(2)



「 痛ッ」
「 はは、なーに大袈裟に痛がってんだよ、ひーちゃん! ちょっと後ろからこずいただけだろー?」 
  龍麻が背中に強い衝撃を感じて振り返ると、そこには最近ではとんと姿を見ることのなかった「練馬の正義を護る」コスモブラックこと黒崎が、害のない目をして笑っていた。
「 黒崎…久しぶり」
「 おう、ひーちゃんっ! ひーちゃんは元気だったか?」
「 まあ…」
「 何だよ、元気ねえなあ。どうかしたのか? 何か悩みがあるなら、このコスモブラックに何でも相談しろよ?」
  黒崎はいつにもまして明るく、力強い台詞をてきぱきと放ってきた。そのパワー自体が何かの必殺技のようで、龍麻は無意識のうちに後ずさりながら、力なくも微笑んだ。
「 こんな所で何してるの?」
「 ああ、 今日は足を伸ばして新宿のパトロールもしている…って、 言いたいところだけど、今日は別件でさ」
「 別件?」
「 俺さあ、今駅前留学してるんだよ。家の近くにも同じ学校あるんだけど、こっちの校舎にいるすげー有名な先生に教えてもらいたいから、わざわざ新宿まで来てるんだ」
「 駅前留学って…」
「 俺、ドイツ語の勉強してるんだ!」
「 ドイツ語?」
  あまりにも突飛な台詞に、龍麻は思わず目を丸くしてしまった。
  かなり失礼ではあるが、龍麻は黒崎のことを「紅井と比べればまだ頭は良さそう」と考えていたくらいで、とても進んで勉強をするタイプだとは思っていなかった。そんな彼がドイツ語とは。
「 あっ、ひーちゃん! 今俺が勉強なんて似合わないとかって思ったんじゃないだろうな!」
「 うん…。ごめん」
「 ん? はははッ! 参ったな、ひーちゃんは正直だから負けるぜ!」
  龍麻が素直に頷くと、黒崎はどことなく嬉しそうに笑ってから少しだけ照れたように頬をかいた。
「 俺さ、最終的な目標としては日本のサッカーレベルを俺の力で世界に通用するまで引き上げたいってのがあるんだけど。その前にドイツのチームで勉強したいなって思ってるんだ」
「 サッカー?」
「 ああ、そうだよ。俺がサッカーやってるのは知ってるだろ」
  黒崎は実に活き活きとした目をしてから、龍麻に胸を張ってみせた。
「 最近じゃ、イタリアの方がレベル高いとか、南米のサッカーの方がパワーあるとかって言われてるけどさ。俺はドイツのサッカーが好きなんだよな。憧れの選手もいるし」
「 ふーん」
「 それに俺、日本代表で卒業後ヨーロッパ行くんだよ。それも世界を覗けるいいチャンスだけど。ははっ、ま、そんなわけで、ヒーロー業の他にも色々と忙しいんだ!」
「 頑張ってるんだ」
  龍麻は心底尊敬してそうつぶやいた。いつもはちゃめちゃな事ばかり言っていて、この先どうやって生きていくんだろうなどと余計な心配をしたこともあったが、自分などより余程しっかりしている。龍麻はやや茫然とした目線で目の前の黒崎を見上げた。
  黒崎はそんな龍麻を見て、少しだけ怪訝な表情を見せたが、すぐにいつもの笑顔になると「ひーちゃんっ!」と再び勢いよく肩を叩いてきた。その力に龍麻の肩はじんと痛んだ。
「 ひーちゃんも、せっかく世の中平和になったんだから、今度は自分のために何か好きなことしろよっ? 俺、ひーちゃんのやる事なら何だって応援するぜっ!」
「 やりたい事……」
「 そうさ。今まで我慢して出来なかった事とかさ」
「 …………」
「 おっと、俺もう行かなきゃ。それじゃな! 蓬莱寺たちにもよろしくな!」
  黒崎は去りながら、それでも何度も振り返って龍麻に大きく手を振ると、あとは一直線に駆けて行った。
  龍麻はその後ろ姿を何となく眺めた。そして、再び力をなくした手の平を見つめ、黒崎に叩かれた背中と肩の痛みに目をつむった。



