(5)
魔法を捨てたのは、自分の意思なのに。
それがなくなって不安になった子供は、再びそれを取り戻す旅に出る事にした。それがないと、自分と遊んでくれる人は誰もいないような気がして。
「 ひーちゃん、おはよう」
「 ………うん」
翌日、教室に入って真っ先に声をかけてきたのは、明らかに自分の登校を待っていたらしい桜井だった。
「 お、ひーちゃん! 昨日は気分悪くて家に戻っちまったんだってな? 大丈夫かよ、電話した時も何か死にそうだったから心配したんだぜ?」
そのすぐ後には、いつものように相棒の京一が寄ってきてそう言ってきた。龍麻は自分の席についてから、その2人にいつもの愛想笑いを浮かべて
「 もう大丈夫だよ 」と応えた。
「 本当かよ? 俺が折角見舞いに行ってやるって言うのに頑固に断るしよー、ひーちゃん。俺らの間で遠慮は無用だぜ?」
「 うん。でも本当に大した事なかったから」
「 …………」
京一に対して柔らかく笑んでそう言う龍麻に、桜井は暗い表情を向けていた。龍麻はそれに気づかないフリをして、ただ笑い続けた。
「 お、龍麻。どうした、昨日は具合が悪かったそうだがー」
「 龍麻! 大丈夫? 私、お見舞いに行きたかったのにー」
その後もたて続けに自分の元にやってくる醍醐や美里に、龍麻はただ笑みを向け続けた。
手の痛みは、やはり続いていた。
村雨が寄越してくれた絵本を、龍麻は懐かしい気持ちになりながらベッドの中で何度となく読んだ。過去どこかで読んだはずのそれはひどく古くて汚かったような記憶があったが、貰ったこの絵本は再販版なのだろうか、いやに新しくて一種別の本のようにも見えた。
それでも、やはり内容には覚えがあって。
結末に大したインパクトはなかったが、やはり心には残った。龍麻はふうとため息をついてから、静かに開いていた絵本を閉じた。
「 …………」
1人の部屋は、やはり静かだ。
闘いの最中はただ眠りに帰るだけの場所だったから、あまり意識する事はなかった。毎日無我夢中で与えられた使命をまっとうするべく、自分はただ走り続けていたように思う。
でも、今は?
不意に、駅前で出会った黒崎の姿を龍麻は思い出していた。自分のやりたい事を今は活き活きと始めている。希望に満ちていて、自信に満ちていて、何だか置いていかれたような気持ちになった。
「 そっか…。俺、妬きもちやいてたんだ」
あの時に感じていた気持ちを何となく声に出してつぶやいてみて、龍麻は自嘲するようにふっと笑んだ。
それからついこの間皆とケーキ店に行った事、その為に精一杯お洒落をしていた桜井、毎日楽しそうな京一や美里、醍醐の顔を思い浮かべて、龍麻は何だか泣きたくなった。
自分だけ、何も持っていないような気がした。
何もない。
『 アンタには何の価値もー』
村雨の言葉が胸に響いて、龍麻はぎゅっと目をつむった。
本当にその通りだと思った。
その時、不意に暗い室内から携帯電話の鳴る音が聞こえた。
「 ………!」
突然の音にびくりとして、龍麻は目を開いた。何故か慌ててそれに手を伸ばす。静寂から漏れたその音をとにかくなくしてしまいたかったからかもしれない。
『 私です』
電話の主は龍麻が電話を取った瞬間に、横柄な物言いでそう切り出してきた。
「 ………御門?」
『 貴方のお知り合いで、この声と似た人間がおりますか』
「 別に…いないけど」
『 それでは私は貴方にとって陰の薄い人物という事でしょうか。そんな風に怪訝な声で返されると不快になります』
「 ………相変わらずだね」
『 ありがとうございます』
別に誉めていないのだが、などと思いながら、それでも近頃姿を見なかった仲間の口調を耳にし、龍麻は少しだけ気持ちが和らぐのを感じた。
物言いのキツイ男ではあったが、龍麻は御門のはっきりとしたところが割に好きだった。自分のように思った事を内に秘めて相手と接したりはしない。嫌なものは嫌だと、きっぱりしているような人物だった。つまりはないものねだりというやつで、龍麻は密かにこの御門という人間を尊敬しているところがあったのだが。
