(1)



  明け方近くに如月はまた目を覚まし、月明かりが差し込む窓の方へと視線をやった。
  この頃、毎晩と言って良い程に、『彼』の声を聞く。

  『 どうして。
  俺のことは…放っておいてくれて良いから 』

「 龍麻――」
  誰もいない、何の音も聞こえない空間で、如月はその名を呼んだ。





  1998年12月初旬――。
  血生臭い事件が東京の街に次々と降りかかっていたが、世はクリスマスに向け、何やら楽しげな雰囲気を醸しだしていた。
  その街並みを歩き、如月は不快な気持ちを露にしていた。
  この東京という地を護るのは自分に課せられた使命だと思っていたから、今までは周囲のことなどどうでも良かったし、何も知らない人々がどういった生活を送ろうと知ったことではなかった。
  けれど。
  今は、この喧騒とした浮かれた街並みを目にすると、自然と眉間に皺ができた。
  黙っていれば誰もが振り返る美貌。
  ただその秀麗な容貌が、今はより一層、如月の心の冷ややかさを明確に映し出してしまっていた。
( 勝手気ままな連中だ……)
  如月は毒々しく心の内でそうつぶやき、歩を速めた。
  その時――。
「 如月」
  不意に前方から現れた人物に、如月ははっとした。もしかして会えるかもしれないと、密かに期待はしていたが。
「 …やあ。珍しいね、一人なんて」
  努めて冷静を装い、いつものぶっきらぼうな口調で言う。
  相手は静かに微笑した。美しい顔だ、と思う。
「 みんなは、ラーメン食べて帰ろうって誘ってくれたんだけどね。…どうも体調が優れなくて」
「 風邪かい?」
  自然と表情が曇ってしまう。本当は額に手を当ててやりたいところだったが、人目がはばかられた。
「 大丈夫。寝ればすっきりするよ」
  そう言ってやんわりと笑む龍麻に、如月の胸の鼓動は早まった。
  このまま別れたくはなかった。
「 ……龍麻、もし良かったら―」
「 ひーちゃんっ!」
  しかし如月の言葉をかき消すように、不意に人込みの間をぬってこちらに駆け寄ってきた者がいた。
  それは如月にとって最も疎ましい存在…蓬莱寺京一であった。

「 京一…どうしたんだよ…?」
  突然姿を見せた「親友」に龍麻は戸惑ったような声を出した。
  言われた方の京一は少しだけムッとしたようだったが、すぐにいつもの笑みになると軽快な口調を発した。
「 そりゃねえだろ。ひーちゃん、何か元気ないみたいだったからよ。心配で気になっちまって、だからラーメンもやめて追いかけてきたんだぜ?」
「 ええ…? じゃあ、みんなは」
「 知らねえ。まあ、言い出しっぺの俺がいなくなったし、ひーちゃんもいないしじゃ、帰ったんじゃねえ?」
「 …ごめんな」
「 ばっか。何謝ってんだよ。俺が勝手に追っかけてきただけなんだから、そんな気にしてんなよ。それより、マジでどっか具合でも悪いのか?」
  京一はそう言って、すかさず龍麻の額に手をやり、自らの額をも龍麻のそれに合わせようとした。
  如月の胸が、ざわつく。
「 …別に、何でもないよ」
  しかし瞬間、龍麻が京一のその手をそっと払った。実にさり気ない所作で。
「 翡翠と約束してたんだ」
  龍麻はさらりと言い、そして如月の方をちらりと見た。
  今まで龍麻が如月のことを「翡翠」と名前で呼んだことはなかった。
「 如月と…?」
  京一はここで始めて如月の方に視線をやり、明らかに不快な表情を見せた。
  けれど龍麻には対照的な口調で。
「 何、ひーちゃん、何か入用だったか? 武器とか足りねえ?」
「 そうじゃないけど…」
「 僕が誘ったんだよ。珍しいモノを仕入れたんで、龍麻に見せようと思ってね」
「 …フーン…」
  京一はやや憮然とした様子だったが、やがて気を取り直した様子になって笑った。
「 まあ、なら良かったぜ。別に何ともないなら。じゃあ、俺も一緒に…」
  そう言いかけて、京一はちらとだけ龍麻を見たが、すぐにおどけて言った。
「 …って言いたいとこだけど、俺は古臭え骨董品になんかキョーミねえからな。帰るとすっか。じゃあまた明日な、ひーちゃん」
  意外にすんなり退くな…と驚く如月を尻目に、京一はそう言うとあっさりと二人の前から去って行った。
「 ………」
  そんな京一の背を、龍麻はボンヤリと見送っていた。
  何故だか気持ちが逸る。
「 …良かったのかい、これで?」
「 え? …あ、ああ。ごめん、如月に嘘なんかつかせて」
  「如月」に戻っているな、と何となく思う。
「 構わないさ、別に」
  如月はそう言ってから、未だ何処か遠くへ意識を飛ばしているような龍麻を見つめた。
「 如月」
  その時、不意に龍麻が声をかけてきた。
「 え?」
「 これから何処か行くところだった?」
「 …何故だい?」
  今日は新宿にいる知り合いの卸業者が珍しい品を用意しているというから、見に行くところではあった。しかし如月は、敢えてそれを隠した。
「 ん…もし用がないなら…何処か行かない? と、思って…」
「 何処かって…龍麻、君は具合が悪いのだろう?」
「 う…ん…」
「 …家に帰りたくないのかい」
  如月が探るように言ったその一言は、効果があった。
  龍麻は伏し目がちになり、「まあね…」と曖昧に答えた。
「 それなら、うちに来るといいよ」
  如月の望みでもあるその提案は、あっさりと受け入れられた。





