで、ただぎゅっと如月の腕を掴んできて。それで如月も龍麻のことを抱きしめ返した。龍麻とあわせた唇はほのかな熱と共に如月の身体の中の何かを刺激した。


『 翡翠は僕の傍にいなきゃいけないんだ!』


  ある時、小さい龍麻はそう言って如月に怒鳴った。


『 僕が頼むなんておかしい! 傍にいろ! 傍にいろよ!』


  いつも弱気な態度でちょこちょこと自分の後をついてくるだけの龍麻が、その日だけは別人で。
  違う存在に見えた。
  そんな龍麻はやはり泣いていたのだが、驚く自分にただ声を張り上げて言っていた。


『 僕を護るために生まれてきたくせに!』


  龍麻のきっとした視線を真正面から受けて、如月は声を失くしていた。


『 それだけの存在のくせに!』


  何故、忘れていたのだろうと如月は思った。



To be continued…



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