『 龍麻さん、聞いているのですか?』
「 えっ?」
龍麻は慌てたようになって我に返り、聞き返した。
久しぶりの御門の声でぼうっとしてしまったらしい。龍麻は急いで謝り、何を言っていたのかと問い返した。
電話の向こうの声は、それで軽くため息をついたようだった。
『 同じ事を二度も言うほど、私は暇じゃないんですよ、龍麻さん。まあ良いです。貴方は私の特別な人ですし、もう一度繰り返してあげましょう』
御門は彼にしては最大級の優しい物言いでそう言うと、電話の向こう側でこれまた珍しく微かに笑んだようだった。
『 村雨が持ってきたあの絵本はお気に召しましたか?』
「 え……? あ、あれ、御門のなの?」
『 ええ、そうですよ』
「 …………」
思わず声を出しそびれると、向こうはまたしても軽く笑んだようだった。
『 私が絵本を持っているなど、意外ですか』
「 あ…いや、ごめん。でも、あれ何だか新しかったし」
『 保存版ですよ。子供の頃に読んだ物も取ってはありますが、もう大分古く破れてしまった部分もあるので。再販されていた物を取り寄せてもう一冊買っていたんです』
「 そんなにあれの愛読書だったの……?」
『 ええ』
「 …………」
『 貴方と一緒ですね』
御門はそこで殊のほか嬉しそうにそう言った。それから龍麻の返事が来ないうちに自分が続けた。
『 貴方もご存知の通り、私はこういう人間ですから、あまり他人と交流を持つ事を好みません。ですから昔から1人でああいう物もよく読んでいたのですよ。その中でも特にあの作品は…自分自身を投影させて読んでいましたね』
「 え……」
『 《力》など、捨てようと思えば捨てられますよね』
「 御門……?」
『 けれどそれは私の一部です』
「 …………」
『 勿論、全てではないですが』
御門はそう言った後、未だ黙りこむ龍麻に少しだけ迷うような調子の口調になって言った。
『 龍麻さん。私にあまり喋らせないで下さい。私はあの時ほど自分を弱い人間だと思ってはいませんが、まだ完全に強い人間だとも思えておりませんので』
「 御門は……」
『 はい』
「 村雨や芙蓉と一緒で……楽しい?」
『 ……………』
御門は即答しなかった。そして、結局最後まで答える事をしなかった。それでも、しばらくしてから慰めるような声を出した。
『 痛みが治まらないようでしたら私のところへいらっしゃい。その場凌ぎのもので良いなら、貴方にかけてあげましょう。魔法を』
「 ………陰陽師がそんな言い方してもいいの?」
『 別に良いんじゃないでしょうか』
御門は名門の当主としては甚だ不遜だと思えるような言い方をしてから、再びふっと微笑んだようだった。それから、『
私はあの男と違って忙しいので、もう切りますよ』とこれまた偉そうに言ってから、一方的に回線を切ってしまった。
「 ……………」
龍麻はしばらくその切られた電話を見つめ、それからそっと息を吐き出した。
「 ひーちゃん」
放課後、皆から逃げるようにして屋上に来ていた龍麻は、珍しく自分をここまで追いかけてきた桜井に多少面食らいながらも、何とか笑顔を出して迎えた。
「 どうしたの?」
「 ん……。ひーちゃんが何処へ行ったのかなって思って」
「 ああ、ごめん。ちょっと外の空気吸いたくなっちゃって。ほら、教室暑すぎて空気悪いだろ?」
「 うん…そうだね」
桜井は龍麻が適当に出した台詞に上の空のように頷いてから、おずおずと近くにまで寄ってきて隣に座ってきた。
冬の屋上は風が強い。今日はまだ晴天なだけあって、その場所で外の景色を眺めながら談笑する生徒の姿もあったが、やはり夏に比べるとその姿もまばらだった。
「 ねえ、ひーちゃん」
「 ………ん」
桜井との距離を居心地悪く感じながら、龍麻はそれでも精一杯の声で返した。
「 昨日はさ。何かごめんね」