  京一たちと食べ歩きツアーをした日から三日と経っていなかったが、掌の脱力感は龍麻の気持ちを徐々に焦らせていた。別段普段の生活で困るといった事はなかったが、本当に一日のうちの何回かは、何も物を持てないという状態にまでなった。
「 どうしちゃったんだろ……」
  つぶやいて、何度も握ったり開いたりしてみるものの、それをするだけで疲れてしまった。
  だから今日も京一たちの誘いを断って、一人で家への帰り道を急いでいたのだ。
「 お、先生じゃねえか」
  そんな龍麻に、不意に声がかけられた。
  黒崎と別れてからまだ五分と経っていなかった。顔馴染みの仲間。先日も会った村雨だった。
「 村雨……」
「 どうした、先生。シケた面してるな」
「 別に……」
  そういう村雨は、いつもと同じような不敵な笑みを閃かして、何やら楽しそうな雰囲気を醸し出していた。先日ケーキ店で会った村雨はその場ではひどく浮いて見え、見ているこちらの方が恥ずかしくなってしまうようでもあったのだが、こうして新宿の街並に溶け込んでいる姿を見ると、やはりコイツはコイツなのだと訳の判らない気持ちが龍麻の心を満たしていく。
「 今日は蓬莱寺たちはどうしたい?」
「 え……?」
  ぼんやりしていた龍麻に、村雨は何かを探るような目をしたものの、「お仲間だよ。一緒じゃねえのか?」ともう一度質問してきた。龍麻は納得して頷いてから、うっすらと笑った。この男は自分の愛想笑いなど望んではいないだろうが、殆ど惰性で出てきてしまうものであるから、仕方ないと龍麻は思う。
「 京一はこの間のケーキをまだ引きずっているらしくて、今日は激辛ラーメンを食べに行くって。俺はあまり辛い物好きじゃないから帰るって言ったんだ」
「 へえ。よくもまあそれであいつらがあんたを解放してくれたもんだ」
  村雨は実に奇異の目を向けてそう言った後、やはりどことなく楽しそうに笑った。
「 そういや、あの時は何かの勝負をしていたんだろ? 結局、蓬莱寺の一人負けかい?」
「 うん。あいつあの一店目のケーキが後々まで響いちゃって、ラーメンでさえ満足に食べられてなかったから。美里たちの作戦勝ちかな」
「 先生はどうだい? あんなに食って、腹は何ともないのかよ?」
「 別に平気だけど」
「 ほう、結構大食いなんだな」
「 甘い物好きだから」
「 くっ、そうだったな」
  村雨は龍麻の言いようにまた口の端を上げて笑み、「それじゃあよ」とついでのように言葉をつなげた。
「 今日は俺と付き合わねェか? この間言ったろ? 今度俺とも遊んでくれってよ。先生の好きなモン、奢ってやるぜ?」
「 ………ご飯?」
「 別に何だっていいさ。あんたの好きな所で」
「 …………」
  龍麻は少しだけ逡巡して、それから自分の返答を待っている村雨を見上げた。仲間だし、別段嫌いでもない。この不敵な強運の男に色々と助けられたりもしてきた。
  けれど、龍麻は今はこの男と二人で行動する気がどうしても起きなかった。自分の今の状態を知られるのが怖かったのかもしれない。僅かに残っていた掌の熱が引いていくような気がした。冷たい死人のそれのように、力が入らない。
「 村雨…悪いけど……」
「 ん? 俺といるのは嫌かい?」
「 そういうわけじゃないけど。ごめん、今日は何だか気分じゃないんだ。……せっかくだけど」
「 ………そうかい」
  村雨はそう応えた龍麻をやはり推し量るように見下ろしてから、案外あっさりと引き下がった。しかし、不意に龍麻に向けていた顔を下にずらすと、何事もないかのように言葉を切った。

