その時は、この手を開いて



「 あれ……」
  龍麻は一瞬、身体の一部に違和感を抱いて、進めていた歩をぴたりと止めた。
「 気のせい…かな」
  ふっと、左の手の平から力が消え去ったような気がした。何度か確かめるようにその手を握ったり開いたりしてみる。
  大丈夫のようだ。
「 びっくりした……」
  龍麻は気を取り直して、再び新宿の街並みを歩き始めた。


  (1)



  柳生との闘いを…全ての事を終えてから、十日あまりが過ぎていた。
  急に身の上に降りかかってきた「使命」という名の重い枷は、常に自分を苦しめてきたと龍麻は思う。勿論、助けてくれる仲間がいて、強い《力》があって、自分が恵まれている、幸せだと感じた事は何度となくあったけれど、だからと言ってこの壮絶な1年間を振り返った時、これが必ずしも自分が望んでいた生活かと問われれば、それはやはり否と応えざるを得ないと思う。
  だからかもしれない。
  ひどく鬱屈とした義務から解放され、自分は本当に力が抜けてしまっているのだと、龍麻は先刻感じた違和感の元をもう一度眺めやった。
「 あれ…何だ、まだ誰も来ていないのか」
  一通り自分の中で気の抜けた手の平の事を考えてしまってから、龍麻は学校の門前に着くなりそうそうつぶやいて、ふうとため息をついた。
  今日は日曜日。学校は休みだ。
  もっとも1月ともなると、そろそろ受験シーズン真っ盛りで、授業を休んで家や予備校で勉強に専念する生徒も増える。平日でもちらほらと空いている席を見ることが多くなっていた。だから今も、校門の前に立つ龍麻の周囲には人はおらず、せいぜい遠くのグラウンドで汗を流す下級生の姿が認められるくらいだった。
「 もっと遅くに来れば良かった」
  黙って立っているだけなのもどことなく癪で、 龍麻は再び不平気味の言葉を吐いた後、門の壁に寄りかかった。人を待たせるのは嫌いだけれど、待つこととて好きではなかった。
  それも、乗り気のない待ち合わせなどだったら、特に。
「 あー! ひーちゃん、もう来ていたの!」
  その時ようやく二番手が現れて、いつもの明るい声が龍麻に向かって投げかけられた。桜井小蒔だ。明るい色のセーターに茶皮のジャンパーをすっきりと着こなし、私服の時には珍しいスカートをはいている。女子高生というより、女子大生のような格好だ。龍麻は普段見慣れない姿の小蒔をじっと見やってから薄く笑った。
「 ごっめん、ひーちゃん。待った?」
「 ううん。時間ぴったりだね」
「 他のみんなは? まだ?」
「 そうみたい」
「 もう、しょーがないなあ。せっかく久しぶりにみんなで遊びに行こうってなったのにッ!」
  桜井が1人待ちんぼだった龍麻に気を遣ったのか、大袈裟に頬を膨らませて両手を腰に当てる。しかし龍麻は心の中で、いつものメンバーで遊びに行くことはそんなに久しぶりだっただろうかなどと考えていた。
「 あ、ところでひーちゃん、そのコートカッコいいね!」
「 え…そう?」
「 うんうん。初めて見るッ。新しいの?」
「 そういうわけじゃないよ…。部屋にあったの、適当に着てきただけで」
「 ふーん。でもひーちゃん、コートなんて普段着なかったじゃない? 結構制服だけで平気って感じで」
「 ああ…何か最近寒いよね」
  言われて龍麻もそういえばそうだったかなと思った。
  最近は何だか寒い。以前は別段そんな事も感じなかったのだが、そういえば柳生との闘いが終わった後、妙に身体も疲れやすくなったし、何かあるとすぐに喉が痛くなったり熱っぽくなったりした。
  この掌の脱力感と関係があるのだろうか。
  自分は弱っているらしい。
「 ひーちゃん、どうしたの?」
「 え…っ」
「 いやあ…何かぼーっとしてるからあ」
「 何でもないよ」
  龍麻は少しだけ慌てて、無理に笑ってみせた。そういえば桜井がいたのだ。一人の時のように勝手に自分の世界に入っていてはいけないなと思い直す。
  それで改めて桜井を見つめ、龍麻ははたと気づいてそのまま思った事を口にした。
「 桜井さ、化粧してる?」
「 えっ! あ、あはは、分かる? やっぱり?」
「 唇赤い」
「 やだなあ、ひーちゃん。これピンク系の口紅なのに」
「 そうなの?」
「 えへへ…でもやっぱりボクには何かこういうの、似合わないよね」
  桜井は途端に照れたようになって、自分の格好を見直し、困ったように俯いた。どことなく赤面する様子に、ああやっぱり桜井は女の子なのだなと龍麻はかなり失礼な感想を頭の中だけでつぶやいた。
「 そんな事ないよ。すごく可愛いと思うよ」
「 えっ! や、ややややだなあ、ひーちゃん! 何言ってるのさっ」
「 ホントの事だよ」
「 わわわ、そんな、照れるよー!」
「 照れる柄かよ」
  その時、不意にわたわたと慌てふためく桜井の背後から、ひどく厭味のこもった声が聞こえてきた。
  京一だ。ふわあと大きな欠伸をし、それから呆れたような、そしてやはりからかうような目を桜井に向ける。
「 ひーちゃんにちょこっと世辞言われたからって、まともに反応してンじゃねえっての」
「 な、何だとー!」
「 どんなに頑張ったって君は少年ーぐえっ!」
  しかし京一はいつもの厭味を最後まで言わせてもらえなかった。更にその後ろから醍醐がやってきて、どうやら事の一部始終を聞いていたのだろう、ひどく憤慨したような顔をして思い切り親友の頭にその鉄拳を振り上げたのだ。
「 ―ってぇなあ、醍醐! 何すんだよ!」
「 お前が悪い」
「 ……へいへい、悪かったな小太郎」
「 だから誰が小太郎だー!」
  今度は正真正銘、桜井自身からパンチが飛んできて、京一は門前のコンクリート面に思いっきりひれ伏した。オーバーな倒れ方のようにも見えたが、どうやら本気で痛いらしい。京一はしばらく「ぐぐぐ」とうめきながら、地面と仲良くにらめっこするハメに陥っていた。
  いつもの、風景。
「 …………」
  龍麻はそんな彼らの様子を眺めながら、再びちらと自らの掌を眺めた。やはりどことなく力が失われている感触がある。さり気なくグーにしたりパーにしたりと、開閉させてみるが、ぎこちない。
「 そういや、まだ美里は来ないのか」
  そんな龍麻の様子には気づかず、一通り京一を説教した醍醐は、唯一未だに待ち合わせ場所に現れない美里の名を口にした。
「 そうだね、珍しいね。葵が約束の時間に遅れるなんて」
「 どうせどっかの誰かと同様、支度に時間をかけてンだろ。女の身支度は長いからな」
「 何か言ったかしら、京一クン?」
「 げげっ、美里! いたのか!」
「 さっきからいたわよ」
  本当にそうなのかは定かではないが、いつの間にか4人の傍に佇んでいた美里は、にっこりといつもの菩薩の笑みで「今日はいい天気で良かったわね」などと言った。それから自分から1番離れた位置にいる龍麻に視線を向ける。
「 龍麻、待った? ごめんなさいね」
「 いや、別に」
「 俺らにはなしか…」
  京一のつぶやいたような声にはにこりとしたスマイルだけで返し、美里は全く悪びれもせずにいつもの調子で口を開いた。
「 それじゃ、行きましょうか?」
「 う、うむ。そうだな」
  代表で醍醐がこれに返し、こうして真神のメンバー5人は、昨日急に立ち上がった計画〜新宿食べ歩きツアー〜に出かけることにした。