「 ……何で謝るの」
「 ……………」
桜井が苦しそうにしているのは、全部自分のせいなのだろうと龍麻は分かっていた。それでも、どうしても自分は優しくはできなくて。
「 おかしいよ、桜井。俺こそ、昨日は何か急に帰っちゃったけど。ちょっとホントに気分悪くてさ。でももう大丈夫だから、別に桜井のせいじゃないんだから」
「 …でもひーちゃん…ちっとも大丈夫そうじゃないよ」
「 ……そうかな」
「 そうだよ。ねえ、ひーちゃんは…ボクの事、友達って思ってくれてる?」
「 ……桜井は?」
すぐに答えられなくて、龍麻ははぐらかすように逆に聞き返してしまった。すると桜井はかっとしたようになってがばりと顔を上げると怒ったように声を荒げた。
「 思っているに決まってるだろッ! それにひーちゃんはボクにとってもすごく大切な人だよ! なのにひーちゃんは…ひーちゃんは、ボクの事も、もしかしたら他の京一や葵にも、困った事とかちゃんと言えてない! ボク、ひーちゃんの事ずっと見てたから分かるよ! ひーちゃんが何かに苦しんでいるのに、それを誰にも言えてないって」
「 ……桜井」
龍麻が眉をひそめてただ名前だけを呼ぶと、桜井は途端に顔を赤くして俯き、「ごめん」とだけつぶやいた。消え入りそうな、怯えたようなその声。顔。
それでも龍麻は桜井に対して自分の全てをぶつけたいとは、ぶつけられるとは、思う事ができなかった。
あまりにも眩しすぎて。
「 ……俺、桜井の事、友達だと思ってる」
でもそれだけは事実で。
「 だから…だから、今はそっとしておいて欲しいんだ」
だからこそ、今は君とはいたくない。
そう思ってしまった事も事実だった。 どうしてそうなのだろう、自分は。心の中でもう1人の自分がそう問い掛けてもいたが、今の龍麻にはその自身の問いにもうまく答えられそうになかった。
「 ひーちゃん……」
桜井が悲しそうに自分を呼ぶ声が耳に痛かったが、龍麻はもうそんな彼女に笑いかける事ができなかった。
そしてやはり左手の痛みは消えなかった。
家に帰ると、またあの男がいた。
「 何で」
思わずそんな言葉が出てきてしまった。相手はそんな龍麻のぶっきらぼうな声に苦笑して両肩を上げて見せた。
「 先生の事が心配でね」
「 似合わないよ」
「 あぁ、そうかもな」
「 村雨……」
この男の眼光が苦手だ。
龍麻はそんな事を何ともなしに思いながら、自分のアパートのドアの前に立っている仲間の名前を呼んだ。その名前を発する自分の唇はどことなく震えてしまっているような気がした。
「 ……もう来ないでくれよ」
「 それが本心なら、そうしてやってもいいがね」
「 ……嘘だっていうの」
「 ああ、そうさ」
不敵に村雨はそう言ってから、龍麻が手にしていた部屋の鍵を強引に奪い取り、自分が代わりにドアを開けた。それから躊躇したような顔をしている龍麻の背中をどんと押し、その後自分もすぐに玄関に身体を押し入れた。
「 まあ、ゆっくりしようぜ」
「 ここ、俺の部屋なんだけど…」
「 そうだっけかな」
村雨は実にとぼけたようにそう言うと尚も龍麻の背中を押し、その後自分も続いて部屋の中へ入った。
「 何だよ…村雨…ッ」
「 …………」
龍麻は批難するような目を向けたが、村雨の方は平然としたまま無表情で龍麻の手を取った。
「 痛…ッ」
手首を掴まれただけなのに、ぎゅっと握る手の平に痛みを感じた。
「 は、離せ―」
「 逆らってみな」
「 む、村…ッ!」
「 アンタはー別に力をなくしたわけじゃないんだろう?」
「 な、何を―」
村雨の言葉の意味が龍麻にはよく分からなかった。
「 むしろ…抑えてるだけなんじゃないのか? ―なくしたフリをしているだけなんじゃないのか?」
「 ちが…違う!」
「 どうだかな」
「 やめろ! 離せって!」
「 だから力づくでー」
「 煩い、触るな…ッ!」
龍麻は喉の奥から声を振り絞り、めいっぱい叫んだ。ズキンとした痛みは続く。
これがフリ?