「 ゆっくり休むといい」
  客間に布団を敷き、自分の寝間着に着替えさせてから、如月は龍麻に氷枕を当ててやりながら言った。熱が多少あった。
「 迷惑かけてごめん」
  龍麻の台詞を憎らしいと思いながら、如月は無表情を努めた。
「 本当にそう思うのなら、余計なことは考えずに眠ることだね」
「 如月…」
「 何だい」
「 ありがとう…」
  龍麻の台詞の意図が今ひとつ掴めずに、如月は一瞬戸惑った。
  龍麻が目をつむったまま、ぽつりと言う。
「 俺…みんなといると、疲れるんだ」
  如月は黙ったまま龍麻を見つめた。
「 京一も醍醐も美里も桜井も…俺とは、違う。俺は…あいつらのように優しくはなれない」
「 ………」
「 俺は戦いの時、いつだって独りで動く。あいつらのことなんて見てやしないんだ。助けにも行かない。それによってみんなが傷つくことを知っているのに」
「 …だが、君が単身で、それこそ自らの身も厭わずに敵を倒すからこそ、犠牲も少ないのじゃないかい」
「 …如月は、俺に甘いな」
  くすりと龍麻は笑んで、ここで初めて目を開いた。自分を真っ直ぐに見詰めてくるその光に、如月は気圧された。
「 みんなは如月のこと冷たいって言うけど。確かに口調は冷たいけど。俺は如月のその話し方が好きだな。如月の言葉が好きだ。…優しくされるのは、好きじゃないけどね」
「 …ふ。君こそ、僕をおだててどうしようって言うんだい?」
  最後の台詞が気にはなったが、龍麻が望むのなら、いくらでも冷たい言葉を吐こうと如月は思った。
「 僕は君に優しくしている覚えはないよ。思ったことを口にしているだけさ。君が僕のことを優しいと感じるのなら…君がそうされるだけのことをしているだけのことだ」
「 そんなことないよ…」
  龍麻はつぶやくように反論してから腕で自らの両目を隠し、うんざりしたように言った。
「 どうしてだろう…みんな…。放っておいてくれれば良いのに」
「 龍麻…?」
  どこかしら思いつめたような様子の龍麻に、如月は戸惑い、そして自らの内からくる衝動を抑えようと必死になった。
  何か言葉を出さずにはいられなくなる。先刻の人物の名前を出してみる。
「 龍麻、蓬莱寺は…」
  反応はあった。龍麻は如月の顔を見ずに、つまらなそうに応えた。
「 ああ、京一…。あいつ、何か勘違いしているんだ。頭おかしいよ。俺のこと、好きで好きで仕方ないって。…笑っていいよ」
  龍麻のその言葉に、如月は何の返答もできなかった。