「 その手。どうかしたかい?」

  一瞬、何を言われたのか判らなかった。
「 ……ッ!」
  ワンテンポ遅れてからぎくりとなり、身体を揺らすと、村雨はしかし微動だにせず、相変わらず涼しい顔をして先を続けた。
「 怪我でもしたのかい?」
「 何で……」
  思わず掠れた声になってしまうと、村雨は少しだけ首をかしげてから、帽子の中に手を突っ込んで、ボサボサの黒髪を無造作にかきむしった。どことなく困ったような仕草ではあった。
「 痛そうだからな。先生が隠したがってるってのが何となく判ったんで、黙っとこうかとも思ったんだが、あんまりひどいようなら病院で診てもらったらどうだい?」
「 ……痛くないよ」
  龍麻はだらりと下げていた左手を少し挙げると、右手でその手首を捕まえてからぼそりと言った。実際、痛みはなかった。
  ただ、力が入らないだけだ。
「 そうなのかい? それにしちゃあ、先生の顔ー」
「 な…村…っ?」
  突然、自らの顎先を背の高い村雨の方に強引に向けさせられ、龍麻は面食らった声を上げた。村雨はそんな龍麻に顔を近づけ、瞳の奥を覗きこむようにして低い声を発してきた。
「 何でそんな悲しそうな顔なんだ? 何かあったのか?」
「 何…にも……」
「 先生のそういう顔、俺にはキツイんだがな」
「 は、離せって!」
  龍麻は思わず声を荒げて村雨の手を振り払った。力が入らない手を必死に動かし、何とか距離を取ろうとする。ズキンと確かな痛みを感じた。それは掌ではなく、脳に直接響く痛みだったのだが。
  一体自分の身体はどうなってしまったのだろうかと思う。
「 先生、あんた……」
「 な、何でもないから…ッ」
  ぜいぜいと息を荒げ、龍麻は村雨から距離を取ると、背中を見せずにじりじりと後ずさった。見抜かれた事自体、動揺を呼んだが、それ以上に村雨の眼光に圧倒された。
「 こ、この事…京一たちには内緒な」
「 ……何でだい」
  村雨は冷めた声で言い、どことなく呆れたような顔をしてみせた。
「 『 余計な心配かけたくない 』 とかくだらない事は言わないでくれよ? 今更そんな仲じゃないだろう、あんた達はよ」
「 ………言いたくないんだ」
「 だから何でだい」
「 大した事ないから」
「 そうは見えないけどな」
  そう言った村雨の顔は、今度は少し怒っているように見えた。龍麻は再び心臓を鷲掴みされたような心持ちがして声を出すことができなくなったが、またすぐに自分に近づいてきた相手にはっとして顔を上げた。
「 ……まあ、先生が黙っててくれってンなら、そうするよ。けどな、その代わりと言っちゃ何だが、家まで送らせてもらうぜ」
「 え…い、いいよ……」
「 先生よぉ。人の親切は黙って受けとっとくもんだぜ?」
「 …………」
  村雨が親切でそんな申し出をしてきたとは、何故だか龍麻には思えなかった。いつも微かに笑んでいるこの男は、自分のことが心配というよりは、何故この手が動かないのか、そのこと自体に興味があるようだった。
  龍麻とて、知りたい。自分のこの手はどうしてしまったのか。
  こんなに痛みを感じるなんて。