わざと自分の力を抑えている? そんなはずはない。こんな痛み。どうしてわざわざ自分から感じなければならない。
「 触るな…!」
「 ………」
村雨はひどく冷めた目をしていた。龍麻はそんな相手を直視できなくて、ぐったりと俯くと、ただ弱々しげに声を出した。
「 ……痛いんだ……」
「 …………」
「 ……すごく…痛いんだ……」
「 ……分かったよ」
村雨はつぶやいた後、そっと龍麻の手を離した。その瞬間、龍麻は全身から力が抜けたようになり、へなへなと膝を追って床に座り込んでしまった。
項垂れ、手を握りこんで、龍麻は思わず嗚咽を漏らした。情けなかったが、何かが、堪えていた何かが一気に噴出してしまったような気がした。
誰の前でもちゃんと笑えていたのに。
いつも平気なフリができていたのに。
「 どうして…放っておいてくれないんだ……」
「 ……………」
「 何で…お節介ばっかり……」
「 嫌かい」
「 嫌だよ……」
村雨の声が耳に痛い。でもどうしてだろうと龍麻は思う。
どうしてか、桜井の時のようにできなくて。大丈夫だと言えなくて。
龍麻は震える手を握り締めたまま、ズキズキする痛みとただ闘っていた。目の前に立ち尽くす村雨の影が龍麻の身体にかかる。
「 緋勇……」
その時、村雨が声をかけてきた。
「 …………」
ゆっくりと顔を上げると、そこには相変わらず静かな表情をたたえた村雨の視線があった。
「 どうにも俺は…アンタの事なんかな…言葉なんかな…どうでもいいらしいぜ…」
「 …………」
「 ただよ…。俺が、今のアンタに惹かれてる。どうしようもなくな」
「 …………」
「 だからよ。例えどう言われようとも、俺はアンタの傍にいるぜ。俺が…アンタにとって、痛みのない居場所になってやるよ」
「 そんなの……」
「 俺じゃあ、無理かい?」
村雨の聞いた事のない真摯な声に、龍麻は一瞬声を詰まらせた。
それでも、反射的に。
「 無理だよ」
それだけを言った。
「 ………無理だ」
誰も俺を救えない。この痛みを消す事ができるのは己だけだと、お前が言ったんじゃないか。
でも。
「 俺……」
「 なあ、緋勇」
その時、村雨が不意に龍麻の傍に屈み込んできた。そして、大きな手の平を龍麻の髪の毛に持って行くと、ぐしゃぐしゃとかき回してから笑った。
「 アンタが嘘つきなのは分かった。アンタがどれだけ弱い奴かって事もな。けどよ…そんな事を知っても、俺はちっとも動じない。俺には何て事もないこった。だからよ―」
そう言って村雨は怯えたように顔を上げた龍麻に再度微笑みを向けると、すっと手を差し出した。
「 痛いなら、無理に握ったりはしねェよ。アンタが手を差し出すのを待つとするさ」
「 …………」
「 俺の手を取るのは…そんなに難しい事じゃねェぜ?」
「 村雨……」
龍麻は相手の名前を呼びながらそっと差し出された大きな手に視線を向けた。何のためらいもなく開かれたその手。どうしてそんな簡単な事が自分にはできないのだろうと龍麻は思う。
惹かれているものは、欲しくてたまらないものは、まさに今自分の目の前にあるのに。
「 俺は…お前みたいに、何でも割り切れる奴じゃないんだ」
「 あぁ、知ってるさ」
「 俺は…お前の事が好きなわけでもない」
「 そうだろうな」
「 でも……」
龍麻は言いながら、おずおずと自らの手を差し出した。痛みのある方の手をそっと開き、村雨のそれに重ねる。相手が静かにその手に触れた時、龍麻はやはりちくりとした痛みを感じた。
けれども。
「 …………村雨」
「 ああ」
村雨の声は実に優しい声色だった。こんなコイツは初めてだと龍麻は思う。いや、もしかすると、それはこの仲間のことを初めてまともに見つめられたからこそ気づいた、この男の一面だったのかもしれない。
龍麻はそっと息を吐き出すと、ゆっくりと確かめるように言葉を出した。
「 それでも俺は、お前の熱が欲しいよ…」
そんな風に誰かに言う事ができるなんて、思ってもみなかった。
「 自分がここにいるって…感じていたいんだ」
「 いくらでもやるよ。アンタが望むだけな」
「 ………うん」
村雨があっさりとその答えをくれた時、龍麻は自然とその言葉を出していた。
そうしてもう一度、今度は自ら力を込めて、自分を優しく包み込んでくるその手を握り返した。
身体がぞくりとして、同時にぽうっと熱が上がった気がした。
魔法を探している途中で、子供は声をかけられた。自分と同じくらいの、小さな子供。それは同じ村に住むはす向かいの家の子だった。その子は、1人で危険な旅に出た子供の事が心配で、こっそり後をつけてきたのだと言った。
「 …………」
子供は自分の気持ちをどう表現したら良いか分からなくて、手の平にこっそり1つだけしまっていた、とっておきの魔法を出そうとした。これだけは出せなくて、ずっと隠していたものだった。
けれど、その瞬間。
魔法を出そうとしたその手は、相手の小さな手に握られた。
握手されたその手は、とても温かくて嬉しくて、何だか魔法のようだと子供は思った。
だから子供は、魔法の代わりにぎゅっと強く握手をした。
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