  今まで漠然としていた彼への気持ちが、遂にごまかすことができなくなったと悟ったのは、確かにあの時の会話が原因だと如月には理解できていた。
  あれから5日と経っていないのに、龍麻の夢を見る度に、あの時の物憂げな彼の表情を思い出す度に、如月は落ち着きを無くす自分を自覚しなければならなかった。
  何者にもとらわれず、執着せず。
  それが、幼い頃から祖父より徹底的に叩きこまれた唯一の教えだったというのに。



  そして、冬休みを一週間前に控えた金曜日。
  如月は新宿に出る用にかこつけて、思い切って真神学園の方へと足を向けた。
  どうしても、龍麻に会いたいと思った。
  王蘭の制服を着た自分が校門の所に立つと、否が応にも人目を引く。それでも、今の如月にはそんなことを気にする心の余裕はなかった。
  目的の人物には、すぐに会うことができた。
「 如月、どうしたんだよ」
  龍麻は、半ば駆け寄るように如月のいる門のところにやってきた。
  如月に気づき、急いで校舎から出てきたのだろう。
  胸の鼓動が早まる。
「 驚かせたかい」
「 …うん、まあね。俺に会いにきてくれたんだろ?」
「 君以外に、誰がいるんだい…」
「 だって――」
「 如月じゃねえか」
  その声に、またか…と如月は心の中で毒づいた。
  京一が、すぐに龍麻の後を追ってきていた。向こうも如月の顔を見ると、どこか身構えたような表情を見せた。
「 何だよ、急に? 龍麻に用? それとも、俺らに?」
  そう言った京一の背後からゆっくりとした歩調でやって来たのは、いつもの真神のメンバー。醍醐、桜井、そして美里だ。
「 あっ、如月クンじゃない!?」
  逸早くそう叫び人懐こい笑みを向けてきたのは、桜井小蒔だった。その後、醍醐・美里と続く。
「 よお、如月。今日はどうしたんだ? 珍しいな、お前がウチにまで顔を見せるなんて」
「 うふふ。こんにちは、如月君」
「 どうも」 
  思い切り素っ気なく答えてから、如月は龍麻の方に視線を向けた。
  邪魔は入ったが、今更自分がここまで来た理由をごまかすことはできなかった。
「 龍麻、ちょっといいかい」
「 …ああ、いいよ」 
「 何だよ、龍麻だけかよ? 俺らには聞かせらんねえの?」
  京一が言う。先刻から京一が龍麻を名前で呼ぶのが気になった。
  いつもは「ひーちゃん」などと、空寒いあだ名で呼んでいるくせに。
「 みんな、俺は今日はここで」
「 えー! みんなでラーメン食べに行こうって言ったのにっ。如月クンも一緒に行こうよっ」
  桜井が心底残念そうに言う。その横にいる美里の表情も暗い。
「 如月、龍麻には急ぎの用なのか? もし、新たな戦いのことに関してなら、俺たちにも聞かせて欲しいが…」
  醍醐も気にかかったように、2人を引きとめようとする。
「 …悪いが、僕は龍麻にだけ用があるんだ」
「 何だよ、その言い方は!」
  京一がつっかかる。如月には、最早この連中の相手をするだけの心の余裕がないというのに。
「 みんな」
  その時、龍麻が声を出した。
「 先、行ってて。俺、できたら後から行くしさ。…ね?」
「 ………」 
  龍麻の少しだけ寂しそうな懇願するような笑顔の前に、4人が一斉に黙りこくった。明らかにこの笑みに押し負かされているようだ。
「 う〜ん…。じゃあ、ひーちゃん、絶対だよっ」
「 ええ…。如月君も、後で一緒に来てね」
「 そうだな。じゃあ、俺たちは先に行っているとするか」
  な、京一…と、醍醐が親友の肩を叩く。それで、京一の方もしぶしぶ頷いた。
「 龍麻、早く来いよな」
  それぞれが龍麻に声を掛け、校門を出て行く。
  それを見送った後、如月は嘆息した。その様子を黙って見ていた龍麻が声を出す。
「 ごめんな、如月。ちょっとヤな思いした?」
「 いや。しかし、あの4人の、君に対する独占欲は相変わらずだな」
「 …何言ってんだよ」
  如月の多少嫉妬めいた言葉に、龍麻は少しだけ嫌な顔を見せた。
  それから、4人が去っていった方向とは逆の道を歩き始める。急勾配になっている坂を苦もなく進んで行く。
