苦いお茶
龍麻がその男と再会したのは甘味処で別れたあの日から一ヶ月後の事だった。
「 何…」
校門前。
龍麻が出てくるのを見計らったかのようにスーッと現れたその仰々しい黒塗りベンツは、周囲にいた帰宅途中の生徒たちを大層驚かせた。龍麻自身も何事かという気持ちで眉をひそめたのだが、後部座席のミラーが下りてすぐに声を掛けられた事で「ああ」と表情を緩めた。
「 おじさん」
「 やあ龍麻君。暫くぶりだね」
「 何してんですか、こんな所で」
ちらちらと自分と黒塗りベンツを眺めていく生徒たちを気にしながらも、龍麻は苦く笑いながら車中の男を眺めた。男の名前もその素性も実は詳しくないのだが、彼が京都に居を構えるヤクザだという事は知っている。名実共に住む世界が違うだけに、もう早々会う事はないだろうと思っていたのだが。
「 龍麻君に会いに来たんだよ」
龍麻の疑問を見越したように男は言った。
「 実はちょっとしたお願いがあってな。何、そんなに大した事じゃない。出来れば一緒に来て欲しいんだが」
「 何処へ?」
「 ここからすぐ先にあるホテルだ」
「 ホテル…」
思わず呟くと男は意味ありげにニヤリと笑った。
「 例の3万円。あの発言はまだ有効かな」
「 ええ…?」
まさかいきなりその事を言ってくるとは思わず、龍麻は露骨に渋い顔をした。確かにあの時は気分も不安定でロクでもない男たちに絡まれ、その流れでこの男にも「おじさんとなら3万でもいい」などという冗談を飛ばしてしまったが……。
あれはあくまでも冗談。そんな事は、この男とてよくよく分かっていると思っていたのに。
「 えーっと…。おじさんってやっぱりそういう趣味のある人だったの?」
「 やっぱりってなぁ、何だ? ふ…そっちこそ、やっぱり俺の事をそういう風に見ていたのか」
「 いや、まあ…」
何とも表現し難い顔でぽりぽりと頭をかく龍麻に、男はすっかり破顔してかぶりを振った。
「 いや悪い。こっちこそ性質の悪い冗談だ。君をそんな安値で買う気は毛頭ないし、大体今日は全く別の話で来たんだ。用件は車の中でするから、ともかくは乗ってくれるかい。いつまでもこんな所に停まっているのも、君のとこの学生さんたちに迷惑だろうからな」
「 はあ…。なら、こんな大きな車で乗り付けないで下さいよ。電車で来るとか」
「 悪かった。今度からは気をつけるよ」
「 ……おじさんってやっぱり変」
物腰の柔らかい男の態度に龍麻もすっかり気が抜け、開かれたドアに吸い込まれるようにして男のいるベンツに乗り込んでしまった。知らぬ間に運転席から降りて龍麻にドアを開けた黒スーツの男は、いかにもヤのつく世界の住人だ。けれどこの男は違う。纏う空気は明らかに堅気のそれではないのだが、一方でそれとは正反対な温かさや静けさも感じられる。
「 出せ」
男は運転席に戻った黒スーツのいかつい部下に短く命じると、龍麻にはにこりと人の良さそうな笑顔を向けた。
「 またこうして会えるとはな」
「 学校探したんですか?」
「 ああそうさ」
「 凄い執念」
「 そうだな」
「 そんなに俺に会いたかったの?」
龍麻の淡々とした質問に男は軽く鼻で笑ったが、それには直接答えを寄越さなかった。ただふいと流れる車窓の景色に目をやった後、まるで父親のような口ぶりで龍麻に言った。
「 もうすぐ卒業だろう。どうだ、学校は楽しいか」
「 まあまあかな」
「 そうなのか? あの連中は?」
「 京一たちの事? みんな今日は部活の後輩をしごくって部活とかに顔出してると思うけど。卒業式も近いから、学校自体自由登校っぽい感じだし、みんな自由にやってます」