  事の発端は、京一が毎日「ラーメン」という事に意義を唱えた小蒔、それに賛同した美里が、たまには自分たちが行きたい店に付き合えと言ったことから始まる。しかし女連中が行く所など、どうせ腹の足しにもならぬ場所ばかりだろうと暴言を吐いた京一をきっかけに、それならば休日1日を使って5人それぞれが行きたい店へ赴き、その全てをたいらげよう、それができなかった者はその日1日の食事代を全員分払うことにしよう…という、何とも無謀な提案がなされたのである。
「 へへへ…俺らがたった5食で音を上げるわけねぇじゃねえか、なあ、醍醐?」
  京一が勝ち誇ったような顔をして、先を歩く2人の女性陣を見ながら親友に語りかけた。良識派の醍醐の方は、もともと乗り気ではなかったのだろうこの「賭け」の行く末がやはり心配なのか、苦い顔をしている。
「 桜井たちも無茶なことを言ったものだな。京一の挑発に思わず乗ってしまったんだろうが…。しかしどう考えても、負けた1人が5食分払うというのは…」
「 おいおい醍醐。何甘い事言ってンだよ。仲間とはいえ、勝負になったらそんな情けは無用だぜ! 今日は俺はとことん食いまくるぜ! 何てったって、どうせタダになるんだからな! な、ひーちゃん!」
「 え?」
  いきなり話を振られて、最後尾を歩いていた龍麻は見つめていた掌から慌てて視線を上げ、京一を見やった。
「 ごめん、何?」
「 ……おいおい、ひーちゃん、どうしたんだよ? まさかお前もこの賭けが乗り気じゃないなんて言わないよな?」
「 いや俺はいいんだけど」
「 龍麻、どこか具合でも悪いのか?」
「 あ、何でもないよ」
  仲間の体調の変化には実に敏感な醍醐が心配そうな声を出したので、龍麻は急いで首を振り、無理に笑って見せた。
  何でもないのだ。実際、これは何でもないのだと思う。
  そんな龍麻をやはり気遣ったのか、京一が歩く速度を遅めて横に並んで来た。けれど話しかける口調は相変わらず威勢がいい。
「 とにかくひーちゃん、いいか! 今日は俺たちが奴らの財布を空にしてやるんだからな! ひーちゃんも普段一人暮らしでロクなもん食ってねえんだろ? 今日はいっぱい食いだめしておけよ」
「 分かった」
  自然に回された京一の腕を左肩に感じながら、龍麻はここでようやく本当に笑った。とにかく、くだらない事を気にするのはもうやめようと思った。
「 おーい、1件目はここだよー!」
「 うふふ、最初は私のリクエスト店よ」
  その時、もうかなり遠方に行ってしまっていた桜井と美里がある店の前に立ち、手を振っていた。京一はその店がよく分からないうちにぐっと拳を握り、気合を入れる。
「 おっしゃー! 一件目の食い物は何だー!」
「 ……ちょっと待て。あそこに入るのか」
「 あ…かわいい」
  早くも嫌な予感を感じとってつぶやいた醍醐の後ろで、龍麻もぽつりとつぶやいた。
 