  如月もすぐに後を追った。
「 本当のことだろう。特に、蓬莱寺は…」
「 話って京一のことなの?」
  如月に背を向けながら、龍麻が素っ気なく言った。それから、如月が答える前に続けて言う。
「 俺はさ…。みんなが喜ぶ言葉をあげているだけ。みんなが望む俺でいてあげているだけ…。だから、京一たちの俺への気持ちなんて、俺には重くてウンザリなだけだ」
  ひどく冷たい口調でそう言う龍麻に、如月は声を失った。黙々と歩き続ける龍麻がまるで独り言のように如月に話す。
「 如月は、俺がみんなに好かれているって、そう言いたいんだろ? でも、そんなのは―」
  龍麻の足が止まった。坂を登り終えたその先から、眼下に新宿の町並が見える。周囲は人家の植木が綺麗に手入れされており、辺りも東京とは思えぬ静けさだ。
  その中で、龍麻の澄んだはっきりとした声だけが響いた。
「 そんなのは、本当の俺じゃない」
「 龍麻、君は…」
  如月の声に、龍麻はここで初めて振り返った。
  物怖じしない真っ直ぐな瞳が如月を捕らえている。
  ああ、この眼だ、と如月は思う。この眼光を見るために、自分は今日ここまでやって来たのだ。
「 馬鹿みたいだろ? 今まで、世の中をうまく渡っていくためには、こういうことは必要なことなんだって信じてた。でも、今頃になって、それに疲れただなんて」
  龍麻はそう言ってから、視線を下に移した。伏し目がちな瞳が濁って見える。今の如月には、それすらも美しかったのだが。
「 …何でかな、如月にこんな話をするのは」
「 嬉しいよ」
  如月の言葉に、龍麻は冷笑した。
「 また、如月に甘えちゃったな」
「 この間のように…名前では、呼んでくれないのかな」
「 え…?」
「 …君は、僕のことをどう思っているんだい」
「 ………」
  龍麻の顔が上がった。
「 今日は、それを確かめにきた」
「 如月…」
「 君にとって、僕は彼らと同じかい。偽りの自分を演じて、接している彼らと」
「 …どうかな」
  龍麻は言って、困ったように笑んだ。
  その顔を見た時、如月はもう龍麻を自分の胸元に引き寄せていた。
「 如月」
「 同じだろうと…」
  そう言って、如月は龍麻のあごに自らの指をかけた。視線を合わせ、そっと囁く。
「 僕は、君の意思になど構うつもりはない。僕自身が気づいてしまったから。君のことが…好きだと」
  如月の告白に、龍麻は驚きもしなかった。けれど、一瞬は口ごもったようだった。
「 本当の俺を知りもしないのに…」
「 なら、これから知るとするよ」
  唇同士が近づく。龍麻が多少それに逆らう所作を示したが、如月は強引な力でそれを制した。龍麻が非難めいた口調を発す。
「 こんなことするために、わざわざ来たのか…お前って…」
「 まずはその憎らしい口を塞いであげるよ」
「 きさ…」
  龍麻の声は、如月の唇でかき消された。
  始めはそっと触れるようなキスだったが、すぐにまた如月の唇は龍麻のそれを求めてきた。下唇を吸うように絡めとられ、それから口腔内に如月の舌が侵入してくる。
「 ん…っ…」
  龍麻が瞳を閉じ、どことなく悲しそうな表情を見せる。
  構わない、と如月は思った。
  しばらくして、如月が龍麻を開放すると、龍麻はすぐに如月の腕から離れ、多少の怒りをこめた眼で如月を見据えた。
「 ……意外に、強引なんだ、お前って」
「 …嫌いになったかい」
「 別に…」
  龍麻は言ってから、ふっと嘆息した。
「 …京一が見たら…きさ…翡翠、きっと殺されてるよ…」
  龍麻の言葉に、如月は目を細めた。
「 ふ…。龍麻はどうなんだい。僕を…殺したい?」
「 まさか」
  龍麻は言った後、やがて気を取り直したようになり、如月を見つめた。如月も臆せずに見つめ返した。
  二人の間を心地よい風が通りぬけた。
  そうして、再び身体を引き寄せ、唇を重ねてきた如月に、龍麻は今度は逆らわなかった。



To be continued…



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