「 君も?」
「 俺は…はあ、まあ」
何となく言い淀んだ龍麻に男は依然視線は外へ向けながら薄い笑みを浮かべた。
「 恋人とはその後うまくやってるのかい」
「 ………」
「 どうした?」
「 いったり、いかなかったりだから」
そういえばあの時も喧嘩していたんだった。
龍麻はその事実に気づき、別段罪のないはずの男を恨めしそうに見やった。
「 おじさんが現れる時は決まってあいつと喧嘩してるってジンクスが生まれそう」
「 何だそれは。そうか、また喧嘩中か」
「 でも3万円でも駄目だからね」
「 ふっ……」
警戒したようにそう言った龍麻に、男はここでようやく視線を車内へ戻した。
そうして龍麻をじっと見やると「実はな」と言いかけてまた口を閉ざした。
「 ……?」
それはどこかこの男らしくもなく、何やら言うのを躊躇っているという風だった。不思議だった。龍麻は特別この男と親しいわけでもないというのに、何故かこの時は男のそんな態度を「らしくない」と思ったのだ。
「 何なんですか?」
龍麻が首を捻って訊ねると、男は軽く嘆息して胸ポケットから1枚の写真を取り出した。
「 ん……」
そこにはこの車を運転している男と同じような、いかついヤクザ顔をした大男の度アップが写っていた。
「 ……幾ら何でもこれは写真写り悪過ぎ」
「 いや、まあ…。本人も知らないうちに勝手に写ってたものを持ってきただけだから」
「 この人がどうかしました?」
「 ん…。それはうちの若いもんなんだが―」
「 えっ!? この人おじさんより年下なのまさか!? このスキンヘッド眉なしオッサンが!?」
「 俺より年下かとは、あんまりこいつが憐れだよ龍麻君。銀二は君と3つしか違わない」
「 うっそ…」
思わず正直な驚きの声を出してしまった龍麻に、男はやはり「らしくもなく」小さなため息をついた。
「 龍麻君に頼みがあるというのは、実はこの銀二の事なんだ。今回一緒に東京に連れてきているんだが…今から是非会ってもらいたい」
「 俺が? この人と? 何でですか?」
「 ……うん」
どことなく言いづらそうにしている男に龍麻は胡散臭そうな顔をした。
「 面倒事ならヤですよ。俺は一生ヤクザさんとは関わりあいにならない人生を送るんだから。それに俺、おじさんとなら3万でもいいって言ったけど、この人とは嫌だから」
「 随分そのネタを引っ張るんだな。安心しろ、そんな事じゃない」
最初に振ったのは自分のくせに、先にこの冗談に付き合う事をリタイアしたのは男だった。面倒臭そうに片手を1度振ると、既に前方に見えてきたこの辺りでは一番高い建物へ目をやり「あれだ」と短く告げる。それは龍麻も学校帰りによく目にする、駅近くの高級ホテルだった。
「 こんなつまらない形で君と再会したくはなかったが…。知り合いには、この手の事に詳しい人間がいなかったもんでな。ちっと迷惑な話だろうが、頼むよ」
「 ……迷惑ですよ」
ドアを開けてすぐにまたバタンとその扉を閉めた龍麻はやや頬を引きつらせながら男を振り返った。
「 おじさん、俺を何だと思ってるんですか」
「 何って…。普通とは違う《力》を持った高校生…だろ?」
「 だから?」
「 だからつまり…。あれを見てどう思った?」
男は少々気まずい思いをしているのか、背後に控えていた運転手だった男に「お前は下がってろ」と命令してその場から退かせた。
「 ……どうって」
18階の一室、長い廊下が続くその部屋の前で龍麻は男の顔をまじまじと見やった。
「 どうもこうも。何かそういう趣味のある人なんでしょ。それ以外に何があるんです」