  そこは、メルヘンの世界からこんにちは♪

 
  ……というような雰囲気のケーキ専門店だった。




「 ぐ…気持ち悪ィ……」
「 京一クン、貴方まだ8個でしょ。だらしないわね」
「 んぐんぐ…もおおいひいほお…」
「 嫌だ、小蒔。もっとゆっくり食べたら?」
「 いや、そういう美里はもう10個目だろう…」
「 ちょっと待てお前ら…。一体幾ついく気だ…?」
  大テーブルを5人で囲み、窓際の席に京一と醍醐、京一の隣に龍麻と美里。向かいのーつまり、醍醐の隣、通路側に小蒔が座っている。美里と小蒔はいつでも「おかわり」が取りにいけるようにと、通路側の席を希望したのだった。
  女性に甘い物好きが多い、それに反して男性はそういう系統の物に弱い。…そんな決まり事が世の中にあるわけではなかったが、店内をほとんどが華やかな服装と香水の臭いで満たした女性たちで占められたそこは一種独特な空間で、その空気と一緒に混ざりあったクリームとシナモンの匂いは、明らかに窮屈な思いをしている京一と醍醐の胃を縮めさせた。
「 しかも何でこう、どれもこれもこんな甘ったるいんだ…」
  京一が憎々しげにケーキの端をフォークでつついていると、美里がにっこりと笑って、「それはケーキだからよ」などと当たり前の答えを寄越してくる。
「 ひ、ひーちゃん……」
  京一が助けを求めるような顔を龍麻に向けた。
  龍麻は京一や醍醐と比べると、いや美里や小蒔と並べてみても、この空間に立派に馴染んでいた。甘い物も、別段ラーメンと同じように幾らでもいけるらしく、何度かおかわりに向かっては、親切な、はたまた邪な感情のある店員に大きくて焼きたてのものを切ってもらっていた。そして龍麻はマイペースにもくもくとケーキを食し、時々京一がもう嫌だとさじを投げているクリームの部分までもを取って、代わりに食べてやったりしていた。