「 そういや、先生の家見るのは初めてだな」
  二階建ての木造アパートの二階を眺めやって、村雨は実に珍しそうに目を細めた。
「 そうだっけ」
「 他の奴らはよく来るのかい」
「 ……そういえば」
「 うん?」
  村雨の問いに龍麻は考えこむような顔を一瞬だけ見せてから、困ったように笑った。
「 あんまり…みんなを呼んだことはないよ」
「 そうなのかい」
「 京一とかさ、美里とかは時々来るけど。でも俺、基本的に自分の部屋見られるのとかって嫌だから」
「 ……可愛いねェ、先生は」
「 な、何で…ッ!」
  バカにされたように笑われ、龍麻はかっとして村雨につっかかったが、相手にしてはもらえなかった。おかしい。どうにも向こうにばかり先手を取られてしまう。龍麻はざわつく胸を抑えながら、はっとため息をついてしぶしぶ自分の部屋がある二階を指し示した。
「 上がって行く?」
「 俺は元からそのつもりだがね」
「 ……あ、そう」
  龍麻が少しだけ嫌そうな顔をすると、村雨はますます面白そうにクククと低く笑った。
  階段を上がり、鍵穴にキーを差し込もうとして、龍麻は思わずそれを取り落とした。
「 あ」
  ガチャリと金属の音がして、それはコンクリートの上に転がった。
「 おいおい、鍵も開けられないのかい」
「 今のは…手が滑っただけ」
  多少青い顔をして龍麻が応えると、村雨は身体を屈めてキーを拾い、代わりにドアの鍵を開いた。
「 ……何だよ、何にもねェ部屋だな」
  部屋に入って開口一番、村雨は拍子抜けしたように言った。
  必要最低限の家具しかないその部屋は、 確かに無味乾燥という言葉が似つかわしい、味気ない空間だった。フローリングの床には簡易ソファとテレビ、電話が置かれたボックスがあるのみ。雑誌が幾冊が転がっている他、珍しいものも特にない。居間と隣接している狭い台所にはかろうじて細長い食器棚などが置かれていたが、その中身はやはり寂しいものだった。
「 何か飲む?」
「 俺がやろうか。先生は座ってろよ」
「 いいよ。一応…村雨がお客さんだし」
「 お客さん、ねえ…。けど、せっかくの茶もカップを割りでもしたら洒落にならんぜ? いいから俺に任せておきな」
  村雨はそう言って半ば強引に龍麻をソファに座らせると、まるで自分の城のようにてきぱきとヤカンに火をかけ、戸棚からティーカップを二つ取り出した。
  龍麻はそんな村雨の姿を見やりながら、不意に先日ケーキ店にいた彼の姿を思い浮かべて表情を緩めた。
「 村雨」
「 何だい」
  背中を向けたままの人間に声をかけるのは容易い。龍麻は割とリラックスした状態で会話を進めることができた。
「 この間のケーキはさ、秋月さんへのお土産?」
「 ん? ああ、この間のな。まあそうだな。けど、どっちかというと芙蓉への土産かな」
「 芙蓉?」
「 あいつ、ケーキを食ったことがないんだってよ。それでマサキがあいつにうまいやつを食わせたいって言うんでな」
「 ふーん。それであの店に」
「 あいつは色々忙しいし、まさか御門に頼むわけにもいかねェだろ」
「 ははっ。御門がケーキを選ぶところも、見てみたい気はするけど」
  龍麻が気位の高い仲間の顔を思い浮かべて笑うと、村雨も同じものを連想したのかふっと肩を揺らした。
  何故だか、このいつも一人の静かな部屋が、いつもと違う空気に満たされていると龍麻は感じた。
「 村雨ってさ、案外優しいんだな」
「 ………あン?」
  龍麻の何気ない一言にがくりと身体を傾けて、村雨は慌てて振り返り、面食らったような目を向けてきた。
「 何だい、急に?」
「 いや、そう思ったから」
「 そうかい? まあ、誉められるのは悪くねェがな。けど、逆を言えば今まで俺は優しい男とは思われていなかったってことになるよな」
「 あ…そういう事になるけど。だって村雨は奔放な感じがするから、人のことなんか気にしてないって風に見えるんだ」
「 フッ…言ってくれるね。だが、その通りだぜ。」
  村雨は沸いた湯をカップに注ぎながら、何てこともないように言ってのけた。それから二つのカップを両手に携えて居間に戻ると、そのうちの一つを龍麻に渡した。
「 ありがとう」
「 飲ましてやろうか」
「 え、何言ってんだよ」
  龍麻が焦ると、村雨はすぐに冗談めかした顔を引っ込めると、今度は割と真面目な顔でカップを差し出した。どうやら、本気で龍麻の手のことを心配しているようだった。
「 持てるかい」
「 う、ん…大丈夫。でも一回下に置いて」
  龍麻は言ってから、もう一度確かめるように左手をぐっと握った。 やはり力は入らない。何度も何度も開いたり閉じたりし、ハアと疲れて反対側の手を見つめる。右手は大丈夫なのだ。
  大丈夫のはずだ。
「 あ―――」
  しかし龍麻は、突然訪れた信じ難い苦痛に一瞬何が起きたのかも分からずに絶句した。
「 ――――ッ!! ア……アアッ……!」
「 先生!?」
  村雨の驚いたような声と、自分の肩を強く掴んでくる手の感触を龍麻は感じた。けれど、それに応えることができない。何故か身体が動かない。視界がぼやけ、左手からその先の腕にまで激痛が走った。意識が飛ぶ寸前、龍麻の中でもう一つの冷静な思考が自分自身に語りかけていた。

  どうして。

  痛みばかりの生活は、もう終わったはずなのに。



To be continued…


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