「 銀二は中坊の頃からうちで面倒見てきた奴だが、昔からバリバリの硬派だ。確かに少々デリケートなところはあったが……ああいう格好をするような嗜好はない。大体、喋り方から何から全部変わっちまってる」
「 喋り方も?」
「 ああ。まるで……本当にああいう格好をしているお嬢さんのようにだ」
「 ………」
男の顔は真面目そのものだ。嘘を言っている様子はない事は龍麻にもすぐ分かった。
男に導かれるままにやってきたこの部屋の奥には、車の中で見せてもらった写真の男―銀二なる21才ヤクザがいた。しかし部屋に一歩立ち入った龍麻の目に飛び込んできたものは、あの写真の通りのスキンヘッドに眉なしのいかめしい形相をした銀ニではなくて、恐らくはカツラだろう、黒い艶やかな長髪を有した白いひらひらのドレスを身に纏った「銀二」だったのだ。
異様。
一言で言えばその様子は異様と言う他なかった。
「 何で俺を?」
「 組のもんが言うには、ヤツは何かの霊に取り憑かれちまったと言うんだよ。つまりは…まあ、あの格好をしてもおかしくないようなお嬢さんの霊に、なんだろうが。それ以来、言動から何から全部おかしくなっちまって、組のもんはああいうのに免疫ないもんでな…ちょっとした騒動だ」
「 あんな物凄いものに免疫のある人なんてそういませんよ」
呆れたように言う龍麻に男はそんな話は聞こえないという風に首を振った。
そうして構わず話を進める。
「 まあ聞いてくれ。その騒動の中…真っ先に頭に浮かんだのが龍麻君、キミだ」
「 何で俺っ!?」
「 天狗騒ぎの時もそうだったが、君たちには俺たち常人を超えた不思議な《力》がある。だから何かしらあいつの異変が分かるんじゃないかと思ってな」
「 分かりません!」
「 それに君たちは正義の味方だろう?」
「 は?」
男の台詞に龍麻はいきりかけていた姿勢をぴたりと止めて怪訝な顔をしてみせた。
そんな龍麻に男はどこか可笑しそうな顔をしてからとぼけた口調で言った。
「 年明けに正義の味方業は終わったと言っていたが…。それでも望む望まざるとに関わらず、君たちはやっていたわけだ。正義の味方を。生憎俺の周りには困った人間を助けようという気概のあるヤツがいなくてね」
「 何それ。またずるい事言ってる」
むうっと頬を膨らませて龍麻は男の顔を睨みつけた。
「 大体、そんなら俺だけじゃなくて京一や美里も連れてくれば良かったんだよ。俺は無理でも、ああそうだ! 裏密さんって、それこそ霊感ありそうな子がいるから、彼女を連れてくればさ!」
「 ううん…。まあ君だけに声を掛けたのは、俺の私情だな」
「 んん?」
男の発言に龍麻は目を丸くした。
「 問題が解決したら、それにかこつけて龍麻君をデートに誘えるからな」
「 ……この手の冗談はもう終わりじゃなかったの」
はあと脱力したようになって、龍麻は男から視線を逸らした。最初は部下を思って焦りなり何なりがあるように見えたのに、今はもう元に戻っている。恐らく男は龍麻がこの頼みを断るわけがないと思っているのだろう。それによって本来の余裕を取り戻しているのだとしたら、それは龍麻にとって少しは嬉しい事だけれど、少しは腹立たしい事のように思えた。
「 ……奢ってよ。これ何とかしたら」
「 勿論。あんみつでもケーキでも何でも」
「 ステーキとか焼肉とかしゃぶしゃぶでも?」
「 金の事は気にするな」
「 ……やだなあ、もう」
俺は肉が嫌いなんだよと声にならない呟きを零し、龍麻は諦めたようになって男に背を向けた。それから意を決したようにドアノブに手を掛け、再度この部屋の奥にいるだろう「銀二」目指して中への侵入を開始した。
|