「 あー、京一! 君、さっきもひーちゃんに生クリームあげたでしょ! それは反則だぞ!」
「 うるせえなあ、ちょっとくらいいいだろー!」
「 駄目駄目ッ! もうここのお店の敗者は京一に決定ねッ! ひーちゃんも食べてあげちゃ駄目だよ!」
「 京一、駄目だって」
「 ううう…吐きそうだぜ…」
「 京一、ここではよせよ」
  実は自分も危ない醍醐が何度も水を喉に流しこみながら忠告する。美里はしてやったりという顔つきで楽しそうに、そしてケーキを食べる龍麻を実に嬉しそうに眺めやっている。
「 龍麻も、甘い物好きなのよね」
「 うん。美味しいよ。……あれ?」
「 どうかした?」
  その時、不意に龍麻が妙な声を出したので、美里も向けられた視線の方へと顔を向けた。
「 あら…」
「 ん? あ!」
  小蒔も龍麻と美里の方へと視線をやる。
  そこには、見慣れた仲間の姿があった。

  しかし。
 
しかししかし、見慣れてはいるが…。
「 ……かなり浮いているわね」
「 びっくりしたあ…。こんなお店、来るんだね」
「 お土産じゃないの? 持ち帰りみたいだし」
「 それにしてもヘンすぎるわ…」
「 おい、お前ら何見てンだ?」
  京一と醍醐もそれでようやく視線をショーケースが並んでいる店のレジ脇へとやった。
「 あ!」
  そこには。
「 おい、村雨じゃねえか!」
「 ん…?」
  立ち上がって声を荒げた京一の声に反応して、その「ヘン」と称された人物が振り返った。
  いつもと変わらぬあの姿。しかし本人は周囲の注目を浴びていることなど感じていないのか、元々興味もないのか、実に飄々とした雰囲気のまま、声をかけられるままに振り返って5人の仲間たちを見やった。
「 ……ああ。お前らか。何だ、久しぶりじゃねェかよ」
  村雨は龍麻たちの席には近づこうとしなかったが、完全に目的のケーキからは目をずらして、一人一人を眺めやってから、にやりと笑った。
「 みんなで仲良くケーキかい? へへ、平和だね」
「 お前こそこんなトコで何やってんだ?」
  京一がようやく口の中に残っていたスポンジを全て飲み込んでしまってから改めて訊いた。村雨はそんな京一に軽く肩を上下させてから、ちらと龍麻の方も見て、再び笑った。
「 何って、見ての通りだよ」
「 お前、ケーキ食うのかよ」
「 何だそりゃ。ああ、食うさ」
「 似合わねえ……」
「 村雨、お前甘い物が好きだったのか」
  醍醐は京一ほど失礼な物言いはしなかったが、それでも意外そうな声を発した。小蒔と美里も直接本人を前にしては何も言わないが、心の中では多弁になっていることだろう。
  村雨はその4人の心のいずれもが読めたような顔をして、やや苦笑してから口の端を少し上げた。
「 ったく、好き勝手な奴らだぜ。俺が何を食おうがお前らの知ったことか。……もっとも、これはお使いだがね」
「 ああやっぱり…」
  皆が何故か安堵の表情を見せると、村雨は再度実に嫌そうな顔をしてから、しかし笑みは絶やさずにあっさりと言葉を出した。
「 しかし、京一と醍醐の旦那は俺と大差ねェ浮きまくりようだが…先生は絵になるねェ」
「 え?」
「 あ、ボクもそれは思ってた!」
  村雨の突然の発言に龍麻がきょとんとしていると、すかさず桜井がそれに賛同の意を示し、それに流されるように後の3人も納得の表情をしてみせた。
「 ケーキの似合う黄龍様か。くくっ…いいもん、見せてもらったぜ」
  椅子に座ったままの龍麻を遠くから見下ろすようにして、村雨はひどく害のある眼を閃かせると、こちらは低い声で言った。
  そうして。
「 先生、今度俺とも一緒してくれよ。奢ってやるぜ?」
  何だか馬鹿にするように…村雨はそう言って笑った。
  その時、龍麻は自分の掌がじくりと痛んだような気がした。



 

To be continued…



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